『《若きウェルテルの悩み》は本当に名作か』。『潮騒』は凡作、『杜子春』『走れメロス』は通俗小説。

[第628回]
   私が子供の頃、「少年少女 世界文学全集」だか「よい子の名作全集」だかいう「若き日に絶対に読んでおきたい」というフレーズのついたシリーズが出版されていた。今も同様のものがあるのではないかと思う。 小学校や中学校の図書室にはそういう本が並んでいて、そして、学校の先生はそういう本を読みなさいと言ったように思う。「文学者」とか「◇◇大学文学部教授」とかいう肩書の人が「若い人に、ぜひとも読んでもらいたい本が揃っている」とかいう「推薦の言葉」を書いていた。「全国校長先生推薦」なんてラベルがついていたものもあったような気がする。私なんかも、そういうものを読まないといけないものだと思って、一生懸命、読んだものだ。読まないやつというのもいたが、そういう人間がいいとは思わない。
  また、そういった文学全集を読まない人間を「スポーツマン」だったり「理系人間」だったり言う人がいたし、今もいるのではないかと思う。毛沢東は『体育の研究』(『毛沢東の体育の研究』ベースボールマガジン社 所収)で、「頭のいい人は体が弱い。体力のある人は頭が悪い」と中国では言われてきたが、そういう考え方は間違いである。すべての国民が自ら体を動かし体を鍛えるスポーツマンであるとともに、すべての国民が自ら考える哲学者でないといけない。中国はすべての国民が哲学者であるとともにスポーツマンでもある国になるべきである、といったことを述べている。 「野球しか知れへん」て人間、冗談でそう言うのならともかく、本当に「野球しか知れへん」て人間になってしまってはいけないはずだ。又、「理系人間」というのは、数学や物理学などだけしか知らない専門バカのことだろうか? それは違うのではないか? 「理系人間」こそ、文学や詩を学ぶべきだし、文学や詩を学ぶ人間だから、「あなたはブンケーよ」などと言われなければならない筋合いはないはずなのだ。
  北野高校の2年の時、「倫理社会」のA先生が「夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』、ドストエフスキーの『罪と罰』、アルベル=カミュの『異邦人』、それから、『歎異抄』、プラトンの『ソクラテスの弁明』、こういった本を読んだこともないという人間というのは、僕は人間として欠陥があるのじゃないかと思いますねえ」と言い、そして、「ぜひとも、高校のうちに読んでおいてもらいたい。こういう本を読んで考えるというのは、大学に通るかどうかよりも、よっぽど大事だと思うわ」と言われたことがあったが、それはたしかにそうだ。そういった本は、特に文学部の国文学科とかフランス文学科とかロシア文学科とかいった所に進学した人だけが読む本ではなく、誰もが読むべき本であり、又、歳をいってから読む本ではなく、若いうちに読むべき本であると思う。「大学に通るかどうかよりも、よっぽど大事」かというと、それはどうかと思うが、そういう本ばっかり読んで、大学入試に出題されるようなものの学習をしないで大学に落ちても、A先生が責任をとってくれるわけでもないのだから、そうも言ってられないのだけれども、そもそも、大学入試においては、国立大学の入試には国語という科目があり、夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』といった本は「国語」の学習と別物ではないはずであり、最後の最後、あと何点とれれば合格か・・・・といった段階になれば、そういう本を読むよりも他のことをやった方が点数アップにつながるということもあるかもしれないが、それまでの段階においては高校および大学入試の学習と別物ではないはずだった。1980年前後、慶應大学の経済学部・商学部・文学部の入試には国語の試験がなかった。経済学部は英語と数学、商学部は英語と数学と社会科が世界史か日本史のどちらか1科目選択で、これは、《「プロ経営者」を育成する学部》と考えて、近代経済学や統計学を学ぶには数学が必要で、外国との関係を考えるなら語学はできないといけないというところから、優先順位として、英語と数学、その次に「日本を含めた世界の歴史か日本を中心とした世界の歴史」という判断だったのではないかと思うが、それなら国語は要らないのかというと・・・・、結果として、国語が試験科目にない慶應大学のブタ商人学部の学生ども、ブタ人間育成大学では、広告研究会のバカどもが女子学生を輪姦するなど、人間性の低さを露呈している。やっぱり、「国語」が試験科目にない大学はだめなんじゃないかという気がする。
