真間山弘法寺・手児奈霊堂(市川市)と桜。薬漬けで私立医大裏口入学は反社会的勢力。種無ブドウを皮むいてもらって食う男は人間じゃない。「心理学」の欺瞞。

[第768回]
  桜の季節というと、3月末から4月頭・・ということで、千葉県で桜の名所と言われる寺社のひとつらしい、千葉県市川市 真間4丁目 の弘法寺に行ってきました。 弘法寺は、日蓮宗の「本山」「由緒寺院」らしい。
  もっとも、「本山」といっても、それぞれの宗派の一番の寺が「本山」であるわけではなく、たいてい、宗派の中に何何派があって、それぞれに「大本山」とか「総本山」とかあって、その下に「本山」がいくつもあるということが多いし、日蓮宗というと、有名な寺だと、身延山久遠寺、それに池上本門寺に、市川市だと中山法華経寺。千葉県には日蓮が修業したという清澄寺や日蓮の生誕に関係する誕生寺とか。 悪いとは言わんが、そういった寺に比べると、弘法寺(ぐほうじ)は知名度は低い。
  弘法寺は真間川の北、旧坂の山の上にあり、知名度というなら、山の下にある手児奈霊堂の方が知名度は高い。 
※ 《ウィキペディアー日蓮宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97

  手児奈霊堂というのは、高校の古文で扱った、山部赤人の歌、
 我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ
 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ
の「真間の手児奈」のお話の場所に建つ。この歌だが、名前が似ているので、え~っとどっちだっけ? 山上憶良だっけ、山部赤人だっけ? と迷うのだが、山部赤人である。
  何人もの男性から思われて、あちらを立てればこちらが立たぬと思い悩み、自ら命を絶った乙女・・というのが、「真間の手児奈」であり、そのお話に由来するもので、「受験古文のベテラン」なら知っているはず。慶應の内部進学の教授は知らんだろうけれども、彼らは「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と観念的に教えられてきているので、私ならば「あ、あの歌の場所の『葛飾の真間』というのは、市川市の真間のことだったのか・・・」と感激するところだが、・・慶應の内部進学の教授(=ブタ人間)はそんなことは絶対にない。何しろ、それは「受験勉強」であり「害がある」と「幼稚舎から慶應」の人は小学校の1年の時から、「中等部から慶應」の人は中学校1年というよりも、中学校に入る前から慶應中等部に入る予定でいたはずだから、小学校の途中からは「小学校から高校まででやっているものは受験勉強だ。害があるんだ」と観念として叩き込まれているので、私みたいに、「ああ、ここがあの『真間の手児奈』の歌の場所なんだ・・・と感激するなんてことはありえない。「そんなものが、何の役に立つんだ」と彼等慶應内部進学は罵るだろう。なんか、かわいそうな教育受け取るなあ・・と私は思ったのだが、彼らはそれを誇りにしており、それを自慢にしている。なにしろ、そういう態度のことを「慶應心理学」は「独立自尊」「自我が確立されている」と言うらしいのだ。
  なんか、変なの。そんな観念を非論理的・非科学的に吹き込まれて疑問を感じないような精神態度が、なんで、そんな態度が「独立自尊」なんだ? なんで、そんな精神構造が「自我が確立されている」なんだ? 逆と違うのか? ・・と私などはつい考えてしまい、又、なにしろ、正直な性格なもので、何かの折にふと口に出てしまったりするのだが、そうすると、「慶應心理学」から、「受験勉強の悪影響だ」とか「自我が確立されていない」とか「わざわざ無理して逆らっている」とか「アイデンティティーがない」とか「未成熟だからそういうことを言うのだ」とか「診断」されることになる。怖いわあ~あ、「慶應心理学」というのは。あいつらにとっては、自分たちが気に入らない相手は「病気」か、それとも、「自我が確立されていない」「アイデンティティーがない」「未成熟」「思考の硬さが気にかかります」といった「準病気」、もしくは「なんとかかんとかシンドローム」「なんじゃかんじゃ症候群」かいずれかだということになる、それならどういうのが「正常」なのかというと、慶應内部進学が「正常」らしいのだ。まるで、小此木啓吾みたいなやつ! ・・というよりも、小此木啓吾というのは幼稚舎から慶應、「揺りかごから墓場まで慶應」の人間、「慶應的精神空間から外に出れないシンドローム」であり、まさにその ” 小此木啓吾「おまえはそんなにえらいのか」症候群 ” みたいな人間が慶應内部進学には大変多い! そもそも、「福沢精神」とか慶應内部進学は矢鱈と言いたがるが、そのわりに彼等内部進学は福沢諭吉の著作や伝記といったものを読んでいない。福沢諭吉の著作も伝記も一冊も読まない者がなにゆえに「福沢精神」なのか?  なんてことを言うと「独立自尊の精神がない」とか「自我が確立されていない」とか「モラトリアム人間病にかかっている」とか「診断」されることになる。要するに、内部進学にとって気に入るか気に入らないかで「自我が確立されている」か否かが決まるのだ。「独立自尊」というのは、実際にどうであるかにかかわらず、内部進学の人間とそれにへこへこする者のことを「独立自尊」と言うのである。まあ、なんとも、ちっぽけな「独立自尊」もあったもんだ、と思う・・・なんてこと言うと、「独立自尊の精神がない」「自我が確立されていない」「精神的に未成熟」とか「診断」される。まったく、怖いわこわいわ怖いわこわいわ・・・、ほんとに。
   そういえば、高校の「現代国語」の教科書に取り上げられていた題材で、「作家で精神科医」の なだ いなだ の『人間、この非人間的なもの』(ちくま文庫)で、戦中、「どうも、日本は負けそうだな」と口にしたところ、「おまえはそれでも日本人か」と言われたもので、「おまえはそれでも日本人か」と言われても、それでも日本人なんだからしかたがないじゃないか・・と思ったものだが、この「おまえはそれでも日本人か」という言葉には、自分とは違うタイプの人間の存在を認めない、反民主主義的、ファッショ的な意識がそこにあると なだ いなだ は述べていたと思う。私もそう思った。そして、「おまえはそれでも◇◇か」といった言葉を軽々しく口にする人間というのは、それだけ、教養のない人間、思考にファッショ的傾向のある人間だと考えるべきであろうと思ったのだった・・・が、ところが、慶應大学においては、内部進学の人間および「頭が内部進学」の人間とその追随者を中心として、「おまえはそれでも慶大生か」という文句がしばしば口にされたのだった。私も言われた。そういう反民主主義的態度を取る者のことを「思考が柔軟」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「スマートな慶大生」とか「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか「独立自尊の精神がある」とか「福沢精神を身に着けている」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか、さらには「ギャルにもてもて」とか言うらしかった。そう言うとったのだ、「ギャルにモテモテの慶大生」とかいうやつが。《「現代国語」の教科書に、なだ いなだ の文章が載っていたでしょう、「おまえはそれでも日本人か」なんて言葉は、それは自分とは違ったタイプの人間の存在を認めない民主主義とは反対の思想からくる言葉だと》なんて言うと、「受験勉強の悪影響だ」とか「受験勉強が原因で思考が硬い」とか罵られることになる。・・そして、「慶應心理学」はそう「診断」するのだった。しかし、私は、なだ いなだ『人間、この非人間的なもの』(ちくま文庫)などの愛読者であり、「思考が柔軟な慶大生」とか「ギャルにもてもて」とかいうお方たちのような「おまえはそれでも慶大生か」という、戦中の「おまえはそれでも日本人か」というものと同型の思考というのがいいとは思えなかったし、そこで「慶應らしい慶大生」の思考に合わせろと命令されても、それが「福沢精神」だと言われても、「なんでえ?」と思ってしまうのだった。福沢諭吉という人はそんな考え方はしていなかったはずだ・・と私は思ったのだったが、そんなことを言うと、「おまえはそれでも慶大生か」と言われる、慶應はそういう学校だった。そういう男が好きな「ギャル」にもてたいとは思わなかったので、そんな「ギャルにもてもて」になんてなりたいとは思わなかった。
  「どのような賞を受賞しているかで人の値打ちが決まるのではない。どのような人が受賞しているかでその賞の値打ちが決まるのだ」と、なだ いなだ は『娘の学校』(中公文庫)で書いていたが、私もそう思う。「ギャルにもてもての慶大生」タイプの男が好きだというような「ギャルにもてもて」になんかなってもしかたがない。毛沢東は「敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない。なぜなら、もしも、我々が敵によって反対されないならば、それは敵と同様に腐敗していることを意味し、我々の行動が敵から反対されるならば、我々の行動が敵とは一線を画しているということを意味しているからである」と述べていたが、「慶應タイプ」の男が好き! なんていうようなそんな「あほギャル」に好かれないならば、むしろ、それは「大変けっこうだ」と言うべきことだ、と思っていた。今もそう思っている。「慶應心理学」から悪しざまに罵られるならば、それは、むしろ、「大変けっこうだ」と考えるべきことであろう。それは「慶應心理学」とは一線を画していることを意味しているからである。

   それで、だ。「慶應心理学」から「受験勉強の悪影響だ」とかなんたらかんたらくんたらこんたら言われるかもしれんが、その「葛飾の真間の手児奈」にちなむ「手児奈霊堂」が市川市真間にある。 ↓ 
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↑ 今回は、桜との関係での訪問なので、掲載する写真は「桜が一緒に移っている写真」を優先します。
「手児奈霊堂」とも「手児奈霊神堂」とも言うらしい。
   同じ敷地内に、真間稲荷神社と池がある。その池が手児奈が身投げをした池なのかどうかは、それはわからない。そんなに深くはなさそうだが、「この池で生き物をとってはいけません」という掲示が出ていたから、手児奈に関係する由緒ある池なのかもしれない・・が、手児奈の話というのは、お話であって実際にどうだったのかはわからない。

最寄駅は、京成本線「市川真間」か「国府台(こうのだい)」か、JR総武本線「市川」。 JR「市川」からだと、北口に降りて、そのまま、北にまっすぐ行くと、手児奈霊堂の東側に行く。 今回は、クルマで行ったが、手児奈霊堂訪問は2回目だが、前に行った時には付近に時間パーキングはなかったと思ったが、今はすぐ東にもあり、他にも周囲に何か所かある。

