東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない+上宮天満宮参拝【8/10】高槻駅前

[第636回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 第48念-8
   上宮天満宮へ最も近い駅はJR「高槻」駅です。今となっては30年程前、私がこの近くの予備校に行った頃とは駅の周囲の感じもずいぶんと変わりました。阪急「高槻市」駅からJR「高槻」駅まで商店街になっていたと思ったのですが、その街路がどこだったかもわからなくなってしまいました。
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↑ JR東海道本線(“JR京都線”)「高槻」駅 北口。
   この写真の右端に写っている「長谷川書店」には覚えがあります。今となっては30年ほど前、ここに来た時、喫茶店なんてのは「不良が入る所」みたいに思っていた当時の私にとっては書店くらいしか入る店はなかった。 書店は「お勉強する人の入る店」みたいな所があったので、特に用事がなくても立寄ったりしていたのですが、たしか、この店で、 『奇跡の古文単語』(祥伝社 ノンブック)を購入したはずです。購入した本は今も我が家の本棚にある・・はずでしたが、整理が悪いのか、どこにいったか見当たらない・・が、まあ、そのうち出てくるでしょう。 買った店はここだったはずですが、その頃は、この書店の脇から西に入る商店街があったように思ったのですが、どうも、今、見ると見当たらないので別の店だったのか・・。そんなはずはありません。JR、その頃は国鉄の「高槻」駅から上宮天満宮へ向かう道の高槻駅のすぐそばの書店ですからここしかありません。
   YMCA予備校高槻校の「北野高校卒。京都大学文学部卒。元天王寺高校教諭」だという山之内という古文の講師のおっさんが、古文単語集としては、灘高校の校長が作者の『試験にでる古文単語』(青春出版社 青春新書)よりも、この『奇跡の古文単語』(祥伝社 ノンブック)の方がいいと推薦するので、そうかいなあと思っていたところで、たまたま、この書店に立ち寄るとその『奇跡の古文単語』があったので購入した。 結局、2浪もしてしまって、それでも東大に合格することができなかったが、他の科目はともかく、国語は2浪目には相当点数はアップし、共通一次試験型の模擬試験でも、東大二次を対象とした模擬試験でも東大受験生のレベルでも上の方の成績をとることができるようになった・・が、それにもかかわらず、試験に国語がない大学に行かされてしまうはめになった。
   その頃の慶應大学の入試科目は、経済学部は数学と英語、商学部は数学と英語と社会科が日本史か世界史のどちらか1科目の選択、法学部法律学科と法学部政治学科は数学と英語と国語と社会科が日本史か世界史のどちらか1科目だった。法学部は公務員試験を受ける人が他学部より多いと思われ、旧型司法試験や公務員試験を受験するには広い範囲・多くの科目についての教養が求められるので、それで、法学部は試験科目が多かったのではないかと思う。経済学部は、早稲田大などは英語と国語と社会科1科目で受けられたのに対して、慶應の経済は数学と英語だったので数学の学習をしていない私立専願の人は敬遠し、逆に、国立大学は医学部を受けたが私立の医学部は通っても入学金は払える見通しはないという人が慶應の経済学部を受けたりもしていた。森川英正『日本経営史』(日経文庫)を読むと、かつて、慶應義塾出身の村井保固という人が森村組に応募した際、森村組の採用条件として語学(英語)と簿記ができることというものであったが、村井保固は「語学と簿記は不得手の方です」と言って不採用にされたということがあり、福沢諭吉から実業家を志す者がそのあたりの支度ができていないとは言語同断だと怒られたという話が出ていましたが、村井保固さんの場合は、「森村さんは偉い人と聞くが、英語と簿記を条件に人を採用するとはおかしい。小手先の利く小者が欲しいのか、将来森村組を背負って立つ大黒柱となる人がほしいのか」とアピールして採用されることになったようですが、語学(英語)と簿記が実業家を志す者としては大事であると福澤諭吉からして認識していたように、慶應の経済学部や商学部においては、語学(英語)と簿記は重要であるとして、簿記は商業高校では扱っていても普通科では扱っていないので大学入試には出さないとして、近代経済学においては数学の基本的な能力は必要とされるということから、経済学部では英語と数学。それにさらにもう1科目ということになると、「日本を中心とした世界の歴史」(日本史)か「世界の中の日本の歴史」(世界史)かということで、商学部では英語と数学と、日本史か世界史のどちらか1科目ということだったのではないかと思います。ということは、『奇跡の古文単語』もそうですが、相当の努力をして、それこそ、教学社から出版されていた『東大 文科』の「各科目学習法」の「現代国語」のところに、田中美知太郎と埴谷雄高の本など読むべきだと書いてあると、その2人の本をせっせと読んだりもして相当に時間もかければ労力もかけ努力もしてきたにもかかわらず、国語のない大学に行かされるはめになってしまったわけです。 『ドラゴン桜』では、登場人物の弁護士なんとかが、各大学にはその大学の歴史に相関して入学試験の問題に特徴がある・・と語る場面がありました。京大はアカデミックな伝統というだけあって試験問題もそういったところがあるのに対し、東大は事務処理能力を問う問題が出題される、と。なるほど。その片方で、私立大学の場合、「優しい問題を出題するとなめられる」という事情もあるようで、「中堅私大」と言われる大学、YMCA予備校の英語の講師某が固有名詞をあげたのは中央大学でしたが、中央大学などは英語の問題に難しい英文を意図的に出すことがある、という話でしたが、そういうこともあるでしょう。私は、早稲田大学の問題は「少々、くせがある」という印象を受けたのです。 