大國魂神社【5/6】中雀門・自然石風の上の狛犬・おみくじ箱・拝殿・本殿

[第660回] あけおめ5
   随神門をくぐって直進すると、「中雀門(ちゅうじゃくもん)」
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・・・なんか、フードが後ろにたれているのを見ると、ガムかんだ後のとか飴の包装紙とか、入れてみたい衝動にかられる・・・なんてこと、絶対にないとはいえんが、「善良な市民」はそういうことはしない・・・(^^)/
大國魂神社HP の「境内案内 中雀門」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/chujakumon.php には、≪昭和44(1969年)年7月現在の物に建て替える。≫と出ています。
  中雀門の両側の「廻廊」は、≪昭和44年(1969年)に新築された。≫(大國魂神社HP 「境内案内 廻廊」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/kairou.php )。

  狛犬が、拝殿のすぐ手前ではなく、中雀門の手前に配置されています。↓
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( ↑ 右側の狛犬。 )
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( ↑ 左側の狛犬。 )
  東京都北区の内田康夫の「浅見光彦シリーズ」にしばしば登場する平塚神社で、拝殿の手前に、自然石もしくは自然石風の石の上に狛犬がいる、特に、片方では狛犬が2匹いるのを、これは珍しいと思って見たのですが〔⇒[第618回]《平塚神社拝殿前のユニークな狛犬。のし瓦の日に扇の紋。盗泉の水-平塚神社と浅見光彦【6/15】》https://shinkahousinght.at.webry.info/201807/article_8.html 〕、この大國魂神社でも、それぞれに1匹ずつですが、自然石なのか自然石風なのかの上に狛犬がいます。

   中雀門の右手前、これ↓、郵便ポストみたい♪・・・・て思いませんか?
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↑  なんだろ? と思ってよくみると・・・・。 クリックすると大きくなるので大きくして見てください。
「おみくじ」「100円」と書いてあります。

   中雀門をくぐると、正面に拝殿
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↑ 別段、先端茶髪のねーちゃんの髪の写真を撮りたかったわけではないが、しかたがない。混んでるんだもん。
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↑  行列はかなりのものだったけれども、逆に、警備員が各所に配置されて、これ以上、前に進ませると危ないと思えばそこで制止してといったことをやっていたので、混んではいても、後ろから押されることもないし、「この行列の先頭って、いったい何やってるんだろ。これ、考え出すと、今晩、寝られなくなっちゃう」・・なんてことはなくて、先頭は、2礼2拍手1礼やっていたのであり、やることは他にないわけで、それほど時間がかかるわけではないので、着実に列は前に進むので、行列に参加して進むことで無事に参拝できたようなところもある。
   拝殿の前では、拝殿の直前で2礼2拍手1礼やっている人の後ろは、1.5mあけてくださいと指示されていたが、これは、参拝時に何かを口にする人もいるということもあり、又、落ち着いて参拝できるようにという配慮と参拝時に後ろから押されることはないようにという配慮だったと思われる。 混んではいたけれども、そのあたりの配慮がよく行き届いていた。
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   大國魂神社HPの「境内案内 拝殿」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/haiden.php によると、拝殿は、≪現在の拝殿は明治18年(1885年)、当社が官幣小社に昇格した年に改築したもの≫だそうで、≪かつて将軍徳川家康が慶長年間に社殿を造営した際には拝殿と本殿の間に幣殿が建立されていたが大火で焼失し、再建後に拝殿と幣殿が一体となった。≫という。