  同じ敷地の中だが、手児奈霊堂の南西側に、真間稲荷神社の社殿がある。↓
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( ↑ 「真間稲荷神社」。 右の建物が「真間稲荷神社」の社殿。正面は社務所。 )

  真間稲荷神社は、名前の通り、神社であろう。 手児奈霊堂はというと、「真間の手児奈」を祀ったものだが、寺ではなさそうだが、神社というわけでもないか。 どっちでもないみたいな感じ。

  それで、手児奈霊堂などのあるあたりは、真間川のすぐ北で平地だが、そのすぐ北に、すくっと急勾配で高くなる山があって、その山の上に 弘法寺がある。
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↑ 「真間万葉顕彰碑」というのが、市川市指定重要文化財 らしい。
そこにある赤い橋・・といってもその下に水は流れていないのだが、それが「真間の継橋(つぎはし)」というものらしい。
かつて、洲から洲へ橋を渡していたことから、現在では必要ないものだが、史跡として橋を作った、というもののようだ。

  「真間の継橋」は、手児奈霊堂の南西のあたりにある。 「真間の継橋」のあたりから弘法寺を見たのが、↓
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クルマで、この山の上、弘法寺の北側のあたりに行く道もあるようだが、やはり、「寺社の参拝は、正面・正門から、というのが基本」であるんから、どうしても、この石段を登れない高齢者はしかたがないと思うが、そうでなければ、少々、階段があっても、坂があっても、「なんだあ、坂。こんなあ、坂。なんだあ、坂。こんなあ、坂」てもので、登ろうではないか。 なにしろ、世の中、何が嫌いというて、裏口入学ほど嫌いなものは、おまへん!!! ↓
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  裏口入学は人間のすることやおまへん!!!  1970年代後半から1980年代、父親の「親友」の医者屋のM川(男。当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住。自称「金沢大医学部卒」だったが怪しい。実際は、M川自身も私立金権関西医大裏口入学か、もしくは、「金沢」という地名がでてきたということは、金沢大医学部ではなく、金沢にある私立金権医大か、そこらではないか)が、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネでドバカ息子を私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させたというのを自慢しておった。まず、私の感想としては、裏口入学というのは、それは、たとえ、やるとしても、「恥ずかしそうに」「こそっと」やるものであって、自慢するものとは違うと思ったのだったが、ところが、M川は自慢するのだった。「わしなんかは、思考が柔軟なもんやから、だから、うちの息子は関西医大裏口入学なんじゃ。きみなんかとはそこが違うところなんじゃ。どうじゃ、わかったかあ~あ!」と言われたのだったが、それは「そうですかあ~あ。裏口入学とは、さすがは、先生。よっ、おえらい!」とか言ってほめにゃならんもんなのか???  
  父は「そうでんなあ」と言い、私に「どうじゃ。わかっとんのんか、チャンコロ! おまえとは違って、M川先生の息子さんは裏口入学やねんぞお。わかっとんのんか、チャンコロ! わかっとんのんか、チャンコロ! わかっとんのんか、このチャンコロめがチャンコロ! M川先生の息子さんはおまえとは違って裏口やねんぞおお~お。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。裏口入学した人の爪の垢を煎じて飲みなさいんか、このチャンコロ!」と言うのだった・・・・が、裏口入学すると、なんか、エライんかあ~あ?????
  私は言ったのだ。「裏口入学した人って、何かえらいのですかあ?」と。すると、父は言うのだった。「わからんのんか、そんなことも!」と。 「はあ~あ、ぼく、頭悪いからか、どうも、ようわかりませんのんですけどもねえ~え。なんで、裏口入学した人がえらいんですかあ?」と私は言ったのだったが、父は「わからんのか、その程度のことも。おまえは、そのあたりが思考が硬いんじゃ、チャンコロっ! おまえとはちごうて、M川先生の息子さんは、関西医大裏口入学やねんぞお~お!!! 裏口入学てことは、思考が柔軟ちゅうことなんじゃ。わからんのんか、その程度のことも!!!」と言うのだった。
  「なんで、裏口入学した人が『思考が柔軟』なんですかあ~あ? そんなに『思考が柔軟』なら、その柔軟な思考力を生かして、京都大学医学部でも東京大学理科三類でも、実力で現役で通って行かはったらよろしいのと違うんでっかあ~あ? なんで、そんなに『思考が柔軟』な方が、関西医大やなんてどこの馬の骨かわからんようなわけのわからん私立医大に、裏口入学やなんて、そんな汚らわしいもんして行かんといけませんのお~おん??? ぼく、頭悪いからなんか、さっぱりわかりませんわあ」と。
  すると、父は「わからんのんか! そのあたりが、おまえの思考が硬いところなんじゃ。反省せえ、チャンコロっ! 反省して、裏口入学した人の爪の垢を飲みなさいんか、チャンコロっ!!!」と言うのだった。
  今もって、なんで、裏口入学した人がエライのかわからんし、なんで、裏口入学した人が「思考が柔軟」なんかも、さっぱりわかりまへん。 やっぱり、ぼく、頭悪いんやろうかねえ・・・。 しかし、「裏口入学ちゅうことは思考が柔軟やから裏口入学いうことなんや。そんなこともおまえはわからんのんか、このチャンコロっ!」といくら言われても、私が「思考が柔軟」であってもなくても、我が家には裏口入学でどこかの「大学」に入れてもらえるようなコネもなければカネもないので、「思考が柔軟」か何か知らんが、大学に行きたければ試験に合格して行くしかないのだった。医者屋ならば、薬漬け・検査漬け・毒盛りして稼ぐ道具としての「患者」を所有しているであろうけれども、我が家にはそういう「カネのなる木」はなかったのだから、試験に合格して行くしかなかった。
  ロシア民謡の「ドビヌーシカ」、日本では「仕事の歌」という題名で歌われる歌の歌詞に「イギリス人は利巧だから、水や火などを使う。 ロシア人は、歌を歌う。ドビヌーシカの歌を♪」というものがあるのだが、「医者屋人は~、利巧だからから、患者を薬漬けにして裏口入学する~♪ 私らは、実力で試験に合格して入る~♪」て、そんな感じかな・・・。
※ 《YouTube-【ロシア語】仕事の歌 (Дубинушка) (日本語字幕)》https://www.youtube.com/watch?v=rk0C1GputJ8
  父からは、毎日毎日、鼻の頭とか眼を指で突きさすように指さされて言われたものだった。「わかっとんのんか、チャンコロ! 天の神さまは、人間を生まれる時点で、人を支配するための民族と人に支配されるための民族とに分けて御造りになっておる。ドイツ人とかアメリカ人は人を支配しなければならない民族で、わしとかM川先生とかはドイツ人でアメリカ人の民族なんや。それに対して、チャンコロは常に人から支配されなければならない、常に人から号令かけられなければならない民族で、あんたあはチャンコロで支配されるための民族。民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!!!」「ゆめゆめ、民族の違いを忘れてはならぬぞ、チャンコロっ!」と。 なるほど、たしかに、私と医者屋民族とは「民族の違い」があるわけである。医者屋民族は、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしてそのカネで裏口入学で私立金権関西医大に入る。私らは、そんなルートはない。大学に行きたければ、実力で試験に合格して行くしかない。裏口ではないが、その中間が、慶應内部進学というものだろう。彼らは、公立進学校出身者に比べると、実態も意識もずっと裏口に近い。私立受験校出身者も公立進学校出身者に比べると私立だけあって裏口側にその分だけ近い。公立進学校出身者というのは、だから、慶應内部進学の教授からするとおもしろくない存在だったようだ。おもしろくないだろうから、そういう人間は、慶応大なんか行くよりも公立進学校の人間の大学 京都大学に行けばよかったのかもしれないが、なんかしらんけど、内部進学の学校、「最低でも高校から行った人間が本物の慶大生」とかいう「大学」に行かされてしまった。そんな「大学」に行かされるくらいなら、「大学」なんか行かない方がいいとはっきりと言ったのだが、暴力と強制と脅迫で無理矢理行かされてしまった。小学校の1年から、同級生が遊んでいる時も勉強してきたはずだったが、それをすべてまとめてドブ中にドボンと捨てさせられたようなものだった。
  ・・・・ともかく、「裏口」から入るのは嫌いだ。裏口から入るくらいならば、たとえ、急坂であろうが急階段であっても、歯をくいしばってでも、たとえあえぎながらでも、意地でも正門から入るのだ。「わしとかM川先生とかはドイツ人でアメリカ人やねんぞ。おまえは、ロスケでイタコでチャンコロなんじゃ、このチャンコロ! このロスケ! わかっとんのんか、このロスケめがこのロスケ!!!」と毎日毎日言われてきた者としては、「ロスケ」としては、「チャンコロ」としては、正門から入るためならば、急坂でも急階段でも登ろうではないか。たとえ、登るのが苦しくても、その急坂・急階段をあえぎながらでも自力で登り切って入ってこそ喜びがあるのである。 「医者屋人は裏口から入れ! 我らは正門から実力で入るぞ!」 たとえ、『医者ちゅうもんはきみなんかとちごうて思考が柔軟なんじゃ』と医者屋族・裏口族から罵られようとも、正門から入るぞ、正門から!!! ・・・ということで、急階段を登りきると、↓
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↑ 「仁王門」。 額には「真間山」と書かれている。 弘法寺の山号は「真間山」。 「真間山弘法寺」である。

( ↑ 真間山 弘法寺。 )
 「赤旗の歌」の替え歌に、「金持ちは~、飛行機に~。乗るぞ、我らは国鉄に~♪」というのがあったが、
「医者屋人は~、裏口で~、入るぞ、我らは実力でえ~♪」だ。
※ 《YouYube-赤旗の歌》https://www.youtube.com/watch?v=jMf-qLljzNg&list=RDjMf-qLljzNg&start_radio=1
「医者屋人は~♪、裏口で~♪、入るぞ、我らは実力で~♪」と歌ってみてください。節に合いますでしょ。毎日、歌っています。
 「卑怯者~♪、裏口で~え!、入れ、医者屋は裏口でえ~え♪」と。

  仁王門の右手に、ちょっと変わった感じの建物があるが、↓
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↑  「鐘楼堂」らしい。 
《 「仁王門」とともに、真間山弘法寺が明治の大火の際、被害に遭わなかったのが「鐘楼堂」である。真間山では、朝6時と夕方6時に山務員による「打鐘」が行われる。》( 弘法寺HP 境内案内 http://mamasan.or.jp/keidai.html )
  真間山弘法寺HP 「弘法寺とは?」http://mamasan.or.jp/howto.html に、
《 明治二十一年(1888)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治二十三年(1890)に再建されたものである。》とあるが、たしかに、祖師堂にしても、本殿・客殿にしても、新しそうだが、仁王門・鐘楼は、見るからにも歴史がありそうな建物である。

  仁王門をくぐって正面に、「祖師堂」。↓
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↑ 仁王門をくぐって正面の位置にあるのが祖師堂というあたり、日蓮宗の寺というのは、祖師 日蓮の存在が大きいということなのだろうか・・・と思ったのだが、真間山弘法寺HPの「境内案内」 を見ると、
祖師堂は《 宗祖 日蓮 大聖人。開基 伊予阿闍梨 日頂 聖人。第二祖 富木日常 聖人(常忍公)をお祀りしております。・・・》と出ている。
  日蓮は誰でも知ってるとして、「日頂」と「富木日常」とは誰なのか?