〔 1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓S野礼子(女。その後、結婚して「T地礼子」、その後、さらに離婚した・・・かどうかは知らん。当時、20代。北野高校卒→神戸大文学部卒)が、私が「理科の成績と社会の成績を比べると社会の成績の方が全般にいい」という点と、文学作品などを拒否する人間ではなく読む人間・好む人間だったことから、「あなたはブンケー(経済学部)よ」と決めつけて、私が首をもがれても行かされたくないと思っていた「ブンケー」〔経済学部(および商学部・経営学部)のこと〕に行かそうと必死になったのだが、国立大学なら何学部でもいくつもの科目が試験にあったが、慶應大なら経済学部・商学部は「国語」は必要ないに近いと判断しており、経済学部では「必要なのは語学と数学」という判断で国語と社会科は必要性は低いと判断しているブンケー(経済学部)になぜ行かせたがるのか、「″ブンケー ″(経済学部・商学部・経営学部)だけは絶対に嫌だ」と私は中学生の時から思ってきたのだけれども、本人が「そこだけは絶対に嫌だ」と思っている学部、「思っている」だけでなくはっきり言っている学部になぜ行かせたがるのか、北野高校の教諭が言うからには、何か理由があるのだろうか、などとその時は真剣に考えたのだが、なんのことはない、あのバカ女は、単に、親と本人のどちらについた方が教諭は評価されるかと考えて、「親の味方」をした方が教諭は評価されると考えた、というそれだけのことだった。卑怯な女である。 北野高校というのは、行きたいと思って行った高校だったので、合格した時はうれしかったのだが、卒業して十年以上過ぎて考えてみると、あんまりいい学校ではなかったのではないか、と思うようになった。もっとも、それなら、どこへ行けばよかったのかというと、それもよくわからないのだが、そんなにもろ手あげて称賛できるようなものではないのは間違いないと判断するようになった。 〕
   北野高校の「倫理社会」のA先生は「夏目漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、三木清の『人生論ノート』、ドストエフスキーの『罪と罰』、アルベル=カミュの『異邦人』、それから、『歎異抄』、プラトンの『ソクラテスの弁明』、こういった本を読んだこともないという人間というのは、僕は人間として欠陥があるのじゃないかと思いますねえ」と言い、この言い回しは、その地域で一番の高校の生徒に言うのはいいけれども、底辺の高校の生徒に言ってしまうと、「そうか、私は人間として欠陥があるのか」と本当に考えてしまうことになるおそれもあるので、言い方を考えた方がいいかとも思うが、ともかく、基本的なものの考え方として、こういった本を読んで考えるというのは、誰もがやるべきもので、それも若いうちにやるべきものである、というのは間違いではないと思うし、それは高校および大学入試の学習と別個のものではないとも思う。YMCA予備校高槻校というつぶれるべくしてつぶれた予備校で「主事」というよくわからん名称の職種についていた藤井という「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と1日に最低3回は言わないと気がすまないという男が、「そういう本なんか読むもんと違う」と主張、特に「敬虔なクリスチャン」を自称しながら、「『聖書』なんて、あんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんやから、あんなもん、読んだらいかん。たとえ、読むにしても、歳いってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若いうちに読むものと違う。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかりまちがっても絶対に考えてはいかん」と何度も何度も言っていたのだが、そういう人のことを「敬虔なクリスチャン」と言うらしいのだが、私は、この人、こんなこと思っていて、それで、なんで、キリスト教の洗礼受けたんだろうなあ~あ? ・・・と疑問に思ったものだった。YMCA予備校高槻校の「主事」の藤井は右翼であり、特高であり、受講生の思想調査をし、少しでも骨のある本、古典と言われるような本を読まさないようにしようと画策した。藤井が読まさないようにしたいと考えるのは、特に、左翼とか社会主義とか言われるような本ではなく、夏目漱石であり森鴎外であり、福沢諭吉であり、ともかく、古典と言われるような本は「読んだらいかん」本に指定される。そんなことやって、いったい、どうやって勉強するんだ。「国語」や「社会科」の学習をするのに、最後の最後、そういう本を読むよりも、むしろ、試験問題を分析して、いかにして得点するかを考えた方が効果があるという場合はあるけれども、その前提として、夏目漱石であり森鴎外であり、北村透谷・福澤諭吉、芥川龍之介であり太宰治であり、安部公房であり遠藤周作でありといった作家の作品を読んで考えるという姿勢を禁止し排除したのでは、夏目漱石も森鴎外も片っ端から「読んだらいかん」禁書に指定していったのでは、それで、いったい、どうやって大学入試の学習をするんだ? ということになる。YMCA予備校高槻校の藤井という男はそういう男だったのだが、こいつ、勉強してないなあと藤井を見てつくづくあきれた。「ぼくは早稲田の政経出てるんだけどな」と日に3回は言う藤井を見て、早稲田という大学は程度の低い大学なんだなあと思ったものだった・・・のだが、その後、東京に住んで、職場などで早稲田大学卒の人と関わる機会があったりしてみると、早稲田大学というのは国立大学と違って、内部進学もあればスポーツ入学もあり、私立なのでいくらかは裏口入学もあるだろうし、いろんな人のいる大学、国立大学よりも「玉石混交」の度合の強い大学だと思うが、それにしても、「あんな早稲田ないわなあ」と思うようになった。おそらく、学歴詐称であろう。その頃、私は、世の中に、学歴詐称する人というのがそんなにいっぱいいると思っていなかったのだが、いるんだわ、そのへんに、いっぱい。