   拝殿は見えても本殿はほとんど見えないという神社もあるが、大國魂神社の場合は、本殿の前には行けないが横や後ろまで行くことはできるので、ある程度は見える。↓
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( ↑ 左側(東側)から見たもの。 右側の建物が、本殿。 )
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( ↑ 左側(東側)から見た 本殿。)
  大國魂神社HPの「境内案内 本殿」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/honden.php によると、 
≪ 現在の本殿は四代将軍徳川家綱の命により久世広之が奉行となり寛文7年に完成したものである。その後慶応3年と昭和40年(1965年)に修理を行っているが、建立当時のままの形を残している。室町時代末期の神社建築と三殿一棟の特異な構造形式は遺例が少なく珍しい。≫
ということで、東京都有形文化財に指定されているそうだ。 昭和40年といえば1965年、東京オリンピックの翌年。大阪万博の5年前。1968年に発生した「三億円事件」はこの府中市で起こったものだが、その三億円事件の2年前である。
  本殿は横からと後ろからは見えても正面からは見えないが、大國魂神社HPの「本殿」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/honden.php に正面からの写真が掲載されているので、正面から見てどういう建物かわかる。

  鰹木と千木だが、鰹木の本数は偶数、千木の先端は地面と平行というのは、女の神さんの特徴で、千木に穴があいているのは男の神さんの特徴・・と言われるが、それはあくまでも一般的傾向であって常にそうと決まっているわけでもない・・というのだが、それから考えると、大國魂神社の神さんというのは、偶数で地面と平行であるという方から考えて女の神さんなのか・・・・。

  青木康 編集 青木康・平川綾子執筆協力『日本の神社』2014.5.18.宝島社 TJ MOOK)に掲載の「東京・埼玉を守護する 大國魂神社」には、
≪ 祭神 大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)
   主な神徳 縁結び・商売繁盛  ≫
と出ている。
大國魂神社HP の「神社の歴史・由緒」https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/ を見ると、
≪ 武蔵国の守り神
大國魂神社は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を武蔵国の守り神としてお祀りした神社です。
この大神は、出雲の大国主神と御同神で、大昔、武蔵国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、
又、医療法やまじないの術も授けられた神様で、俗に福神、又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様≫
と出ている。
  おそらく、もともとは、この地域の神さまだったのではないか。 それが『古事記』『日本書紀』の神としては、オオクニヌシと習合したということか。「縁結び」の神というのは、出雲大社もそうであり、オオクニヌシと習合した神としては、縁結びが神徳となるのであろう。「福神」というのは、縁結びの神からということもあるかもしれないが、もともと、地元の全般の神さまということから、服の神、幸せな生活を送れますように・・ということを願った神さまということで「福神」か。「商売繁盛」もまた、地元の神さん、地元の全般の神さんということだと、ふさわしい結婚相手とめぐりあうことができて、幸せな生活を送ることができて、商売もうまくいきますように・・ということで「商売繁盛」の神になったということが考えられるが、それとともに、すぐ北を甲州街道が東西に通っており、又、大國魂神社のすぐ北から国分寺街道が国分寺方面に通っている場所であり、交易に携わる人がこの付近にいたということも考えられ、そのあたりからきたものかもしれない。

