真宗本廟(東本願寺)参拝【3/4】境内にて、阿弥陀堂門・阿弥陀堂、御影堂門・御影堂。「本願なければ親子も夫婦も他人」「産まれてきれくれてありがとう」「仏様の住まいに住ませていただいている」

[第801回]
  真宗本廟(東本願寺)の境内に入りますと、門はそれで終わりというものではない。「建築の見学は、『前から後ろから』『表から裏から』、なめるように、見るべし」というのが「建築探偵団 心得」ですから、後ろからも見せていただきましょう。 もっとも、「細部をなめるように見る」よりも「全体の雰囲気を味わう」ということも「建築探偵団」としては大事・・でもあるのですが、門は前からだけが門ではなく、後ろからも門であり、塀も外面だけが塀ではなく、内部で過ごす際にも塀ですから、両方を味わうべきでしょう。
DSC09198.JPG
↑ が、阿弥陀堂門 の 境内側(西面)です。 外側は豪華でも内側は簡素という建物もありますが、阿弥陀堂門はそうではありません。

DSC09200.JPG
DSC09194.JPG
↑ が、御影堂門 の境内から見た南面です。
右手前の建物は「総合案内所・お買い物広場」の建物です。「総合案内所・お買い物広場」では、真宗大谷派に関連の書物や数珠、真宗本廟(東本願寺)のお土産となるお菓子などが販売されています。「お東(ひがし)さんのお干菓子」なるものがあり、東本願寺のお堂が刻まれていて、これはなかなか・・と思ったのですが、合成着色料 タール色素が使用されているようでしたので、購入はやめました。

  男性用の衣類と女性用の衣類とでは、女性が男性用のものを着用しても「ボーイッシュ」とか「活動的」とか言われるのに対し、男性が女性用のものを着用すると「へんた~い♪」と言われる・・・ところがある。なぜなのか? 「女装」が趣味の人というのは、いいかどうかはさておき、別にひとに迷惑かけてるわけでもないのだから好きにやればいいのかもしれないが、志茂田景樹とか見ても変だ。女性が「男性用」を着用しても変ではないのに、男性が「女性用」とされるものを着用すると変なのはどうしてか・・・というと、おそらく、「男性用」とされているものは最初から男性でも女性でもどちらが使用しても問題ないような「中性用」もしくは「両性用」、「男女共用」だけれどもあえて言えば「男性用」くらいのものが多いのに対し、「女性用」とされるものは女性の体つきを強調するようなものがあり、それを男性が着用すると変だ、ということではないか。 いい趣味か悪い趣味かはさておき、そういう趣味で「女性用」を着用する場合は別として、私の場合、男性であるが「女性用」とされているものを使用してみたいと思ったケースとしては、「ブレスレット型の腕時計」というものがある。(株)一条工務店 では10年以上勤続した者には「永年勤続表彰」ということで腕時計をもらえたのだが、その際に遠鉄百貨店の時計部の人に聞いた話なのだが、「ブレスレット型の腕時計」というのはすべて「女性用」で「男性用」のものはない、ということだったが、カジュアルな場で使用するものとして「ブレスレット型の腕時計」を男性がして悪いということはないと思ったのだが、「男性用」の「ブレスレット型の腕時計」はないということだった。それなら「女性用」とされている「ブレスレット型の腕時計」をしてみようか・・と、ふと考えたが、「女性用」とされているものを男性が腕にはめると、「や~い、へんた~い♪」と大喜びして言いそうなヤカラがけっこういそうなので、それでやめた。
  「女装趣味」とかいうことではなく、「女性用」とされているものを男性が使用して着用することでより格好よくすることができる可能性が考えられたものとしては、「ブレスレット型の腕時計」くらいだったが、この真宗本廟(東本願寺)の「総合案内所・お買い物広場」で数珠を見たところ、「女性用」とされるものはたいてい「おとなしめ」のもので、「男性用」と書かれているものというと、「クワッ!」て感じ・・・というのか、「いかにも数珠してますよお」て感じの数珠が並んでいた。数珠というものは、さりげなく、はめているというものの方が私は好みであることを考えると、そこに並んでいたものでは「女性用」とされているものの方が私の趣向にはあったのだが、男性が「女性用」をするのは適切ではないのか。 もう、十年以上前だったと思うが、ある週刊誌に女性アナウンサーが書いていたのだが、イアリングとピアスの違いというのを男性はわからない人が多いが、単に耳たぶに穴をあけるかあけないかの違いだけではなく、イアリングというのは金具で耳たぶを押さえつけるので、その金具を隠す必要があり、どうしても「してますよお」というデザインになりやすいのに対して、ピアスは耳たぶに穴をあけてとめるので、「あ・・、してたんだ」とふと気づくというデザインのものにできる・・という違いがあるそうだ。・・それで、数珠だが「あ・・、してたんだ」と、ふと気づくというようなものは、たいていが「女性用」と書かれており、「男性用」と書かれているものというと、「クワッ!」て感じ・・というとおわかりいただけるだろうか。 真宗本廟は浄土真宗だが、禅宗系の寺では坊さんが「か~っつ!」とか叫んだりするらしいが、そんな感じ・・・。なんか、いかにも「数珠してますよお」という感じ。 それで、思ったのだが、数珠って、男性が「女性用」とされる数珠をしてはいけないのだろうか。 我が家はもともと浄土真宗だったのだが、親戚のお葬式などに出ることもあるわけだが、いかにも「数珠してますよお」て感じ・・という柄じゃないのだが・・・。どうなのだろう・・・。