   それで。 『《こころ》は本当に名作か』という本を書いた人がいた。私と同年代の人だったと思う。夏目漱石の『こころ』という小説は「名作」と言われてきたけれども、本当にあれは「名作」なのか?  ・・・・そういうことを言い出すと、他にもそういうものはいっぱいある。 夏目漱石の作品だと、私は『こころ』は特別の名作かどうかはさておき、悪くない作品だと思うけれども、「よい子の文学全集」に必ず入っていた『坊ちゃん』なんて、今、読み返してみると、あんまりいい作品と思えない。夏目漱石は神経衰弱だか、少々、「精神科」の病気にかかっていたと言われるが、『坊ちゃん』などでも、学校に宿直で泊まった時、新任の教師をからかってやろうと生徒がしたことにいちいち腹を立てるが、そこまで、いちいち腹立てないといけないものか、という感じがする。「うらなりくん」がつきあっていた女性「マドンナ」に教頭の「赤シャツ」が横恋慕して、「うらなりくん」が邪魔だからよそに転勤させてやれと教頭の「赤シャツ」が「うらなりくん」を大分県の学校に転勤させることにした・・・と聞くと、これはけしからんと怒って、「赤シャツ」の家に怒鳴り込むが、しかし、この件については「赤シャツ」の言い分の方がもっともなのだ。「うらなりくん」は、お母さんを養わないといけなくて、そのためには、今の給料では少ないのでもう少しあげてもらえないかと言ってきた。しかし、ここでは給料を上げることはできないが、大分県の学校で教員を欲しがっている所があり、そこなら今よりも高い給料を払ってくれるという話があったので、「うらなりくん」にそこに行けば給料は上がるがどうするか尋ねたら、本人が行くと言うからそういう話にしたが、嫌なら嫌だと本人が言えばいいことであって、本人がいいと言っているのに、なんで、あんたが文句を言ってくるんだ・・・・と。いかにも、もっともなことであって、「坊っちゃん」の思考の方が、あんまり、立派な思考をしていると思えないのだ。「マドンナ」という女にしても、「うらなりくん」とつきあっていたけれども、「赤シャツ」がちょっかいを出したことで、「うらなりくん」を見捨てた薄情者の女だとか言い、「赤シャツ」はけしからんと言うけれども、「うらなりくん」とつきあっていたといっても嫁はんじゃないのだから、他の男が手をだしていかんてものでもないだろうが。何を自分は当事者でもないのに怒ってるのか・・・・。
   夏目漱石の作品には、たとえば、『三四郎』など読むと、随所に鋭い指摘が見られ、たいした文学者だと思われるところがあるのだけれども、「文豪」とか言われるわりに、それほどの作品かなあ? と疑問に思うものもある。 『草枕』は冒頭の文句、、「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」というのが有名で、うまく言ったものだと思うけれども、最後まで『草枕』を読み終えてみると・・・・、いいのは冒頭の文句であって、小説自体はそれほどたいした小説でもないのではないか、という印象を受ける。