   ここで気になるのは「まじないの術も授けられた神様」という部分。
1.社殿が北を向き、ひとが北から南に参拝するという多数派の神社とは逆になっている。
2.朝日新聞出版から発行されている「本当にあった怖い話(ほんこわ)」誌上において、「霊能者」の寺尾怜子さんが、神社には祈りの場と呪いの場という性質があり、昼は祈りの場という性質が強いが、夜になると呪いの場という性質が強くなる、といったことを述べていたが、大國魂神社では、「くらやみ祭り」という夕暮れ時から夜にかけて神輿が府中市内を巡行するという祭りがあり、「夜の神社」なのか? とも思えるようなところがある。
3.名前からして、「大國魂神社(おおくにたま じんじゃ)」、「大國」「大国(おおくに)」の魂の神社⇒「だいこく」の魂の神社⇒「大黒」の魂の神社⇒巨大な暗黒の魂の神社・・・? と変換できそうな名称である。
4.『古事記』『日本書紀』の神としては、オオクニヌシと習合するらしいが、オオクニヌシ自体が、高天原系の神と対局にあって、高天原系の神に敗北した出雲系の神の代表である。
 少し東にある境外摂社の天神社の祭神は菅原道真ではなく少彦名(スクナヒコナ)であるが、スクナヒコナはオオクニヌシの「盟友」であり、オオクニヌシ・スクナヒコナといった出雲系の神、高天原系の神と対局の神を祀っている。
5.拝殿の色を見ても、紅白の「神社色」ではなく黒。 「暗黒色」「闇夜色」、闇夜に沈潜する色、闇夜に同化する色・・と考えられなくもない。
6. 随神門があって、「門の神さん」が両側にいる神社というのは神社では少数派である。千葉県市川市の葛飾八幡では、随神門があって「仁王さん」ではなく神さんが両側にいらっしゃるが、それは、神仏混交の際に設けられた門を、明治維新後に「神仏分離」の際に「神さん」にしたことによるもので、相当古い時代からあるらしい大國魂神社で随神門の両側に「門の神さん」がいるというのは事情が違うのではないか。もしかして、この門より内側がなんらかの拠点で、門の両側に門番がいたということはないか。 かつ、門のすぐ内側に門よりも高い鼓楼があり、鼓楼は太鼓をたたいて急を知らせる場所であるとともに、遠くを見て常に警戒する場所であった・・・なんてことはないか?
6.オオクニヌシの息子は、タケミナカタとコトシロヌシで、タケミナカタが武神、コトシロヌシは祭祀・まじないの神であった。 高天原から出雲を征服に来た神は、タケミカヅチとフツヌシと2神とも武神。武神対決でタケミナカタはタケミカヅチに一瞬のうちに制圧されて逃走したというのだが、コトシロヌシは抵抗しなかったのかというと、そうでもなかったようで、呪いによって戦ったらしい。ということは、父親というオオクニヌシもまた、呪いの術を心得ていた可能性は考えられないことはない。
・・・といったことを考えると、「まじないの術を授けられた神様」という部分だが、「まじない」というよりも、実は「呪い」の神社だった・・・・なんてことも、ないとは言えないような・・・・。
  さらに、「医療法やまじないの術も授けられた神様」と「医療法」が「まじないの術」にくっついているが、かつては医療も「まじない」のうちだった時代もあったわけで、今も「まじない」以下の「医療」をやって稼いでいる医者屋もいるわけである。「わたしは、お医者さん、ピリピリビンゲンぶんぶんぶん♪」なんて歌があって、医者屋というもの自体が、まじないの類、もしくは詐欺と一緒の「医者」もいたし今もいるだろう。新興宗教の教祖みたいな医者屋というのも現実にいる ・・と考えると、もしかして、闇夜のもとに、まじないと呪いをおこなった神社だったか・・・? ・・・なんて言うと怒られるか? ありえない話でもないと思うのだ・・・が、どうだろうな・・・・。

  神社というものは、社殿は南を向いているもの、南でなかったとしても東を向いているもので、ひとが北もしくは西を向いて参拝するもの・・・と思っている人がいるのだけれども、それなら、「社殿が北を向いている神社はないのか? ・・というと、あるかないかという話なら、ないことはない」ということになる。
  どこの神社の社殿が北を向いているかというと、この府中市の大國魂神社、それに、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の社殿も北を向いていたと思う。鹿島神宮の場合は、北のエミシに対する備えとして北面していたという話がある。大阪の四天王寺の仏像は、今は南を向いているが、かつて、唐が攻めて来るのではないかと心配された時期においては、四天王寺の仏像は西を向いていたという話があるが、鹿島神宮の社殿が北を向いているというのは、北のエミシの攻撃を想定したものだったか。となると、大國魂神社の社殿が北を向いているというのも、北のエミシの攻撃を想定したものなのか?
  大國魂神社の北端の大鳥居より北には、「馬場大門欅並木」が南北に続き、その続きは「国分寺街道」として国分寺に至る。 国分寺が北にあるということは、この国分寺通りは、北の国分寺と南の大國魂神社を結ぶ街道だったということか。 ということは、この南北の軸の北側を国分寺、南側を大國魂神社と、北と南を寺と神社で守るように設置されていたということなのか。
  地図を見ると、大國魂神社のすぐ東に、「武蔵国府跡」なんてのが書かれている。↓