 「総合案内所・お買い物広場」では、お菓子などの販売はされていて、清涼飲料水の自動販売機はあったものの、食事や喫茶の店はありませんが、真宗本廟(東本願寺)の北側、花屋町通 の向かい側に、「しんらん交流館」という建物があって、そちらで、飲食できるようです。↓
DSC09218.JPG
↑ 「しんらん交流館」
※ 真宗本廟(東本願寺)HP 「境内案内図」http://www.higashihonganji.or.jp/about/guide/

  阿弥陀堂
DSC09192.JPG
( ↑ 東面。 阿弥陀堂門の側。)
DSC09196.JPG
DSC09199.JPG
( ↑ 南面。)
は、内部まで入って参拝させてもらえます。 中央に阿弥陀如来、左に法然(源空)、右に聖徳太子、法然のさらに左に源信(恵心僧都)と2人、聖徳太子の右に龍樹(ナーガルジュナ)と2人。 「と2人」て無責任な書き方ですが、申し訳ないけれども、仏教と浄土真宗の専門の研究者とか坊さんではないので、知らない人名もあります。阿弥陀如来は別として、左側の法然・源信、右側の聖徳太子・龍樹は「知ってる人」・・といっても会ったことはないけれども、少なくとも名前くらいは知っている人。親鸞は御影堂の方で祀られており、阿弥陀堂では親鸞は祀られていないようです。
DSC09197.JPG

  御影堂
DSC09203.JPG
DSC09193.JPG
DSC09204.JPG
↑ 御影堂も内部まで入って参拝させていただけます。 御影堂は、中央に親鸞、その左側は、門主、さらに左は歴代門主。右側は、蓮如。その右に『教行信証』。
  この御影堂で、「法話」というものを誰でも参加して聞かせてもらえるということでしたので、聞かせてもらってきました。
  「法話」とは何ぞや? 「ぼうや~、よい子だ、ねんねしな~♪」・・というのは、そりぁ、『日本むかし話』。
芥川龍之介『杜子春』とか太宰治『走れ、メロス』とか、あるいは通俗小説家 菊池寛の『父帰る』とか『恩讐の彼方に』みたいな、そんなしょーもない話でも聞かされるのか? 「これ、杜子春よ。親孝行せえよお、母を大事にせえよお」とかいう話とか、昔、勝手なことやって家を出て行った父親が戻ってきよったとして、「ああ、お父さん、よくぞ、帰ってきてくれました」と言え! とかいう話。 殺しても殺したりない、八つ裂きにしてやりたい男を追い求めて、ついに見つけたと思ったら、その男は、難路にふさがる岩山をくりぬいて通れるようにしようと、日夜、ノミを岩に打ちつけており、それを待つうちに、早く終わらそうとして協力しているうちに、憎しみも消えていった・・・て、アホか、そんなに簡単に「加害者と被害者をたして2で割ってプラスマイナスゼロ」みたいにされてたまるか!・・という話とか、聞かされるのか? 
  高松から来られた大山さんという方のお話でしたが、
(1) 女子マラソンの有森裕子が、マラソン選手としてまだ一流ではなかった頃に、怪我をしてしまったことがあったが、その際に、監督から「なぜ、怪我をしてしまったのだろう」と考えるのではなく、「せっかく、怪我をしたのだから」と考えては(それを機会に学ぼうと考えては)どうかと言われたそうな。