  そもそも、この場所に寺が建てられたというのは、どういう由緒なのだろう?  日蓮宗の寺であれば、遠くない場所、市川市と船橋市の境目付近の市川市に中山法華経寺があるわけで、どっちが上とか下とか簡単に言えるものでもないとしても、世間一般には中山法華経寺の方が知名度はある。 そう遠くない場所に有力な日蓮宗の寺があるのに、ここにも、けっこう敷地面積もある寺が建てられたのはどういう経緯だろうか?
  真間山弘法寺HPの「弘法寺とは?」http://mamasan.or.jp/howto.html によると、
《 ここ真間山、弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(737)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。》
ということに由来するらしい。 手児奈霊堂と弘法寺はすぐ近くにあるが、敷地面積は弘法寺の方が広いが、手児奈霊堂の方が知名度はある、少なくとも「受験古文のベテラン」にとっては「真間の手児奈」の歌に由来の手児奈霊堂というと、「おお、ここが山部赤人の歌の場所かあ~あ・・・」と感激する所であるのだが(慶應内部進学の教授からは「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と言われるところだが。慶應の内部進学の教授というのは、自分が知らんこと・自分ができないことは何でもかんでも、受験に出ないことでも、入学試験にない科目に関するものでも、「受験勉強だ」にしてしまい、益になるか害になるか検討することなくことごとく「害があるんだ」と決めつけ断定するのだが、そう考えるように観念的に教育〔調教〕されてきた人たちなのだが)、この真間山弘法寺のホームページの「弘法寺とは?」の文章を見ると、真間の手児奈のお話があるこの地に行基が来て、その話にちなんで寺を建てた、というもので、弘法寺と中山法華経寺とでは、今現在は中山法華経寺の方が全国的知名度は高いが、弘法寺の方がむしろ歴史は古いようだ。もっとも、「弘法大師が・・・された」とかと同じく、「行基が・・・された」という史跡は日本国中、いっぱいあるし、京都から福岡県にかけては「菅原道真が大宰府に流される際に立ち寄られた」という神社もいっぱいあって、もし、それが本当ならば、菅原道真は罪人扱いであったわりにはずいぶんとあっちやらこっちやらに立ち寄ったものだということになるのだが、源義経がここでどうしたとかいう場所とかもけっこうあって、そういうものがすべて本当かどうかはわからない。山梨県には「ほうとう」という うどん だけれどもけっこう腹持ちのいい うどん料理があるのだが、山梨県人は「山梨県は米はとれないけれども野菜はとれる。それで、武田信玄が、野菜がいっぱい入った腹持ちのいい麺類の料理として『ほうとう』を作った」なんて言うのだったが・・・、せっかく、おっしゃってるのに申し訳ないけれども、「ほうとう」を考えたのは、たぶん、武田信玄ではなく「山梨県在住だった誰か」だと思うな・・。それで、真間の手児奈の哀話を知ってかわいそうに思い、そのすぐ近くの山の上に寺を建てたという坊さんがいたとして、それが行基だったのかどうか、実際に一宇を建てたのは行基ではない無名の坊さんだったけれども、「無名の坊さんが建てた」よりは誰か有名人が作ったことにした方がええやろ、誰がええかな、行基あたりがええのと違うか・・ということで「行基が建てた」ことになった・・・なんて可能性もないとは言えないかもしれない・・・が、比較的古くからあった寺なのだろう。
  今となっては昔、1992年に(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ に入社した時、「ビーイング」の求人広告を見たところ、関連会社として
「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)、
 (株)一条U.S.A.(ポートランド)」
と書いてあったのだ。来場客・見込客に渡すカタログにも同様に書いてあった。この「(株)一条U.S.A.(ポートランド)」については、アメリカ合衆国で第2位の材木会社のエビソンランバー社から「べいまつ(ダグラスファー)」の梁桁材を購入していたが、日本の商社から購入するよりも、エビソンランバー社から現地で購入して現地で製材して日本に船で運んだ方が目が詰まったいい「べいまつ(ダグラスファー)」を購入できる、ダグラスファーでも、カスケード・セミカスケード・コースト・ツーボードとランクがあって、現地で購入すると、カスケード材・セミカスケード材が買えるのに対して、商社を通じて買うと、セミカスケード材かコースト材になるということから、現地で購入するようにしているので「べいまつ(ダグラスファー)」でも他社よりも目が詰まったいい「べいまつ(ダグラスファー)」を使用しています・・・と研修を講師役できた静岡県のどこだかの営業所長だった石橋さんが言い、又、工場見学会では役員で企画室室長で初代社長の義理の弟だということだった鈴木さんがハンドマイクもってお客様に言うとってそれが「売り」のひとつであったのだが、実際には、現地で購入したものと商社を通じて購入したものと両方を使用していて、個々のお客様の家にどっちが入るかはわからない、ということで、「それだと、嘘ついてることになれへんの?」なんて思ったものだったが、それを、「アメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに『(株)一条U.S.A.』という材木会社を(株)一条工務店が作った」と言っていたのでしたが、ふと気づいた。あれは、実際は、エビソンランバー社の社屋の中に「(株)一条U.S.A.」という会社の部屋を1部屋作っただけ・・なんてことないか? と。それを某営業所長に話したところ、「違う、違う~う。1部屋なんて、そんなもん、ないない~い。絶対、そんなもん、ない~い。あっても、机1個か電話1本くらいのもんや。机1個か電話1本あるかどうかや。1部屋なんて絶対あるわけない~い!!!」と言うので、「はあ、そうかもしれませんねえ」と言ったのだったが、「そんなもの」だろう。もしかすると、名目上、「(株)一条U.S.A.」という名前の会社を作った、というのもそれもないかもしれん。
  (株)一条U.S.A.というのは「そんなもの」だとして、「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」というのは、「バルセロナに(株)一条ヨーロッパという現地法人を作って、ヨーロッパ製の家具を直輸入し、イタリア製・スペイン製のタイルを直輸入して使用しています」と言うておったはずで、私なんかは信じやすい性格なもので本気にしていたのだった。なにしろ、お客様に渡すカタログに活字となって印刷されているし、「ビーイング」に掲載されていた求人募集にも活字として印刷されていたのであり、全国に何百人と営業の人間がおれば、中にはいいかげんなことを言う人もいたとしてもありうるだろうけれども、会社として求人雑誌やお客様に渡すカタログに活字として印刷して配布したからには、嘘ではないのだろう・・と思い込んだのだった。ところが、どうも、その「(株)一条ヨーロッパ」というバルセロナの会社に誰が行っているとか、誰が帰ってきたといった話がいっこうに聞かないのだ。それで、ベテランの某さんに「一条ヨーロッパという会社がバルセロナにあるはずですけれども、そのわりに誰が行っているとか、誰が帰ってきたといった話をまったく聞きませんけれども、あの会社はどうなっているのでしょうか」と尋ねてみたのだが、すると、ベテランの某さんが言ったのは「一条ヨーロッパなんて、そんな会社、最初からどこにもありません」と。はあ?  はあ~あ??? ないのお??? でも、カタログに書いてあるんだけど、「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」と。「ええ~え? ないんですかあ? しかし、ヨーロッパから直輸入したという家具が浜松のインテリア館にありましたよねえ」と言うと、「あれは、パリ-ダカール ラリーに出ていたフランス人の家具屋のおっさんがパリーダカールラリーに出場する際に一条工務店が後援していくらかお金を出したかわりに出場するクルマの車体に『一条工務店』と入れてもらってましたけれども、あのフランス人の家具屋のおっさんがヨーロッパの見本市(メッセ)で購入する際に、一条工務店用のものを一緒に買って日本に送っていたものがあったんです。株式会社一条ヨーロッパなんて、そんな会社は最初からどこにもありません」と。「しかし、ですね。全国に何百人も営業がおれば、中にいいかげんなことを言う人がいたとしても、それはありうることかと思いますけれども、カタログにも『(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)』と印刷されてましたでしょう。『ビーイング』の求人募集にも『一条ヨーロッパ(バルセロナ)』と活字になって印刷されてましたよお。 普通、カタログとか求人雑誌とかに活字として印刷するものに、ありもしないものを書きますかあ。いくらなんでも、普通、そこまでやりますかあ?」と言うと、某さんは「だから、この会社、普通じゃないでしょうよ。いったい、一条工務店に何年いるんですか。この会社が普通の会社だなんて思ってたんですか?」なんて言うのだった。たしかに、「も~う、何があっても驚かないぞお」なんて思ってると、ま~だまだ、びっくりさせられることが起こる会社だったが、いくらなんでも、もともと、存在していないものを「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」なんてカタログに活字として印刷して見込客に配布し、「ビーイング」の求人募集にも活字として印刷して、そういえば、静岡放送のテレビ番組でも鈴木室長が言うとったような気もするのだ。いくらなんでも、そこまでやるかあ~あ・・・という嘘を。 「しかし、そうなると、その『バルセロナ』という地名は、それはいったいどこから出てきたのですか」と言ったのだが、「だから、ヨーロッパのどこに駐在所があることにするといいかあ、ということで、バルセロナでオリンピックがあったからバルセロナがいいんじゃないか、てことでバルセロナになったんでしょうが」と。はあ? はあ~あ? 普通、そんなことで駐在所の場所を決めるかあ~あ? ・・といっても「普通」じゃない会社なんだから、しかたがないか・・・。しかし、いくらなんでも・・・という「普通」が通じる会社ではなかったようだ。
  「一条工務店」という会社名も「木造住宅ひとすじ」で「ひとすじ」⇒「一条」だとか言うておったが、それも、一時期、信陽住宅・東陽住宅という名称の会社で経営していた時に、京都の三条通に「税金対策」の幽霊会社を作ったことがあって、その会社名を三条通にあるから「三条工務店」にするかあ、いや、「三条工務店」よりも「一条工務店」の方が聞こえがいいんじゃないか、てことで「一条工務店」になり、会社名ばっかりいっぱいあってもしかたがないから、1つにまとめようということになった時に、信陽住宅・東陽住宅と一条工務店なら、一条工務店がいいのじゃないかてことで「(株)一条工務店」になった・・・というのが真実だ、というのが通説として従業員の間では言われていたのだったが・・・、なんか、いいかげんな会社やなあ~あ・・・と10年越勤めても思う会社だったが、それを言うと、「まだ、この会社が普通の会社だとか馬鹿なこと思ってたんですかあ。いったい、何年いるんですか、この会社に~い」と言われる会社だった。・・ようやる・・・と思う。その「(株)一条ヨーロッパ」というのがヨーロッパのどこにあるのがいいか、というと、「オリンピックがバルセロナであったからバルセロナがいいんじゃないか」てことで「(バルセロナ)」と決定した・・・みたいな感じで、誰が作ったことにするといいいかな・・行基あたりいいのじゃないか、てことで「行基がお造りになった」てことになった・・・なんてこと言うと怒られるかもしれんが、いくらなんでも「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」と一緒にしてしまったらお寺に申し訳ないとしても、どこの寺がどうというのではなく、一般に「行基が・・した」「弘法大師が・・した」というのは、そうかもしれないけれども、他の人かもしれない、という話が日本全国にけっこうあると思う・・・から、だから、その通りなのかどうかはそれはわからないでしょう。いくらなんでも、「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」と一緒にしたらいかんかもしれんけれども。
