「周恩来ここに学ぶ」碑・《『親切な物理』でおなじみの研数学館》跡・九段下ビル跡-神保町界隈【3/3】

[第705回]神保町界隈【3/3】
 神保町界隈、白十字編・学士会館編に続き、今回は「周恩来ここに学ぶ」碑と研数学館跡編です。
 周恩来というと、1960年代後半から1970年代前半においては、「中国のナンバー2」みたいな評価で、日本では、「ナンバーワンになろうとしないことで生き残る処世術を心得ていた男」みたいに言う人もありましたが、最初から本人がそんなつもりでいたわけでもないでしょう。東京都文京区の白山神社の境内には、そこで孫文が宮崎滔天と語ったという石碑があります。辛亥革命のあたりから以降の中国の政治家では、蒋介石も日本の陸軍師範学校で学んだというだけでなく、蒋介石とは仲が悪かったのか、もともとは国民党左派だったはずが、南京の「傀儡政府」の首班になった汪精衛(汪兆銘)もまた日本の師範学校で学んだという話が・・どこに出ていたかというと、内田康夫『不等辺三角形』なのですが、国共内戦の際、日本で学んだ人には国民党の側の人間が多いのかというと、そういうことでもなかったようで、共産党の人間でも周恩来は日本に来て学んでいたらしいのです。その周恩来が学んだという場所が、千代田区の神保町、神保町交差点の北西側、白十字より少し南のあたりで、そこにあった学校は今はなく公園になっており、その公園の中に「周恩来ここに学ぶ―東亜高等予備学校跡」という石碑が立っています。
周恩来碑1 .JPG
周恩来碑2 .JPG
 ここにあった学校の名前は「東亜高等予備学校」。石碑の左の説明書きには↓
《・・・周恩来総理は、1898年3月5日江蘇省淮安に生まれました。周総理は1917年(大正6年)〔「ひどくいいな(1917)のロシア革命」ロシア革命の年〕に19歳で日本に留学、この地(当時は神田区中猿楽町)にあった東亜高等予備学校(創立者・初代校長=松本亀次郎)で日本語を学び、大学進学の指導を受けました。そのころ、日本政府の対中国政策に反対した松本亀次郎校長の心情にも影響を受け、1919年(大正8年)〔「行く行く(1919)ベルサイユ」ベルサイユ条約締結の年〕には帰国して天津の南開大学に学び、新中国の建設に身を投じました。
 周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年にあたり、東亜高等予備学校の跡地であるこの場所に、周恩来が学んだことを示す記念碑を、千代田区の歴史の一コマとして建立します。日中友好の気持ちをこめて・・・・。
   千代田区日中友好協会 》
と書かれています。〔〕内はブログ作成者が入れました。
「東亜高等予備学校」という学校がここにあったということですが、今は公園になっており、
周恩来碑のある公園.JPG
↑ 西側が道路で、公園の中央付近に「周恩来ここに学ぶ―東亜予備学校跡」の碑があり、南よりに公衆便所があり、
千代田区高齢者センター.JPG
↑ 北よりに千代田区立高齢者センター http://www.chiyoda-vc.com/network/75 。

  白山通りよりふたつ西側の南北の道の東側で、白十字より少し南の位置にあります。かつて、この近所の会社に勤めていて、その際、通勤通の途中に、ここにこの碑があることを知りました。その会社では人事総務部にいました。その後、小堀住研(株)・(株)一条工務店では営業をやりましたが、人事総務部に勤務して、その後に営業の仕事をしたことで、その時、何の職種についていても、常に人事総務の視点と営業の視点の両方の視点で見ることができるようになりました。そのあたりを私を採用してくれた会社は会社のために活かしてくれたらよかったのにと思うのですが、あんまり賢くない経営者の会社に勤めると、むしろ、そういった能力は「塩漬け」にされてしまうことになる・・・ということなのかもしれません。従業員の能力は「塩漬け」にするのではなく活かした方が会社にとってプラスになるはずなのですが、会社のためよりも、オーナー経営者一族の個人のためを優先する会社では、塩漬けにしたのでは会社のためにならないと思っても、オーナー経営者一族の個人の気まぐれの方が優先されるようです。哀しい会社だなあと思いますが、そういう情けない・哀しい会社はけっこう日本にはあるようです。