武蔵国府のすぐ脇にこの神社があったということは、反体制・反権力の拠点という感じではない。
・・・しかし、それにしても、やはり、「まじない」を神徳とする「くらやみ」系の神社・・・というイメージはある・・・。

   私は住宅建築業の会社に長く勤めてきたが、お施主様との打合せの際など、神棚・仏壇の向き、神棚と仏壇の位置関係についての話がよく出る。神棚は神社のミニチュア、仏壇はお寺のミニチュアという考え方があるが、その考え方からいくと、神社の向きとして、ありえないような向きに神棚は設けるべきではないことになる。「北に向いている神社なんてないわよねえ~え」と言われたことがあったのだが、あるかないかという話であれば、ないわけではないのだ。この大國魂神社の社殿、それに境外摂社の天神社、それから茨城県鹿嶋市の鹿島神宮は北を向いている。 だから、あるかないかという話なら「あることはある」のだが、そうは言っても、戸建住宅を建てる場合には、神棚は北に向けるということはあまりやらない。
   私は実際に住宅建築業の営業の仕事を長くやって、自分が担当のお客様と話をする過程で学び、又、その際に求められたものを知識として学び、必要なものを学習してきた。2011年、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕で「工事責任者」を自称していたわりに工事現場に見に行かない・工事の進行状況に責任を持たない植草英二(男。当時、30代なかば)が、「ぼく、営業やったことないですけど、ぼく、営業で~きま~すもお~ん」と大きな声で何度も何度も叫んでいたが、私は実際のお客様と話をする過程で学び、その過程で求められた知識・認識を学習して学び、神棚について、神社の方位というのはどうなっているのかという話が出て、そういう経験を踏まえて、実際にいくつかの有名神社に足を運んで社殿はどちらを向いているかといったことを実物を見て確認してきたのであり、そういう努力と経験をしていない人間が、そういう努力と経験をしてきた人間と同じだけのことを「やったことないですけど、で~きま~すもお~ん」と考えることができるかというと、結論として、その認識はあつかましい、と考えるしかないと私は思う。そういうあつかましい文句を聞くと、このブタ、すき焼きにでもして食ったろか、しかし、食ってもまずいだろうなあ・・・とか思ったりする・・。

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↑ 拝殿左の背の高い木。

   今回、京王帝都電鉄「府中」駅のすぐ南のあたりから行列に並んだのだが、実際には、大國魂神社は正面(北側)以外にも出入口はあるわけで、拝殿のすぐ前の東側とか西側とかにも出入口はあり、東側から入ったり、西側から入ったりして悪いことはない。私自身も、正面の北側から行列に並んで参拝した後、社務所の南の東側から外に出て、境外摂社の天神社に行き、そこから戻って、随神門の北の東側の入口から入り、随神門の北を通り抜けて西側の出入口から西側の外に出て大國魂神社の西側を北に進んで御旅所に行った。だから、時間のない人で、とりあえず、拝殿に参拝したいと思う人は、東側か西側の出入口から入ると、拝殿の斜め前あたりに行けるので、拝殿の正面は行列に長く並んで歩んできた人たちが並んでいるのでそこに横から入ったのではマナーに欠けるし、そういうことをするくらいなら別段神社に参拝することもないわけだが、斜め前の位置から参拝して悪いということもないので、東か西の出入口から入って斜め前の位置から参拝することもできる。私も、これまで、正月には、うわあ~あ・・・て感じの行列があった神社で斜め前の位置から参拝して帰ったこともあるのだが、しかし、やっぱり、「神社は、できれば、初回の訪問は正面から」という方針、「表から入ろう、神社も大学も」という基本姿勢により、又、神社の場合はお寺と違って本殿はよく見えない場合が少なくないが、その場合も、無理に見なくても「雰囲気を味わう」のが良いと言われたりもするわけであり、「初詣の雰囲気」を味わうとすれば、大鳥居の側から行列に並んで拝殿まで進むというもので良かったか・・と思う。