  それで、行基が建てたかどうかはともかく、行基の頃の時代に作られたとすると、日蓮宗というのは、鎌倉時代に日蓮という人が始めた宗派であり、行基と日蓮では日蓮の方が時代はずっと後で、行基が生きた時代には日蓮宗というものは存在しなかったはずだが、行基が建てたという寺がなぜ日蓮宗なのか?
  《 それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。》
( 真間山弘法寺HP 「弘法寺とは?」http://mamasan.or.jp/howto.html )
そうで、なんと、行基に続いて、弘法大師(空海)まで出てきた・・・・。 さすがに「バルセロナ」は出てこないと思うが・・・。
  しかし、弘法大師(空海)というと、真言宗。 日蓮宗ではないし、空海の時代にも、日蓮宗はまだ存在していないはずだ。《ウィキペディアー弘法寺(市川市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%B3%95%E5%AF%BA_(%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%B8%82) には、
《 881年(元慶5年)天台宗に改宗する。》
とある。 行基も空海も、仏教でも日蓮宗とはずいぶんと違うように思ったが、この《天台宗に改宗する》というあたりが日蓮宗とつながっていったのかもしれない。空海の真言宗と最澄の天台宗はいずれも中学校の「歴史」の教科書、高校の「日本史」の教科書にも登場する有名人と有名宗派だが、いずれも、密教。密教つながりで、天台宗になったか? そして、天台宗というのは、仏教でもさまざまなものを含んでおり、日蓮宗というのはその天台宗から独立したような面があるのではないか。
《 その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印 尊信(りょうしょうほういん そんしん)と、中山法華経寺、富木 常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房 日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。》
( 真間山弘法寺HP 「弘法寺とは?」http://mamasan.or.jp/howto.html )
という。もっとも、法論に勝った・負けたといっても、実際にどちらの宗派が優れているかなんて簡単に言えるものでもないだろうけれども、そういう経緯で日蓮宗になったようだ。
  「六老僧」とは、《 日蓮が臨終に際して指名した6人の高弟をさす。日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持のこと。》(《ウィキペディアー六老僧》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%80%81%E5%83%A7 )を言うそうで、
日頂とは、《ウィキペディア―日頂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%A0%82 によると、
《 日頂にっちょう、建長4年(1252年)- 文保元年3月8日(1317年4月19日))は、鎌倉時代後期の日蓮宗の僧。俗姓は南条氏。駿河国の出身。伊予阿闍梨と称される。日蓮六老僧の一人。
日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となり、幼くして日蓮に師事した。日蓮の佐渡配流の際にも日蓮に従って奉仕している。身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加している。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめた。1293年(永仁元年)養父常忍と対立し、晩年は故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となった。本門寺の近くの正林寺に墓所がある。》
という人で、市川市の真間山弘法寺は、日蓮宗 六老僧の1人の日頂という人に由緒ある寺だったらしい。
  村上重良『日本の宗教』( 岩波ジュニア新書)には、
《 日蓮は、天台教学を迹門(法華経の前半の14章)の法華経「理の一念三千」とよんで、思弁的哲学的であると批判し、実践的宗教的な「事(じ)の一念三千」を説きました。日蓮は、法華経のみが絶対の真理であり、法(真理)をよりどころとし、人間をよりどころとしてはならないと教えました。日蓮は、仏法と王法(政治)が、本体とその影のように、ぴったり一致する王仏冥合(おうぶつみょうごう)を理想とし、体が曲がれば影が曲がるように、正しい法にもとづかなければ、正しい政治は行われないと説きました。こういう仏法を絶対とする考えから、日蓮は、天皇を王法(政治)の主体として位置づけ、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威をいっさい認めませんでした。日蓮が身延山に入ってのちに起こった二度の元寇を、日蓮は仏罰と受けとめ、日本を正法の国に変えるきっかけとなることを期待していました。日蓮を「国聖」とよんで、熱烈に天皇を崇拝し、元寇にあたって敵国降伏を祈った愛国者とする日蓮像は、のちにつくられたイメージなのです。
  日蓮の五綱の教判は、時(末法の時代である現在)と国(日本国)を、信仰の重要な契機としてとらえていました。この姿勢から、日蓮系の各宗派では、日本仏教の他の宗派にはあまりみられない社会、政治の問題への積極的な実践性、行動性が導かれました。晩年の日蓮は、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法(三秘)を説き、法華経が広宣流布(こうせんるふ)した暁に、天皇と将軍の命令で本門の戒壇が建立されると予言しました。日蓮は60歳をこえて、病を治すために身延山を下り、常陸国に湯治に向かいましたが、途中、武蔵国の信者で池上郷の地頭の池上宗仲の家で波瀾にみちた生涯を終わりました
  日蓮の死後、六老僧とよばれる六人の高弟が、交代で久遠寺(くおんじ)を守ることになりました。しかし高弟たちには、それぞれ各地に拠点があり、有力な外護者(げごしゃ)がいたため、地もとを基盤とする日興(にっこう)(1246ー1333)が身延山に入り、つづいて上総国にいた日向(にこう)が学頭として入山しました。日興の外護者であった波木井実長は、日興のきびしい専持法華、神祇不拝の教えに反発し、鎌倉の日昭日朗や学頭の日向と結びました。この対立から、日蓮没後のわずか九年で、日興は身延山を去り、富士の地に北山本門寺大石寺をひらきました。これが富士派(日興門流、のち日蓮正宗など)のはじまりです。
  日蓮宗の進出は、日蓮の晩年に起こった法難のような天台宗寺院との衝突をひき起こし、弾圧を招きました。日興をのぞく高弟たちの多くは、天台沙門(しゃもん)を名のり天台宗とつながることで、それぞれの門流を拡大していきました。こうして下総国の中山法華経寺、武蔵国の池上本門寺など有力な寺院がひらかれ、布教は東海、関東から、鎌倉末期には京都におよびました。 》と出ています。
  《日蓮は、・・天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、・・二度の元寇を仏罰と受け止め》、《 日蓮を「国聖」とよんで、熱烈に天皇を崇拝し、元寇にあたって敵国降伏を祈った愛国者とする日蓮像は後につくられたイメージ》といったあたりなど、たとえば、2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/  の栃木県佐野市の営業所にいた創価学会員の「高木のおっさん」(男。当時、50代)なんてちっとも理解していなかったようだ。選挙の時期になると「選挙は公明党だからね。他の所に入れちゃだめだよ」と言って、創価学会員でもない者の後をストーカーとなって、逃げても逃げても追いかけてくるのだったが(もう、ええかげん、やめてほしいわ、勘弁してほしいわ、このストーカーおやじは!)、「なぜ、公明党なのか」というものが何一つない。あくまで、「公明党に入れないとだめだよ」と創価学会員でもない者に言って追いかけてくるだけであり、「なぜ、公明党なのか」「公明党はどこがいいのか」という「なぜ」がない、というのはそれは致命的に弱いと思えたが、現実問題として、創価学会の人にはそういう人が多い、という印象を受けている。
  「下総国の中山法華経寺」はここでも固有名詞が登場する寺ですが、富木常忍という名前は前にも見た名前だと思ったら、市川市と船橋市の境目付近の市川市にある中山法華経寺にゆかりの人物だったのです。
  中山法華経寺HP の「法華経寺とは」https://hokekyoji2101.wixsite.com/nakayama/blank には、
《 ・・・大聖人(日蓮)のご生涯には四度の大きな法難があり、文応元年(1260)松葉ヶ谷の焼き討ちの折、大檀越であった下総若宮の領主富木常忍公と、中山の領主太田乗明公が、当地に大聖人(日蓮)をお迎えして御弘通をお願いされました。大聖人(日蓮)自ら立像釈迦牟尼佛を安置され、法華堂開堂供養会を営み、百日百座の説法をなされたことに始まります。
  文永元年(1264)11月11日、大聖人(日蓮)は房州小松原において法難に遭われ、眉間に疵を負う危急の折、鬼子母神さまが出現され、大聖人の一命を救われました。中山に避難された大聖人(日蓮)は鬼子母神さまの霊験を深く感じ、その尊像を御親刻開眼されました。爾来、「中山の鬼子母神」は法華経行者擁護の守護神として、さらに天下泰平、万民快楽、所願成就、子育ての神様として全国のご信者の皆様によって篤く信仰されています。
  弘安五年(1282)に日蓮大聖人がご入滅されると、富木常忍公は出家して、名を日常と改め、館を「法華寺」に改めて住持となり、大聖人の御真蹟遺文を恪護されました。その後、若宮法華寺中山本妙寺を合わせて、現在の正中山法華経寺となりました。》
と出ている。
   《ウィキペディアー富木常忍》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%9C%A8%E5%B8%B8%E5%BF%8D
《 富木 常忍(とき じょうにん/つねのぶ、1216年(建保4年) - 1299年4月21日(永仁7年3月20日))は、鎌倉時代の下総国の豪族、法華宗(日蓮宗)の僧。号は日常、常修院。因幡国の出身。中山門流の祖師とされる。
下総国守護千葉氏の被官で、下総国八幡荘若宮に住んだ。1253年(建長5年)日蓮の法華宗義に帰依し、下総における日蓮門下の有力な信者となった。・
常忍は佐渡へ配流された日蓮を援助したうえ、養子の日頂を入門させて法華経の活動を支えた。1255年(建長7年)若宮の自邸内に法華堂を建立し、1274年(文永11年)に寺号を法華寺とした。1282年(弘安5年)日蓮の没後に出家して日常と号した。晩年は日頂との間に軋轢が生まれ、・・・
1545年(天文14年)太田乗明が建立した本妙寺と法華寺が合併し、法華経寺となった。その門流はのちに、中山門流と称される日蓮宗の中でも有力教団に発展する。 ・・・ 》
と出ている。
  日頂(にっちょう)は、1252年生まれ。富木常忍(とき じょうにん、つねのぶ)・日常は1216年生まれ。 日頂は、富木常忍(日常)が36歳の時に生れた人間で、富木常忍(日常)の養子になったが、日頂は日蓮の弟子で六老僧の1人となったのに対し、富木常忍は66歳の時に出家して日常と名のったが、もともとは、下総国の豪族で、最初から僧であったわけではなかったらしい。
  だから、真間山弘法寺でも、《 時の住持、了性法印 尊信(りょうしょうほういん そんしん)と、中山法華経寺、富木 常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり 》という時に、養子の日頂が問答に出てきたということのようだ。
  又、遠くない場所に日蓮宗の寺があったのに・・・ということではなく、むしろ、近い場所で、なおかつ、天台宗と日蓮宗は仏教の日本の宗派の中でも共通点もあり比較的近いところがあるがゆえに論争も起こった、ということではないだろうか。