(2) 浄土真宗で、こういうことを言うのか・・・と思ったのは、「本願なければ、親子も夫婦も他人である」と。「本願」とは、東本願寺という寺での「法話」ですから、「阿弥陀如来の本願」のことでしょう。 うちの父親などは、「朕思うに、我が皇祖こ~そ~はあ、親に孝に、親に孝に、親に孝に、わしに孝に、わしに孝に♪ わしに、わしに、わしに、わしに♪ すべてをすべてを、わしのために、わしのために♪ すべて欧、すべて王、わしのために、わしのために。すべてを犠牲にして、わしのために、ささげ尽く~す! すべてを犠牲にする。すべてをすべてを犠牲にしてわしのために。とってちってたあ~あ♪ どんがん、どんがらがった、ちゃちゃちゃちゃちゃあ~ん♪〔⇒《YouTube-<軍歌>軍艦行進曲(軍艦マーチ)》https://www.youtube.com/watch?v=mTwUiUCO7l0 〕」と毎日毎日、私の眼を指で突き刺すようにして、叫びまくっていたものですが、うちの父親は「クリスチャン」だったらしいのですが、「クリスチャン」の教えとは、ずいぶんと違うものだなあ・・・と思いました。
  うちの父親は「わしはドイツ人で慶應の民族で階級。おまえはチャンコロで浪商の民族で階級。これは『天の神さま』というお方が、お前が産まれる時点でお決めになったことであって、『天の神さま』がお決めになったことを、人間が変えようと思っても変えられるものではないし、変えようと思うような人間を『天の神さま』は決してお許しにはならぬぞ、チャンコロ! この浪商!!! 民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな! ドイツ人には絶対服従でR!〔⇒《YouTube-Wagner "Ride of The Valkyrie" Karajan Bph カラヤン ワルキューレの騎行》https://www.youtube.com/watch?v=ZOTdIhaGEuw 〕」と、毎日毎日、叫んでいました。そういうのが「クリスチャン」らしいのですが、「クリスチャン」よりも浄土真宗の方がいいなあ・・と思いました。
  もっとも、私が高校生の時に読んだ 塚本虎二訳の『新約聖書 福音書』(岩波新書)には、「わたし(イエス=キリスト)よりも父または母を愛する者は私にふさわしくない」というイエスの言葉が載っており、「父母に孝に、父母に孝に」ばっかり言う「奴隷制の擁護者」孔子とはキリスト教は違うと思ったものでしたが、1970年代後半、YMCA予備校高槻校で「主事」というよくわからない役職についていた藤井という男(当時、40代くらい。「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と1日最低3回は言わないと気がすまないという男だったが、まず、学歴詐称と思われる。貧乏人ゆえ、あまり高いものは賭けられないが、牛丼かカツ丼くらいならかけてもいい、あんな早稲田ないって! )が「『聖書』みたいなもん、読んではいかん! 『聖書』なんて、あんなもん、ええことなんてひとつも書いてないんや、あんなも~ん! 『聖書』なんて読むもんと違うんや。あんなもん、読まんでも、洗礼うけて、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、献金はらっておけば、それでええんや、それで。『聖書』なんて読んではいかん。たとえ、読むにしても、相当歳をいってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばええことであって、若いうちに読むというのは絶対にいかん! ましてや、そこに書いてあることを実行しようなどとは、まかり間違っても絶対にか考えてはいかん。ぼくなんかも、クリスチャンとして洗礼をうけて、日曜ごとに教会に行って、献金はらってるんだけれども、それでええことなんや、それでええこと。それでええんや、それで。『聖書』なんてもの、絶対に読んではいかん!」と言うので、この男、そんなこと、思っているのなら洗礼なんて受けなければ良かったのと違うのか・・と思ったのだが、キリスト教の教会で牧師屋さんから洗礼をうけると、うちの母親のような人間から「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」と言ってもらえるし、YMCA予備校で職にありつけるし・・ということで、「特別献金」払って、牧師屋さんから洗礼をうけると、そういうご利益があるという宗教だったらしいのだ。そいつらを見て、私はそいつらを軽蔑したが、あくまでも、そいつらがなってないのであって、キリスト教会がなってないわけではないはずだ、と思っていた。しかし、キリスト教会と牧師屋さんというのは、そいつらを見てなってないやつなんだと思った私の認識がキリスト教会なのか、そいつらの方がキリスト教会として正統なのか・・・、そのうち、よくわからなくなった。もしかして、そいつらの方が、キリスト教会だったのではないか?
 そう思っているうちに、「クリスチャン」というものが嫌いになった。特に「敬虔なクリスチャン」というものは大嫌いになった。「敬虔なクリスチャン」にとって大事なのは、YMCA予備校の藤井が言うように、洗礼・礼拝・献金の3つであり、これが「敬虔なクリスチャン」の三種の神器だったのだ。そして、「わしに孝に、わしに孝に、わしに、わしに。すべてを犠牲にしてわしに尽くす、すべてを犠牲にしてわしに尽くす」というのが「クリスチャン」の教えであり、「『聖書』なんて、読んではいかん」というのが「クリスチャン」の教えだったのだ。お寺に行くと、たいてい、仏像があり、仏さまと対話して帰ることになる。神社に行くと、神さんと対話して帰ることになる。ところが、キリスト教の「教会」というところですと、私の場合だと、「教会」というのは「母の交友範囲」であり、「一度、息子さんをつれてらっしゃいよお」と「教会の人」がおっしゃるらしいのだ。「みんなで、言ってきかせましょうよお」と、おばさんたち、「クリスチャン」のおばさんたちはおっしゃるらしいのだ。だから、「教会」なんて所に、うかつに行こうものなら、おばさんたちに「言ってきかされる」ことになる。おばさんたちは、それが「伝道」だと信じており、それが「神の教え」だと心から思っており、それが救いだと信仰しているので、かなわんなあ~あ・・・なんて思うと、それは悪魔に妨害されてるとか何とか思っておるのではないかと思う。だから、そういうおばさんたちに「言ってきかす」ということをされないようにするには、「教会」という所には近づかない方が良いと思うようになった。