   北野高校の「倫理社会」のA立先生のお勧めの本でも、ドストエフスキーの『罪と罰』て、そんなに名作かな・・・なんて気もするのだ。 だいたい、ドストエフスキーて男は、なんで、あんなに長ったらしい文章を書かないと気がすまないのか。裁判においては、裁判官というものは、ともかく、原告・被告から提出された書面は読まないといけないということに法律上はなっているけれども、しかし、1人の裁判官が担当している裁判の数はけっこう多くて、あまりにも何枚もの書面を出すと、まともに読まないのではないか、とか弁護士の世界では言われていると聞く。だから、いかに裁判官に読ませるか、というのが弁護士の能力のひとつとも言われる、とある弁護士から聞いたことがあるのだが・・・・、「文学者」とか「有名作家」とかなると、どんなに長ったらしい文章を書いても、人は読んでくれるとでも思ってるのか?  暇でもないのにこんな長い文章、読んでられるかいな・・・という印象。私が『罪と罰』を途中まで読んだ感想はそれだった。ゴーリキーの『どん底』くらいの厚さの本にまとめられんもんかいな、と。その点、ゴーリキーの『どん底』は薄くてすぐ読めていいわ♪ そして、最後、「竜頭蛇尾」なんだ、『罪と罰』は。 結局、何したかったの? 結局、何やりたかったの? ・・・・。 『罪と罰』は「進歩派」みたいな雰囲気を漂わせている人が「愛読書」に選ぶことが多い本なのだが、なんか、最後、ドストエフスキーは、結末のつけかたに困って、やけくそで、「しょーもない通俗小説」みたにしてしまったのではないか。少なくとも、「エピローグ」は蛇足だったと思われる。旧ソ連の映画の『罪と罰』ではラスコリニコフが警察に出頭する場面で終わりにしているが、その方がまだいい。むしろ、私は、スビドリガイロフが自殺をしてそれをラスコリニコフが聞いた場面で終わりにした方が良かったのではないかと思う。J=P=サルトルは『自由への道』を、結局、完成させなかったが、未完のままで終わったからこそ、『自由への道』は価値があるものとして残ったのに対し、ドストエフスキーの『罪と罰』は無理矢理「完成」させたことで駄作になってしまったようなところがある。
   A立先生の推薦の本では、アルベル=カミュの『異邦人』てのも、再読すると、結局、何が言いたいのかよくわからんような本・・・みたいなところがあるようにも思うのだ。 だから、ともかく、そういう本を読んで考えるというのはいいけれども、本当に名作なのか? ・・・というと、どうも、よくわからんようなものもあるように思う。