  《 平成22年(2010年)に、宗祖 日蓮 大聖人御報恩・開基 日頂 聖人第七百遠忌記念事業として多くの檀信徒からの浄財を頂き、建設されました。
総ヒノキによるもので、前部は方形造り・後部は入母屋造りであり、堂内は約八十坪(正面五間・側面九面)の広さです。
特に屋根瓦は、當山ゆかりの行基菩薩が考案したとされる「行基葺き」を取り入れ、素朴にして重厚な荘厳となっています。 》

  祖師堂は《 宗祖 日蓮 大聖人。開基 伊予阿闍梨 日頂 聖人。第二祖 富木日常 聖人(常忍公)をお祀りしております。・・・》ということだが、
宗祖・・・日蓮、
開基・・・日頂、
第二租・・・富木常忍(日常)
ということだが、宗祖と開基はわかるが、「第二祖」というのが微妙な位置づけ。
 「開基」と「開山」はどう違うのかというと、
「コトバンク 開基・開山 世界大百科事典第二版の解説」https://kotobank.jp/word/%E9%96%8B%E5%B1%B1%EF%BD%A5%E9%96%8B%E5%9F%BA-1152935 には、
《 仏寺を創建すること,またその仏寺を創建した僧をいう。転じて宗派の開祖のことをもいい,これは宗派の開設が一般寺院の創建をともなったことによる。古くは閑静な地を選び,山谷を切り開いて堂宇を創建したので,開山と称した。鎌倉時代以後,寺号の上に山号を付すのはこのことによる。また寺基を開くことから開基と称した。
  多くの場合開山と開基は同義語的に用いられるが,禅宗や浄土宗では寺院の創建に尽力した資主(檀越(だんおつ))を開基とよび,その開創の僧を開山とよんで区別している。》
と出ており、その寺を始めて坊さんが「開山」で、カネだした人が「開基」とするか、「開基」も「開山」も同じ意味で使うか、のようだ。
曹洞宗の場合は、道元を「高祖」、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)を「太祖」としているらしいが、弘法寺で富木常忍(日常)を「第二祖」としているのは、それともまた違うのではないか。《(富木常忍〔日常〕は)晩年は日頂との間に軋轢が生まれ、》(《ウィキペディアー富木常忍》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%9C%A8%E5%B8%B8%E5%BF%8D )ということがあったようで、それゆえ、弘法寺が日蓮宗になる際に尽力したらしい、六老僧の日頂とその養親の日常(富木常忍)を、どちらか片方だけを祀るわけにもいかないということで、「開基」と「第二祖」としたか?

  「祖師堂」の左が「客殿」、客殿の寺務所があり、御朱印は客殿の寺務所でいただける。お守りなどもある。

  「客殿」のさらに左が「本殿」。↓
DSC08451.JPG
↑ 神社ではなくお寺なんだけれども、「本堂」ではなく「本殿」なの?

《 ここ真間山弘法寺「本殿」(ほんでん)には、日蓮聖人御遺文「真間釈迦仏御供養逐状(おいじょう)」と「四菩薩造立鈔」にも示されてる、高名な一尊四士霊像が安置されている。
釈尊像は法華経の久遠実成仏として生身(しょうじん)像の信仰あつく、本化地湧の四大菩薩を副(そ)えたことで末法の教化救済仏として拝まれてきた。
共に発願主は富木常忍公。御開眼は宗祖の御下命で日頂上人が修された。 我国最初の一尊四士造像であり、当初の四大天王像を随伴する点も貴重。
代々伝世すべき第一の諸尊であり、鎌倉後期の作風が示された見事な一具である。 》
( 真間山弘法寺HP 境内案内http://mamasan.or.jp/keidai.html )
と出ているが、中はあまりよく見えない。

  お寺で一番主要なお堂、たいてい、金堂が本堂で、神社でひとが拝む建物が拝殿で神さんがいらっしゃる建物が本殿・・・と思っていたのですが、真間山弘法寺では、ここが「本堂」かな・・と思うお堂に「本殿」と書かれています。 もしかして、日蓮宗では祖師堂がかなり大きい存在であるので、本堂という言い方をしていないのか?  インターネットで検索しても、これが解答というものは見つかりませんでした。
  日蓮宗の他のお寺はどうか、これまで行ったことがある寺のホームページを見てみると、
《池上本門寺 境内案内》http://honmonji.jp/outline/keidai.html を見ると、仁王門をくぐった正面に「大堂」があってこれが祖師堂、その奥に「本殿」
《中山法華経寺 アクセス》https://hokekyoji2101.wixsite.com/nakayama/blank-2 では、南から三門をくぐって左側に、祖師堂、北に進むと、「本院・大客殿」があり、その奥に鬼子母神堂がある。
《法明寺(雑司ヶ谷鬼子母神堂の本体) 境内案内》https://www.homyoji.or.jp/guide/index.html を見ると、山門をくぐった正面に「本堂」
   「本殿」「本院」「本堂」と、一定していないのかもしれませんね。

   真間山弘法寺は「本山」を名のっているが、日蓮宗は、《ウィキペディアー日蓮宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97 によると、《昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。》らしい。
《 身延山久遠寺を総本山とし、宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)に置く日蓮系諸宗派中の最大宗派。》だが、《 現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている
  祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊跡寺院は日蓮一代の重要な事跡由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する。》
  「祖山」は身延山久遠寺、「霊跡寺院」は誕生寺・清澄寺(千葉県鴨川市)・中山法華経寺(千葉県市川市)・池上本門寺(東京都大田区)・龍口寺(神奈川県藤沢市)・重須本門寺(静岡県富士宮市)など14寺(大本山7寺、本山7寺)、「由緒寺院」は、この真間山弘法寺(千葉県市川市)など42寺(本山42寺)らしい。真間山弘法寺は、「由緒寺院」で「本山」だが、「本山」といっても、祖山の身延山久遠寺と大本山7寺のほかに「本山」は日本に49もある、祖山、大本山、本山を合わせると57寺あるらしい。 中山法華経寺は「霊跡寺院」で「大本山」らしい。
   関西では「中山さん」と言うと、兵庫県宝塚市の真言宗の中山寺を言うが、東京圏で単に「中山」と言うと、千葉県市川市の中山法華経寺を言うのではないかと思うが、兵庫県宝塚市の「中山さん」は真言宗であるのに対して、千葉県市川市の中山法華経寺は日蓮宗でまったく別。

  桜の季節であるゆえに、インターネットで千葉県の桜の名所・・として検索したところ、弘法寺がでてきたので、今回は弘法寺に訪問したのだったが、「伏姫桜」という枝垂れ桜が有名とされていて、《真間山弘法寺 境内案内》http://mamasan.or.jp/keidai.html にも出ているのですが・・・・、↓
DSC08446.JPG
↑  桜の種類によって旬が違うのか、「伏姫桜」は、もう、葉桜になっていました。

   「伏姫桜」の後ろあたり、少々、葉が混じりかけだけれども満開の桜が・・・↓
DSC08445.JPG

  「真間山 弘法寺(ままさん ぐほうじ)」、京成電鉄「市川真間」駅は、いつだったか、「市川ママ」なんて、スナックのママさんみたいな表記をしていた時があったと思うが、弘法寺は、「ママさん」と、なんだか、「ママさんバレー」みたいな響きの山号だけれども、「ママさん」ではなく「真間山(ままさん)」。 
  「真間の手児奈」で知られる場所の北側あたりの山の上に作られたが、もうひとつ、この地は、里見八犬伝の里見とゆかりの地でもあるらしい。
  市川市の江戸川に近い場所、弘法寺よりも西に、「里見公園」がある。市川市HP 里見公園 https://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1111000001.html に、
《 ・・・室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。・・・》
と書かれている。

( ↑ 里見公園。 )
 国府台あたりで、里見の軍勢が北条軍と戦ったことがあったらしい・・・が、しかし、『南総里見八犬伝』だと、「南総」と言うくらいで、千葉県でももっと南の方の話ではないか・・。
  しかし、「伏姫桜」と名づけられた枝垂れ桜があるわけで、「伏姫」というと、『南総里見八犬伝』の登場人物。 弘法寺も、里見さん、もしくは、『八犬伝』と関係あるのか?