これは、もしかすると、ですが、「東大を落ちたから早稲田に行くというのではなく、早稲田大学に行きたいという人をとるべきだ」という考え方があるのかもしれないと思いました。試験科目が早稲田大学の法学部・政治経済学部・商学部・文学部は英語と国語と社会科1科目で受けることができましたから、京大・阪大や東大の試験科目の半分以下の科目で受けられたのです。試験科目がそれだけ少なくて、しかも、試験問題に「少々くせがある」ということはどうなるかというと、なんだかんだいっても、英語・国語・数学・理科・社会と勉強しないといけない者と、英語と国語と社会科1科目だけでいい、数学は勉強しなくてもいいという人間とでは学習する科目が半分の者の方が有利に決まっているのです。しかも、「問題に少々くせがある」となると、その大学を第1志望にしている者はその大学の問題の練習を相当できますが、他の大学を第1志望にしている者は第1志望でない大学の問題をそれほどは練習できませんから、結果として、その大学を第一に考えている者がそうでない者より有利になります。早稲田大学の試験科目が少なくて、「問題に少々くせがある」というのは、そこをねらったものかもしれないと後になって思いました。 慶應は、昔から「独立自尊」と言ってきた大学ですが、何が独立自尊なのか、そもそも、特定の学校に行けば独立自尊なんて、そんな勝手な独立自尊があるものかとか思ったりもしますが、1970年代後半から1980年代初めにかけての入試の試験問題については、たしかに、「独立自尊」というのか、よそがどうだからどうするというものではなく、自分のところで、その学部で学んでいくためにより重要な科目は何かというところから考えて、経済学部は数学と英語、商学部は数学と英語と日本史か世界史のどちらか1科目、法学部は数学と英語と国語と社会科は日本史か世界史のどちらか1科目という試験科目に設定したのではないか。さらに、慶應の問題は「無茶苦茶簡単ということはないとしても、特別に難しい問題ではない」問題が数学も英語も出題されていたのですが、これは、まず、数学については、「高校および大学入試の数学」と「数学科の数学(もしくは、数学そのもの)」と「経済学部・商学部の数学」はまったく別ものではないけれども、まったく同じではないわけで、「経済学部・商学部の数学」をこなすには、「高校および大学入試の数学」はそれほど特別に難問が解けないといけないということでもないのです。だから、必要ないような難問は出さない、難問を出した方が受験生からなめられないということもあるのかもしれないが、独立自尊という考え方からいって、よそがどうということから考えるのではなく、自分のところで、入学後に何が必要かということから考えて、数学の問題にしても、一通りのことがきっちりと理解できておればよく、「特別の難問」を解く能力を求める試験を出す必要はない、という判断だったのではないかと思います。もっとも、1980年代途中で、私立大学で慶應だけ入学試験に数学があることから私立志向の受験生が慶應を敬遠して模擬試験の際の「偏差値」「ランク」が慶應は下がってしまい、入学者のレベルも年々下がっていく傾向にあったことから試験科目を変更したようですが、ある助教授から「前の方が良かったと思うけど」という言葉を聞いたことがあったのですが、私も「前の方が良かった」てことないかなあと思いました。
(高校生や大学受験生の方で、このブログを読んでくださる方に、お断りしておきますが、私が高校生や大学受験生であった時と今とでは変わっている部分は相当あると思うので、その点は補正して考えてください。おまえの文章を読んで失敗したとか言われても責任はとれません。参考には十分なると思いますけれども。高校の教諭とか予備校の講師とかを仕事にしていませんので、今の制度は詳しく知りません。たとえ、わかっても、今の受験生のために、今ならどうするということを詳しく述べるつもりはありません。私の経験談は参考にはなると思いますが、これから受ける人は、自分とどう違うのか、今とどう違うのかという点を自分自身で補正して考えてください。それは自分自身でやるべきことです。自分自身でその作業をできない人、自分自身でその作業をやる意思がない人は、東大とか京大とかいった「難関大学」に行く必要はありません。「難関大学」に行きたいと思っている人なら、その補正作業は自分自身でやるべきであり、自分自身でその作業をやる意思がないなら落ちればよろしい。)
   慶應の試験科目は、よそがどうであるかにかかわらず、自分のところの各学部で入学後にやっていけるように、その学部で学ぶ内容との関連を考えて決められていたものではないかと思われ、その点で、独立自尊と言えば独立自尊の決め方であったと思うし、又、それぞれの学部で試験科目を変えていたのも、早稲田大学のように法学部・政治経済学部・商学部・第一文学部・教育学部とすべて試験科目が同じにすると、複数学部を受けたい人は受けやすいところがあるが、各学部で入試の難易度の順位が決まってしまうことになってしまうことになるが、本来は、各学部はどっちが上とか下とか言うべきものではないはずであり、試験科目を学部ごとに変えた方がどっちが上だの下だのという思考になりにくい面があり、その点で慶應の試験制度の方が早稲田大などの制度よりもいいと私は思ったが・・、しかし、その頃の慶應は、経済学部・商学部も文学部も医学部・理工学部も入試に国語がない大学で、国語が試験科目にあるのは法学部法律学科・法学部政治学科だけであり(今はどうなってるか、知らんで)、慶應のバカ学生が新入女子学生を輪姦したとか、そういったニュース記事を見ると、やっぱり、入試に国語がない大学はあかんなあ・・など思ったりもします。 実際のところ、「入試に国語がないブタ人間の大学」という印象が慶應にはありました。私は「慶應タイプのブタ人間」というのが嫌いだったが、世の中にはそういう人が好きという人もいるようでした・・が、やっぱり、「入試に国語がない大学」というのは「ブタ人間の大学」になりやすい傾向があるように、今も思いますね。