  母が行っていた教会では、私より少し年上くらいだった牧師屋のSさんが「私は家が貧乏やったから、学費が安い大阪経大に行ったんや。家が貧乏やったから、そやから、慶應なんかには行かせてもらえんかった」と「牧師説教」していたらしい。「牧師説教」の最後には「祈りましょう」と牧師屋さんはおっしゃり、そして、皆で「アーメン」と唱えるのだ。母は「アーメン」と唱えて帰ってきて、「S田牧師さんは家が貧乏やったから、そやから、あんたみたいに慶應なんて大学には行かせてもらえんから大阪経大に行きはったんや」と言い、うちの父親は「そうじゃ、その通りや。大阪経大に行った人の爪の垢を飲みなさい」と何度も何度も私に言うのだった。「なんで、大阪経大みたいなもんに行った人がエライんですかあ?」と言ったのだが、「わからんかあ! おまえはその程度のこともわからんのか、このチャンコロ! S田牧師さんは家が貧乏なもんやから、おまえみたいに慶應大学なんか行かせてもらえんもんやから大阪経大に行きはったんやぞ。わからんのか、このチャンコロ、浪商! 大阪経大に行った人の爪の垢を飲めえ! と言うとるんじゃ、このチャンコロ、ロスケ、イタコ!」と言うのだった。「なんで、家が貧乏やったら慶應大学に行けないのですか?  慶應は大学については『国立大学よりは高いけれども私立大学の中では安い方の大学』で『慶應と早稲田なら慶應の方がかなり安いという大学』のはずですが、大阪経大も私立大学の中では学費が安い方の大学と聞きますけれども、慶應と大阪経大はどちらも『国立大学よりは高いけれども私立大学の中では安い方』の大学で、慶應と大阪経大とどちらがより安いのかは知りませんが、もしも、家が貧乏だったけれども慶應大学に行きたかったということならば、日本育英会奨学金を受給して行けばよかったのと違うのですか? 日本育英会奨学金を受給できれば、出してもらえるのは『学費分』ですから、慶應と大阪経大とどちらが学費が安くても高くても行く人にとっては関係ないはずですし、慶應の場合は慶應義塾奨学金という制度があって、日本育英会奨学金を受給した人には自動的に『生活費』を支給するという制度がありますが、他の大学に同じような制度があるのかないのか知りませんが、慶應は大学については家が貧乏な人でも行けるようにという制度が相当ある大学ですから、S田牧師さんが家が貧乏だったけれども慶應大学に行きたかったのなら行けば良かったのと違うのですか? 親の年収が少ないけれども、日本育英会奨学金を受給できる基準よりは多かったということならば、私立の大阪経大ではなく、国立か公立の大学に行くべきだったのと違うのですか? 東大に行けば良かったでしょう。なんで、東大に行かないで大阪経大に行かはったんですか? 東大と大阪経大なら、東大の方が学費は安いでしょう。なんで、東大に行かないのですか?」と私は言ったのだ。すると、母は「何を甘ったれたこと、あんたは言ってますのん。東大なんか行ったら交通費と下宿代がかかりますでしょうが。甘ったれなさんな、あんたはあ」と言うのだった。それで、私は「東大に行くと、交通費と下宿代がかかるということならば、阪大(大阪大学)か神戸大に行ったらよかったのと違うのですか。なんで、大阪大学に行かないのですか?」と言ったのだ。母は「それは、大阪大学よりも大阪経大の方がいいからでしょうがあ」と言うので、「はあ? 大阪大学よりも大阪経大の方がいいですかあ~あ? はあ? そりぁ、世の中いろいろで、人それぞれに考え方はあるのでしょうけれども、一般論としては大阪大学の方がええのと違うのか・・と過半数の人は考えるのではないかと思うのですがねえ。中にはユニークな考え方をされる方もあるのかもしれませんね。S田さんにとっては大阪大学よりも大阪経大の方が『いい大学』だったということですか」と言いました。そう言っても、父は「大阪経大に行った人の爪の垢を飲めよ、おまえはあ!」と言うのだった。私は世界中の人間の爪の垢を飲まなければならないと「天の神さま」というヤツに決められて産まれてきた人種だったらしい。
  私が小学生・中学生の時、母は「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行って、やりたい勉強をして、就きたい仕事につけるようにと思うものやから、それで、無理にでも勉強させようとするものなんや」と何度も言っていた。それで、私もそういうものだ・・と思いこんでしまったが、それは嘘だった。実際に大学に進学する時になって、東大の文学部なり京大の文学部なりに行って、宗教哲学の研究をしたいと思うと、うちの父親も母親も、な~んとかして落してやろうと必死になった。うちの父親は「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言い、「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違います」「大学院に行きたいなどと言う人間というのは、働くのを嫌がるモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる」「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る。宗教を学ぼうと考えるような人間は精神的に病気です。病気は治さんといかん、病気は。ロボトミーとか電気ショックとかやって治したらんといかん。ロボトミーやったるべきや。ロボトミー。電気ショックやったらんといかん、電気ショック、電気ショック♪ 電気ショック♪」と毎日言いまくっていた。『新約聖書』の翻訳者でキリスト教の研究者の前田護郎さんは、大学に進学する時、キリスト教の研究をしたいと思い東大の文学部に進学したいと思ったが受験を認めてもらえず、行きたい学部に行かせてもらえないならと入学試験で白紙で答案を提出して落ちたが、翌年は受けさせてもらって東大の文学部に進学してキリスト教の研究者になったらしいが、実は私も似たようなことをやったのだが、似たようなことをやっても、私は似たようなことはさせてもらえなかった。「なんで、文学部みたいなもん、行かせてやらんといかんのじゃ。甘ったれるな、チャンコロ!」とうちの父親は何度も言っていた。「おまえが産まれたおかげで、おまえを育てるのにカネがかかって迷惑なんじゃ。これから、おまえに働いてそれをまどてもらわんといかんのじゃあ。なんで、文学部なんか行かさんといかんのじゃ」と何度も言われたものだった。ところが、「家が貧乏やったから大阪経大に行った」という牧師屋のS田さんは、大阪経大を卒業した後、トーシンダイ(東京神学大学)という私立大学に行って牧師屋になった。なんで、「家が貧乏」な人が私立大学を2つも行かせてもらえるのか? 東大なら交通費と下宿代がかかるから東大に行かずに大阪経大に行ったという人が、なんで、交通費と下宿代がかかるトーシンダイ(東京神学大学)に行くのか? まったく、わけがわからん。
