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zoom RSS 人事総務の分類【上】「本格派(本来系)」「技術系」「ズルイ系」・・会社鳥獣戯画巻

<<   作成日時 : 2016/01/21 20:38   >>

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[第379回]
   世の中の会社において、人事総務関係の従業員には「本格派」「ズルイ系」「技術系」「事務系」「無能系」の5種類の人、それにもうひとつ「ヤクザ系」を含めると6種類の人がいる。 これを実際の経験を踏まえて述べる。ブログの字数制限の為、2回に分けて述べるが、今回、分けたことに特別の意味はなく内容は一続きの物である。

   私は高校卒業するころ、哲学・心理学に関心があり、そういった方面の研究者になるか、もし、そうでなければ、法学部に行って司法試験を受験して裁判官か弁護士になりたいと思っていた。小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのだから、それを生かせる仕事につきたいと思った。 「哲学・心理学」と2つセットになっているのは、何にしようかなと考えて2つ出てきたというわけではなく、小学校・中学校・高校と学んできて、人間のあり方というものこそ最も大事な学問ではないかと考えるようになったのだが、そう考えると、文学と哲学なら哲学の方が理論的・学問的・科学的と思われた。「〜文学科」というのは「女の子の嫁入り道具」みたいな印象もあり、特にフランス文学科は嫁入り道具の印象があって、そんなのと一緒にされたくないという意識もあった。理論を考え続けるのではなく、実際に人間があるべき姿で生きることができるようにということを実践するためには、ということで考えると、心理学の方がよいと思われた。
    ただ、高校くらいの時、「心理学」「心身医学」「精神分析学」「精神医学」がどう違うのか、私はよくわかっていなかった。  「精神医学」と「心身医学」とはどこが違うかというと、心身医学というのは「心が原因で体に不調をきたすものの治療」「心で起こる体の病の治療」であり、「精神異常者」とされてしまった人を相手にするわけではないので、「治療」は本人の意思にそっておこなうことになる。又、「体調不良」という状態でなくても、「より良い状態」を目指しての心身医学というものもあるわけで、「患者」は「異常者」というわけではなく、受診するかどうか「医者」の「治療」を受けるかどうかには「患者」に選択権があり、「医者」の行動が適切でないと思えば「患者」は「診療」を拒否することもできる。 今、ちまたでは、「精神医学」と「心身医学」の両方を看板に掲げて開業している「医者」がいるが、「精神医学」は実は「心身医学」と正反対の存在である。どこが正反対かというと、「心身医学」は患者は体調不良をきたしていても精神的に「異常者」と認定されてしまった人間ではなく、特に体調不良をきたしていなくても、いちいち自覚していなくても、心のありようと体の調子には関係はあるわけで、「医者」と「患者」は特に立場の違いはないのだが、「精神医学」はそうではなく、「『診断』される側」「『治療』される側」「『投薬』される側」「加工される側」と「『診断』する側」「『治療』する側」「『投薬』する側」「加工する側」がはっきりと分かれており、「医者」はどんなに異常な人間でも「正常」「健常」「人格者」「聖人」であり、「患者」はどんなにあがいても「患者」「病気」とされるもので、いわば、「人間による人間の加工」を「精神科医」という「加工する側」が「患者」という「加工される側」の人間におこなうものである。そして、それを社会全体に広げていくならば「精神医学」とはファシズムそのものである。その姿勢において、「精神医学」と「心身医学」は正反対の存在であるはずだ。 「精神分析学」はというと、ヨーロッパ型の精神分析学とアメリカ型の精神分析学はこれも正反対の存在で、はじめ、フロイトやユング、フロム、ライヒといった人たちがヨーロッパにおいて、「精神医学」に対する反逆児としての精神分析学を打ち出した時点においては、「精神医学」と「精神分析学」は正反対の存在だった。「精神医学」は「人間による人間の加工」であり、「加工する側」と「加工される側」がはっきりと分かれており、「加工する側」はどんなにおかしな人間であっても「正常」で「人格者」で「聖人」であるとされ、いったん、「加工される側」に認定されてしまうとどのような行為でも「異常」「病気」と解釈される。「精神分析学」においては、精神分析家にとっては、自分自身も精神分析を受けることが大事であるとされ、又、自分自身で自分を分析することも必要とされるものであって、医者と患者は別の立場ではなく、医者もまた精神分析を受け、自分で自分を分析することもするべきであるとされ、その点で、「精神分析学」は「精神医学」と正反対の存在である。但し、それはヨーロッパ型の「精神分析学」のことであって、「患者」を抑圧し政治権力の道具として国民を支配するための体制精神医学に対して反逆児として生まれた精神分析学は大西洋を渡ってアメリカに行くとともに、体制精神医学に飼いならされて体制精神医学の一部分に加わり、国民を統制支配するマインドコントロールの道具となったわけで、それを日本に持ってきて勝手な本ばっかり出してきたのが慶應義塾大学医学部助教授であった小此木啓吾である。 「心理学」はどうなのかというと、「医学」を名のっていないので、少なくとも、「精神医学」のように「医者」の「診断」だとして決めつけ、「医者」は「診断」する側、「治療」する側の人間で、「患者」は「診断」される側、「治療」される側、加工される側の人間だという構造にはならないはずなので、その点は、少なくとも「精神医学」よりは良心的であって悪くないはずであるが、中には「精神医学」とたいして変わらないような独善的な「心理学」も存在し、また、「知能指数」というものは最初から差別政策の一環として生み出されたものであるし、「精神医学」「精神科医」の手下となるのが「心理学」「心理学者」の仕事だと心得ているようなヤカラもいる。