   文学史、特に近代文学史の学習のつもりで、小田切進『日本の名作――近代小説62篇』(1974.中公新書)なんてものを、1浪の時に読んだのだが、この本は、二葉亭四迷『浮雲』・森鴎外『舞姫』・幸田露伴『五重塔』・樋口一葉『たけくらべ』・・ときて、後の方は壷井栄『二十四の瞳』・伊藤整『火の鳥』・三島由紀夫『金閣寺』・井上靖『天平の甍』まで、62篇の文学作品を、2ページで内容を説明して、後の2ページにその小説の一部分2ページ分を抜粋するというもので、その作家の代表作のエッセンスみたいなところを読んで印象に残るというものであり、読んだ小説は作者と題名くらい忘れないみたいなもので、その小説を最初から最後まで読むのではなく2ページ分だけ読んで印象に残るというものだ・・・・が、結果としてみると、必要なかったかもしれない。実際問題として、北野高校の国語でも文学史のテキストを持たされて、それのどこからどこまでを次の中間考査・期末考査で出します・・とかいうことをやっていたが、大学入試においては文学史の問題なんて、結論として、出ない! わけで、出ないものをやっても合格にはあんまりつながらないわけで、「コストと利益を比較衡量して」考えると、ほかにやった方がいいものがあったかもしれない。・・しかし、片方で、「慶應タイプの強姦魔」とか「慶應タイプの助駒氏」とかを見ると、やっぱり、文学や哲学の本を読んできてないブタ人間はあかんなあ・・という印象を受ける。試験に出ようが出まいが、入試の科目にあろうがなかろうが、文学・哲学の本は高校卒業までにある程度は読んでおくべきではないか。そうでないと、「慶應ボーイ」みたいになってしまう。そんな感じのやつ、日吉とか三田とかに、いっぱいいるでしょ。しかも、それを得意にしているようなのが。

   YMCA予備校高槻校の古文の講師の山之内というおっさんが、「トカイムサジサ」とか言うておった。これは、「都会(トカイ)にはムサジサというムササビみたいなやつがおって・・」ということで、平安時代の日記を順番に並べたもの、
ト・・・・土佐日記
カ・・・・蜻蛉日記
イ・・・・和泉式部日記
ム・・・・紫式部日記
サ・・・・更科日記
ジ・・・・成尋阿闍梨母集(じょうじんあじゃりのははのしゅう) もしくは成尋母日記
サ・・・・讃岐典侍日記
このうち、更科日記の作者というのが「菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)」で、上宮天満宮の祭神の菅原道真の長男の菅原高視(たかみ)のひ孫が菅原孝標(たかすえ)でその「女」というのはメカケのことではなく「むすめ」である。西尾実・猪野謙二・秋山虔編著『新版 日本文学史』(1971.秀英出版)によると、成立は1058年ころ とされているらしい。
※ 菅原氏系図 https://office-morioka.com/myoji/genealogy/kodai/sugawara.html
なるほど、トカイムサジサとは、かなり、無理があるようにも思えるが、ともかくも、トカイムサジサと覚えれば、そこから平安時代の日記が出てくる・・・・が、これ、覚えたけれども、結局、私が受けた国立大学・私立大学、いずれの入学試験においても、これが役立つような問題は出題されなかった・・・。まあ、これ、覚えるのにそれほど労力がかかるわけでもないから、「コストと利益を比較衡量して」考えたとしてコストがそれほど大きくないから、いいけどね・・・。