  真間山 弘法寺は、真間川の方から北に進んで石の階段を登って仁王門をくぐった所に、広い平地が広がり、そこに、左から「本殿」「客殿」「祖師堂」が左右(東西)に並んでいるのだが、その西に、「赤門」 ↓ があって、それとは別の区域が存在する。
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↑  《 正式には、朱雀門(すざくもん)と呼ばれる。
旧弘法寺本堂(現在真間道場)の正面に位置する。真間道場・大黒堂・里見龍神堂の入口にあたり、現在残る弘法寺の建物の中でも最も古く推定500年位ではないかと云われている。 》

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↑  「真間道場」
「道場」ということは、「結界」を設けられて、そこから中には一般人は入ることは認められず、「結界」の中で、日蓮宗の若い坊さんが「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と叫びながら「荒行」するとか、そういう場所なのか? ・・・と思ったが、
《 旧弘法寺寺務所。現在の弘法寺客殿・本殿に移動してからは、真間道場としてさまざまな活動に利用されていました。》
という場所らしい。 「荒行」とかも、若い頃ならともかく、ある程度の歳になったら、「もう、ええわ」て気持ちになってくる・・・。正直なところ・・・。
  仁王門をくぐって正面の、「祖師堂」・「客殿」・「本殿」は大きな建物だけれども新しく、それより西の赤門(「朱雀門」)から西の建物の方が、年季の入った建物であるが、「真間道場」の建物が、「旧弘法寺本堂」だったのか。
  創立時から日蓮宗の寺であったわけではないので、それで、本堂はあっても、祖師堂はなかったところに、祖師堂を新たに作って、その隣に客殿・本殿を作ったのか・・?
  しかし、仁王門も昔からある建物だとして、仁王門の大きさから考えると、赤門(朱雀門)、及び、それより西の建物は小ぶりのようにも思えるが。

  赤門(「朱雀門」)の西を右(北)に曲がった正面に、「太刀大黒天神」を祀る「大黒堂」がある。↓
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↑  「太刀大黒天神」とは何者なのか? 大国さん、オオクニヌシではなさそうだし、天神さん、菅原道真でもなさそうだが、
《 大黒堂に安置される「福再来(ふくさらい」の太刀大黒天神のご尊像は、日蓮大聖人が比叡山でご修行のとき、建長元年(1248)、そのお姿を感受され彫刻されたもので、以来建治二年(1276)御年五十五歳まで片時も離さず肌身につけて奉持されたといわれています。 その後、日蓮大聖人は、太刀大黒天神を日頂上人に授けられ、さらに真間山が法華経の道場になった折、当山に安置され今日にいたっています。》( 弘法寺HP 「境内案内」http://mamasan.or.jp/keidai.html )
というものらしい。

   「太刀大黒天神」は、日蓮にゆかりの存在らしいが、赤門より東の北あたりに小さい池があって、その中島に弁天堂みたいにお堂があるが、「里見龍神堂」らしい。 ↓
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↑  「龍神」だから、水と縁があるので、池の真ん中の島にお堂が設けられているのか。
《 ・・・里見の姫桜の毎年咲く花ゆかりの伏姫の行方は、ただ奥州ということだけ当山第十世日感上人の頃に古老の口伝えに残るのみであったが、昭和26年(1951年)の晩秋、青森県弘前市の住人小堀哲氏が来山し、
「里見の伏姫の精霊がこもったという白蛇と小鳥二羽の枯骸を祀っていたが、ここ数年来一度や二度ならず小堀一族に不思議な事がおこり、意を決して神の御心が
『里見ゆかりの真間の山の土に帰して欲しい』
と云っているのだと感じ持参した。」
と言われ、半信半疑ではあったが、庫裏に里見龍神と仮称し仮奉安していたらそれ以来思いの外、少なからず霊験を現わし、ついには社殿造営の決議が起こり、神のご威光の示すところ忽ち工事の完成をみるに至る。
故に、改めて『里見龍王大善神』と公称奉り広く参拝の人々に御利益をあたえるところとなった。
 昭和33年(1958年)10月1日
            真間山弘法寺  》
と現地の説明書きには書かれている。
「真間の手児奈」の話に、行基⇒弘法大師ときて、富木常忍と日蓮宗六老僧の日頂あたりから日蓮宗になってきたと思ったら、それだけではなく、『南総里見八犬伝』の里見の伏姫までが、龍神として登場してきた。

  《ウィキペディアー南総里見八犬伝の登場人物》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%B7%8F%E9%87%8C%E8%A6%8B%E5%85%AB%E7%8A%AC%E4%BC%9D%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9 によると、
《 (里見吉実は)長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣国の安西景連が侵攻し、滝田城が包囲され落城寸前となった時、飼い犬の八房に「景連の首を取って来たら、褒美に伏姫を嫁にやる」と言う。八房は一声吠えると敵陣に踊り込み、景連の首を持参して戻って来た。混乱に陥った安西軍を里見軍は破ることに成功、さらには継嗣のない安西領を平定し、安房国は里見家のもとに統一される。義実は褒美として山海珍味や係の役人を与えるが八房は一切興味を示さず、ついに伏姫の寝所へ乱入する。これを知っていきり立つ義実に、伏姫は「犬相手とは言え、君主たる者が一度口にした約束を違えてはいけない」と述べ、八房を伴い富山に入ることになる。翌年、富山に入り伏姫の自害に立ち会う。・・・ 》
ということで、『南総里見八犬伝』というのは滝沢馬琴作のお話であり、登場人物は最初から架空の人物と、その名前の人物は実在したけれども、『南総里見八犬伝』の話そのままの人間だったわけではない人物がいるらしい。
「伏姫」という女性が登場するものの、『南総里見八犬伝』はあくまでもお話であり、また、里見なんとかさんが北条軍とこの西の国府台(こうのだい)あたりで戦ったことがあったらしいものの、『南総里見八犬伝』は名前からして、南総、千葉県でももっと南の方の話のはずで、なんで、「里見ゆかりの真間の山」につながるのかも、どうも、よくわからない。

  滝沢馬琴『南総里見八犬伝』というのは、けっこう有名で、私が中学生くらいの頃、1970年代、NHKのテレビ番組でも、人形劇として放映されていた。しかし・・・。あくまでも、お話のはずなのだ。
  山本博文『あなたの知らない千葉県の歴史』(2012.7.20.洋泉社 歴史新書)の「Q44  『南総里見八犬伝』の「八犬士」のモデルは里見家の殉死者「八賢士」か?」には、
《  大久保長安事件に連座して、里見氏が安房から伯耆国倉吉(鳥取県倉吉市)へと改易されたのは慶長19年(1614年)9月のこと。その後、元和8年(1622年)に最後の当主・里見忠義が嗣子なく没したことで、里見氏は断絶してしまった。この時、八人の側近が忠義に殉死したとされ、その戒名に共通して「賢」の字が入ることから、俗に「八賢士」と呼ばれるようになったという。そして、実は、彼等こそ、江戸時代後期の戯作者・曲亭(滝沢)馬琴が書いた長編伝記小説『南総里見八犬伝』(文化11年<1814>初刊)に登場する「八犬士」のモデルではないかといわれているのだ。・・・ 》
とあり、さらに、「Q50 『南総里見八犬伝』のモデルに安房里見家がなったのはなぜ?」には、
《 ・・だが、馬琴は、(『南総里見八犬伝』という)そんな超大作を執筆するにあたって、里見氏ゆかりの地である安房を取材で訪れたことはなかった。主人公の八犬士の名前は、当時の辞書『書言語字考節用集』に載っていた「里見八犬士」の名前から取り、時代背景や地理も文献資料や地図をもとに描写していったという。『八犬伝』以前からすでに売れっ子作家だったので、忙しくて安房を実地調査する時間がなかったのかもしれない。
  それにしても、馬琴は、なぜそんな縁もゆかりもない土地の英雄を『八犬伝』のモデルに選んだのだろうか。先に見たとおり、里見氏は確かに悲劇の外様大名だった。馬琴が里見氏の悲劇に対する同情心から、彼らの活躍する物語を書いた可能性もあるが、ここでは里見氏の本拠が安房だったことに注目したい。
  馬琴にとって読者は江戸庶民だ。もしかすると、当時の安房は、あまり彼らが訪れる機会のない場所だったのではないか。近世後期、庶民の間では旅行ブームがあったが、人気の旅行先は川崎大師(神奈川県)や伊勢神宮(三重県)、熊野三山(和歌山県)のある「西」だった。安房とは舟運で結ばれていたとはいえ、江戸庶民は、レジャー目的で房総半島の先までは足を運ばなかったかもしれない。・・・だとすると、『八犬伝』読者(江戸庶民)にとって安房は、「身近」にありながら「新鮮」な場所だったといえる。しかも、そこで生まれた英雄は、物語でこそ活躍するものの、史実では「悲劇」の一族だったのだ。物語としては「売れる」要素が詰まっている。また、里見氏の知名度も、彼らのゆかりの地である安房と江戸との物理的・精神的な距離感も、読者の興味をひきつけるにはほどよかったのかもしれない。里見氏の起用は、当代一流の流行作家による一種のヒット戦略だったと想像を膨らませてみるのも楽しいと思う。》
と出ている。

   なによりも、弘法寺のすぐ西の国府台で、里見氏が北条氏の軍勢と戦ったことはあったとしても、やはり、『南総里見八犬伝』の舞台は、千葉県でも南部であり、北西部の市川市の真間ではなかったはずなのだ。 しかし、それでも、「伏姫桜」と命名された枝垂れ桜はあるとはいえ、「里見龍神」については、どうも、意味がよくわからない。

