何気ない動作に見られる建売大工の習性―ボンドをのばさずペッペッペ他。及、軒のない家・片流れ屋根の問題

[第252回]
   インターネットの通信販売で社長が机を購入した。 「安い」と言って買ったはいいが、奥行きが無茶苦茶浅い。 いいものが安いのではなく、もともと安いものだった。 「ノックダウン家具」といってわからない人もいると思うので簡単に説明すると、要するに自分で組み立てる家具のことで、比較的安い―この場合、もともと、低価格のものという意味ーものに多いが、搬入経路が細い家などには部品で持ちこんで中で組み立てることができるという長所がある。
   その低価格で奥行きの浅いノックダウン式の机が届いた時のことだ。 千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング有限会社 で「工事責任者」を自称していた元・建売大工の U草A二が、「組立てましょう」と言ってきたのはいい。 自分が使う物の場合はひとに手伝ってもらいながら、なぜか、自分はすでにある奥行きが普通にある机を使っているから、この使いにくい机を使うことになる私に、「自分が使うものは自分で組み立ててください」と冗談かと思ったら本気で言って、大きな顔してまったく手を出さずに座っていたK代よりはまともである・・・・が。
   組立説明書には、同封の木工用ボンドを全面に塗った上で同封のビスでとめてください・・と書かれていたので、私は、当然、その指示通り、木工用ボンドを全面に塗ろうとしたところ、自称「工事責任者」で自称「元・大工」のU草は、「これでいいです」と言って、その木工用ボンドをぺっ、ぺっ、ぺ と3箇所、適当につけただけで、インパクトドライバーでバリバリバリィと強制的に接合してしまった。 はあ~あ・・・。
   見てしまった。 この男は、こういう工事のしかたをするんだ・・・。 これが、建売大工の工事のしかたか・・・。

   在来木造の一条工務店にいた時、私が担当のお宅の工事を担当してもらった大工さんが 「建売の大工と請負の大工とは、やることがずいぶんと違うよ。 俺なんかは、たとえば、ボルトを締めるにしても、一度、締めてもそれで終わりではなく、しばらくしてから、『増し締め』と言って、もう一度、締める。 建売やる人はそんなことは絶対にしない。 そのかわり、建売やる人は仕事が早い。 あっと言う間にやるからなあ。 建売やる人は俺なんかみたいなことやってたら仕事にならないと思うよ。 建売の仕事と請負の仕事は同じ大工でも仕事が違うんだよ。だから、俺はどんなに仕事がなくても絶対に建売の仕事はやらないようにしている。 一度、やってしまうと、これは建売だからと思って分けてやってるつもりでも体が覚えてしまうんだ。体が覚えて、次に請負の仕事をする時にそれがでてしまうんだ」と話してくれたことがあった。
   新華ハウジング有限会社(建設業)の社長の長○川 S二が「同じ大工の仕事でも、期限を守ってやる人と、熱心にやる人でも期限に送れる人では、期限を守る人の方が評価できるんだ。どんなに熱心にやる人でも仕事が遅い人はだめなんだよ」と話した時があり、「え?」と気になった。 一条にいた時、お施主さんから「昔から、『家の工事は、急がせてはだめだ。 早くやれと言ってはだめだ』と言われている。 『たとえ、少しくらい遅くなってもいいからきっちりやってくれと言うもんだ』と言われてきた」と言われたことがあったのだ。 新華ハウジングの長○川はその逆を言ったのだ。 確かに工程を組んで仕事をしておれば、次工程が入る予定の日になってもまだ終わっていないというのは困るのだが、しかし、工程は、前工程が遅れる場合もある程度は想定していくらか余裕を見て組んでいるはず、工程表は前工程が遅れる場合もある程度は想定して作成しているはずであるから、「早くやるよりもきっちりとやる」ことを求めて、その結果として日程が他の人よりもかかるのなら、その人はそれだけの日数がかかる人だという前提で工程を組めばいいのであり、早くやれと言うべきではないのではないか。 それを、「早くやる人の方が会社のためになる人だ」と言う長○川の発言は、これは、やはり、建売屋の下請け工務店の社長の発想ではないかという印象を受けた。
   その新華ハウジングの社長の子分で自称「工事責任者」で自称「元・大工」のU草が、ノックダウン家具を組み立てるのに、組立説明書では全面に木工用ボンドを塗布した上でビス締めせよと指示されている所を、木工用ボンドを3箇所にぺっぺっぺとつけて伸ばしもせず、そのままインパクトドライバーでバリバリィと無理矢理接合してしまった・・というのは、やはり建売屋の下請け工務店の元大工の仕事か?という印象だった。
   私は大工ではないが、小学生の時の図画工作でも、U草みたいなことはしなかった。 小学生の時に、近所の模型屋でプラモデルを買ってもらった時、セメダインを全面につけて薄くのばせと指示されている所は、指示のように全面につけて、ヘラでのばせと指示されているところはヘラで伸ばした上で接合してきた。 早く組立てて遊びたいと思っても、U草みたいにぺっぺっぺぇとつけてのばしもせずに接合するようなことをすると「そんなことするなら、次から買ってあげないよ」と親から言われたので、買ってもらえなくなっては困るのでU草みたいなことはしなかった。  建築屋は物を作る仕事であり、自分が作る物を人さまがお金を出して買ってくれるのであり、大事なお金を工面して買ってくれる人のためにいいものを作りたいと思う仕事のはずで、そうである以上、ぺっぺっぺとつけてインパクトドライバーでバリバリィと強制的に接合してしまうというのは良心的な仕事とは言えないはずだ。