   「よい子の名作全集」には、菊池寛の『父帰る』とか『恩讐の彼方に』なんてのが入っていて、小学生の時に、最初、読んだ時には感動したのだけれども、中学生の時に読んだ庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』だったか『白鳥の歌なんかきこえない』だったかで、登場人物が「菊池寛なんて通俗小説」と言う場面があって、そうかな・・・? と思ったのだが、成人してから考えてみると、たしかに、菊池寛のその類の小説というのは、くっだらない「通俗小説」だわなあ・・と思うようになった。
   そして、全体としては「通俗小説」作家ではないのだけれども、その小説は通俗小説だと思われるのが、芥川龍之介の『杜子春』と、太宰治の『走れメロス』である。くだらねえ~え!!!
   さらに言えば、岩波文庫で『トルストイ民話集』というトルストイの短編集が2分冊で出ていて、一方が『人は何で生きるか』、他方が『イワンのバカ』という代表的作品の名前を入れていたのだが、高校生の時に読んで「感動した」のだが、それから何十年か経って再読してみると、途中であほくさくなって投げ出した。まったく、つくづく、トルストイという男は、よくもなあ、これだけくだらない、クズの本ばっかり大量に書いたものだ、とあきれた。トルストイの本は大部分はクズでありカスである。害がある。

   それにしても、太宰治てのは、よくもまあ、あれだけ、次から次へと、一緒に自殺しようという女が現れるものだと思う。 「婚活」で苦労する男とか女とかいるわけだが、太宰治の場合は、「婚活」なんてしなくても、一緒に死のうという女が次から次へと現れる。 で、本人、薬物中毒にもなり、そして、太宰治と相当重なる部分の多い『人間失格』の主人公は「人間としては失格ですね」と言い、その片方で「作家としてはいい作家だったと思うんですけどね」とも言うのだが、たしかに、『人間失格』を読むと、人間としては立派なものではないわけだが、小説としてはたしかに「作家としてはいい作家だったと思うんですけどね」と感じるところがある。 その「作家としてはいい作家だったと思うんですけどね」という『人間失格』の主人公が、生活のために心を曲げて「通俗小説」を書いたという場面があったと思うが、おそらく、それが『走れメロス』というくだらんやつだと思うのだ。実にくだらん。そういうくだらん本が「全国校長先生推薦」みたいに「よい子の名作全集」に入っていて、小学校の図書室に並んでいるわけだ。
   太宰治の『走れメロス』に該当するような通俗小説を、芥川龍之介が書いたものが『杜子春』である。 菊池寛と太宰治や芥川龍之介が異なるのは、菊池寛の場合は「全体が通俗小説」であるのに対して、太宰治は『人間失格』の主人公が「作家としてはいい作家だったと思うのですけどねえ」と言うように、『走れメロス』というくだらん通俗小説も書いたけれども、通俗小説でない小説も書いており、全体としては「作家としてはいい作家」で、芥川龍之介も太宰治も菊池寛とは違って全体が通俗小説であったわけではない点である。

   私は、「ありさ」という名前をつけられた女性を2人知っている。スナックのホステスの源氏名ではなく、自分の娘の名前に「ありさ」に漢字をあてて命名した男というのは、おそらく、アンドレ=ジッドの『狭き門』に登場するアリサという女性に思い焦がれるジェロームの気持ちになって、娘の名前に「ありさ」とつけたのではないかと思う。まさか、スナックのねーちゃんの名前を娘に転用したのではないと思う。 私も、実は、10代後半の頃、アンドレ=ジッドの『狭き門』と登場人物の女性アリサが好きだったのだ・・・・が、歳をいくとともに、その受け取り方は間違いではないかと思うようになったのだ。小説の終わりでは、アリサは死んでしまうのだが、殺されたのでもなければ自殺したのでもなく病気で死んだのだが、ジェロームから、アリサを愛することで神の道へ入るというなんとも過大な要求をされてその過大な要求に押しつぶされて死んだかのように亡くなってしまう。最後、アリサの妹が言う。「さあ、目をさまさなければ」と。娘の名前に「ありさ」とつけた男というのは、たぶん、20代の前半で結婚して20代のなかばくらいで娘ができた人ではないかと思った。若い頃、『狭き門』のジェロームを自分自身に投影して考えたのではないかと思う・・・のだが、しかし、そうやって、神の道へ歩むための女性として過大な要求をされたアリサは、殺されたのでもなく自殺したのでもないけれども、この小説の最後においては亡くなってしまうのである。そして、アリサの妹が言う文句こそ象徴的である。「さあ、目をさまさなければ」と。
   アンドレ=ジッドの『狭き門』は、やはり、名作だと思うけれども、しかし、これに続く『田園交響楽』『女の学校』『ロベール』『ジュヌヴィエーブ』と続くあたりの方こそ、ジッドが「理想的な人間」ではなく「現実の人間」を見つめた成果の作品なのかもしれないと思うようになった。これらは『狭き門』に劣らない名作だと思うのだが、ある程度、歳をいってからでないとわかりにくいと思うので、「小学生向き」のシリーズには入らないだろう。