   YMCA予備校高槻校の古文の講師の山之内というおっさんは「今年は古文は徒然草が入学試験に出る」と断言!・・・したが、これも、私が受けた国立共通一次試験、二次試験、私立大学の試験とどこの問題でも徒然草はまったく出なかった。まあ、出る可能性が高いと何らかの理由で思ったとしても、その通りにならないことはあるかもしれないが、おっさん、あまりにも断言しすぎ!
    さらに、彼が、山岸徳平・三谷栄一『文法中心 全解 徒然草』(1956.有精堂)を読めと言うので、私はこの本を購入して読みかけたが、しかし、これは大学受験用の本ではなく、研究者が読むような本であり、途中で挫折したが、こんなその分野の研究者が読むようなものを、大学入試のためなどと思って読んでいたのでは、それに時間を費やされて他の科目の学習時間を浸食することになり、かえって害がある。そもそも、分厚い本を読めば効果があるというものではなく、試験対策としては、ぶ厚い本を1回読むのと薄い本を3回読むのとどちらがいいか、厚い本を途中まで読んで挫折するのと中くらいの本を1回読みきるのと薄い本を3回読むのとどれがいいか、といったことも考えるべきです。旧型司法試験でも、我妻栄の「民法講義」シリーズという岩波書店から出ている相当ぶ厚い本が財産法の部分だけで全8巻というのがあり、これを読破しようとして挫折した人がけっこういると『司法試験合格作戦』(エール出版社)で書いていた人がいたが、私も『債券総論』だけ購入して読みかけたが半分も読まないで書棚に載っているが、こんな研究者が読んで考えるようなものは受験には不向きで、薄い本を使っても通るものは通るし厚い本を使ったから通るというものでもない。特に「京大東大文系クラス」というところにおいては、京大や東大は早稲田大などと違って試験科目が多いので、1つの科目だけにあまり多くの時間を費やすことはできないのですから。
   YMCA予備校高槻校の「主事」というよくわからん職種の藤井という男は、「ぼくは早稲田の政経を出てるんだけどな」と一日に最低3回は言わないと気がすまないという男で、あれはまず学歴詐称であると思うが〔だいたい、「早稲田の政経」というのは「学歴詐称の定番」ですしね。建築業界においては「早稲田の建築」というのが「学歴詐称の定番」〕、山之内のおっさんの言う「北野高校卒」「京都大学文学部卒」「元天王寺高校教諭」というのは嘘ではなさそうだったが、しかし、「どうも、この人は、大学に進学した頃、天王寺高校の教諭になった頃に比べて、『堕落した』と言っていいかどうかわからないが、その時の判断力を失くしているのではないか」という印象を受けた。「堕落した」という印象を受けたのは、彼が、最初に、「わしは、週刊誌を1週間に10冊読むんや」と言い、「芸能界ネタに詳しい」とかそういうわけのわからんことを「売り」にしたことで、まず、気づいた。「それを踏まえた授業をわしがやるんやからおもろいぞ」と言うのだったが、そもそも、京大東大文系クラスといったところに行くような人間は、「芸能界ネタ」なんて望んでいないし、「芸能界ネタ」なんてそんなもの知らない。受講生が知らないような「芸能界ネタ」をやりたがるあたりが、すでにおかしい。古文の講師が古文の授業を「おもしろい」と思ってもらおうとするのなら、古文のおもしろさを発揮するべきであり、「芸能界ネタ」なんか、むしろ、害がある。「北野高校卒。京都大学文学部卒」ならそのくらいわかってよさそうだったが、わかっていない、というあたり、この人は、長く予備校講師やってるうちに「堕落した」のかな・・という印象を受けたのだった。