  さらに、牧師屋のS田さんは、私立大学を卒業して会社に勤めたがうまくいかないので、牧師屋に転職したいと思い、トーシンダイ(東京神学大学)に行きなおしたいという20代のにーちゃんがいた時に、「皆さんで学費を出してあげましょう」などと言いだし、教会員から「特別献金」を集め、私になら私が東大なり京大なりの文学部に行って宗教哲学の研究をやりたいと言うと、「なんで、そんなもん、行かせてやらんといかんのじゃ。チャンコロ」「甘ったれておってはいかんぞ、甘ったれておっては」「宗教哲学などというものを学びたいと言うような人間は、全員が精神疾患です。治療して、二度とそういうことは言えないようにしてやらんといかん。ロボトミーやったらんといかん。ロボトミー♪ 電気ショックやったらんといかん、電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪」と言い、「マルクス『宗教はアヘンであ~る』と言うてお~る! 宗教はアヘンじゃあ! 焼き討ちにしたらんといかん、焼き討ちに。焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ。焼~き討ちじゃあ~あ! とってちってたあ~あ!!!」と何度も何度も言われたものだったが、自分の息子になら、「別に、学費も生活費も出して要りません。自分で働いて行きますから」と言っても、「誰がそんなもん、行かすかあ。おまえが産まれたおかげで、これまで育てるのにカネがかかって迷惑なんじゃ。おまえには、これから働いて、そのカネをまどてもらわんといかんのじゃあ。だ~れが文学部なんか、行かすかあ。絶対に行かせてなるものかあ~あ! このチャンコロめがあ~あ!!!」と言ったくせして、よその息子になら「特別献金」を払う親だった。そして、言うのだった。「わしぁ、聖人やね~ん♪」と。 どうも、「天の神さま」というヤツは、人間が産まれる時点で役割分担というものを決めているようで、牧師屋のS田さんが教会員の人に「特別献金」してもらって、私立大学を卒業して会社員になったがうまくいかないので牧師屋にデューダしたいと考えてトーシンダイ(東京神学大学)に行きたいと考えたにーちゃんに学費を出してやろうと考えた、そのにーちゃんというのは、うちの父親にとっては「特別献金」することによって「わしぁ、聖人なんや」ということにするために人間として決められて産まれてきた人間で、私はそうではなく、「すべて王、すべて央、すべてをすべてをわしのために、わしのために。すべてを犠牲にしてわしのために、捧げ尽くす、捧げ尽くす。いらいらしてきた。とってちってたあ~あ!」のための人間と「天の神さま」というヤツに決められて産まれてきた人間らしい。 その「天の神さま」とかいうヤツ、一回、とっちめてやらんといかん。
  そういう家庭を「クリスチャンホーム」と言うのだが、そういう家庭で育って生活してきたので、いつしか、「教会」というものが嫌いになり、「天の神さま」というヤツも嫌いになった。 キリスト教の「教会」という所に行くと、「『聖書』は読んではいけない」という「キリスト教会の教え」を教えられるようだが、行かなければ、『聖書』というものは書物であり、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介や太宰治の小説を私が読もうが読むまいが勝手であるのと同様に、『聖書』だって読もうが読むまいが私の勝手・・ということになるので、それを考えると、「教会」などという所には行くもんじゃない・・・。『聖書』よりも、「教会」の方が、あんなもん、何一つとしていいことなんてないんやから、あんなも~ん! と言うべきだ、と思うようになった。
  だいたい、私になら出してもらえない学費をうちの親から「特別献金」してもらってトーシンダイ(東京神学大学)に行かせてもらって牧師屋になったやつの「牧師説教」なんて、聞く耳は持ち合わせていない。まず、「子供たちのパンをとりあげて子犬にやるのはよろしくない」というイエスの言葉が『新約聖書』の「福音書」にあったはずだが、自分の息子になら出さないカネをよその息子に「特別献金」させてやろうという牧師屋の「説教」なんて、聞く耳は持ち合わせていない。
  「キリスト教の考え方」としては、「『聖書』に帰れ」というルターの言葉のように、その考え方がキリスト教として正しいか間違っているかを判断する基準は『聖書』であるとすれば、「私(キリスト)よりも父または母を愛する者は私にふさわしくない」というイエスの言葉が『新約聖書』に書かれているように、まず、キリスト教の神の教えというものがあって、「親を大事にせえよお。わしを大事にせえよお」というのは、その後のもののはずで、キリスト教の神の教えをなくしたならば、「親孝行せえよお」などと言っても意味はない・・と考えるべきであろう・・と私は思ってきたのだが、しかし、実際の「クリスチャン」はそうではなく、「すべて央、すべて翁、わしのために。わしのために。わしのために、すべてをすべてを犠牲にして、わしにすべてを捧げ尽くす」という考え方をしている人が「クリスチャン」には多く、牧師屋もそういう人に尽くすのが牧師屋の仕事と思っている人が多い。そこで言う「すべて翁、すべて欧、わしのために。すべてを犠牲にしてわしのために、わしのために」という「クリスチャン」の教えで言うところの「すべて」には「キリスト教の精神」もエホバもキリストも「モーセ十戒」も「山上の垂訓」も含まれている。そうなると、「クリスチャン」の教えて、それはキリスト教なのか? 「クリスチャン」というのはキリスト教ではないものをキリスト教だと思いこんで信仰している人たちではないのか? それから、考えると、「本願なきところには、親子も夫婦も他人である」と、「阿弥陀如来の本願」というものがあってこそ、親子も夫婦も成り立つのだ、という浄土真宗の考え方の方が、人間的であり、いいと思った。