  拝殿の右側(西側)のあたりで、「巫女さん」(といっても、もしかして、その服装しているだけで実際はバイトかもしれんが)が何人かでリアカーでなんだか運んでいるのを見かけた。そうだよなあ、と思ったのだ。2008年、東海住宅(株)〔本社:千葉県八千代市〕http://www.10kai.co.jp/ の花見川店で、冬、店長の「O友ゆうこりん」(仮名)(女。当時、50代なかば)が雪かきをしてくれと言い、「男がやるのが当たり前でしょ」と言うので、腰痛のある私が雪かきをしたところ、「ゆうこりん」はどうしたかというと、普通、男性が雪かきをしたならば、女性はお客さんじゃなくて従業員ならば何なりと他のことを何かやるものであろうと思うのだが、「ゆうこりん」の場合は、おのれは部屋中に入って座ってコーヒー入れて飲んだのだった。「ゆうこりん」の場合、「そういうことをやったことが一度あった」というのではなく、毎回、それをやるのである。これはおかしいと思うのだ。たとえ、女であっても、女性は男性より力は弱いから重い物は持てないこともあるかもしれないが、それはしかたがないとしても、それでも、従業員であれば何なとやるものであろう。 「巫女さん」にしても、若いおねーちゃんに「巫女さん」の服を着せて販売員させておいた方が、おっさんが販売員やるより「お客さん」は喜ぶということはあるかもしれんが、それでも、何か運ぶことがあれば、女でも持てるような物は運べばいいし、給料もらってる時間に男に雪かきさせておのれは部屋中入って座ってコーヒー飲むのが「当たり前でしょ」という主張はおかしいのだ。最近、建築業界でも女性で営業やる人が増えてきたようであるし、東海住宅(株)では80代の会長が「不動産業には女性がいい」と主張して、女性は土日祝日は遅刻してきて早退してよいと決めて、男性が掃除をして準備をしたところに女性は出勤して接客させてもらい、女性は後片付けをせずに「あと、片付けておいてちょうだいよ」などと言って終業時刻より前に帰ってよい、後の片づけは男性社員がやればよいと指示したというのだが、おばはんに甘い耄碌爺の会長、しまいに殺されるぞ! と思うと、誰かに殺されたのかどうかはしらんが、東海住宅(株)のホームページから名前は消えたので、会社のためにならない会長は死んだのかもしれない。なんで、東海住宅(株)の男性従業員はおばはんの分までサービス残業させられなきゃならんのかということだ。おばはんがパートタイマーで男性の正社員より給料が安いのならわからないこともないが、おばはんも正社員であり店長の役職手当を盗っているにもかかわらず、なんで、おばはんは遅刻してきて早退するのか。耄碌爺のおばはんに甘い会長は、その程度のことも考えられないのか・・というと、考えられないから、「おばはん帝国主義」に加担していたのであろう。もし、おばはんは土日祝日は遅刻してきて早退してよいと決めるのであれば、その分の負担は会長が負担するべきであり、会長以外の一般男性従業員にサービス残業させて負担をかけるのは筋違いであろう。実際のところ、年寄であろうが何であろうが、耄碌爺のおばはん好きの会長は勝手な言動はやめてもらいたいものだ。