   山之内のおっさんは、最初に「最低でも京大、うまくいけば東大。さらにいけば亜細亜大だあ~あ」とか言ったのですが、まず、その認識がおかしい。まず、「東大はスーパー京大ではない」ということくらい認識すべきです。試験科目も配点も違えば出題内容・出題傾向も違うのですから、「最低でも京大、うまくいけば東大」などと、そんなことを思っていたのでは、通るものも落ちます。そうではない。1973年、前後期制を実施したプロ野球のパリーグで、前期優勝した南海ホークスは、後期は後期優勝の阪急ブレーブスに、1分け12敗と1つも勝てなかった。野村克也のじいさんが、今もあちらこちらで書いて言ってしているが、「後期は阪急に3つ勝つことができれば、極端な話、ほかは全敗したっていい」と考えた、というのだ。「阪急に3つ勝つことができれば」というのは、前期優勝チームと後期優勝チームでおこなわれるプレーオフのことで、プレーオフでは先に3つ勝った方が年間優勝チームとなり日本シリーズに進出できたが、そのプレーオフで3つ勝つことができれば、「極端な話、ほかは全敗したっていい」という認識。その認識で、南海はプレーオフで3勝2敗と勝った。大学入試においても、ここに行きたいと思ったならば、そこの問題を解けるようにその問題の対策に集中して力を注ぐべきで、「極端な話、ほかは全敗したっていい」という姿勢でやった方が成功する方向に進む。 「最低でも京大、うまくいけば東大」などと考えていたのでは、通るものも落ちますよ。

   国語については北野高校の授業も必ずしもいいとは言えないように思うようになった。旧姓作野礼子の現代国語なんて、あんなものは結論として「勝手なことやってるだけ」でしかない。北野高校の問題点として、「中途半端な男女共学」「小学校型の男女共学」があると思う。私が行った頃、男性は大阪府で一番入試難易度が高い高校であったが、男女比をそれほど大きく差がつかないようにしないといけないということになっていたため、女性は誰でも入れた。女なら誰でも入れるからといって、男なら学区の3番手校くらいでも落ちるような人が1番手校に行くのがいいかどうかという問題もあるが、男なら入れないところを女だから入れたという人でも、なぜか「うまくあった」人というのがいて、そういう人で神戸大くらいに行く人というのがいたのだ。旧姓作野礼子などはそれだろう。しかし、「男なら3番手校くらいに行けるかどうかの成績の女性」が神戸大くらいに行く学習法と、男でも1番手校に行ける成績で北野高校に入学して、入学時の学年順位のまま3年まで行ってその順位のまま合否が決まるのであれば京大に行けるというくらいの成績で入学した者がきっちりと京大に合格する学習法と、東大に合格するための学習法は、学習法が違うのだ。 ところが、女だから男なら入れない高校に入学して神戸大に行った人、要するに旧姓作野礼子には、このあたりのことが理解できていないのだ。
   北野高校の国語の教諭の植村(男。当時、50代?)は古文の授業中に、「質問はないか」と言い、「質問はないか」と言うのだから、質問すればいいのだろうと思って質問すると、「はあん。こんなこともわかりませんのおん!」と言うので、「質問はないか」と言うから質問したのに、質問するとそんなこと言うのなら、もう、質問せんわとたいていの人間は思うわけで、誰も質問しないと、今度は、「質問はないかと言うておるのに、誰も質問はないのか。これはすごいな。僕だってわからんところがいっぱいあるのに、質問はないかと言うておるのに質問しないということは何でもわかっているということだな。よし、それなら、こちらから訊いてやろう。質問はないかと言うておるのに質問しないということは、何でもわかっているということのはずなのに、それでこちらから質問すると答えられないということでは嘘をついたことになる。そういう嘘つきには拳骨をお見舞いすることにする」と言い、そして、植村の方から質問して、「はあん。答えられませんのお~ん!」とか言うておった。かつ、どうも、国語系の教諭と親がコネクションがあるらしい安東という女が質問した時だけは、「はい~い。安東さん。たいへん、いい質問ですねえ~え」などと言うので、あの安東という女はそんなにいい質問をしたのだろうか・・、それまでに質問して、「はあん。こんなこともわかりませんのお~ん」と言われた人間とどこが違うのだろうか・・とか思ったものだったが、質問の内容が大きく違ったのではなく、植村というじいさんは、国語系の教諭とコネクションがあったらしい安東の親に好意を示そうとしてなのか、「安東さん、たいへん、いい質問ですねえ~え」とにこにこしながらアホなこと言うておった、というだけだったと今は思う。灘高校出身の人に聞いた話だが、灘高校というのは私立なので、毎年、何人か、「こいつは裏口だな」とはっきりわかる人がいるというのだが、北野高校は公立なのでそういう裏口入学の人はいなかったはずだ・・・が、それはあくまでも入学する時点でのことで、全体として裏口はないとしても、各科目の教諭とコネクションがあったのではないかと思われる人というのがいたように今は思う。
    植村が「質問はないかと言うておるのに、誰も質問せんとは、質問しないということは何でもわかっているということだな」と言ったのを聞いて、その時に扱っていた部分について、「何を聞かれても答えられるくらいに自分で学習しろ」という意味なのか・・・などとアホなことを思ったことがあった。しかし、それは学習法としても正しくないと思うのだ。「傾向と対策」を踏まえて、「試験に出る部分を出る順に」とやるのが入学試験に合格しやすい学習法で、そして、試験科目が多い旧帝大系国立大学に合格しようとすれば、学ぶ量も多いわけであり、これは柴田孝之が『東京大学機械的合格法』だったか『司法試験機械的合格法』だったかどちらかで書いていたことだが、「何をやるか」だけでなく、「何をやらないか」ということもあって考えないといけない、ということを考えると、「何をきかれても答えられるということだな」というような学習法は効率が悪い!