   洋家具のダニエルhttp://www.yokohamakagu.com/ )の工場を見学させていただいた時、会長さんから、昔、アメリカ合衆国の家具の工場に見学に行った時の話を聞かせてもらった。まだアメリカ合衆国で人種差別が残っていた時代のことでしょうか、黒人が作業をしている工場では接着剤を指でつけていたという。それに対し、白人が作業をしている工場では接着剤はヘラを使ってのばしてつけていたというのだ。それで、そこで作っている家具のできばえは、へらを使って接着剤をのばしていた工場の家具の方が指でつけていた工場の家具よりもずっとよかったという。 今では、白人か黒人かによってやり方が違うのではなくなっているかもしれない。 その話を聞いて、自分が勤める会社の工事現場や自分が頼んだ自宅の工事で職人がどうしているか見ると、「俺はきっちりとした仕事をすると認められている」と自分で言う職人でも指でつけている人が少なからずいた。 接着剤でも、指でつけても特に健康に悪いわけでもないものもあるかもしれないが、そうであってもなくても、やはり、ヘラを使って塗布するようにしてほしいと思う。 何気ないことのようでも、ヘラを使ってつける人と指でつける人では、ダニエルの会長の話にもあるように、結果として、ヘラを使って塗布する人の方が全体としていい仕事をすることになるのではないかと思う。
   ヘラでボンドを伸ばす人指でボンドを伸ばす人がいるが、もうひとつのタイプとして、ボンドのチューブからぺっぺっぺとかたまりをつけた上で伸ばさずに、そのままインパクトドライバーでバリバリバリィと接合する人というのがいたのだ。 そのノックダウン家具は安物で、丁寧に仕事をするのは馬鹿らしい品物だったかもしれないが、それにしても、え? この男、こういう仕事のしかたをするのか? と思わされる行為だった。 当人は私がそういう印象を受けたとはまったく感じていなかったと思う。 U草としては当たり前の行為、当たり前の作業のしかただったのだと思う。 変に思う方がおかしいと思っていたのだと思う。