   「大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)」という名前だが、これは、「オオクニヌシ(大国主)の魂」という意味か、それとも、武蔵の国を「大国」と言って、武蔵野国の魂という意味か、それとも、日本列島全体を「大国」と言ってその魂という意味かいずれかではないかと私は思ったのですが、別の説もあるらしい。
内田康夫『「首の女」殺人事件』(2014.徳間文庫)には、
≪ (島根県の)江津から東へ――正確には北東へ国道九号をゆくと温泉津町の先が仁摩町である。
  仁摩はかつては仁万(にま)と書いた。石見の国府は最初、仁万に置かれたという説があるくらい、歴史の古い土地だ。
  昭和二十九年(1954年)、宅野、大国(おおぐに)、馬路(まじ)の各村と合併し、町名を「仁摩」と改めた。この中の「大国」は『八重葎(やえむぐら)』に「大国本郷と号する所以は石見国の名始めて此(この)村より発る故に号す」とあるくらいだから、とにかくこの辺りはむやみに歴史が古いのである。東京・府中市にある「くらやみ祭」で有名な大国魂(おおくにたま)神社もここが発祥だとする説もある。
と出ている。 島根県の宅野・仁万・馬路と大国の4つが合併してできたという仁摩町は、内田康夫が『「首の女」殺人事件』を書いた時点では仁摩町だったらしいが、今、地図を見ると、仁摩町は大田市の一部分になったらしく、「大国」は大田市仁万町大国 と大田市大屋町大国 という地名が地図には見られる。

 次回 、6.「仕事人の神社」東照宮・北を向く天神社、御旅所。府中競馬場のアルバイトの想い出 https://shinkahousinght.at.webry.info/201901/article_6.html 

 (2019.1.8.)

☆ あけおめ。 大國魂神社。
1.北府中駅から。表から入ろう、神社も大学も。「刑務所の塀」は外から見れる。分譲マンションより居住性は良さそうな刑務所職員宿舎。https://shinkahousinght.at.webry.info/201901/article_1.html
2.幸町から国分寺街道、欅並木通。鉄人風屋上。司祭館は教会のそば。広い歩道と自転車 https://shinkahousinght.at.webry.info/201901/article_2.html
3.欅並木通。大鳥居。突けば転びそうな警官。屋台の食べ物はばっちいか。デマカセ心理学 https://shinkahousinght.at.webry.info/201901/article_3.html
4.手水舎・随神門・鼓楼・宝物殿・神楽殿。「軍艦多摩慰霊碑」、慰霊はあくまで慰霊で。https://shinkahousinght.at.webry.info/201901/article_4.html
5.中雀門・自然石風の上の狛犬・おみくじ箱・拝殿・本殿 〔今回〕
6.「仕事人の神社」東照宮・北を向く天神社、御旅所。府中競馬場のアルバイトの想い出 https://shinkahousinght.at.webry.info/201901/article_6.html 

日本の神社 (TJMOOK)
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いやいやながら医者にされ (岩波文庫 赤 512-5)
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犯行声明 2017年 2/14 号 [雑誌]: 週刊実話 増刊
日本ジャーナル出版
2016-12-31

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≪ 三億円事件の捜査で最も非難されたのが12月21日に公表された有名なモンタージュ写真である。これは事件直後に容疑者として浮上した人物に、酷似した別人の顔写真を無断で用いたものだった。その根拠は、実際に犯人の顔を見た4人の行員が「似ている」と証言したことに基づくものではあったが、実際の写真に使われた人物はこの時点で故人であった。つまり、100%合致する人物はこの世におらず、それでいて“犯人そのもの”のような、あまりに具体的なモンタージュ写真が、その後の捜査を混乱させたのは否定できない。最終的にこのモンタージュ写真は74年に正式に破棄されている。 ≫
( 『犯行声明 週刊実話増刊2017年2月14日号』2017.2.14. 日本ジャーナル出版。 ↑
「犯行声明事件簿 三億円事件」 )

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