   YMCA予備校を見て、学校はやっぱり国公立でないとだめだな、私立の学校はだめだな、と思ったのだ。それは、YMCA予備校を見ていると、講師は京大とか阪大とか東大とかを卒業した人を雇っていたのだが、経営スタッフの方は亜拓大東帝国くらい卒であり、京大・阪大・東大あたりを卒業した講師が亜拓大東帝国に使われていたのだ。その結果、講師はある程度は大学入試の経験があっても、「主事」とかわかっていない人間に命令されてわかっていない人間の指示により動いていた。これではだめだと思った。北野高校の授業・北野高校の先生というものがすばらしかったかどうかはさておき、ともかくも、各教諭が自分自身の考えで授業をおこなっていた。 事務員に指示・命令されて授業内容を決めるということはしていなかった。ところが、YMCA予備校は事務員が教員に命令していたのだった。
   YMCA予備校を見て、私立の学校はだめだな、やっぱり、学校は国公立でないとだめだなと思ったのだったが、その頃の慶應の塾長の石川忠雄が、慶應義塾新聞だったかで「国立の場合は、どの国立大学でも設立母体は国立ですが、私立大学の場合は、その大学によってひとつひとつ違うのです」と述べていたのを見た。「慶應義塾をしょーもない私立大学の一緒にすんな」と言いたいということか?  しかし、「しょーもない」かどうかはさておき、新設で入学難易度が高くない私立大学でも、そうであればこそ、特色を出して、評価されるようにという努力を相当している大学があると思う。そして、もともとは、進学校でもなんでもなかった私立高校が、京大や阪大に合格者を出すようになったり、もともとは、別段、野球の強い学校でもなかったのに、いつしか、野球の強豪校になった高校というのもあるわけだ。大阪桐蔭高校なんて、私が高校生の頃はなかった。前身の大阪産業大学付属高校というのはあったかもしれないが、進学校でもなければ野球の強い学校でもなかった。それが、いったいいつのまにか、野球の方は全国で一番強い高校になったし、京大などに何人か合格する高校になった。もっとも、そういう私立高校の場合、「文武両道」の公立進学校では野球やラグビーをやっている人間が京大や東大に通っているのに対して、大阪桐蔭もそうだと思うが、私立のそういう高校の場合は、片方で野球部が甲子園大会に出場した、他方で京大とか東大とかに合格する人間が出たとしても、それは「文武分業」、スポーツクラスと国立トップ大学進学クラスと一般クラスに分かれているわけで、あくまで「文武分業」であって「文武両道」ではないのだが、それにしても、それまで進学校でもなんでもなかった高校から京大や阪大に合格者を出すようにもっていくというのは、たいしたものといえばたいしたものである。最近の大阪で大阪桐蔭高校とともに野球の強豪校になった履正社学園というのも、かつては福島商業高校と言って、そこを卒業した人には申し訳ないけれども、およそ、京大なんかに進学する人間が出るような高校ではなかったし、野球も、三浦という投手が阪急に入団してある程度実績を残したけれども、特に強い学校ではなかった。それが、最近では、野球の方は大阪桐蔭に次いで大阪で野球の強い高校になり、進学の方でも京大に合格する人間が時々でる高校になってきたらしい。そうなるまでには、相当の努力をした人がそこにいたということだと思う。そういうもともとは進学校でもなんでもなかった高校を京大や阪大に合格者を出す高校にしていった私立高校と比較して考えてみると、大阪府立の北野高校なんて、親方日の丸というのか、「伝統校」「名門校」ということに胡坐をかいて、放っておいても成績のいい生徒が入ってきて、生徒が学習して京大なり阪大なりに合格していくだけということでしかない高校になってしまっていた。やっぱり、「企業努力」が不足していたと思う。だから、進学成績も低下した。数学のA先生が、「3年前と比べたら京大の合格者が少なくなるのは、それは当然なんですよ」と発言したことがあったが、私が入学する3年前に学区が小さくなったことから、それまでなら入学できない人も入れるようになったことから、全体として進学成績は低下するのは当然という発言だったが、しかし、大阪桐蔭とか履正社学園とかの教員なのか経営者なのかは、そうは考えずに、それよりももっと学力が下の生徒を入学させて、それを京大や阪大に合格させてみせようではないかと努力してきたのである。A先生は「これまでと同じやり方をやってるのですから、生徒の方が同じことをやっておれば同じだけできるはずなんですよ」と発言したことがあったが、「同じことをやってる」からそのやり方で悪くないのか、時代は移り変わっているのに「同じこと」をやっているからだめなのか、そのあたりは何とも言えない。こういったあたりを考えると、公立高校というのは「企業努力が不足している」親方日の丸の学校だなという印象も受ける。
   だいたい、国語の教諭であった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校→神戸大文学部卒)は入学式の日に有給休暇とって海外旅行に行って欠席したが、教諭が有給とって海外旅行に行ってよいような入学式なら生徒も「有給休暇」とって(生徒の場合は、もともと、欠席しても減給されることはないし、年に何日までという限度内なら欠席があっても進級できる)海外旅行に行くか、海外でなくてももみじ天婦羅かじりながら箕面の滝でも行くなりしたって悪くないはずだし、親の方も、教諭が有給休暇とって海外旅行に行っていないような入学式に親が勤め先に有給休暇とって仕事のやりくりして休んで入学式に出席することもないことになる。