   さらに。 千葉市緑区土気の、K代の知り合いの不動産屋K栄の分譲地を買って「モデルハウス」を建てていた所で、「構造現場見学会」を開催した時のこと。 建物内部に展示用にパネルを吊るせるように、ひもを渡そうと考えた。 自称「工事責任者」のU草は「ぼく、行ってやりますよ」と言い、「クルマに乗せて連れて行ってください」と言うので乗せたが、玄翁(げんのう)を1本持っただけで乗り込んだ。 玄翁1本だけでできるのだろうかと思った。 大工でない私でも、クルマのトランクには、何なりと対応できるように、玄翁(げんのう)だけでなく、ペンチ・小型のバール・ノミ・やすりその他が載っている。 自称「工事責任者」・自称「元大工」が玄翁1本でできるのか。それとも、私はしろうとだからいろいろ用意したがるのであって、大工なら玄翁1本でも「しろうと」より優れた作業ができるのだろうか?
  たしかに、「元大工」だけあって、私などよりはるかに体は動く。 「元大工」だけあって、ここに釘でとめればいいだろうという判断はできる。 「さすが!」と思えるところがあったけれども。 「見学会」が終わった後、展示物を撤去して、展示パネルを吊るしていたひもをはずした後、吊るしていた釘を、私は、当然、バール・釘抜きで抜くものと思っていたのだ。 ところが、U草は、当たり前のように、持ってきていた唯一の大工道具・玄翁(げんのう)で仮止めしていた釘を木の梁の奥まで打ち込んだのだ。 ええ~え?そんなことするの? と思った。 
  法隆寺宮大工棟梁であった西岡常一さんの本など読むと、鉄などの金属を使うと木造の建物は寿命が縮むという話が出てくる。 宮大工ではなく、民家・町家を作る大工でも、昔から、大工に対してのけなし言葉として「叩き(たたき)大工」という言葉があり、何でも釘で叩いて打ちつけようとする大工は大工としてはレベルが低いとされてきた。 しかし、最近では、金物を有効に使用することで地震・台風に強い建物にすることができるのであれば、あえて金物の使用を拒まなくてもよいではないかと考えられるようになってきた。 金物を使うと木の寿命が縮むかどうかというのはお寺や神社のような建物での話で、民家・戸建住宅では現在は金物は使用するのが普通であり、むしろ、金物の使用をけちる建物は質の悪い建物と評価される。 ツーバイフォー工法ではすべて釘による接合である。

≪  ・・・このころ(西岡常一)棟梁は、法輪寺と薬師寺の棟梁を兼務していた。薬師寺の金堂は本格的に始まったばかりだし、両方一緒にはできないわな。それで、法輪寺はおまえがやれっていうんだ。昭和48(1973)年だから、棟梁のところに来て5年目にはいったときだった。26歳だ。
   それで法輪寺には俺が一人で行った。・・・・
   ・・・・・
   出来上がりかけたとき、(西岡常一)棟梁が見に来た。それで、
「鉄材を使ったんか?」
 って聞くんだ。
清水建設は設計図にあるんだから必要なものとして鉄材を現場に積んでおいた。棟梁はそんなもんは必要ないといって使わなかったから、いつまでも山積みになっていた。鉄を使う使わんの論争も結論が出ないんで、お寺との話で鉄材は最小限にしておきましょうということになっていた。俺は図面にあるから少し使ったんだ。それでそのことを正直に話した。そしたら冷たく一言、こうや。
鉄を使ったら、ろくなことはない。そこから腐る」 ≫
小川三夫『木のいのち 木のこころ [地]』1993.12.15.草思社)