  祖師堂の右手前あたりを「月見の広場」と言って、《 市川市街が一望できます。》ということだが、
そのあたりを手児奈堂の方から見たのが、↓
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ではないかと思う。
  桜はきれいなのだが、しかし・・・。
  仁王門の南側から南方を見ると・・・、↓
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( ↑ 仁王門のすぐ南、石段の一番上から南方を見たもの。 )
↑  弘法寺は丘陵の上に建っているので、市川市街がよく見えるはず・・でしたが、眺望を阻害する「高層マンション」がいくつか建っていて眺望を阻害しています。
↑ これらのマンション、なぜ、ここまで高いものを作らないといけないのか?  基本的な考え方として、その地域の史跡や自然を考慮して、北側に史跡でもある丘陵があれば、それよりも高いものは建ててはいけないと考えるのものではないだろうか。
市川市の国府台の丘陵は、かつて、そのあたりに下総国の国府があったから「国府台(こうのだい)」と言われるはずだ。 弘法寺は日蓮宗では「由緒寺院」とされ、六老僧の1人の日頂がここを拠点として活動した寺らしい。全国的知名度としてはそれほど高くないが、寺がどうかよりも、この寺がある丘陵の下あたりは、「葛飾の真間の手児奈」の話や「真間の継橋」のお話のある場所でもあるはずだ。 なぜ、そのすぐ南に、北側の丘陵よりも高いものを建てないと気がすまないのか?
  なおかつ、こういった「高層マンション」の販売雑誌でのセールストークとして、「すばらしい眺望」などと書かれていることが多いのだが、その傍若無人な感覚は異常である。 その「高層マンション」のおかげでその地域の眺望が破壊されている、その地域の眺望を破壊している元凶のマンションが自分の所からだけ眺望がすばらしいとアピールするというその無神経な態度というのは何だろうか。
  一般に、家相において、寺や神社というものは、見上げるのはいいが見下ろすものではない、と言われる。弘法寺は丘陵の上にあるので、戸建住宅や5階建て程度のマンションならば、普通は見下ろすことはない。それに対して、↑のような「高層マンション」「タワーマンション」といったものを建ててしまうと、見下ろすことになる。 ある程度、歴史のある寺社は見下ろすことがないように配慮して建てるのが「建築家」というもののはずであるが、歴史的建造物や史跡を見下ろすように作るマンションの設計者というのは、そういう人間に限って「建築家」とか名のっている者が多く、あるいは、「一級建築士」と三流の一級建築士が、「一流建築士」であるかのように「一級建築士」と書きまくっていることが多いのだが、愚か者の所業であろう。「建築家」というのは、よっぽどバカじゃないのか、という気がする。とりあえず、自称「建築家」は、ヒゲそれ、ヒゲを!!! 「ヒゲはやしたら、ラーメン屋」みたいに「ヒゲはやしたら『建築家』」の類のしょーもないヤツが多すぎる!
  2019年12月、たしか、日経新聞だったと思ったが、日本の人口は増えていないのに、なぜ、宅地分譲開発が今も続けられるのか? という問題提起の記事が出ていたが、宅地開発もそうだが、それ以上に、日本の人口は増えていないのに、なぜ、景観破壊の「高層マンション」がいくつも建てられなければならないのか???  おかしいと思いませんか?
東京都内の「山手線の内側で中央線より南側」「山手線の西側、池袋から品川までのラインの両側」ならともかく、千葉県に「高層マンション」「タワーマンション」なんて建てようと考えるというのは、まず、発想がおかしいと思いませんか? 県や市は、もっと、きっちりとそういう「高層マンション」が建てられないように規制しないといけないはずで、こういった傍若無人な「高層マンション」を平気で建てさせているというのは、それは、都市計画課など市役所の部署の職員は職務怠慢であり、仕事をしていると言えません

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  石階段の途中から見ても、↑ 。 この「高層マンション」の設計者、真間山弘法寺の仁王門に登る石段から見て、↑のように見える、ということを考えて設計したのか、それとも、「な~んも考えとれへん」でやったのか?  「なんで、そんなもの、考えないといけないんだ」とか思ってやったのか???
  真間山弘法寺は寺ですが、神社の場合、参道の中央は「正中線」と言って神さまが通る場所で、人は参拝の際には、「どまんなか」ではなく、いくらか、右なり左なりを歩くべきだと言われます。神社では「正中線」を遮るのは良くないと言うのですが、寺でも、↑ のように、参道の石段の正面あたりに ↑ のような「障害物マンション」を設けるというのがいいかどうかというと、私はあまりいいとは思いませんね。
良くないでしょ、↑ の写真など見ると、良くないと思えますでしょ。違いますか?

  真間山弘法寺と手児奈霊堂とは別だと思っていたのですが、真間山弘法寺のホームページ の「境内図」http://mamasan.or.jp/keidai.html を見ると、「手児奈霊神堂」が書かれており、手児奈霊神堂HP http://www.tekona.info/ は、真間山弘法寺のホームページにリンクしている。
真間山弘法寺の飛び地の扱いだったのか?  しかし、手児奈霊堂がある敷地は、手児奈霊堂と敷地内にある池と真間稲荷神社との3つで構成されていて境界はなく、真間稲荷神社には社務所がある神社で、真間稲荷神社が管理しているものかと思っていたが・・・。 どうも、ようわからん・・・。
※ 真間山弘法寺(ままさん ぐほうじ)HP http://mamasan.or.jp/
  〃 境内案内 http://mamasan.or.jp/keidai.html
《ウィキペディア―弘法寺(市川市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%B3%95%E5%AF%BA_(%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%B8%82)
市川市観光協会 真間山弘法寺 http://www.ichikawa-kankou.jp/entry.html?id=91720


 真間山弘法寺の南の位置に、東西に真間川が流れている。
 真間川の北側にある 「日本福音ルーテル市川教会」 ↓
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( ↑ 真間川の対岸から見たもの。 )
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↑  《宗教法人日本福音ルーテル教会(しゅうきょうほうじんにほんふくいんルーテルきょうかい、Japan Evangelical Lutheran Church、JELC)は、日本におけるキリスト教(ルター派)の宗教法人。》で、日本福音ルーテル市川教会教会堂は、ウィリアム=メレル=ヴォーリズ設計で、1955年(昭和30年)に建てられたもの。
《 真間川沿いの閑静な住宅地に、数多くの西洋建築を日本にもたらした建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による教会があることをご存じか? 1955年築、2008年に登録有形文化財に指定された。》
( 『Meets Regional.(ミーツ・リージョナル)別冊 千葉の本』2010.7.15.京阪神エルマガジン社)
※ 日本福音ルーテル市川教会HP http://jelc-ichikawa.la.coocan.jp/
千葉県HP 教育委員会 日本福音ルーテル市川教会教会堂(国登録有形文化財)https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/q111-007.html
《ウィキペディア―日本福音ルーテル市川教会教会堂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E5%B8%82%E5%B7%9D%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%BC%9A%E5%A0%82
《ウィキペディア―日本福音ルーテル教会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E6%95%99%E4%BC%9A