こういったことは、後に知るようになったのだが、ともかく、人間を人間としてあるべき姿で生きることができるようにしたい、その上で、最高の成果を出せるようにしたい、運動選手などで、練習ではよい成績を出せるのに試合になると緊張して成果が出ないというような人には試合でも成果が出せるようにしたい、入学試験の当日になると下痢をする人間が多くなるようだが、せっかく努力してきた人には万全の体調で臨めるようにしたい、という考えは間違っていないし、それによって誰かが被害を受けるものでもないと思ったのだ。
    しかし、我が家は「家庭内ファシズム」の家庭だった。 「わしほどエライ人間はおらんのやぞお。わしはヒットラー総統のような英雄やねんぞ。え〜ゆ〜う、au.http://www.au.kddi.com/」とか父は言っていた(⇒《YouTube―交響曲第3番《英雄》(ベートーヴェン)》https://www.youtube.com/watch?v=HowX3ApKkoM  )。 「わかっとんのんか、チャンコロ。わしはドイツ人で人を支配するための民族として神さまから作られた人間で、おまえはチャンコロやねんぞ。おまえは人から支配されるための民族として神さまから作られたチャンコロやねんぞ。神さまに逆らってはならんぞ、チャンコロ、わかっとんのんか、チャンコロ」「チャンコロの分際で、まかり間違っても、ドイツ人と一緒やなんぞと考えてはならんぞ、チャンコロ。ゆめゆめ、民族の違いを忘れてはならんぞ、チャンコロ」「おまえは、ロスケでイタコでチャンコロやねんぞ」とか父は言っていた。「ロスケ」というのはロシア人のことで卑怯者・裏切者を意味し、「イタコ」というのはイタリア人のことで根性無しを意味し、「チャンコロ」というのは中国人のことで「常に人から支配されなければならない民族、人から支配されるために神さまから作られた民族」のことを言うそうだ。それで、私がその3つなのだそうだ。だから、「ロスケでイタコでチャンコロ」である私は「ドイツ人でアメリカ人」であり「ヒットラー総統のような英雄で人格者で聖人で、何といっても謙虚な人間」である父の言うことは「何でも何でも何でも何でも言うことはきかんといかんねん。それがみんなの為なんや。」「だから、わしは、謙虚にいう事をきかせてやろう。謙虚に統制を加えてやろうと言うてやってやってやってやったんとんねんがな」となるそうだ。〔だから、父のテーマソングはベートーベンの交響曲第3番「英雄」だが、「英雄」の軍靴に人生を踏みつけられたわたしの耳元では「ヴォルガの舟唄」流れていた。〔⇒《YouTube−Эй, ухнем! Шаляпин Фёдор Иванович.wmv 》https://www.youtube.com/watch?v=lBLlJb9tOJY&spfreload=10 〕 「すべて、わしのおかげじゃ。おまえの努力で身につけたものなんぞ、何ひとつとしてないんじゃ。何ひとつとしてやぞ」と言っていた。小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強してきたのは、あれは何だったのかと思ったが、そういう家庭においては、何を学んで社会に献したいなどと思っても、夢のまた夢。母は「親というものは、子供が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにしてやりたいと思うから、それで、小さい頃から無理にでも勉強させようとするんだ」と言っていたはずだったが、そんな大嘘を信じてしまった私が馬鹿だった。
    慶應の商学部は嫌で嫌でたまらなかったが、結局、卒業した。こんな学校、卒業したくないと何度も思ったのだが、4年になってしまって、卒業すると就職しないわけにはいかないので、企業の合同就職説明会とかをのぞきに行くと、なんか、高校までちっとも勉強せんで、高校の時に、私などが雨ニモ負ケス風ニモ負ケス勉強していた頃、「不純異性交遊」やってたようなヤツが、「タバコは記憶力の低下を招き、学問を志す者がタバコを吸うなどはもってのほか」と私などは思って来たのだが中学生か高校生の頃からタバコを吸って来たような高校生の頃は「ヘアーはリーゼント」か何かにしてたようなのが来ていて、「同じ大学生なのに、大学によって区別するのはおかしい」とか何とか勝手なこと言いよるのを聞き、私などは高校を卒業する年に東大を落ちたところ、父から「高校は義務教育じゃないんだから、行くべきじゃないのに、おまえは高校なんぞ行きおってからに。おまえなんか、高校行ったのは余計じゃ。ちゃんころ、おまえなんか、高校行ったのは余計じゃ、チャンコロ、ちゃんころ、チャンコロ」と何度も耳鳴りがするくらいに言われてきたものだが、こんなのがでかいツラして「大卒」だと言い張るのかとあきれ、こんなのが「大卒」なら、私だってどこであろうが卒業して「大卒」にならせてもらって悪いわけがないわな、と思い、ともかく卒業した。 もしも、社会科学系の学部に行くのなら、経済学部系(東大・京大・阪大なら経済学部、神戸大なら経済学部・経営学部、大阪市大なら経済学部・商学部・経営学部、慶應・一橋なら経済学部・商学部、早稲田なら政治経済学部経済学科・商学部)よりも法学部の方がいいと思っていたし、法学部に行ったなら、大学に残って研究者になるか司法試験を受けて裁判官か弁護士になりたいと思っていたが、「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは大学院なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」という家庭で、父は「大学は勉強する所と違うんじゃ。甘ったれるな」と言ってアルバイトを決めてきて、「アルバイト、アルバイト、アルバイト、アルバイト、とってちってたあ〜あ!」とか言ってアルバイト漬けにされてしまった結果、およそ、裁判官や弁護士になるなどという道は閉ざされた・・・が、社会科学系の学部なら経済学部系より法学部の方がいいと思って来た人間なので、ともかく、慶應の商学部を卒業したけれども、商学部出身者としては法律科目を多く履修して卒業した。 その結果、卒業証書には「商学士」と書いてあるが、(商学部+法学部+哲学科・心理学科)÷3 のような者として卒業をした。