   現在では戸建住宅の木造においては金物や釘・ビス・ボルトは使うのが普通であるとはいっても、戸建住宅の工事において法隆寺や薬師寺の工事と同じというわけにはいかないとしても、そうは言っても、構造上必要な釘は打てばいいとして、機能上、必要なものを接合するための釘は打てばいいとして、構造上も機能上も不必要な釘は打たない方がいいはずなのだ。 柱にしても梁にしても、不必要な釘を打てば、その分だけ、たとえ1%でもでも弱くなるのではないか。 そう言うと、このくらい大丈夫ですよ、たいしたことないですよとか言うかもしれない。 もしかするとそうかもしれないが、たとえ、それほど大きな影響は与えないとしても、それでも、わずかでも、強い方向に、弱くならない方向に施工したいと考える思考の者と、このくらい大丈夫ですよ、これでいいですと何でもいいですにしてしまう者とでは、後者の男が作る建物というのは、どうも、あんまり信用できると思えないのだ・・。 そう思いませんか?
  私なら、「見学会」の展示物を吊るすために仮止めの釘を釘の中ほどまで梁に打ったなら、展示が終わった後はその釘は抜く。 それに対し、自称「元大工」のU草はそれを中まで打ち込むのだ。 たいしたことないと思うかもしれないが良い印象は受けない。 施主によっては「あの大工は・・」と眉をひそめる人もあるのではないか。それが建売屋の下請け工務店の大工の工事のやり方なのか・・・。
  新華ハウジング(有)の社長の長○川 が「うちだって、カネさえかければ、どんな高級住宅だって建てられるんだから」と口にしたことがあったが、それは違うように思う。 この文句は安物屋がよく口にする文句だ。 不動産屋が主で建築も「土地がらみ」のものを中心にやっている東海住宅(本社:千葉県八千代市)の建設部担当の常務(現・社長)のO沢さんが、やはり、「カネさえかければ、うちだって、どんな高級住宅だって建てられるんだ」と口にしたことがあり、その時も、私はそれは違うぞと思った。 一条で私が担当の家の工事をしてくれた大工の某さんが「仕事がないからといって、一度でも、建売の仕事をしてしまったら、『これは建売だから』『こっちは請負だから』と頭ではわかってても、体が前の仕事を覚えていてそれが次の仕事に出てしまうんだ」と言っていたのだが、そういう意識というものを、安物屋の建築屋の経営者は持ち合わせていないようなのだ。
   U草が仮止めの釘を抜かずに打ちこんだのは、抜くより打ちこむ方が早くて楽だからでしょう。仮止めした釘を展示終了後に抜くのではなく中まで打ち込む「元大工」というのは、今までからそういう仕事をしてきた人かなという印象を受ける。 

  U草が私のクルマに乗りこむ時、玄翁1本のみ持ち、他に大工道具など何一つ持たずに乗り込んだので、「大丈夫か? それで?」と思ったが、最初から、仮止めした釘は中まで打ち込むつもりで、抜くことは考えていなかったから玄翁1本だけでよかったということらしい。 その時、私のトランクに釘抜きが入っていたかどうかは記憶がはっきりしないが、釘抜きが入っていなくてもペンチは入っていたので、釘をペンチで掴んで引っこ抜くこともできたのだが、U草は私がそういったことを言うよりも早く一瞬のうちに梁に玄翁で打ちこんでしまった。