  英語の agriculture を私は、 agriculture とアクセントは頭にして発音するのに対して、慶應の内部進学の人は、 agriculture と発音する。 英語では、語尾が―ure の名詞はアクセントは頭にあるもので、このくらいは、まがりなりにも「大学」という所に進学しようという者なら常識であろう、 agriculture なんて発音するようなヤツが大学に行くというのが間違っている・・と私は思っていたのだったが、ところが、どうも、agriculture と頭にアクセントを置いて発音するのは「受験勉強」で、agriculture と中ほどにアクセントを置いて発音するのが内部進学の人にとっての「常識」で、それが「思考が柔軟」「受験勉強の悪影響を受けていない」「ギャルにもてもて」の発音らしいのだ。
  さらに、私などは、幼稚園でも小学校の低学年でも、先生からも言われたし、親からも言われたのだが、ブドウというものは、種無しブドウでも種のあるブドウでも、自分で房からひとつひとつちぎって口に入れて食べるもので、そう教えられたのだったが、どうも、慶應内部進学や「慶応心理学」からすると、その食べ方というのは「受験勉強の悪影響」というもので、「自我が確立されていない」と「診断」される食べ方らしいのだ。その点、慶應内部進学の人はどういう食べ方をするのかというと、種無しブドウは、女中さんに皮をむいてもらって、それをお皿に盛ってもらって、スプーンを添えてもらって、そのスプーンですくって食うらしい。それが「塾風を身につけた」種無しブドウの食べ方、というものらしいのだ。それが「自我が確立されている」種無しブドウの食べ方というものらしいのだ。それが「ギャルにもてもて」の種無しブドウの食べ方らしい。なんか、「ギャル」とかいうのはよっぽどアホと違うのかという気がしてくるが、そういうことを慶應で口にすると、「受験勉強の悪影響が出ている」とか「思考の硬さが気にかかります」とか「性格が未成熟だからそういうことを言うのだと思います」とか「モラトリアム人間病」にかかっているとか、なんたらかんたらこんたらくんたら「診断」されることになる。「郷に入れば郷に従え」というのか、これは「朝日新聞」の「天声人語」だったか別のコラムだったかに載っていた話だが、王貞治は台湾人で、王貞治は子供の頃からお父さんに「我々はここでは外国人なんだ。だから、周囲の人に好かれるようにしないといけないんだ。決して人から嫌われてはいけないんだ」と教えられたというのだったが、まさにその話を思い出した。「慶應義塾という所においては、公立進学校出身者というのはいわば外国人なんだ。ここは慶應内部進学の人のための学校なんだ。そこに我々が置いてもらうためには、内部進学の人が『雪は黒い』とおっしゃれば、『まことにまことにそうでおじゃりまする』とでも言わないといけないんだ」・・とまさにそんな感じの学校だった。まったく感じの悪い学校だった・・・とつい口にしてしまう正直なところ、というのは、「異邦人としての大学」で生きていくには「不適応」とか「適応障害」とか「診断」される危険があるのかもしれない。怖いわ、ほんま。どんな「診断」されるやらわからんもんなあ、ほんま。
  母は90代の後半にさしかかった。その年齢まで生きてくれたおかげで学んだことはいくつかある。昨年、本当に何も食べなくなってしまい、これなら食べるか、これなら食べられるかと思って、さまざまなものを食べさせようと工夫したことがあった。その際、「種無しブドウを食べたい」と10月の半ばに言い出したが、すでに、多くのスーパーでは種無しブドウは季節を過ぎておいてなかった。何軒もまわって、やっと、種無しブドウを置いている店が1軒あって、そこで買ったのだが、ところが買ってくると今度は「要らん」と言うのだ。なんとか食べさせようと思って、皮を向いて、お皿に載せて、スプーンですくって口に入れると、いくつか食べたのだが、その際に知ったが、粒が大きいブドウはまだしもむけるのだが、粒が小さいデラウエア(私が子供の頃、「種無しブドウ」というとデラウエアのことだった)は、自分で自分の口に入れるのは難しくないが、ひとに食べさせるために皮をむいてお皿に入れようとするとそれは大変困難だった。それでも、なんとかむいてスプーンで母の口に入れたのだったが、その時、思った。90代のおばあさんに食べさせるために皮をむくのでも大変だが、それでも、90代のおばあさんに何とか何か食べさせようとして、デラウエア(「種無しブドウ」)の皮を息子がむくのならまだいいが、10代や20代の元気な男のために、デラウエア(「種無しブドウ」)の皮をむいてお皿に盛ってスプーンをそえる女中さんというのは、相当いい給料もらっていたのかもしれないが、いくら高い給料もらえたとしても、それは人間の仕事ではない! そんなものは、人間じゃない! 相当高い給料もらえたとしても、10代や20代の若い元気な男に「種無しブドウ」の皮をむいてお皿に盛ってスプーンを添えて食べさせる者、10代や20代の若い元気な息子のために女中さんに「種無しブドウ」の皮をむかせる親というのは、どちらも、それは人間ではないぞ、そんな者は!!! ・・と思った。映画『チャンプ』では、男の子が「自分で自分のパンツを脱ぐことのできないような男は男じゃない」とパパに教えられたと言って語る場面があるが、それと同様、私が親ならば、女中さんに息子に種無しブドウの皮をむかせるのではなく、息子に「種無しブドウもおのれの手で房からちぎっておのれの口に入れることのできないような男は人間じゃない!」と教えるところだが、そのあたりの認識が慶應内部進学と私のような公立族との違いかもしれない。最近、私立の中学校・高校に行く人が増えてきたというが、そのあたりを考えると、「公立族」としては、やっぱり、「私立族」(その典型が「慶應幼稚舎流種無しブドウの食べ方」)より「公立族」の方がいいのではないか、と思ったりもする。 こういうことを言うと、おそらく、「慶應心理学」から「性格が未成熟だからそういうことを言うのです」とか「人格に不完全なところがあるからわざわざ無理して逆らっている」とか「自我が確立されていないからそういうことを言うのであって、自我が確立されていればそんなことは言わないはずです」とか「アイデンティティーがないからそういうことを言う」とか「そういうことを言うというのは、モラトリアム人間病にかかっているということです」とか「診断」されることになるでしょう。私は、90代のおばあさんが息子に皮むいてもらうのならば、それは高齢で体力もなくなってしまったからであって、それでも小さい粒のものをむくのは大変なのだけれども、しかたがないと思うが、10代や20代の若い元気な男のために、「種無しブドウ」の皮をむいてお皿に盛る女中さんて、それは人間の仕事と違うぞ、それは!!! そういうことを平気で人にさせる男というのを、そういう人間のことを「福沢精神を身に着けている」とか「独立自尊の精神がある」とか「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか「人間的に成熟している」「思考が柔軟」とか、そして、「ギャルにもてもて」とか「慶應心理学」は「診断」するらしいのだ。
  「慶應心理学」によって罵倒されるならば、それは「大変けっこうだ」と考えるべきである、なぜなら、「慶應心理学」から称賛されるなら、彼等と同様に腐敗していることを意味し、彼等から悪しざまに罵られるならば、彼等とは一線を画していることを意味しているからである・・・と、今も思う。「慶應タイプ」の「ギャル」になんて、もてなくてけっこう。そんなのにもてたくない!!! 第一、俺には、《「種無しブドウ」を皮むいてお皿にもってスプーンを添える》なんてそんな仕事されても、そんな仕事に対しての報酬なんて払うカネないからな。ブドウというのは、自分で一粒ずつ房からちぎって口に入れて食べてこそおいしいのであって、ひとに皮むいてもらって、お皿に盛ってもらってスプーンですくって食うやなんて、そんな「病人食」みたいな食べ方する人間なんて、慶應内部進学くらいのものだろう・・・と思う。言うと彼らは怒るだろうけれども、なんで怒るのか知らんが、実際そうだろうが!!! と思うが、「心理学」にどんな「診断」されるやらわからんから、もう、ほんとに、怖い・こわい・怖い・こわい!!! 怖いわ・こわいわ・怖いわ・こわいわ!!! ほんと~に、怖いわあ~あ・・・・。コロナウイルスとどっちも怖いわ・・・。

  私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして貯めたカネから分け前を「給料」と称して受け取った医者屋がそこから「寄付金」を関西医大に払ってドバカ息子が裏口入学して入ったとして、そのドバカ息子はその「医学部」で何を学ぶのだろうか? おのれがそこに入るために、「患者」に不必要な「薬」を飲ませ、不必要な「検査」をして入った者というのは、「医療に貢献したい」のならそいつが関西医大に入らなければ、その分だけ「医療に貢献」したはずだ。 「薬」というのは化学物質で、それを服用することで「患者」にプラスになるものが「主作用」、マイナスになるものが「副作用」で、たいていの薬は両方の面があるが、「主作用」が相当に大きい場合に「副作用」があっても服用しているもしも、「主作用」が小さく「副作用」が大きいもの、もしくは「主作用」は何もなく「副作用」ばかりのものというのは、その「化学物質」「毒」であって「薬」ではない。 「検査」もまた、X線撮影なんてのは放射線を体に浴びるわけであり、それ自体は健康にいいわけがないのであるが、その検査によって病気がわかるというプラス面があるから、マイナス面と比較して検査を受けた方がいいであろうということで検査を受けるのであるが、医者屋が儲けることを第一にして必要もないX線撮影による検査を頻繁に「患者」におこなうということは、それ自体、傷害罪に該当する犯罪であるはずで、そうやって「病院」が儲けたカネから分け前を「給料」と称して受け取った医者屋が、ドバカ息子を関西医大に入れる際に「寄付金」として払い、そうやって成り立っている関西医大という「大学」は、その存在がなによりも医療目的に反するものであり、「反社会的勢力」と評価するべきであろう。 関西医大のようなそんな「大学」に「患者」を薬漬け・検査漬けして裏口入学した学生などというものは、その学生の存在が医療目的に反するのであり、国民の側・患者の側からすれば、関西医大と関西医大の学生はこの世から消えてなくなってもらった方が社会のためなのである。
  父の「親友」だった医者屋のM川は「金沢大医学部卒」と称していたのだったが怪しい。「M川家に養子にやられた。M川家に売られてわしは苦労した」とか言うておったが、戦前は、戦後と違って家督相続の時代であり、次男三男は資産のある家の養子に行った方が恵まれていたのであり、「売られた」とか言うのはおかしいし、そもそも、「M川家に売られた」ということで「M川家」のために金沢大医学部に行かせてもらったのなら、それなのに大阪府に住んでいて大阪府の「病院」に勤めて薬漬けやってるというのでは、「M川家」としてはせっかく養子にとってやって育ててやったのに裏切られたようなものだ。実際は、それらの話は全部、嘘・・という可能性は小さくないと思う。それなら、「金沢」という地名はどこからでてきたのか・・とも思ったのだが、「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」の「(バルセロナ)」みたいなものか。 滝沢馬琴が『里見八犬伝』を書く際に、なぜ、「里見」にしたのか、安房という場所が江戸の人間に受ける小説の舞台としては「ちょうどいい距離感の場所」だった、というのと同様、大阪の人間に嘘つくには「金沢」あたりが「ちょうどいい距離感の場所」だった、とそんなところかもしれない。私も、信じやすくて騙されて痛い目に合わされたことがこれまで何度もあったが、うちの父親はそれ以上に信じやすい人間で、なおかつ、子供の方が気づいて「それって、おかしくない?」と言ってあげても、絶対にきかない人間、難儀な男だった・・・。1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代)が「私は両親が離婚したから」と何度も何度も言いまくって「両親が離婚した」というのを自慢しておったが、旧姓作野礼子は「両親が離婚」して母親の方についていって父親がなかったから、だから、父親がある人間というのは「恵まれているのよ」と主張したかった、自分は「両親が離婚したから」だから、苦労してきたエライ人間で、誰もが自分を「作野さんは両親が離婚されたから、苦労されて、しっかりしておられるわ」とほめる義務がある、と考えていたようだが、そんな「義務」なんてないし、父親というのはおれば常にいいというものでもなく、いるから難儀な時もある、ということすらも理解できないバカ女は迷惑だから高校の教諭にならないでもらいたいものだった「両親が離婚した」などという話が自慢になる話だと思っている女というのは、裏口入学を自慢する男と似たところもある。そんなものは、自慢することではないと思うが、言ってあげてもきかないだろう・・・。むしろ、「聖なるものをイヌにやるな。真珠をブタに投げてやるな。おそらく、彼らはそれを足で踏みつけにし、向き直って噛みついてくるであろうから」という『聖書』の文句のように、噛みついてくる可能性が十分にある。

  (2020.4.4.)
日本の宗教 (岩波ジュニア新書) - 村上 重良
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あなたの知らない千葉県の歴史 (歴史新書) - 山本 博文
あなたの知らない千葉県の歴史 (歴史新書) - 山本 博文
狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学 (1975年) - トーマス S.サズ, 広田 伊蘇夫
狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学 (1975年) - トーマス S.サズ, 広田 伊蘇夫
( ↑ トマス=サズ
 『「精神医学」という狂気の思想』新泉社 )
人間、この非人間的なもの (ちくま文庫) - なだ いなだ
人間、この非人間的なもの (ちくま文庫) - なだ いなだ
( ↑ なだ いなだ『人間、この非人間的なもの』ちくま文庫 )

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