   「小学校高学年向」として「日本名作集」に入っていたものに、三島由紀夫『潮騒』があったのだ。1970年に三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊の駐屯地にのり込んで割腹自殺をはかった後、その三島由紀夫という有名人の本を読んでみたいと思って、書店に行って新潮文庫の三島由紀夫の作品の中で一番薄くて安かった『盗賊』と新潮文庫の三島由紀夫の作品で最初に出版された『仮面の告白』を読んだのだが、小学校の5年生にとっては、なんだかよくわからなかった。それに対して、『潮騒』はともかく「わかった」。 で、その時は「名作」なんだなと思った。 性描写があって、小学生は喜んでそれを読んでいたのだが、それも、成人してから読むと、はたして、そのあたりの性描写は必要だったのかどうかわからない。 漫画家の ちばてつや が『のたり松太郎』で強姦未遂の場面を絵に描いて、お母さんから怒られたと述べていて,そして、お母さんから怒られたからということよりも、そういう話を書きたかったなら、何も実際にそういう場面を絵に描かなくてもいいと思うようになり、その後はそういう絵は描かないようになった、と述べていたのだが、『潮騒』の性描写も、もしかして、あれは「要らない」のではないのかとも思うのだ。そして、そんなことよりも、『潮騒』の問題点として、あまりにも、「ええもん」と「わるもん」に登場人物を分けすぎのように思うのだ。人間て、そんなに「ええもん」と「わるもん」に簡単に分かれるものでもないし、「ええもん」と言っても「ええもん」の役をやっているだけの場合もあり、「わるもん」も「わるもん」をやった後に反省して「ええもん」になることだってあるのではないかと思うのだ。 そのあたりが、『潮騒』は掘り下げた思考がなく、まったくだめとは言わないが、それほどの「名作」ではなく「凡作」ではないのかという気がするのだ。
   三島由紀夫の作品では、『潮騒』よりも『金閣寺』の方が、読み応えがあると思う・・・が、「若き日に読んでおきたい」と指定された「小学校高学年向け」の「推薦図書」として『潮騒』が入って『金閣寺』が入らないのは、『金閣寺』は「大人向け」であって、小学校高学年から中学生には「難しい」という判断なのだろう。