≪  大黒柱をいためるのはタブー
    大黒柱とはいうまでもなく、家の中心にある大事な柱のことをいう。・・・・
    ・・・・この柱が朽ちたり、もろくなると、家そのものが崩壊する恐れがあり、中に住む人間も危険にさらされることになる。
   ・・・もちろん、他の柱にしても、傷をつけていい理由はひとつもない。柱はできるだけ傷をつけず手入れをよくすることが大切だ。大黒柱を接ぎ木するなどというのはもってのほかで、家相学では「大いに凶なり」と、厳しく戒めている。・・・≫
小林祥晃『家相のわかる本』1987.10.10. 廣済堂出版)
   最近、「デザイナーズハウス」などと称して、わざわざへんてこりんな外見の家を作る人がいる。 片流れの屋根というのは、かつては、小屋裏物入れを大きくとりたいところからやむをえずやるものだったが、最近は、片流れで軒がほとんどない家がかっこいいなどと思う人もいるらしい。 しかし、ちょお~っと待ったあ!と私は言いたい。
1. 庇・軒がない家というのは、雨が降り始めた時、軒が長い家に比べて、大急ぎで窓を閉めないと雨が部屋中に入り込む。
2.梅雨時など、軒が長い家なら、小雨なら窓を開けたままにできるところが、軒のない家は小雨でも窓を閉めないと雨が入りこむ。
3.「最近の窓はぴったりしまるから軒がなくても雨が窓から入り込むことはない」などと某一条工務店の設計担当者Tが私の担当の契約客に言ったことがあったのだが、これは正しくない。 引き違い窓というものは、まったく隙間なくぴったりと接合されていたのでは動かないのである。隙間はないように見えても実は隙間はあるのだ。なければ動かないのだ。 現実に私が担当した入居者宅で、出窓の引き違い窓で、雨が入りこんでサッシの下の溝から部屋中にあふれそうになるということがあったのだ。 その家は軒は十分な長さがあったが出窓にすると出窓の出た部分は軒があまりないことになる。 かつ、風がその窓の方向に吹くことが多い風向きの立地であったようで、部屋中にあふれることはなかったがあふれそうになる事態となった。 引き違い窓とレールとの隙間を小さめに調整して対処したけれども、軒のない家というのは、わざわざこのような事態を招こうとしているようなものだ。
4.南側の窓は、軒がある程度長ければ、太陽が低い冬場は日光が部屋の中まで入り込み、太陽が高い夏場は日差しを遮ることができるが、軒のない家は夏でも日差しが入りこむ。
5. 片流れの高い側は最上階でも窓から軒までの距離があるので、軒の効果は小さい。
6. 軒のある建物は軒裏に換気口が設けられており、夏場、小屋裏が日光に照らされて暑くなった時、その熱気は軒裏換気口からぬける。 又、壁の断熱材の外側の通気層は上で小屋裏に通じ、湿気を含んだ空気は軒裏換気口から抜けるという理屈だが、軒のない建物は軒裏換気口もない。短い軒に軒下換気口が設けられている場合もあるがない場合もあるようだ。
7. どういう家を建てようかと考えるお施主様、テレビアンテナはどこにたてるか考えていますか?  スッキリポールとかアンテナポールというものを建物と別に建ててそこにテレビアンテナをたてる方法があるが、そうでなければ屋根の上にたてることになる。
これから家を建てようという一般の方には気づいていない人が多いと思うのだが、寄棟とか切妻の家で、テレビアンテナを屋根の上に建てようという場合、棟の上の部分に「馬」というものを乗せて四方に鉄線を張って固定してその上にテレビアンテナを立てることが多いのだが、片流れの屋根だとそれができない。 どうするかというと、最上階(2階建なら2階)部分の外壁で下地に柱がある所に鉄製の棒を外壁材のサイディングの上からビスで打ちつけてそれにアンテナをつけることになる。 そうなると、外壁を通して最上階(2階建なら2階)の柱に外からビスなり釘なりを打ちつけることになる。柱を傷つけるとともに、部屋中からビスや釘を打ちつけるのならまだしも、外から打ちつけるとなると、そこから雨水が浸水して柱を腐らせるということにならないか・・という不安が出てくる。 もちろん、柱に外から打ちつけた際にはアンテナを取りつける電気業者は防水処置は取るはずであるしとってもらわないと困るのだが、たとえ、防水処置をとるとしても、そういう取り付け方になる屋根はできれば避けておいた方が問題は発生しにくいはずなのだ。屋根というのは最上階の上にある単なる飾りではなく雨風雪を防ぐもので、軒・庇は雨を防ぎ日差しを調整するものだということをもっときっちりと認識するべきだ。
   この1~7について、「片流れで軒の出がほとんどない建物がかっこいい」などと思っている人は、一度は考えてみるべきだ。 小屋裏物入れを大きくとりたい、太陽光発電をおこなうために南に面した屋根を広く取る為に南下がりの片流れにしたい、その他、片流れにする理由があるならともかく、そうでないのに、こういった問題点もありますよと一言も説明せずに建てさせようという建築屋は良心的ではないと思う。 かつ、そういう建築屋は現実にいる。
   木造住宅でも「戦前型」「大黒柱式」「貫式」木造と「戦後型」「筋交い式」の木造では造りが違い、戦後型木造住宅では戦前型・大黒柱式木造の大黒柱に該当する柱はない。 だから、この「大黒柱を傷つけるのはタブー」は戦後型木造にはそのままはあてはまらないが、≪他の柱にしても、傷をつけていい理由はひとつもない。柱はできるだけ傷をつけず手入れをよくすることが大切だ。≫というのはその通りで、柱というものは≪できるだけ傷をつけ≫ないようにするべきもので、柱だけではなく、梁もできるだけ傷をつけないようにするべきものであり、必要もない釘を打ち込んで気安く傷つけるという態度は「家相上、凶」となるであろう。 こういうことを平気でする者を建築屋と言えるだろうか。