   YMCA予備校高槻校の「主事」というよくわからん役職の藤井といういいかがんな男が「YMCAのテキストは他では販売していないもので、よその予備校の生徒でYMCAのテキストを欲しいという人間がいるんだから、なくさないように気をつけてほしい」と発言したことがあったが、「よその予備校の生徒でYMCAのテキストが欲しいという人間がいる」とかいう話はその時初めて聞いたことで、それより前にもそれより後にも誰からも聞いたことはない。むしろ、YMCA予備校のテキストは、数学も英語も国語も全国の大学の過去問を集めてきただけのものに表紙に「YMCA予備校」と印刷した厚紙を貼っただけのものであり、そんな問題集は詳しい解答が書かれて入力ミス・変換ミスのない本が他に市販されている。むしろ、「京大東大文系クラス」と名前をつけたクラスのテキストが単なる「文系クラス」のテキストと一緒でカリキュラムも一緒というのがおかしい。 「京大東大文系クラス」と名前をつけたからには、京大と東大の「文系」の学部の入試に即したことをやらないと「京大東大文系クラス」にはならないはずである。 又、逆に単なる「文系クラス」の場合は、いったい、どこに進学するつもりなのかという問題がある。その頃のYMCA予備校の「文系クラス」では、高槻の「京大東大文系クラス」を別にすれば、比較的学力水準が高かったのは豊中と土佐堀であり、それに次いで、阿倍野。堺と新設の高槻の単なる「文系クラス」はそれほど学力水準は高くなかったはずであり、そういう所に来ている人には、旧帝大系国立大学を目指すのは厳しいという人も少なくなかったはずであり、そういう人にも旧帝大系国立大学を目指す人と同じテキストというのもおかしい。YMCA予備校はそのあたりを「な~んも考えとれへん」かったのである。
   もうひとつ、その年の前半に使用するテキストは最初に頒布しても、後半に使用するテキストは年の後半にならないと渡さない。だから、受講生としては後半は何をするつもりでいるのかわからない。予備校でやることになっているものなら予備校でやるものに力を注げばいいが、予備校でやらないものは自分でやらないといけない。後半に何をやるかわからないようでは、自分でやっておくべきか、後半にやるものに期待するべきか判断に迷うことになるが、YMCA予備校はそのあたりについてまったく考慮していない。これなら、むしろ、「宅浪」で全体を自分自身で計画建ててやった方がいいくらいであり、予備校のメリットはないことになる。

   YMCA予備校のテキストで「Idioms」と「英作文の鍵」という英熟語集があり、インターネットで見ていたら、これは良かったと思うと述べていた人がいたが、これは私も悪くはないと思う。但し、YMCA予備校の「主事」の藤井は「YMCA予備校のテキストは、ほかでは売ってなくて欲しいという人がいっぱいいるんだから」などということはない。そんな話、聞いたことがない。「Idioms」と「英作文の鍵」については悪くはないと思うが、しかし、英熟語集としては、森一朗の『試験に出る英熟語』(青春出版社 青春新書)とか、駿台文庫からも英熟語集が出ており、どちらがいいかいちがいに言えないが、「Idioms」と「英作文の鍵」は市販されているもので同様のものがないわけではなく、特別のものではない。それにしても、「主事」の藤井という男は、次から次へと、しょーもないこと、いいかげんなことを言いまくる男で、いいかげん、疲れた。