   私は、高校生の時、「高校の勉強は高校の勉強だ」と思っていた。 高校を卒業した後、就職するのでなければ大学に進学するわけだから、大学の入試を考えないわけにはいかないとしても、たとえ、大学入試にない科目、入試に出ない内容であっても、それでも、「高校の勉強は高校の勉強だ」から捨てて良いというものではないと思っていた。この考え方は間違いではないが、それに凝り固まると大学入試には不利になることがあり馬鹿を見ることがある。私は実際多少そういうところがあった。ともかく、そういう考え方をしていたので、入試で選択しない倫理社会なども一生懸命勉強したのだが、受験研究社から発行されていた『自由自在 倫理社会』に、「ホーソン工場の実験」の話が出ていた。工場の女工さんが照明が暗いと訴えるので明るさを調べたが、特に暗くはなかった。しかし、暗くないからこのままでいいとは言わずに、同じ明るさの照明に取り換えたところ、自分たちの要求を聞いてもらえたという満足感から作業効率があがった、という話である。実際、人間の気持ちというのはそういうこともあるのではないかと思い、そういった研究は価値があると高校生の時は思い、「親というものは子供が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思って小さい頃から無理にでも勉強させようとするものなんや」と母が言っていたので、私がそういう研究をやりたいと思えばそういう所へ行かせてもらえるものだと思い込んでいたのだが、実際はそうではなく、「撃ちてしやまん、一億火の玉。欲しがりません、勝つまでは。とってちってたあ〜あ!」という話になって、「会社のために死ぬほどはたら〜く! 会社の為に犠牲になれえ! とってちってたあ」という大学に行かされるはめになってしまった。やんぬるかな。 しかし、高校の時に「ホーソン工場の実験」などに関心を持ったので、企業における「労務管理」「人事管理」においても、「とってちってたあ〜あ」だの「どんがんどんがらがった、ちゃちゃちゃちゃちゃあ〜ん♪」(〔《軍歌》軍艦マーチ("Gunkan māchi "〜March "Man-of-War"〜) RemakeVer. with Eng/Sub 〕https://www.youtube.com/watch?v=iDcvlV0Lb8s )だのといってパチンコ屋の音楽みたいに働かせようというものではなく、ダグラス=マグレガーが『企業の人間的側面』(産業能率大出版局)で述べている「Y理論」であるとか「ホーソン工場の実験」であるとかそういったものに関心を持ち、そちらの方こそ「労務管理」「人事管理」の本来のものではないのかと思うようになった。しかし、そういった「ホーソン工場の実験」や「人間関係論」などの労務管理の学説についても批判はあるわけで、それまでと同じ明るさの照明に変えたら満足感から効率があがったとかいう話はそういうことがないわけではないとしても、実際よりも効果を大きく考えすぎではないかという批判があり、又、マルクス経済学の方からは、しょせんは資本が労働者を収奪するための技術のひとつでしかないではないかという批判があるといったことも、慶應の商学部に在学中に労務管理論を学ぶ上で知った。 となると、「Y理論」だとか「人間関係論」だとか「ホーソン工場の実験」だとかそういったものを学んでも、意味はなかったのか、というと、「会社」というところに勤めてみて、そうではないと思うようになった。個々の学説についてどう考えるかといったことは別として、若い頃にそういった問題を考えたことのある者とそうでない者とでは、実際に職場で対応する場合に大きな差があるということを実感した。 だから、それぞれの学説・理論について、批判もあったとしても、そういったことを最終学校を卒業するまでに考えているということは、職場で働くようになってから大きく役に立つものだと認識するようになった。

   高校卒業時は臨床心理学を学んでも「会社」よりも大学に残って研究者となるか、さもなくば、「学校」という所の方に勤めたいと思っていたが、心理学に関心があって社会科学では法律、特に労働法に関心がありある程度は学んできた人間で、結果として商学部の卒業生となり商学部の科目としては労務管理論・労働経済学などを学んできた者として、もしも、「会社」という所に勤めるならば人事総務関係の仕事に就きたいと考えた。逆に、会社で人事・総務といった仕事をする人間しては、文学部・教育学部の心理学科・教育心理学科で心理学やカウンセリングなどを学んできた人間、法学部で労働法などを学んできた人間、商学部・経営学部で労務管理論や労働経済学などと学んできた人間というものが適した存在であるはずで、一般的な学識とそれらを基にしてこそ、人事総務の仕事は処理し対応していけるのであろう、と思っていた。