  エドガー=スノー『中国の赤い星』では、西安事件の際、西安で張学良が蒋介石を軟禁して国共合作を迫った時、共産党の側から西安に行ったのが周恩来で、国共合作を蒋介石に約束させた後、蒋介石とともに行くという張学良に、それはやめた方がいい、もし、張学良が蒋介石とともに行ったなら、今度は張学良が蒋介石に監禁されることになると張学良に進言したのが周恩来だったという。そして、結果は周恩来が予想した通りになった。

  この「周恩来ここに学ぶ―東亜予備学校跡」の石碑がある公園の少し北の白山通り沿いに「名曲喫茶 白十字」がありますが、白山通りをそれより少し「水道橋」駅の方に進んだ白山通りとその西側の通りの間に、かつて、バロック風建築? の建物の研数学館があったのですが、いつしか、予備校の研数学館はなくなり、研数学館の建物は、「犬も歩けば日大にあたる」というくらい東日本ではどこにでもある日大・・・なんて言うと、「おめえ、日大、バカにしてんのか」とか大喜びで言う日大卒の人が出てきそうですが、実際、日大というのは「犬も歩けば日大にあたる」というくらい、どこに行ってもあるのですが、特にこのJR「水道橋」駅から神保町交差点にかけてはいっぱいあり、その日大に買い取られたのか日大が借りたのか、2000年代だったように思うのですが、日大の経済学部だったか何学部だったかの校舎になっていたのです・・・が、今回、それが見当たらない。もしかすると、この時間パーキングが、その研数学館の跡地か? ・・・なんて思って見まわすと、案内の看板が出ていました。ついに、バロック風建築? の建物もまた、なくなってしまいました(泣)↓。
研数学館跡1.JPG
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「研数学館」をどこで知ったかというと、1970年代後半、『親切な物理(上・下)』という物理がわからん、わからん・・という時に読むとなおさらわからんようになる参考書・・・の後ろの方に、広告なんて他に載ってない本なのに、なぜか、「予備校 研数学館」の高校が載っていたのでした。『親切な物理』という本は、物理がわからんわからん・・と頭をかかえている時に読むとなおさらわからんようになる本で、それなら役に立たない本かというとそうではなく、ある程度わかるようになった段階で「さらに上」を目指す時に読んで学習すると力がつくというタイプの本だったと思うのだ。私は、今、高校の教諭とか予備校の講師とかの仕事はしていないので、今の高校の物理の参考書というものがどういうものがあるのかよく知らないが、1970年代後半、私が高校生くらいの頃のものだと、旺文社から出ていた『よくわかる物理1』とかそういうのは、わからんわからん・・・という時に使うとけっこういい本で、『親切な物理(上・下)』というのは、物理がある程度わかるようになった段階で、さらに上を目指す時に読む本だったのだと思う。