(3) 非行の少年少女や、家族からニグレクトにあった子供たちの言うことを聞くと、「産まれてきて、ごめんなさい」といったことを言う。 そうではない。 「産まれてきてくれて、ありがとう」と、そう考えるべきものなのだ・・そうだ。なるほど・・・。
  そういえば、うちの父親は、毎日毎日、私の眼を指で突き刺すようにして、「よくも、産まれやがってからに。よくも、産まれやがってからに! よくも、よくも、産まれやがってからに、チャンコロ!」と、毎日毎日、言いまくったものだった。「『産まれてきて、申し訳ございません』と言いなさい」と言うので、「産まれてきて申し訳ございません」と言ったのだが、「産まれてきて申し訳ございませんと心の底から思えよ、チャンコロ! 浪商! 浪商のくせして北野高校に行くなちゅうとんじゃ、この浪商めが! 浪商は高校には行くことないんじゃ、浪商。高校は義務教育とは違うんじゃ。義務教育ではないからには、浪商は高校には行くべきではないんじゃ、浪商。それやのにからに北野高校に行きやがってからに、この浪商! おまえは北野高校に行ったと思うておるかもしれんけれども、たとえ、北野高校に行っても、それでもお前は浪商やねんぞ、浪商。天の神さまがおまえを浪商とお決めになって、おまえはこの世に産まれてきてんぞ、浪商。よくも産まれやがったなこの浪商めがあ、このチャンコロ~お!!!」と、毎日、叫んでいた。あのおっさんに「産まれてきてくれてありがとう」と言いなさいなどと言っても絶対に言うわけはない。私の場合は、人工中絶に失敗して産まれてしまった子供の可能性もあるのだが、それで、「よくも、産まれちゃがったなあ、このチャンコロめが、よくも産まれやがってからに、この浪商めがこのチャンコロ!」と何度も何度も言っていたのかもしれないが、物事の考え方としては、「よくも産まれやがってからに」ではなく「産まれてきてくれて、ありがとう」だと思う。
  「産まれてきて申し訳ございませんでした、と言いなさい。産まれてこなければよかったのに産まれてきたということを自覚して、親こっこっこ、親こっこっこ、親こっこっこの為にすべてを犠牲にして捧げ尽く~す。すべてを犠牲にしてわしのために捧げ尽くす。親こっこっこのために。それが人間の道というもんや、それが。とってちってたあ~あ!」ではなく「産まれてきてくれて、ありがとう」だと思う。そうでなければ、産まなきゃいいのだ。私は何度もそう思ってきた。「ポチパパ」チャンネルという大阪府富田林市で犬の愛護活動をやっている北村さんのYouTubeの動画を見ていたところ、家の入口脇に狭いクレートに犬を何か月も閉じ込めてまったく外に出さずに糞もそこにさせっぱなしにしていたという犬について、「『そんなことするなら、犬、飼うな』と言いたい」と話されていたが、「産まれてきて申し訳ございませんでした、と言いなさい。産まれてこなければよかったのに産まれてきたということを心の底から反省して、親こっこっこ、親こっこっこのために、わしの為にすべてを犠牲にして捧げ尽く~す。とってちってたあ~あ!」という考え方をするのなら、「そんなことするなら、犬、飼うな」と同様に、「そんな考え方をするなら、子供、作るな」と私は言いたいが、うちの父親が言うには「おまえが産まれたんじゃろうが、おまえが。産まれなければよかったのに、おまえが産まれてしもうたんじゃろうが」と言うのだったが、性交はやったけれども妊娠は望まないのに妊娠してしまって産まれてしまった、という子供ならどこかに養子にやってくれればよかったのに・・と、ずっと思ってきた。