   職業には、学校を卒業するまでに学んだものが比較的そのまま生きる仕事と、直接生きるわけではないが、ある程度以上勤めていくうちに、最終学校を卒業するまでに学んだものが徐徐に生きてくるというものがあると思う。 法学者の末広厳太郎は『法学入門』(日本評論社)において、「法律はパンのための学問」と言われるが、裁判官・検察官・弁護士や大学の法学部の教員などでない一般の会社などで直接に法律を仕事とするわけではない仕事についた場合、法学部で学んだものは「大学で学んだものなど忘れてしまった頃に役立つ」と言われ、それは、個々の法律の細かい条文の知識などではなく、「法学的の考え方」のことである、といったことを述べている。実際に、「会社」という所に就職して、中卒や高卒を自慢にしている人を見ると、「法学的の考え方」がまったく身についていない人はやっぱりだめだなと思うことがしばしばあった。 また、森川英正『日本経営史』(日経文庫)では、日本では、江戸時代の商店においてもオーナーの一族でない者に「番頭さん」として相当の権限を持たせて仕事をさせるということをしてきたが、明治になってから日本の会社では「学識者」を採用するようになり、「学識者」にオーナーの一族でなくても相当の権限を持たせて会社を運営させるということをするようになり、その場合の「学識者」の供給源としては、明治から大正にかけては慶應義塾の理財科と東大などの旧帝大系国立大学くらいしかなかったが、そういう際に「学識者」を採用して使った会社とそうでない会社で発展するかどうかに差が出たということが述べられている。私は、自分が高校生や大学生であったころ、そうであるのかないのかわからなかったし、自分自身は最終学校を卒業するまでに学んできたものが直接に生きるような仕事の方につきたいと思ってきたのだが、実際に「会社」というところ、それも「一流企業」ではなくそうでない方の会社に勤めてみて、森川英正教授が述べているのはその通りだと思うようになった。実際、(株)一条工務店や小堀住研(株)にいる中卒や高卒の役職者を見ると、「だめだな、こりぁ・・・」と思う人だらけである。
   私の場合は、最初は大学に残って研究者になるか「会社」よりも「学校」とか「病院」とかで働く方に関心があったが、結果として「(商学部+法学部+哲学科・心理学科)÷3」みたいな感じで卒業して「会社」に勤めたが、最初から、会社に勤めて人事総務関係の仕事につきたいと思い、その為には文学部・教育学部で心理学・教育心理学などを学んで入社するといいと思って会社に就職する人、会社で人事総務関係の仕事に就くつもりで法学部で労働法などを学んで会社に就職する人、商学部・経営学部で労務管理論・労働経済学や労働法を学んで会社に就職する人もいると思う。そういう人にとっては、本体は文学部・教育学部で心理学・教育心理学が中心でも仕事をする上では労働法・労働経済学・労務管理論といったものを学んでいくことになるし、商学部・経営学部を卒業して人事総務の仕事についた人は労務管理論・労働経済学・労働法などが主でも教育心理学なども学んでいくことになり、法学部を卒業して人事総務の仕事に就いた人は、労働法などが主でも教育心理学や労働経済学なども学んでいくことになると思う。それが人事総務の仕事である、と私は認識していた。

   大学4年を2回やって1回目に内定をもらった会社で卒業しなくても来てもらって良いと言ってもらい、大学4年に在学して週に2回授業に出て、正社員に準ずる扱いで給与はアルバイト扱いで人事総務部に勤めたが、その後、2回目の4年を卒業して勤めた小堀住研(株)で住宅建築業の営業に進んだが、もしも、最初に勤めたコンピュータ関連のT社で人事総務関係の仕事を続けたか、その後、勤めた小堀住研(株)か(株)一条工務店で営業の経験をある程度経た上で人事総務の方をやってもらいたいということになって勤めたとしたならば、「本格派」「本来系」の人事総務になったであろう。私でなくともその頃の私のような旧帝大系国立大学か慶應・早稲田くらいの大学の文学部・教育学部で臨床心理学などを学んだ者、法学部で労働法などを学んだ者、商学部・経営学部で労務管理論・労働経済学などを学んだ者がそれを会社で生かしたいと思って人事総務の職種に勤めたならば、「本格派」の人事総務となったであろう。 そういう人はいると思う。このタイプを「本格派」もしくは「本来系」と呼ぶこともできる。 「本格派」だの「本来系」だのといっても、本来でない者がいるから「本来系」になるのであり、本格的でない者がいるから「本格派」になるのであって、「本格派」「本来系」だけであったなら、「本格派」も「本来系」もない。 「本格派」「本来系」の中では、文学部教育学部系(心理学教育心理学系)法学部系(労働法系)商学部経営学部系(労務管理論労働経済学系)という分類がなされてもいいところかもしれない。 しかし、「大学みたいなもん、会社で役に立つもんなんか、何もやっとれへんねん」という思想信条信念を持つ高卒か中卒の経営者の会社に就職すると、こういったものは無視される結果となる場合がある。 そんな経営者の「思想」は間違っていると私は思うが、間違っていても、その会社は「その人の物」である以上、どうもでけへん・・・・・・となると、さっさとどこかへ移るか、それとも、我慢して、ろくでもない経営者に尽くしていくか・・・。 ろくでもない経営者に尽くすのは・・・実際のところ、「しんどい」。 その不毛な行為をいやほどやってきた人間として言う。ほんとに「しんどい」。 3〜4時間ならともかく、「24時間戦えますか」と言われても、「しんどい」。(⇒《YouTube―CM:リゲイン/すみれ 》https://www.youtube.com/watch?v=b_7XvWj2np4 )

    (株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ に、住友林業http://sfc.jp/ にいたという I 香という男が転職してきて、彼は「住友林業の営業と一条工務店の営業では平均年収は住友林業の営業は一条工務店の営業の倍もらっているが、1人あたりの契約棟数も住友林業の営業は一条工務店の営業の倍で、一条の営業も売れば住友林業の営業と同じくらいもらえるのであって、売らないのが悪い」と発言した。またまた、オーナー経営者にすりよって勝手なこと言っておのれだけ優遇してもらおうとするバカが登場したかとあきれた。住友林業の住宅展示場1カ所にいる営業社員の数と一条工務店の住宅展示場にいる営業社員の1展示場あたりの人数では、一条工務店の展示場には住友林業の展示場の倍以上の人数がいるのだ。嘘じゃないからな。私は住友林業の展示場の所長やってたおっさんから住友林業の展示場に何人いるか教えてもらってその上で言っている。 住友林業で建てる見込のある見込客と一条工務店で建てる見込のある見込客の数がほぼ同数の地域で、そこに営業の数が一方は他方の倍以上いたとしたら、全体の棟数が少しくらい増えることはあっても営業社員1人あたりの契約棟数が少なくなるのは当たり前だ。これを、経済学では「収穫逓減の法則(しゅうかくていげんのほうそく)」と言う。
    さらに、伊香は「総合住宅展示場のゴミ集積場に、夜、行って、よその会社のゴミ袋を集めてそれを拡げると、見積書とか何やらがいっぱいあるので、それで他社が何をどういう値段で出しているか知ることができる。これをやることで契約が増えると思えばゴミをあさるのもなんともない。他社のゴミを拾ってきても、これは捨てたものだから、犯罪じゃないんです」と彼は60人からいる営業社員を前にして発言したが、そうか? 我が家のゴミをゴミ集積場に出したとして、隣のおっさんがそれを持ち帰って中身を調べたとしたら、「何の問題もない」か? うちの娘がゴミ袋に入れて捨てたパンツを隣のおっさんが取って来てクンクンしても「まったく問題ない」か? ゴミは財産的価値を評価されないから窃盗罪等にならないとしても、ひとが出したゴミ袋を取って来て中を拡げて見るというのは「プライバシーの侵害」になるはずだ。「問題ない」はずないが、彼はわかっていて言っていたのかわからずに言っていたのか。伊香のような危ない男を雇うのであれば、旧帝大系国立大学が早慶あたりの社会科学系学部で「法学的の考え方」を身につけてきた人間を本社に配置して管理するようにしないと危険であると思うのだが、一条は頑固にそれを拒絶する経営者の会社である。

   「技術系」の人事総務とでもいうような人がいる。 大企業でない会社では、年金・保険関係の処理を自社でおこなわず、社会保険事務所に依頼してやってもらっているという会社がある。 その手前くらいの仕事を、あくまで、その業務限定でさせている「部分的人事総務」とでもいうようなもの。この「技術系」とは、労働法・労務管理論・労働経済学・臨床心理学などの認識・知識はないが、事務的な能力はないわけではなく、「本格派」「本来系」の人事総務なら嫌がるような細かいものでも嫌がらずに学習する人で、細かい技術的な部分は把握しているが根本的な考え方については他職種の人間よりわかっているわけではないという者である。 フリーダムアーキテクツデザイン(株)http://www.freedom.co.jp/ の人事部にいたS倉などはそれで、同社は「みなし残業代を含めて月いくら」という給与の提示のしかたをしていたが、これは、結論として、ずるい提示のしかたであり、こういう会社が最近、増えてきているが、要するに、もともと、残業代を含めずに月いくらであった金額を「みなし残業代を含めて」の金額だということにして、そこから逆算して基本給を算出するということをすれば、結論として、合法的に無制限にサービス残業をさせることができる、というものである。 本来、「みなし残業」というのはそういう制度ではないはずであるのだが、こういう運用のしかたをしている会社が時々存在する。 フリーダムアーキテクツデザイン(株)のS倉はそういった計算をしたりしていた人間であった。「技術系」の人事総務になる人というのは、営業が好きではないという人、事務系の能力と営業系の能力なら事務系の能力の方がある、もしくは、あるなしにかかわらず、営業の仕事に抵抗が強いため、事務系の仕事をしたいという人で、そして、旧帝大系国立大学や慶應・早稲田などの大学の文学部・教育学部で心理学・教育心理学を学んだり、法学部で労働法などを学んだり、商学部・経営学部などで労務管理論・経営学・労働経済学・労働法などを学んできたりといったことはしてきておらず、また、旧帝大系国立大学に合格できるかどうかというレベルまでの一般的学識教養もない人であり、そういった教養・学識からの判断力といったものは期待しても無理な人である。 そういう人であるから、「本格派」「本来系」の人事総務であれば、それはいけませんと抵抗を感じるものでも抵抗を感じずにおこなうことがある。
   2年ほど前であったか、『月間プレジデント』(プレジデント社)で、イトーヨーカドーの社長が、労基署は労働基準法を守らない会社経営者はもっと処罰するべきだと述べ、こういうことを言うと、おまえも経営者なのにいったいどっちの味方なんだといったことを言われるが、どっちの味方とかいうことではない。労働基準法というのは日本の法律なんだから、守らない者が処罰されるのは当然ではないかと述べていたが、これは、いわば、運転が乱暴で道路基準法を守らない運転をするドライバーは遠慮なく取り締まるべきだというと、おまえもクルマを運転するのにどっちの味方なんだと言っているような論理であって、ひっかけるような取締りがいいわけではないが、日本の法律に違反する運転者は取り締まればよいと言ったからといって、どっちの味方なんだということには本来はならないはずで、この部分で、イトーヨーカドーの社長はもっともな発言をしている。 「本格派」「本来系」の人はこういった認識をして、こういった発言をすることがある。
   戦後すぐにあった下山事件の被害者・下山総裁は「良心的な人」であったそうで、柴田哲孝氏の『暗殺者たちの夏』(祥伝社)では、下山総裁は、戦後すぐの時期、国鉄が人員が多すぎてやっていけないから大量の整理解雇をしなければならないとされ、やむなく整理解雇の解雇者の名簿を作成したところ、「右派勢力」から、左派労組の幹部を数名そこにつけたしてくれと言われ、「そんなことはできない」と断った、という話が出ている。柴田哲孝氏の『暗殺者たちの夏』は柴田氏が調査したルポルタージュ『下山事件 最後の証言 完全版』(祥伝社文庫)などをもとに、「小説」という形にして、おそらくこういうことだったのではないかという全体像を描いたもので、下山総裁が実際にそう発言したかどうかはわからないが、そういう姿勢だったのではないか、そういったところが「右派勢力」で気に入らないと思う者がいたのではないのかと推測している。整理解雇というものは、あくまでも人員が多すぎてそのままでは企業は倒産してしまうことになり、そのため、やむなく人を減らす必要があるので何人かの人にやめてもらうというものであり、そうである以上は、解雇をしなくてもすむような努力もする必要があり、解雇する場合は必要最小限の人数にするべきであり、そして、思想信条や労働組合の幹部であるかないかといったことを理由として解雇者を選定するようなことはしてはならないものであり、特に、いったん、解雇者の名簿を作成して決めた後で、労働組合の幹部数名を解雇者の中に入れろというようなことは、そんなことはやってはならないことである、というのは正論であり、これは「本格派」「本来系」の人間なら考えることである・・・が、それが気に入らない人もいたらしい。
   私は大学を卒業する時、人よりも年齢をいっていたので、4年の時に、外資系の会社ならどうだろうかということを考え、ある外資系の銀行に会社訪問に行ったことがあったが、東京の丸の内にあった東京支店で会っていただいたMさんは、慶應義塾大学の経済学部を卒業して三井銀行に入り、三井銀行から「顧問」として来ていたという方で、同じ大学の出身だということから、その外資系銀行への応募と直接に関係のない話も聞かせていただいたのだが、Mさんは三井銀行で、それは違うと思ったことは発言したと言われ、それで嫌われたこともあれば左遷されたこともあるというのだ。「『たいして高い給料もらってるわけでもないのに、何も嫌われること言わなくたっていいじゃないか』と言う人があったが、俺はそうは考えなかった。『たいして高い給料もらってるわけではないんだから、だから、会社のためを思って考えて、それは違うぞと思ったものは言わせてもらおうではないか』と考えた」というのだ。 慶應出身の人というのは、会社の上司の言いなりになるへこへこ屋みたいな人間ばっかりかと思っていたら、こういう骨のある人もいるのかと思ったのだが、どの大学の出身かにかかわらず、「本格派」「本来系」の人間には、こういう人がいるし、また、森川英正『日本経営史』(日経文庫)においては、「プロ経営者」という言葉が出ているが、慶應義塾の経済学部や商学部といった「プロ経営者」を養成する大学学部を卒業して会社員になった者として、「プロ経営者」としての矜持として、それを言わなければ「プロ経営者」と言えなくなってしまう、というものがあると思うのだ。
  「技術系」の人事総務の場合、そういった「プロ経営者」としての矜持もないしそれだけの判断力もなく、下山総裁が整理解雇のあり方に反するようなことをやれと言われてもそれはできないと拒否したという柴田哲孝氏の「小説」の中での話のように、自分自身の良心にとがめるようなことはやりたくないという意識も「技術系」の人にはない人が多く、「本格派」「本来系」の人間なら「良心にとがめる」ようなことを平気でする。


   「技術系」とは別に「ズルイ系」の人事総務もいる。「ズルイ系」とは「本格派」の人事総務であれば、「法学的の考え方」をすればそれは通らないと考えれば、経営者にでも意見を言うところを、そうではなく、使用者側の身勝手な主張を通そうと画策し、一般従業員の利益を裏切っても自分だけ使用者にかわいがられようとするタイプの人間のことである。 「本格派」「本来系」の人間なら、それはできませんと拒絶するようなものを平気で受け入れて実行しようとする結果、「ズルイ系」になるということもあるようだ。 「はなの舞」「花の舞」「炎」などの居酒屋をチェーン展開するチムニー(株)http://www.chimney.co.jp/ の人材開発部にいたT常などはこれである。 チムニー(株)に入社した2日目だったと思うが、人材開発部のT常が、「身元保証書」と書かれた書式を持ってきて、これに保証人に署名捺印してもらってきてくれといって渡そうとしたのだが、そこに、「故意もしくは過失により会社に損失を与えた時には、本人とともに賠償いたします」という文面が書かれていたので、「請負契約ではなく、雇用契約・労働契約ですから、故意の場合はともかく、過失で損失を与えることがたとえあっても、従業員に賠償しろというものではありませんでしょう。 『過失により』という部分を削除していただけませんか」と言うと、「そういうことを言うなら採用取り消しです。うちはずっとこの内容で入社する人には書いてもらってきましたから。弁護士にも相談していて、弁護士からもこの文面でまったく問題ないと言われていますから」と言うので、「どこの弁護士ですか」と言ってやったことがありました。T常が「チムニー(株)のような居酒屋では、店の売り上げを銀行に持って行く時に、強盗に襲われて、売り上げのカネを奪われるといったことがあるのです。そういう時に、強盗に襲われた人とその身元保証人に盗られたカネを賠償してもらわないといけませんから、この文面は必要なんです」と言うので(これ、「原文の通り」です)、「強盗に襲われて店の売り上げ金を奪われたのなら、強盗に賠償してもらうべきではないのですか」と言いましたが、「そういうことを言うなら採用取り消しです。明日から辞めてください。強盗に襲われてカネを奪われた場合には、チムニー(株)は襲われた従業員に賠償してもらわないといけないんですから」と言ってきかないのです。これは、どういうものかというと、従業員が強盗に襲われて殴られて怪我させられたというのであれば、むしろ、従業員の方が会社に対して、「安全衛生保護義務違反」として債務不履行責任として治療費と慰謝料を請求するべき性質の問題であり、会社は奪われた人、襲われて怪我させられた人間やその身元保証人に賠償しろと請求できる性質のものでないのは当然であり、強盗に襲われてカネを奪われては困ると思ったならば、ある程度以上のカネを銀行に預けに行く時には1人ではなく2人で行くようにさせるとか、さらに、会社が保険に入っておけばよいことであり、そうでなければ、単なる従業員に銀行に届けさせるのではなく、日通警備http://www.nittsu.co.jp/keiso/ とか現金輸送専門の警備会社にカネを集めに来てもらうとかするべきであったはずです。 T常の言っていることは、「普通に考えてもおかしなこと」であり、さらに、それを「弁護士もこれでいいと言っていますから」という言い回しで「言う事をきかす」ようにしようとした、という点で「あさはか」です。 ろくな人材部じゃないなという感じがしますが、彼はそういう勤務のしかたについて、むしろ、自信を持っていたようです。 こういう人のことを「ズルイ系」と言います。 「本格派」「本来系」の能力などもとよりありませんし、「本格派」「本来系」の能力を持つに至る可能性もありません。「本格派」「本来系」の人事総務なら、私が言ったように「請負契約ではなく、雇用契約・労働契約である以上、勤務中に強盗に襲われてカネを奪われたというようなものについて従業員に賠償する義務はありません。従業員に賠償しろというのは請求する相手が違います。強盗に奪われたのなら強盗に請求するものでしょう」と言うものです。T常のようなアホなことを言ったのなら、「おまえはアホか!?!」と軽蔑されることになります・・・が、「本格派」「本来系」の人事総務なら軽蔑されるような言動でも、「ズルイ系」の人事総務のT常にとってはそういう言動がむしろ自慢のようなのです。 チムニー(株)では名札の上だったか下だったかに「本人が考える今年の目標、モットー」を書くようにしていたのですが、ある時からT常の名札の上だか下だかに「法令順守」と彼は書いていたので、はあ? はあ〜あ?????  おまえが言うか?!?! おまえがそういうことを言うか??? とあきれたことがありました。
  フリーダムアーキテクツデザイン(株)http://www.freedom.co.jp/ 人事部に中途入社したE藤もこれと同様の「ズルイ系」の人事総務でしょう。 私の知人の人材紹介会社の会長から聞かせていただいた話ですが、ある会社の人事部にいた男が、ずいぶんとえらそうな口をきくので、「人事部にいて採用の仕事をしているからといって、自分が資本家か何かになったようなつもりでいるんじゃないぞ。 たとえ、人事部にいても、おまえだって雇われて仕事をしているのだから、自分の方がリストラされて仕事を探さないといけないという立場になることだったありうるんだからな。そこのところを考えろよ」と言ってやったというのです。そうすると、しばらくして、本当にその人はリストラされて自分が仕事を探す立場になったというのです。 そして、なんだか、ずいぶんとえらそうな口のきき方をするので、せめて、早稲田かそのくらいの大学でも出ているのかと思っていたら、なんだ、駒沢大卒か・・・・・、駒沢卒の男がそこまでえらそうな口をきいていたのか・・・・とあきれたそうですが、フリーダムアーキテクツデザイン(株)のE藤もそのタイプです。 E藤もえらそうな口ばかりきくだけでその程度の大学しか出てないでしょう。
   世の中には、「一流大学」卒の人間はプライドが高くてえらそうにしている・・と思っている人がいますが、そうでもありません。むしろ、そう思われている人の中には学歴詐称の人というのもいます。私が20代初めの時、東京の本郷の東大病院(東京大学医学部付属病院)http://www.h.u-tokyo.ac.jp/ に勤務していた「医者」をやっていた男から、「きみは、東大の試験に落ちたんだろうが。1回じゃなく何度も落ちたクズだろうが。この僕は東大の理科三類に現役で通ったんだぞお。わかってんのか。東大の理科三類に現役で通ったえらいえらいこのぼくと文三すらも浪人しても落ちたカスとは人格が違うんだよ。わかってんのか。おまえは東大の試験に何度も落ちた最低のカスだ。まさか、この僕が理科三類にまぐれで通ったとかぎりぎり通ったとか思ってないだろうな。僕はゆうゆうと絶対に通る成績で余裕をもって理科三類に現役で通ったんだぞ。カスのおまえと優秀な優秀なこの僕とは人間が違うんだ」とかなんとかずいぶんと言われたことがありました。 最初は、東大病院に勤めている人間で、本人が東大の医学部医学科を卒業したと言っているのだからそうなのかくらいに思っていたのですが、話を聞いているうちに、なんか、変だなと思うようになったのです。 どこが変かと言いますと、
(1)私が卒業した北野高校は京大・阪大には進学した人は多い高校でしたが、東大に進学する人は毎年十数人という高校で、特に東大の医学部に進学するコースである理科三類に行く人はあまりない(受ける人があまりない)高校でしたが、東大のそれ以外の学部に行く人はあって、「友達の友達は皆友達だ」というわけでもありませんが、そういう人の友人知人で東大の理科三類の学生もいて、そういう人と会ったこともあったのです。そういう人というのは、その東大病院に勤務していたFなんかとは感じが違ったのです。
(2)私は、結局、2年浪人してしまったけれども、その経験で、大学の入試とか資格試験とかいうものは、「ともかく、通ればええんや」「合格最低点をいかにして上回るかが大事であって、それ以上はいくらとったって一緒や」という認識を持つようになり、「この僕はぎりぎり通ったんじゃないんだぞお。わかってんのか」というFの発言のような認識は、実際にどんな点数をとったかにかかわらず、そのような認識は「勝負弱さ」でしかないと考えるようになったのです。
(3)1980年前後、京大・阪大は合格の場合も不合格の場合も卒業した高校に試験の点数を通知していたので高校の担任の先生にきくと何点だったか教えてもらえたのですが、東大は何点だったか通知するということをしていなかったので、点数を大学が教えない以上、合格か不合格かということ以外、わからないはずなのです。だから、自分ではゆうゆうと絶対に合格という点数で通ったと思っていても実際にどうであったかはわからないはずなのに、勝手に「ゆうゆうと絶対に通る点数で通った」とか思っているならそれは「勝手に思っているだけ」で、そんなこと思っている人間というのは、本当に入学試験で優秀な成績をとっていた場合でもその部分の認識は優秀ではないわけで、そういうことを自慢するというのはおかしい、実際に東大・京大などの試験を受けて通った、落ちたという経験のある人間の言うことではないと思えたのです。
   しばらくして伝わってきました。伝わらないと思ってたかをくくっているとどこからともなく伝わるんですね。「この僕は東京大学の理科三類に現役で通ったんだぞお。おまえとは違うんだ。この僕はきみとは能力も人格も違うんだ。わかってんのか」とか言いまくってきたFは、東大病院に勤めていたのですが、卒業したのは東京大学医学部医学科ではなく帝京大学医学部https://www.teikyo-u.ac.jp/faculties/undergraduate/medicine_d/ 、ウキョウダイガク医学部ではなくイキョウダイガク医学部だったそうです。東大医学部帝国主義の植民地大学たる金権裏口帝京医大!(昔、『ぴあ』という雑誌があり「はみだしゆうとぴあ」という投稿欄に「早稲田の彼氏が欲しいと思って早大の大学祭に行って知り合った彼。結婚することになってわかった。○大だった」というのがあったが、その類か。「○大」は日大か学習院大かどちらかだったと思うがどっちか忘れた。)・・・なるほどと思いました。裏口入学で私立金権医学部に行くようなヤツの態度でした。患者を薬漬け毒漬けにしたカネで裏口入学する私立裏口金権医学部卒の男が言いそうな文句でした。おかしいと思ったら、やっぱりでした。だいたい、京大・阪大は入学試験の点数を卒業した高校に教えるので高校の担任の先生にきくと通った場合も落ちた場合も何点だったか教えてもらえるのに対し、東大は合格か不合格かだけの発表で卒業した高校に何点だったか教えるということをしないので、通ってもぎりぎり通ったか余裕を持って通ったかわからないし、落ちてもぎりぎり落ちたか相当点差があって落ちたかわからないのですが(今もそうかどうかは知りません。1970年代後半の話です)、帝京医大裏口入学の男はそんなことも知るわけなかったようです。フリーダムアーキテクツデザイン(株)の人事のE藤にはその東大病院に勤めていたFと同じニオイがする。「えらそうな口ばっかりききおってからに」と人材紹介会社の会長さんが気分を害された実は駒沢大しか出ていなかった男も同系のニオイがしたのではないでしょうか。いつであったか、新聞に「二浪の功と罰」と題して書いていた人がありました。2浪するべきか・・というと、「するべき」などということはないが、してしまった場合、どういうメリットとデメリットがあるかといったことを実際に2浪した人が書いていました。「功」には「英語力がつく」というものもありました。世の中には、高校卒業時にはまともに大学に進学できそうにない高校を卒業し、その時点では学力も話にならず、1浪は予定通りで大学に入学し、それで「2浪以上はよくないが、1浪は人生いい経験だ。現役で通った人間は人間が甘い」とか勝手なことをぬかす野郎がいたりします。遠藤周作が『わが青春に悔いあり』で、そういう話をきくと「チャンチャラおかしい」という気がする、浪人が浪人としての意味を持ってくるのは2浪からであって、1浪で大学に入った人間なんか浪人して経験を積んだなどといううちに入らないと遠藤周作は語っていたが私もそう思う。私が卒業した頃の北野高校は半分が現役で京大・阪大などに合格する高校だったが、そういう高校から1浪して入学したのならまだしも、もともと1浪で大学に行くのが普通で1浪で慶應なんか行けたら御の字の高校の卒業生が口にする場合は「あんたにとっては1浪が現役みたいなものでしょ」ということ、「勝手なこと言っているだけ」。慶應はそういうヤカラが多い大学だった。それで、私は何の因果か2浪して大学に入ったおかげで、けっこうおぼこかったのが、それなりに世間を知ることができた。その結果、えらそうな口ばっかりきいているヤツを見て「こいつ、実際は・・・ではないのか?」と感づく時がある。私の場合、どこでも良ければ現役で入れる大学はあったのだが、これはもしも現役で入っていたなら身に着かなかった感覚かもしれない。えらそうな口のきき方をするとえらそうに見えるかと思っているヤツが時々いるが、ばれていないと思っているのかもしれないが、ばれている時がある。


  人事・総務の分類【下】http://shinkahousinght.at.webry.info/201601/article_5.html で「事務系」「無能系」「ヤクザ系」について述べる。
   (2016.1.21.) 
 人事総務の分類の補足1 http://shinkahousinght.at.webry.info/201601/article_6.html もご覧いただきたい。

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