   高校の「現代国語」の教科書に、宮沢賢治の「永訣の朝」という詩が出ていたのだが、宮沢賢治の作品をすべて完全に否定までしようというつもりはないが、そもそも、「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ・・・・」なんてあんなもの、小学校の校庭にある二宮金次郎の像と一緒、「修身の教科書」でしかないだろうが。あほくさい。(「ベンチがアホやから野球ができん」と言いたくなる会社で、「雨ニモ負ケズ、風ニモ負けず」「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」滅私奉公してきたけれども、アホ経営者はそれに報いてくれんなあ) で、「永訣の朝」というのも、1970年代後半、北野高校の「国語」の教諭の旧姓S野礼子(女。当時、20代。北野高校→神戸大文学部卒)は、「現代国語」の授業中に、宮沢賢治が特に愛していた妹を思って詠んだ歌・・・みたいに説明したのだが、違うと思うのだ。あの詩は、やっぱり、実質的に妹を思っての詩ではないように思うのだ。そう思っていたところ、インターネットで検索していたら、宮沢賢治は、「永訣の朝」で詠んだ妹に対して、実の妹であるが、妹ではなく女性として愛していたようなところがあったと言われる・・・という話が載っていた。どうも、妹を思っての詩と言われると違和感があるように思ったのだが、そう言われれば、あの「永訣の朝」という詩は、妹を思っての歌というよりも、恋人が亡くなる時に詠んだような詩なのだ。妹を、妹としてではなく女性として愛していたのではないかというのは、それはそういうことを言う人があったということであって、わからないわけだが、しかし、「永訣の朝」という詩は、あれはやっぱり、単なる妹に対しての詩ではないと思うのだ。そのあたりを考えてこそ、「文学」であり「国語」で「現代国語」であると思うのだが、旧姓S野には無理だったようだ。かつ、旧姓S野は「永訣の朝」についての感想文を書かせて、その妹を、小学校に行く前の小さい妹だと勝手に決めつけて、「子供っぽい」と評論した完全に詩の意味を取り違えているA東(女。大阪教育大付属中学校卒)の北野高校の生徒としてでなく高校生として考えても「まず、平均より下」というより「かなりレベルが低い方」と思われる駄作を「優秀作」として印刷して配ったが、「永訣の朝」の宮沢賢治の妹は20代の妹であって小学校に行く前の子供ではないし、A東は、どうも、「国語」系の教諭とコネクションがあったのか、旧姓S野のほかにもU村・F尾といった北野高校の「国語」系の教諭がA東の機嫌を取るようなところがあったのだが、あんな程度の低い「感想文」を「優秀作」だと無理に選んでいるようなことでは、その教諭の「現代国語」はどういう程度かというと・・・「その程度」と判断せざるをえない。そんないいかげんな授業やってる女は「国語」「文学」の教諭としてはあまり優秀ではないと判断せざるをえない・・し、そういう女を「北野高校の先生だから」と思って無理に尊重していたかつての私はバカだった。