  なぜか、その『親切な物理(上・下)』に広告が出ていた「予備校 研数学館」というのは、予備校としては、東大進学者の実績のある駿台、名古屋発祥でありながら東京の駒場にも進出してきた河合塾、駿台に比べると「大衆向け」の代ゼミ(代々木ゼミナール)などに比べると実績の劣る予備校で、また、全国で販売されて全国の高校生が使用する参考書の『親切な物理』に東京ローカルの予備校の広告がなぜ載っているのだろうと思ったのですが、1980年代前半、神田神保町とJR「水道橋」駅の間の白山通りを歩いていたところ、その「『親切な物理』でおなじみの研数学館」があったので感動した! ということがあり、それ以来、白山通りの神田神保町と水道橋の間、白十字よりも北の位置にある研数学館は私にとっては街のモニュメントのひとつとなったのでした・・・が、「予備校 研数学館」がなくなっていぬきで日大の何学部だかに変ったと思ったら・・・ついに建物もなくなってしまった・・・。 「《ひととおり読破するだけでもけっこう大変だが持っているだけでも持っていると頼もしい、といっても持っているだけではだめだとわかりつつもなかなか手ごわい『親切な物理』》でおなじみの研数学館」が、ついに建物もなくなったあ・・・・・(泣)。
  研数学館とは何だったのか。現地に「研数学館の沿革」と書かれた金属製のプレートが立っている。
《 研数学館は『数理を研き宇宙を開く』の理念のもと明治30年(1897年) 数学の泰斗 奥平浪太郎先生創始の私塾を始めとする。大正8年(1919年)〔ベルサイユ条約の年。周恩来が日本から中国に帰国した年〕奥平先生没後、財団法人研数学館 設立者 片山鬼作先生が学館の経営に参画されてから英語科を併設した。
  大正12年(1923年)〔「ひどく不合理(1925)、治安維持法制定の1925年の2年前〕9月の関東大震災〔「大いに(大正12) 人、苦に満ちる(1923)」1923年 関東大震災〕により後者は灰燼に帰し、研数学館の再建ならびに経営は一に片山鬼作先生の双肩にかかった。以来あらゆる困難を克服されて昭和4年(1929年)〔「ひどく憎い(1929)世界大恐慌」1929年、世界大恐慌の年〕2月に現在の鉄筋4階建ての本館を完成すると共に国語科と理化学科を設置するなど教育組織の大拡充を行い、今日の研数学館の基礎を築かれた。
  当時より片山鬼作先生は私学理工系の教育の必要を痛感されていたが、昭和16年(1941年)〔「行くよ勇んで(1941)、真珠湾」1941年、太平洋戦争開始の年〕文部省当局と相諮り、単独にて私財を寄付し財団法人研数学館を設立、自ら理事長の任に就かれて研数専門学校を設立し昭和17年(1942年)4月物理学科と数学科の講座を、翌18年(1943年)4月には電気通信科の講座を開かれた。当時の私学教育は経済的な困難が伴いその困難を解消すべく研数学会講習会の名称で予備学校教育を併設しその果実を専門学校経営に充当してきた。その後 幾多の人材を世に送ったが戦後の学制改革により昭和30年(1955年)3月 第11回生卒業をもって研数専門学校は自然廃校となった。
  爾来財団法人研数学館は大学受験のための総合予備校として各種学校研数学館の経営に専念し、昭和34年(1959年)3月に冷暖房完備の4階建て新館を増築し教育環境の充実を図っていった。》