   YMCA予備校の古文の講師の山之内のおっさんが作成したらしい『古文法』のテキストは、北野高校の時にも購入させられて使用した古文法の市販されているテキストよりも、ひと回り詳しいもので、これに限っては、ほかに同様のものは買おうと思っても出ていなかった。なかなか、よく調べて作成されていたと思う・・・けれども、一方で、「そこまで要らない」というのも事実だった。「そこまで要らない」というのは、入学試験の国語の古文においては、古文法について相当詳しいものが問われるのかというとそうではないのだ。 北野高校の時に買わされた市販されていたテキストくらいの内容で十分であり、本というものは、「調べる」ための本と「覚える」ための本があって、「覚える」ための本としては、山之内のおっさんの作った古文法のテキストは詳しすぎた。そこまで要らない。それにしても、「調べる」ための本として横に置いておくにはよくできたもの、相当力を入れて作成したと思われるものだったが、それにしても、「そこまで要らない」という性質のものでもあった。

   旧型司法試験と司法書士試験では、共通する試験科目が何科目かあるのだが、一般に旧型司法試験の方が難しいと言われてきたが、柴田孝之が『司法試験機械的合格法』だったか『司法試験 絶対合格の秘訣』だっかで、たとえば、民法でも、旧型司法試験の方が論理的に述べることが求められる問題が出るが、司法書士試験の方が細かい知識が求められる問題が出題され、どちらがより難しいといったことは一概に言えない、と言っていたが、私もそうではないかと思う。京大の問題と東大の問題はどちらが難しいかはいちがいに言えないし、入試の難易度としてみてもいちがいに言えないと私は思っている。それは、試験科目と配点と出題傾向が違うからで、試験科目と配点と出題傾向が異なるものを、どちらがより難しいか、どちらが上か下かという視点で見るならば、その見方をしていること、そういう間違った認識をしていることから、「通るものも落ちる」ことになる可能性がある。「東大は、スーパー京大ではない」。京大を受けようと考えて、その成績で通った人5人・落ちた人5人という成績がその模擬試験が模擬試験ではなく本番の試験だとすると合格最低点であるとすれば、東大に合格しようとすると、京大なら通った人5人・落ちた人5人の成績ではなく、通った人7人・落ちた人3人くらいの成績を取らないといけないのか、浪人したからには余裕もって、京大なら通った人8人・落ちた人2人というくらいの成績はとらないと東大は受けてはいけないのか。・・・そもそも、京大なら通った人8人・落ちた人2人の成績て・・・、そんなもの、簡単に取れると思うか???? 中にはそういう成績を取った人もいるかもしれないが、それはあくまでも、結果として取ったのだと思う。 これから受けようとする者にとっては、大事なことは、本番の試験で合格最低点を1点でも超えることができるかどうか、それだけである。 「ボロ勝ち、競り負けは弱いチームのやること」である。ボロ勝ちしようなんていう姿勢は、それは、むしろ、勝負弱さである。「最低でも京大、うまくいけば東大」という山之内のおっさんの発言は、入試をわかっていない人の発言だと判断せざるをえない。山之内のおっさんが、北野高校から京大の文学部に通ったというのは、藤井が「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と一日に最低三度は言わないと気がすまないというのとは違って、本当のことだと思うが、なんか、入試についてよくわからないうちに通ってしまった人か、さもなくば、かつては、大学に進学する人が多くなくて、私が高校を卒業した1970年代後半や今ほど大学入試が難しくない時代、「京大でも文学部なんかは入りやすかった」時代に京大に行った人・・・なのかな、という印象を受けた。

  この書店の棚でちらっとだけ見たものに、小林よしのり という漫画家の『東大一直線』という漫画がありました。東大を目指して挫折する人間を茶化す漫画ですが、この作者は、学校の在り方、受験のあり方を真面目に考えて批判しようというのではなく、もしかして、自分自身があまりいい大学に行けなかったものだから、「一流大学」に行こうと努力している人を茶化す馬鹿にするような漫画を描いているのではないか・・と疑問に思い、なんか感じの悪い見たくない漫画だなと思ったのですが・・、《ウィキペディア―小林よしのり》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%8A を見ると、やっぱり、福岡大学だった。自分があんまりいい大学に行かなかったからということで、「一流大学」進学のために努力する人間を馬鹿にしたり茶化したりする漫画を描く下品な男・・と思っていたら、いつしか、漫画家ではなく右翼活動家になってしまった。『異能戦士』はおもしろかったけれども。自分勝手にひとの心を読みまくる「異能戦士」とは、「精神分析」教教祖 小此木啓吾独善主義のことではないか・・。

 次回、9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_10.html

 (2018.11.4.)

週刊文春 2018年 11/1 号 [雑誌]
文藝春秋
2018-10-25

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≪野球部の選手獲得と、育成のシステムは、83年開校という歴史の浅い大阪桐蔭が、東大・京大の進学実績で府内有数となった図式に重なるとその(大阪桐蔭のベテラン)教師は話す。・・≫
( 「週刊文春」2018.11月1日秋の特大号 株式会社文芸春秋↑ 所収
柳川悠二《大阪桐蔭 西谷監督 最強の「口説く」「見抜く」「耐える」》 )

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