≪ ・・それは私が福島県いわき市の某医院の診療所き住宅を設計施工したときのことである。
   建築規模が普通よりも大きかったので、職人を増員した折、新顔の職人に畳部屋の床仕事を指示した。すると、文字通りアッという間に仕事をすませ、
「親方、次はどこの部屋の床をやりますか」
と言うのである。
「なに、もう出来たの?」
一瞬、わが耳を疑ったほどである。
確かめるために、その部屋に行ってみると、畳敷きの床とはいえなるほど出来上がっているのだ。しかし、人間の手は二本しかないのであって、どう考えてもそんなに早く出来るはずがない、というのが私の直感であった。そしてまず、床板を打ち付けた釘を見た。一目見ただけで呆然としてしまった。幅30センチ、長さ1メートル82センチの床板1枚に打ち付けた釘の数がたった7本なのだ。私の場合、同じいたならば通常、20本は打つところである。それを7本で済ませるのだから、釘と労力と時間の3分の2を浮かせている計算となる。
   床板1枚打つのにこの手抜きでは、床の畳組み下地仕事も、まともな手の掛け方をしていないはず、と板を剥がして見てみると、案の定、「これでもか、参ったか」と言わんばかりの手抜きであった、根太掛けを打ちつける釘も、2本打つべき所は1本と、とにかく何でも半分、実に堂に入った手抜きぶりである。 これでは当然のこととして、3年も経てば壁際の床が沈んでしまう。
  次に、大引(床下の畳組みの9センチ角材)の木口の取付け仕口に目を通してみると、これまた何おか言わんやなのである。 柱や土台に掘込みもせず、柱の面でブスリと切って突き付けて釘付けにしてケロリとしているのだ。これはもう、通常の切込み掘込み仕事の3分の1の手間数であって、半年足らずでガタが来るのは目に見えている。大引の長さの中間90センチ毎に垂れを防ぐために床束を立てる。そのズレ倒れ防止として、束1本に大引から大釘2本を打つのが普通であるのに、それも1本しか打っていない。
  さらに、床束の受石となるコンクリート製台座の据え付け方を見ると、なんと凸凹の地表面にただ置いただけであった。これでは地表面が風化したとき凸部が下がり、束の根木口とコンクリート台座の間に隙間が生じ、床面を歩くたびに浮き沈みするようになる。そうならないよう、通常は地表面の凸凹から最小でも3センチ下げてコンクリート台座を据え付けるべきなのである。
  一部畳床の仕事ですら、これほどの工賃浮かしの手抜きがされているのを知れば、いかに素人の方々であろうとも寒気を感じることであろう。

  いずれにしろ、私の工事現場でこんな仕事が通るはずがなく、天地が逆さになっても許すわけには行かないので、せっかく床張り上がった部屋であったが、コンクリート台座を含め床工事全部のやり直しを命じたのは言うまでもない。
「どうして、こんな手抜き仕事をするのか」
 と尋ねてみると、答えはいとも簡単であった。
「すまなかったねー。・・・・・おいら、いつもあんな仕事してるんだ。年期中から儲け方を上手になれって、教えられたもんで」
  その職人が年期を入れた先は、素人が建築会社をつくって職人たちを募集しているようなところであった。そこに、社長の弟子として入門したわけである。
  この、床張りのやり直しをさせた現場の話は、実は今(1991年)から19年も前(1972年)のことである。いわば、手抜きの走りの頃であった。現今では、こんな職人のやり方が大手を振ってまかり通っている。逆に、道具と神経を駆使して仕事一筋に生き甲斐を持つ者は、「今時、道楽じゃあるまいし・・・・」と特異な目で見られる時代になってしまったのである。≫
吉田 正毅『棟梁が語る家造り』1991.5.10.連合出版)

   ノックダウン家具を取扱説明書の指示を無視して添付の木工用ボンドをぺっぺっぺと3箇所適当につけただけで伸ばすこともせずインパクトドライバーでバリバリバリと無理矢理接合し、「構造見学会」の展示用に梁に仮止めした釘を展示終了後に抜くのではなくためらうことなく中まで打ちこんだ男、福島第一原発事故直後に私のクルマに乗せてもらって車の所有者・運転者に断りもなく窓ガラスの昇降機を勝手にガチャガチャやった男(⇒[第251回]《ひとのクルマに乗せてもらって勝手に窓ガラス昇降スイッチをガチャガチャやったガサツな男は「営業できる」だろうか》http://shinkahousinght.at.webry.info/201404/article_2.html )は、千葉県市原市のK代のいとこの家で筋交いが逆向きに入っているのに気づかず、私が写真を撮って目の前に見せて説明しても、それでも「プレカット工場がこれでいいと言ってますから大丈夫です」と居直ろうとした。(⇒[第231回]《住宅建築業界 職歴詐称を見破る方法(2)筋交いの向きがわからない者・自分の工事現場を見に行かない者》http://shinkahousinght.at.webry.info/201401/article_13.html ) こんな「工事責任者」なんてあるか? 

   東日本大震災が起こった時、U草は、新華ハウジング(有)(建設業)・ジャムズグローバルスクエア(株)(不明業)・ビルダーズジャパン株式会社(不動産業)の建物は「俺が作ったから大丈夫だ」とか言っていたようだが、あんたが作ったとならそれが一番不安じゃないのかという気がした・・・が、同社屋の登記簿を調べてみたところ、新華ハウジング有限会社の代表取締役 長○川 S二の所有になっていた建物は土地を買って建てていたのではなくすでに完成している建物を購入していた・・・ということは、「俺が作った」という話自体がウソか。 そういういいかげんなことを言ういいかげんな男だったということだろう。
   インターネットで購入した安物のノックダウン家具はきっちりとしたボンドの塗り方をして接合したとしても、もともとが安物で長持ちするものでもなかった。 千葉市緑区土気の工事中であった建物は、梁に仮止めした釘を抜くのではなく打ちこんだとしても、それほど大きな影響はでなかったのかもしれない。 しかし、日頃からそういう施工態度をとっている人間の造るモノというのは、日頃から、ていねいにボンドをヘラで伸ばして接合し、展示会が終わったならば仮止めした釘はきっちりと抜くようにする人間が造るモノと比べて、良い物ができるようには思えない。 そう思いませんか?
  (2014.4.12.)


  高木様から、[第170回]《春日通から本郷三丁目。中央大理工学部・東京戦没者霊苑・シビックセンター。名曲喫茶「麦」。住宅の擁壁》http://shinkahousinght.at.webry.info/201303/article_3.html の6で述べた、東京・本郷にかつてあった名曲喫茶「ワルキューレ」について、コメントをいただきました。ありがとうございます。
  1983年、池田高校がPLに負けたというのは、たしか、水野が3年で池田の投手で選抜大会で優勝し、夏も優勝候補と言われていたのが、桑田が1年で主戦で投げていたけれども1番はつけていなかった年のPLに負け、PLが優勝したという年だったと思います。 名曲喫茶についての話題も、また、述べさせていただきたいと思います。 (2014.5.1.) 


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この記事へのコメント

高木司
2014年04月30日 20:22
はじめまして 高木と申します。
昨年の記事を読ませて いただいたのですが、古い生地なので ここにコメントさせていただきます。
本郷の名曲喫茶、「ワルキューレ」わたしも何度か通いました。1983年頃だったと記憶してます。
夏の高校野球で 池田高校がPL学園に敗れるという
大きな出来事があり(野球ファンにとっては大きい
のですが)マスターと話したことを思い出します。
その後 いつしか店も無くなり 西早稲田の「フォーレ」
という名曲喫茶に通うようになり、その後、旧ワルキューレの常連だった人たちも加わりました。(ワルキューレ
当時は 知り合いでは なかったのですが)
彼らはワルキューレ→荻窪の「ミニヨン」→そして「フォーレ」に安住の地を得たのでした(笑)
「フォーレ」は1987年まで続きましたので
まあまあ永続した方じゃないかと思います。

本郷の「ワルキューレ」について語るブログは極めて
少なく、懐かしさのあまりにコメントさせて いただきました。

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