   で、今回の最大の課題、「ゲーテ『若きウェルテルの悩み』は本当に名作か」・・・である。
   「小年少女世界の名作集」といった名称の小学校中高学年向け、あるいは、小学校高学年から中学生向け・・・くらいの「全国の先生推薦」みたいなシリーズには、″文豪 ″ゲーテのこの作品が必ず入っていた。そして、私も読まなきゃならんのかと思って、読んだ・・・・が、読んだ時、そんなにいいとも思わなかったし、それほど、「感動」もしなかった。 ゲーテは「もし生涯に『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と語ったというのだが、そこまでのものではないと思う。 ・・・というよりも、ゲーテがそう言ったのは晩年になってというのだが、晩年になってもそんなこと思っていたというのでは、「文豪」か何かしらんが・・・・、なんだか・・・・て気が・・・。
   このゲーテ『若きウェルテルの悩み』に対する疑問なのだが、内田康夫『長崎殺人事件』(2011.10.20.光文社文庫)を読んで思ったのだ。 『長崎殺人事件』では、もっと「おとな」というのか、「現実的」というのかの話が出ている。
≪ パーティーから帰った夜、春香は公一郎に江口夫人のことを訊いてみた。
「パパと昔、会ったことがあるとか言ってたわ」
「知らんな」
  公一郎は向うを向いたまま、つまらなそうに返事した。
「だいたい、うちと江口鼈甲店とは、町内の寄り合いでもないかぎり、そう付き合いはないし、江口の嫁さんなんぞに、会うたこともなかたい」
「ほんと? すごい美人で、長崎中の評判になってるのに」
「くだらん。 他人の嫁さんが別嬪じゃとて、関係なかばい」  ≫
・・・・・そうだよなあ、普通はそう考えるよなあと思ったのだ。 ゲーテは「『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と言ったというのだが、『若きウェルテルの悩み』のウェルテルというのは、要するに、ひとの嫁はんを勝手に好きになって、勝手に自殺した・・・というそれだけの男だろうが。違うのか!?! 死にたいやつは勝手に死ね!・・・・てことだ。 ばかばかしい。
   かつて、南海ホークスをダイエーが買収した直後のダイエーホークスのユニフォームを、「三宅イッセー」がデザインしたということだったのだが、なんか、カラスみたいなペンギンみたいなユニフォームで、漫画家の やく みつる が「誰もが、イッセー三宅の名前に気兼ねして言わないようなので、ここで私が言ってやる。『だあっせえ~え』」と書いていたことがあった。 最近、言う人もあるのが、ピカソ。どう言うかというと、「名画なのか、無茶苦茶描いてるだけなのか、わからない」と。私もそう思うのだ。 「建築家」なんて、もっとひどい! 「世界の丹下健三」とか言われると、「姓は丹下、名は建三」なんて名のられると、水戸黄門の印籠でも出されたみたいに、「はあはあ~っ」とひれ伏して、一生懸命、ほめにゃならん、みたいに思ってるヤカラが大変多い! アホちゃうか・・・と思うのだが、アホが多いこと多いこと。 だいたい、先に「有名建築家」というのを決められて、「有名建築家」の作品だと「名作」だとされるというその思考形式がどう考えてもおかしい! ・・と思うのだが、現在の「建築家」業界はそのおかしい病弊に重度に精神汚染されてしまっている。

   で、「文豪 ゲーテ」と言われると、「なんか、ほめにゃいかん」みたいになってしまって、うかつに批判できない・・・と思う「文学者」が多いのかもしれんが、しかし、『ファウスト』は別として、『若きウェルテルの悩み』て、そんなに「名作」かあ~あ? と思うのだ。 思いませんか?  「『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」なんて、「晩年」になってまで言ってるようでは、「さあ、目をさまさなければ」と言われても、あんた、死ぬまで「目をさます」ことはできんのじゃないか。 「便所の水」でなくても「洗面所の水」でいいから、一度、顔あらってきたらどうなの・・・・なんて思ったりもするのだが、そんな感じ、しませんか?

   (2018.7.22.)

長崎殺人事件: 「浅見光彦×日本列島縦断」シリーズ (光文社文庫)
光文社
2011-10-12
内田 康夫

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≪ 「いや、そうであればです、なにゆえ松波は凶器の出所や、指紋がついている理由を説明ばせんとですか?」
「ですから、僕が前に言ったように、松波さんはある人物を庇っているのですよ。はっきり言えば、かつて愛した女性を、です」
「ん? ということは、つまり犯人はその女性ちゅうことですか?」
「そうではありませんが、松波さんはそう思っているのかもしれない。あるいは、犯人がその女性ではないにしろ、凶器である短刀のいわれ因縁を公表することが、その女性を不幸にするであろうことを恐れているのかもしれません。松波さんとはそういう、心優しい人なのですよ」
「なんぼ心優しいかしれんばってん、自分が有罪になるかもしれんいう瀬戸際に、そぎゃん悠長なことば言うとられんとでしょうが」
「それは違いますね。松波さんは警察や検察を信じているのですよ。よもや警察が無実の罪で人を罰するはずがないと、そう信じているのですよ」
  そう信じたために、警察の言うなりに調書に署名をし、自ら有罪への道を歩むことになった無実の人々が、過去にどれほどいたか
を思いながら、浅見はしっかりした口調でそう言った。 ・・・・ ≫
( 内田康夫『長崎殺人事件』2011.10.20.光文社文庫 ↑) 


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この記事へのコメント

2021年10月28日 06:49
気持ち悪い。

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