(4) 家に仏壇を設ける時に、「自分の家に仏様をお迎えする」と考えてはいけない。そうではなく、「仏様の家に自分たちが住ませてもらっているんだ」と考えるべきなのだ・・・そうだ。なるほど・・・。

  御影堂という所でしばらく時間を過ごしてみたいと思い、「法話」てどんな話をされるのか、「親に孝行せえよお。すべてを犠牲にして親に孝行せんとばちあたるぞ。地獄に落ちるぞ。針の山とかで鬼に拷問されるぞ。戸締り用心、火の用心」とかいうようなしょーもない話か・・・とも思いながら聞いてみたが、いい話だった・・と思う。
  話者は「高松からまいりました」とのみ、自己紹介をされたのだが、『仏教新発見21 西本願寺 東本願寺』(「仏教新発見」2007.11.11.号。 朝日新聞社)に掲載の「役に立つ宗派のQ&A」に、
《 Q 浄土真宗の信者を「門徒(もんと)」というのはなぜですか。
  A 非僧非俗の立場をとる浄土真宗では、僧と俗の信徒、寺と檀家の差が小さく、皆、同じ信仰の仲間、すなわち、御同朋(おんどうほう)とされます。それで一般の信徒も、誰かの信者とか檀家の人というのを避けて、同じ門流(もんりゅう)(教え)に属する仲間という意味で昔から「門徒(もんと)」といいます。 》 ということからなのかどうか・・わかりませんが、いい話だったと思います。