《 理事長片山鬼作先生は昭和37年(1962年)10月に東京都知事より「教育功労者」として表彰を受け、昭和39年(1964年)〔東京オリンピックの年〕4月「藍綬褒章」を受彰、さらに昭和43年(1968年)秋 受勲の栄光に浴されたが、昭和46年(1971年)〔1970年 大阪万博の翌年〕3月1日半世紀にわたり我が国教育界に大きな足跡を残されて満86歳で現職のまま急逝され、生前の功績に対して追位を賜った。》

《 初代理事長の遺志を継いだ二代目理事長 片山政男先生は、昭和50年(1975年)10月に東京都知事より「教育功労者」として表彰を受け、昭和54年(1979年)7月 文京区本郷に化学実験室を完備した地上4階地下2階の本郷校舎を開校し理化学系受験者のための教育環境をさらに充実させていった。そして昭和55年(1980年)より研数専門学校設立当初の趣旨を継承していくための『理学研究社助成基金』の積立を開始し財団法人としての方向性を明確にした。昭和60年(1985年)〔阪神優勝 日本一の年〕〔桑田・清原がPL学園3年で夏大会全国優勝の年〕には習志野市開発公社の要請に応じ総武線沿線の生徒への時間的・経済的負担を軽減させるため千葉県習志野市に地上8階地下1階の専修学校研数学館津田沼校を開校した。さらに昭和63年(1988年)2月に地上5階地下1階の本部校舎B館を、また平成2年(1990年)7月に地上8階地下1階の津田沼校新館を相次いで完成させ増大する受験生の要請に応え「生徒と共に」を教育理念とし生徒の可能性を最大限に育む予備校としてその存在価値を高めていった。
  しかし18歳人口の減少や学部・学科の新・増設と短期大学の4年制大学への昇格などに伴う受入れ枠の拡大で「大学全入時代の到来」とも言われ1年先の受験を目指し捲土重来を期す生徒が大幅に減少し、このような状況のもとで予備校としての教育活動を続けていくことは教育の環境と質を低下させることにも繋がりかねないため研数学館が永年「生徒と共に」という教育理念に支えられ行ってきた大学受験のための予備校教育はその使命を全うしたと判断し、理事長 片山政男先生の英断により平成12年(2000年)3月限りで予備校としての教育活動を修了し理事長もその任を自ら辞することとなった。
  今後は研数学館創立当時の基本にある『数理を研き宇宙を開く』の考えに基づき理学研究者への支援活動にのみ活動を限定し、公益法人としての使命を果たしていく予定である。
   平成12年(2000年)4月
      財団法人 研数学館  》
『親切な物理』の巻末に研数学館が掲載されていたのは、『親切な物理』の作者か出版社が研数学館と何らかの縁があったということなのだろうか。別段、この予備校に通ったわけでもないが、「『親切な物理』でおなじみの研数学館」が予備校としてなくなったのが2000年で、建物は、その後、日大の経済学部だったか何学部だったかが使っていて、↑の説明書きの金属のプレートが建っていたが、今回、訪問すると・・というのか前を通ると、ついに建物もなくなって時間パーキングになってしまった。この付近は時間パーキングが他にあんまりないので、今後は時間パーキングとして地域社会に貢献することであろう・・・・とはいえ、「『親切な物理』でおなじみの研数学館」の建物がなくなってしまったのは、なんとも寂しい限りである。

   神田神保町交差点から西に進んだ北側、千代田区神田神保町3-4 に「九段下ビル(今川小路共同建築)」という由緒ありげな建物があって、1989年、この付近の会社に勤めていた時、その1階にあった食堂で食事をしたことがあり、こんな建物があるんだあ・・・と感心したことがあったが、『建築探偵術入門―東京、横浜の西洋館230を追跡する』(1986.9.25.文春文庫)によると、設計者は南省吾で1927年(昭和2年)の「震災復興建築」として、店を連結してビルにしたという建物だったらしい・・・が、《ウィキペディア―九段下ビル》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%AE%B5%E4%B8%8B%E3%83%93%E3%83%AB によると、2011年の東日本大震災で建物が傷んだことで解体が決定され、2012年に解体されたらしい。
ウィキペディアには、《2013年4月、本ビルの跡地を学校法人専修大学が取得したとの情報がある 》
(日経不動産マーケット情報)》と出ているが、実際、専修大の校舎が建築中だった。↓
専修大建築中 .JPG

  1988年、神田神保町にあった会社(ホームページを見ると今は東京都内の別の場所に移転したようですが)に勤めていた時、ここにあった九段下ビル(今川小路共同建築)の1階にあった食堂で昼食をとったことがあり、この建物はどういう由緒のものなのだろう・・と思い、その後、住宅建築業の会社に勤め、東京建築探偵団+増田彰久『建築探偵術入門―東京、横浜の西洋館230を追跡する』(1986.9.25.文春文庫)を読んで、あれがそうだったんだ・・と思い、もう一度、行ってみたいと思いながら行けずにいるうちに解体されてなくなってしまいました。
  そういえば、30年前、「へえ、ここはこうなってるんだあ」とか思いながら歩いた所にあった建物で今は見当たらない建物があるように思います。20代の時は30年というとずいぶん長いように思ったが、今現在においては30年前は昨日のことのような気がする・・・が昨日ではないようだ・・・。
(2019.7.8.)

★神保町界隈
1. 白十字編 https://shinkahousinght.at.webry.info/201905/article_5.html
2.学士会館編 https://shinkahousinght.at.webry.info/201906/article_a5e86fc3e4.html
3.周恩来碑・研数学館跡・九段下ビル跡編 〔今回〕

中国の赤い星 (筑摩叢書 29)
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不等辺三角形 (講談社文庫)
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建築探偵術入門 (文春文庫)
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