  真宗本廟(東本願寺)は、拝観料を払わなくても入場させてもらえる寺で、「法話」も講演料など払わなくても聞かせてもらえました。 拝観料は求められませんが、そのかわり、拝観料を入口で求められる寺に行った場合よりも多めの金額を賽銭箱に入れてきました。
 「法話」は、ずう~つっと正座してなきゃいけないとかいうこともないようでしたので、リラックスして聞かせてもらいました。 

  次回、4回目では、ギャラリーの展示や菊門・玄関門など・・・

  (2020.10.23.)


☆ 真宗本廟(東本願寺)参拝。
1.京都駅から北に歩けば、真宗本廟(東本願寺)。京都駅から程よい距離。東本願寺の前の道はトラックの休憩所ではない。使用者はトラック運転手の休憩場所・待機場所をきっちりと確保せよ。https://shinkahousinght.at.webry.info/202010/article_7.html
2.阿弥陀堂門・阿弥陀堂、御影堂門・御影堂、鐘楼、手水屋形。正門はどちらか・・。裏口入学する者は正規に入試に合格しようとする者を妨げる。https://shinkahousinght.at.webry.info/202010/article_8.html 
3.境内から阿弥陀堂門・阿弥陀堂、御影堂門・御影堂。「法話」。「しんらん交流センター」。〔今回〕
4.大寝殿・菊門・玄関門。「ギャラリー」。 街の景観との調和は悪くはないが、交番は交番とわかりやすい意匠にする必要はないか。https://shinkahousinght.at.webry.info/202010/article_10.html 

親鸞 (岩波新書 青版 853) - 野間 宏
親鸞 (岩波新書 青版 853) - 野間 宏
真空地帯 (岩波文庫) - 野間 宏
真空地帯 (岩波文庫) - 野間 宏
狭山裁判〈上〉 (1976年) (岩波新書) - 野間 宏
狭山裁判〈上〉 (1976年) (岩波新書) - 野間 宏
狭山裁判〈下〉 (1976年) (岩波新書) - 野間 宏
狭山裁判〈下〉 (1976年) (岩波新書) - 野間 宏

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック