『ゴルゴ13』と考える「信教の自由」。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺は宗教失格。「信教の自由」を侵害する営業は三流の営業。

[第732回]
  年始というと、初詣・・・なんて行く人が多いのではないかと思うのだが、しかし、自分の信仰する宗教と異なる宗教の施設に参拝していいのか・・という問題がある。慶應の学生ではそんなことちっとも考えないという男がいて、そういう人間がそんな態度のことを「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか「スマート」とか「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか言うのだが、私はそんな態度を「思考が柔軟」とか評価するのはおかしいと思っている。
  セーレン=キルケゴールは『死に至る病』(斎藤信治訳。1939.第一刷、2010.改版。 岩波文庫)で、
《 「絶望」は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。
――「絶望」して、自己をもっていることを意識していない場合(非本来的な「絶望」)。
「絶望」して、自己自身であろうと欲しない場合。
「絶望」して、自己自身であろうと欲する場合。》
そして、《 悪いという気持に一度もなったことのない人がかえって「絶望」しているのである。》
《 ・・本書の標題にもあるように、「絶望」は本書全体を通じて病として理解されているので、薬として理解されているのではないということをここではっきりと注意しておきたいのである。・・・・》
と述べているが、自分の信仰する宗教と異なる宗教の施設に参拝していいのか、どうなのか・・といったことを真面目に考える者とそういったことを考えることなく、真面目にそういう問題を考える者をバカにするのが「スマート」で「独立自尊」で「自我が確立されている」で、それから「社会を知っている」だの「人間を知っている」だの「企業はそういう人間を喜ぶ」だの(ほんまか?)、「そういう人間が社会で役に立つ」だのさらには「ギャルにもてもて」だのと言いまくり、自分がそういう「絶望」の状態の人間、《「絶望」して、自己自身であろうと欲しない場合。》の状態になっていることを自慢するだけでなく、ひとをもそうならそうとするような、いわば、「盲人の手引き」のような人間というのが「慶應タイプ」には大変多く、「心理学」はそういう人間を推奨し社会に「絶望」の状態の人間を増やそうとしているが、キルケゴールは《「絶望」は・・・病として理解されているので、薬として理解されているのではない》と述べているが、キルケゴールの理解、それが本来の理解であると私は思うが、その考え方からすれば、「慶應タイプ」とか「心理学」とかの姿勢というのはそれは「絶望」の状態を推奨してひろめようとしている、いわば、毒を薬だとしてひとに飲まそうとしている連中のようなものである。
・・・が、こういうことを言うと「心理学」から「なんとか症候群」とか「なんだかんだシンドローム」とか「☆☆的性格」とかなんとかかんとか「診断」される危険があるので、怖いこわい怖いこわい! まず、だいたい、 《小此木啓吾型「おまえはそんなにえらいのか」症候群》みたいな「心理学者」というのも大量にいるが、そういう人たちとは関わらんのが一番だな・・・。
  それで。『旧約聖書 出エジプト記』には、
《 神は次のような言葉をみな語って言われた、「わたしは君をエジプトの地、奴隷の家から導き出した君の神ヤハウェである。
わたしのほかに君は他の神々を持ってはならない。君は上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの彫像、いかなる像(かたち)をも作ってはならない。彼らを拝んではならず、これに仕えてはならない。何故なら君の神であるわれヤハウェは妬む神であり、わたしを憎む父たちの咎をその子らに罰して三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わが誠命を守る者のためには恵みを施して千代に及ぼすのである。・・・》
( 『旧約聖書 出エジプト記』第20章1-6節 関根正雄訳。 『旧約聖書 出エジプト記』1969.岩波文庫 )
『旧約聖書 ヨブ記』には、
《 もしわたしが日の光の輝くのを見
  月の光がいよいよ明るくなるのを見て
  わたしの心がひそかにさそわれ
  わたしの手をわたしの口につけたことがあれば、
  それもまた裁かるべき咎である。
  わたしは上なる神を裏切ったことになるからだ。》
( 『旧約聖書 ヨブ記』第31章26-28節 関根正雄訳。 『旧約聖書 ヨブ記』1971.岩波文庫 )
と書かれている。
  この考え方からいくと、自分が信仰する宗教とは異なる施設に行ったり、拝んだりしてはならないことになりそうだが、しかし、建築業界に勤務すると、寺や神社の建築で有名建築物・歴史的建築物があって建築業界で勤務する者としては、知らないというわけにもいかないという場合がある。キリスト教の教会堂などにおいても有名建築物・歴史的建築物はある。
  又、仏教でも宗派が異なる寺というものもあるし、神社の場合も、神社であればすべて一緒というわけではなく祭神は異なり、必ずしも、仲がいい神さんではない場合もある。日蓮宗の場合、日蓮は「四箇格言」として、「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」(真言宗は亡国の教えである。禅宗は悪魔の教えだ。念仏を唱えると無間地獄に落ちるぞ。律宗は国賊である」)なんてことまで言ったことがある・・が、日蓮宗の寺でも最近では「平和共存」志向のようだが、ともかく、寺でも宗派が異なると仏教は仏教でも異なる宗教ということになるとも考えられ、神社もまたその神社によって内容は異なるので、明治維新体制によって伊勢神宮により統制を受けたことがあったかもしれないが、本来は、神社というのはそれぞれの神社によって拝む対象は違うはずだ。
  キリスト教・ユダヤ教・イスラム教においては、神はヤハウェ(エホバ、アッラー)のみであり、それ以外の「神」を拝んではならないことになっているはずだが、カトリックにおいては「守護聖人」などというものがあり、「聖人」とか「福士」とか認定された人というのがあるが、厳密にはそれも問題があるのではないのかという気がしないでもない。
  キリスト教徒はお寺に行ってはいけないのか?  金閣とか銀閣とか東求堂とかそういう有名建築物を見学に行くのはいいけれども拝んではいけないのか? しかし、宗教施設に行って、そこの宗教を信仰して厳粛な気持ちで訪ねている人がそこにいるのに、建築の見学や庭園の見学だけを目的に行くというのはいいのか? そもそも、宗教施設の建築というものは、「建築家安藤忠雄」設計の「水の教会」みたいな結婚式専用教会という信仰とはあんまり関係のないエセ教会は別として、「信仰と関係ない建築」というものがありうるのか?
  私は、寺でも神社でも教会堂でも、建物の見学を目的に訪問して悪いとは思っていない。キリスト教徒がお寺に行って悪いことはないと思うが、その場合、「拝む」という行為はキリスト教徒としてするべきではないということなら拝まなくてもいいと思うが、「失礼のない態度を取る」というようにするべきであり、それなら訪問して見学させてもらってもいいと思っている。但し、ここで難しいのは「失礼のない態度を取る」というのがどういうものかという点である。手を合わせて拝むということはしないが、軽く礼をするというのがその宗教施設に対する礼儀と考えていいか、それでも拝んだことになり、「モーセの十戒」を破ったことになってしまうのか。なかなか難しい問題であると思う。「慶應タイプ」はこういうことを考えない。私はこういったことを真面目に考える態度が「思考の柔軟さ」であると思うのだが、こういうことを話すと「慶應タイプ」は逆に、「おまえ、頭、かたいなあ」とか言うのである。こういったことを考えない野蛮人のことを「慶應ボーイ」とか「思考が柔軟」とか「福沢精神を身に着けている」とか「自我が確立されている」とか「そういう人間を企業は喜ぶ」とか「そういう人間が社会で役に立つ」とか「ギャルにもてもて」とか「慶應タイプ」は言うらしいのだが、別に、慶應タイプの野蛮人が好きなバカギャルにもてなくてもけっこうだ、「どのような賞を受賞しているかで人の値打ちが決まるのではない。どのような人が受賞しているかでその賞の値打ちが決まるのである」と「作家で精神科医」の なだ いなだ が『娘の学校』(中公文庫)で書いていた、又、毛沢東は「敵によって反対されるのなら、それは大変けっこうだ、と考えるべきである。なぜなら、もしも、敵によって称賛されるなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、敵によって反対されるなら我々の行動が敵とは一線を画しているということを意味しているからである」と述べており、(さらには、2000年代、書店の棚で見かけたのだが『女に嫌われる女、100人』とかいう題名の新書本があって、その上位4位だか5位だったかに小倉優子の名前が入っていて、作者は「しかし、小倉優子としては、もともと、男に好かれることは考えていても女に好かれようとは最初から考えていないわけであり、『女に嫌われる女』の上位に入賞したというのは、小倉優子としてはむしろほめられたようなものであるはずだ。」といったことを書いていたのだが、私だって、もともと、「慶應タイプ」が好きだというバカギャルにもてたいなどとは最初から考えていないわけであり、)「慶應タイプの野蛮人」が好きだというバカギャルに好かれないのなら、むしろ、ほめられたようなものである・・が、「慶應心理学」にはいったい何をどう「診断」されるやらわからんから、怖いこわい怖い怖い!!! 「なんちゃらかんちゃらシンドローム」とか「内部進学独善主義小此木啓吾レッテル製造シンドローム」 「小此木啓吾型おのれのことは棚に上げて人にレッテル貼りまくるの大好き症候群」みたいのが「心理学者」等には多いから、もう、怖いこわい怖いこわい!!! 「心理学」にはできるだけ関わらんのが一番である。

  さいとう たかを『ゴルゴ13』での話には、これはどうかなというものも中にはあるが、なかなか鋭いと思うものもある。『33+G』(2015年11月 )(『別冊ビッグコミック ゴルゴ13シリーズ No.204』2019.6.13.小学館 所収。)に、チリの鉱山経営者を狙撃したゴルゴ13が、逃走の際に鉱山に入ったところ、落盤が起こり地下の避難施設に閉じ込められたという話が出ている。
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「サン・ロレンソ」は《鉱山労働者の守護聖人》らしい。
※《ウィキペディアーローマのラウレンティウス》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
「作業員の1人・エリアスは、キリスト教プロテスタント福音派の牧師でもあった」ということで、「みんなで祈ろう」と言うが、
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しかし、ゴルゴ13は・・・、↓
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それに対し、牧師エリアスは・・・、↓
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「無理強い(じい)はやめよう。他の宗教の信者かもしれん。」
牧師たるエリアスは、宗教者としていかなる状況においても希望を捨てず祈りを捧げるが、同時に、他の宗教の信者・無神論者に対して自分たちの宗教を強制しようとはせず、むしろ、「無理強いはやめよう」と、望まない者にその宗教を強制することは慎むべきであると説得する。
 「俺たちの祈りの時間の間、外に出ていてくれないか?」と祈りを捧げる者を妨害しないよう配慮してくれれば、他の宗教の信者・無神論者に自分たちの祈りに参加するよう強制する必要はなく、強制するべきではない、という姿勢を宗教者としてきっちりと取る。
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このあたり、この牧師エリアスは宗教者としてもっともな態度を取っている。又、『ゴルゴ13』の作者もまた、この部分についての理解ができている。

  それに対して理解できていない人間というのが、会社という所、三流以下企業には時々いるのだ。(「一見、一流企業」にもいるかもしれないが、「信教の自由」について理解しようとしない会社、理解しようとしない人間を高い役職につけているような会社は「一流企業」ではなく「三流以下企業」であろう。)
  住宅建築業の(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ にいた時、1998年、静岡県の引佐郡なんとか町、今では「平成の大合併」で浜松市に併合されて浜松市北区 になった場所、浜松市北区引佐町奥山 にある深奥山方広寺http://www.houkouji.or.jp/ という臨済宗の寺で、「座禅研修」という馬鹿げた「研修」を強制的に受けさせられた。方広寺というと、「国家安康 君臣豊楽」の鐘で有名な京都に豊臣秀吉が建てた方広寺が有名ですが、深奥山方広寺はその方広寺とは別です。 今現在は、臨済宗の「方広寺派」を名のっているが、《1904年(明治37年)までは南禅寺派に属した》(《ウィキペディアー臨済宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97 )寺で、「半僧坊」という半分は僧で半分は妖怪? 魔物? 妖精でもないか? ・・を祀るお堂で知られており、半僧坊は神奈川県鎌倉市の建長寺でも山の上の方で祀られており、臨済宗の寺としては、普通に考えて、建長寺の方が方広寺よりもずっと格上であるが、半僧坊については深奥山方広寺の半僧坊を鎌倉に「勧請」したというのか、深奥山方広寺の方が元祖のようだ。

  深奥山方広寺は、今現在は、「方広寺派大本山」を名のっているが、深奥山方広寺がある場所の地形としては山間で、景色もよく自然環境のいい場所ではあるが、もともと、大きな堂宇をいくつも建てるには向いていない場所であり、半僧坊を祀った小さいお堂があった所というのが発祥ではないか。どういう経緯で南禅寺派から離脱したのかは、載っているものが見つからないが、そう昔から大きな寺であったわけではないのではないか。寺や神社の敷地というのは、いったいどこまでを敷地と考えるべきものか、東京の寛永寺などはもとの寛永寺の本堂(根本中堂)があったのは上野公園の中央噴水のあたりで本坊があったのは東京国立博物館のあたりだったらしいが、幕末の佐幕と討幕の戦いのおり、最後、彰義隊が寛永寺に立てこもって上野戦争をおこなったりしたように、寛永寺は佐幕側についたことから、明治維新後は敷地は狭められることになったようで、佐幕と討幕の戦いの際、佐幕側についた寺社と討幕側についた寺社とでは、「官軍」(勝てば「官軍」)側についた寺社はその敷地は広く確保されたという傾向があるようだ。 大阪府箕面市の箕面山瀧安寺は、役小角が箕面大滝で修業をして弁財天の助けを得て悟りを開いた・・という寺で、箕面大滝のそばにもともとはあったらしいが地震でその付近が崩落した時に箕面大滝と阪急箕面線「箕面」駅の中間より少し駅よりの現在地に移転したらしいが、瀧安寺も佐幕側についたこともあって、箕面大滝や滝道は「箕面公園」となり瀧安寺の敷地は狭めになったようだ。だから、深奥山方広寺の「敷地」となっている土地、「拝観料」を払うことで立ち入ることができることになっている土地は、緑豊かで、又、谷あいは夏でも涼しく、小川の流れもあり、自然のいい所ではあるけれども、ここって、もともとは深奥山方広寺の土地と違うのじゃないのか? ・・・て感じがしないでもない所である。 箕面山瀧安寺なら「箕面公園」になっているような場所が、深奥山方広寺の場合は「引佐奥山公園」とかにならずに深奥山方広寺の寺地となっている。そういう場所に入るのに深奥山方広寺は「拝観料」を取っている。そして、静岡県の特に遠州地方の企業で、「寺」に寄進して石碑に企業名や個人名を入れてほしいという企業が従業員の給料へつって貯め込んだカネから寄付するものだから、それで、山岳部で大きなお堂を建てるには向かない立地なのに、なんだかんだ、建物がけっこうできた・・・という深奥山方広寺はそういう「寺」ではないか・・と思われる。(嘘やと思うのなら、一回だけ、行ってみ。そんな感じやで。2回以上行く必要はない。こういう反社会的勢力の「寺」に「拝観料」を何度もくれてやるべきではない。 拝観入口のおばさんに聞いた話では、ジャフに加入していて会員証を持参して見せれば拝観料は割引になるらしい。その程度の「拝観料」なのである。)
  「深奥山方広寺」と名乗るだけあって、山奥にある。「平成の大合併」で全国で「ここまでやるか」みたいなものすごい合併がおこなわれたが、浜松市もまた、「ここまでやるか」みたいな合併で無茶苦茶広くなった。浜松というと名前からして浜辺にあるのか、海に面した市ではないかという市の名前だが、深奥山方広寺なんて浜辺なんてとんでもない、山の中にある。秋葉神社なんてのまで浜松市になってしまったようだが、ほんと、「ここまでやるか」て感じがする。
  それで、(株)一条工務店という会社は変わった会社で、従業員に給料を払う時には「そんなもん、カネないんやから、もっと払えなんて言うても払えるわけないだろうが」とか言うくせしてからに、1995年頃だったか、脱税で国税局から取り締まりを受けて100億円の追徴金を取られた時には、初代社長の大澄賢二郎が 「そんなもん、100億円なんて、一条工務店にはいくらでもある。カネみたいなもん、一条工務店にはあり余ってる」と発言なさったそうで、そんなに「あり余ってる」のならもうちょっと従業員に給料払えば良さそうなのに、給料払う時になると「カネないのに、そんなもん、払えるわけないやないか」とか言い出すのであるから、そのダブルスタンダードというのか二刀流というのか、この会社のオーナー経営者というのは鵺のような人間である。従業員に給料払う時には「もっと払ってほしいやなんて言うても、カネないのに払えるわけないやないか」とか言うくせしてからに、2011年、東日本大震災の後、浜松市には「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」とか言って(この言い方では浜松市以外の都道府県・市町村には世話になってないみたいだが・・)、300億円を「防潮堤の費用」と称して「寄付」するという売名行為をおこない、浜松市長で慶應大学ア法学部卒の鈴木康友と福島第一原発事故の直後に静岡県産茶葉の放射線量検査を拒否した静岡県知事川勝平太の2名が大絶賛したということがあったが(労基法違反の札付き企業から行政が寄付なんてもらっていいのか?・・・と普通は考えるのではないかと思うが、なぜそのカネがあるのか、従業員に本来払っておくべきカネを払ってないからそれが貯まっているのと違うのか・・とか普通は考えるものだと思うのだが、そのあたりをまったく考えないというあたりが慶応大ア法学部卒で浜松市長の鈴木康友で、「慶應タイプ」鈴木康友にとってそれが「思考の柔軟さ」とか「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか「大人や」「社会を知っている」「現実的」とかいうところなのかもしれない。「ギャルにもてもて」かもしれん。(俺なんかと結婚するよりはカネはありそうやから女にとってはその点では俺なんかよりずっとええかもしれんけどな・・。)、従業員に払うカネはなくとも浜松市にくれてやるカネはあるというのと同様、深奥山方広寺のボーズどもにくれてやるカネもあったらしく、「座禅研修」と称して、「信教の自由」を侵害する「研修」をここの「研修所」で受けさせられた。「ボーズまるもうけ」である。この「研修」で稼いだカネが深奥山方広寺にいくつも新しくできたお堂などを作る費用に化けた、ということなのであろう。ボーズにも悪くない年金でるのだろう。(株)一条工務店の従業員には出ないようなものが。
  深奥山方広寺と「座禅研修」については、
☆ 深奥山方広寺(浜松市)と「信教の自由」を侵害する者
1. 八百長の通算契約棟数全国1位。遠州地方の営業の我田引水。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_1.html
2. 商品を大事に思う心。住宅営業にとっての知識。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_2.html
3. 払うべきカネを払わない者。掛川の人口は4万人ではない。https://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_3.html
4. 営業は自分で考えるもの+協力を求めてそれで契約になるのなら。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_4.html
5. うかつに「売れる人」と言うな。営業は大貧民ゲーム。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_5.html
6. 山門。 「もうかってる」会社が人をやめさせてよいのか。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_6.html
7. 弁天堂。 利益を生み出したのは労働。使用者に媚びる俗物寺。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_7.html
8. 椎河龍王。亀背橋。「信教の自由の侵害」を認識できないのは「病」 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_8.html
9. 三重塔。 堂宇を増やすのが寺の発展なのか。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_9.html
10. 鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_10.html
11. 上天台舎利殿、観音堂。 「親に感謝」は「教育勅語」の思想。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_11.html
12. 開山堂、勅使門、半僧坊真殿。 本人が希望しないお守りは害がある。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_12.html
13. 七尊堂(富士浅間・春日・伊勢・稲荷・八幡・梅宮・北野)と稲荷社 http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_13.html
14. 不良ボーズによる宗教の強制は国民に信仰心を妨げる http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_14.html 
15. (株)一条工務店の従業員の給料へつった金が、深奥山方広寺門前のじいさんとその孫の小遣いに化けた http://shinkahousinght.at.webry.info/201707/article_15.html
・・で述べたが、
[おまけ]《一条工務店の白旗山メガソーラー乱開発の説明会 日本共産党嘉飯地区委員会》http://jcp-kahan.info/archives/194
  深奥山方広寺と(株)一条工務店がおこなったことは、明らかに「『信教の自由』の侵害」であり、許しがたいことである。深奥山方広寺のボーズどもは、宗教者として欠陥がある。「職業としての宗教」に従事する者が最も大事にしなければならないもの、「基本のき」「初歩の初歩の初歩」として認識しなければならないのは、「信仰の自由」を守らないといけないという点である。ひとの信仰の自由を侵害する者には宗教者として生きる資格はない。深奥山方広寺は、静岡県地域の企業からいっぱいカネもらって、不要な堂宇をいっぱい建てたようだが、そんなものは何の価値もない。宗教者として自殺行為を平気でおこなってきた深奥山方広寺は仏教徒と認められる資格はない。

  不思議なのは、従業員の間で言われていた「通説」として、(株)一条工務店のオーナー経営者一族というのは創価学会員だというのだが、これは一族の人から聞いた話ではないのだが、「通説」のように言われていたことなので、「通説」であるからには「火のない所に煙はたたない」可能性も考えられるが、他方において、「通説」は常に正しいとは言えないので、実際にどうかはわからない。2001年、栃木県佐野市の営業所にいた時、ベテランの「高木のおっさん」(男。当時、50代。創価学会員)から「聖教新聞を購読しろお」と叫んでストーカーとして追いかけられたということを何度もやられた被害者としては、創価学会はもうええわ、もう勘弁してほしいわ・・・て感じなのだが、オーナー経営者一族が創価学会員なのかどうかは知らないが、私はオーナー経営者一族からは「高木のおっさん」みたいに「聖教新聞を購読しろお」と叫んで追いかけておられたという経験はない。で・・、創価学会というのは日蓮宗の一派だったはずなのだが、深奥山方広寺は臨済宗なのだ。「信仰の自由」を侵害するというのは栄西の教えに反すると思うが、それでも、臨済宗なのである。なんで、オーナー経営者一族は創価学会だと「通説」として言われている会社が、臨済宗の寺で「座禅研修」と称して座禅だけでない「研修」を従業員に強制するのか???・・・なんか、もう、「なんでもあり」みたいなのが(株)一条工務店の経営者だったということか・・・?

  深奥山方広寺のボーズ、「研修所」の所長だというムカイくんは、「半僧坊を自分で拝んでお守りを作るということをやってもらいます」と言い出したので、私は、「研修所」の世話係のボーズの1人に、「私は、こういうものはあまり気が進まないのです」とも言い、又、「お守りというものは、1年ほど持てば、お礼の気持ちと共にそれを元のお寺にお返しするものだと思いますが、私はこの近くに住んでいるわけでもなく、お返しに来ることもできませんから」とか、「私の家の宗派は臨済宗ではなく、もともとは浄土真宗で親がキリスト教に改宗したという宗派ですので」とか、ずいぶんといろいろなことを言ってお断りしたいと、不法を働く糞ボーズになんでここまでこちらが下手に出なければならないのかと思うくらい下手に出て話したが、いくら言っても、深奥山方広寺のボーズどもは理解せず、「別に他の宗派の人でもかまいません」などと言うが、こちらがかまうんだよ、こちらが・・ということを絶対に理解しない。「ここまでお守りを返しに来れないのなら、近くのお寺に納めてもらえばそれでよろしい」とか言うのだが、そんなこと言ってないんだよ。そんなもの、作らされたくないということを言っているんだよ、そのくらいのこともわからんのか、髪が薄いのはしかたがないとしても、深奥山方広寺のボーズは頭の外だけでなく頭の中まで薄いようだった。そもそも、「半僧坊」というのは民俗信仰のようなもので、そんなものはインドのもともとの仏教には存在しない。深奥山方広寺が勝手に持ち込んだものであって、臨済宗にももともとの臨済宗にはそんなものは存在しないのだ。だから、臨済宗の信者であっても、本来の臨済宗でないものを拝むというのは好ましいことではないと考える人もいるかもしれないもので、そういうものを強制するべきではない、ということくらいは、まがりなりにも宗教者であれば、「職業としての宗教」に携わっている者であれば理解できていないとおかしいのである・・が、それを理解できていないのが深奥山方広寺のいかさまボーズどもであった。深奥山方広寺などというものは、あんなものは仏教ではないし、臨済宗でもない。ボーズが勝手なことやって金儲けしているだけ、ボーズ丸儲けのための「寺もどき」である。
  そもそも、「研修所」は「所長」だというムカイくんという40くらいかと思われる男がいて、あと2人、年寄のボーズの格好したじいさんと若いにーちゃんがいたのだが、若いにーちゃんというのは仏教系の大学を出たばかりという感じでどこかの臨済宗系の寺の息子かという感じで、なかなか親切だったが、口が軽いのか、(株)一条工務店の某がそのにーちゃんに、「風俗店とか行きますか」と質問したところ、「大好きです♪」と答えたというのだから、まだ、「ボーズの修業ができてない」のだろう。「正直でよろしい」と言っていいかどうかわからんが、そんなにーちゃんだった。おそらく、もうちょっと「修業を積んだ」ボーズなら「ボーズの修業ができたなら」風俗店には行っても黙っているようになるのだろう。問題はもう一人のじいさんだが、ボーズの格好して頭に毛がなかったのでボーズだと最初は思っていたのだが、帰り道、深奥山方広寺から(株)一条工務店が用意したバスの乗り場まで行く途中、両側に土産物屋などが並ぶ所で、じいさんは孫を抱いて立っていたのだ。・・ということは、ボーズの格好していたけれども、実際は、「近所のじいさんをアルバイトに雇って、ボーズの服を着せてボーズみたいに見せていただけ」の可能性がある。頭は剃ったのかというと、じいさんというのは便利なことにもともと禿げているのだ。だから、ボーズの格好するにしても剃る必要がない、こりぁまた便利なこと・・てことで、単に「近所のじいさん」をアルバイトに雇ってボーズの服着せてボーズのふりさせていただけと違うんかい・・て可能性が十分にあった。
〔ヤクザがボーズに転職するというのは実は簡単♪・・という話が何であったかに載っていた。そして、実際にヤクザからボーズに転職した人間はいるらしい。なにしろ、ボーズとヤクザは似ているのだ。頭はスキンヘッドだから、そのまま通じる。内容はなくてもえらそうな顔してハッタリきかせるというのは得意。ヤクザの「かけあい」とボーズの「禅問答」はほとんど一緒、勢いで言いまかせればそれでいい、というようなもの。カタギからカネもらう際の名目が「みかじめ料」と言うか「お布施」と言うかの違いだけ! たしかに、深奥山方広寺がやっていることなんて見ていると、まさに、そのまんま。(株)一条工務店が従業員の給料へつって貯め込んだカネを「みかじめ料」もしくは「お布施」として巻き上げたのである。労基法違反の(株)一条工務店から本来なら従業員・元従業員に払っていないといけないはずのカネを「お布施」という名目なのか「みかじめ料」みたいにふんだくったのである。カタギの仕事ではない、という点でたしかにボーズとヤクザは共通しているところがある。又、深奥山方広寺の「研修所」の「所長」だというムカイくんの言うことなど聞いていても、政治的には権力寄り・体制寄りという点でもヤクザと共通している。最近は浜松市までが(株)一条工務店から「防潮堤の費用」と称して300億円を「お布施」もしくは「みかじめ料」として受け取ったようだ〔見返りとして、浜松市は(株)一条工務店がやることに行政として眼をつぶるとか、約束したのかな・・・? とか考えがちだが・・・、考える方が普通だわなあ・・。そう思いませんか〕。ボーズがヤクザに似てきたのか、ヤクザがボーズに似てきたのか、とっちかなかなか難しいが、浜松市までがそれに似てきた。深奥山方広寺には「(株)どこそこ」と「みかじめ料」なのか「お布施」なのかもらったカネで掘った石碑が建っていて、その類の「お布施」もしくは「みかじめ料」による収入で作ったかと思われる石像がいっぱい転がっていたが(そのうちのいくらかは私の給料をへつって造られたもののはずで、もともとは私に給料として払われるはずであったカネをだまし取られてそれが深奥山方広寺の手に渡って化けた石像であるのだから、それはもともと私のもののはずだから、持てそうな小さいのを一体くらい「旅の記念に」持ち帰ってもよかったかもしれない(^^♪ )、その類として、浜松市に「お布施」払った(株)一条工務店経営者に報いるために、そのうち、浜松市役所の前かJR「浜松」駅の駅前に大隅賢二郎の銅像でも建つのではないか。従業員の給料をへつり安全対策費を削ってひとを殺した男の銅像が。大隅賢二郎が好きだという『水滸伝』の登場人物「呼保義 宋江(こほうぎ そうこう)」のごとく「女を刃物で殺し官憲に追われ逃げる」という行為を行って刑務所にはいった関連会社の(株)日信の社長に名目上なっていたらしい大澄のドバカ息子とセットで銅像が建つようになるかもしれない。・・・ヤクザがボーズに転職する際も、じいさんがアルバイトでボーズもどきやる際も、いちいち、頭を剃らなくても、もともと、スキンヘッドだからその点は大変便利・・のようだ。〕
(株)一条工務店という会社は、そういう人にお金をあげるのは大好きみたいで、そんなじいさんに小遣いやるのならもっと従業員にきっちりと給料払うべきではないのかと思うのだが、それは嫌らしいのだ、(株)一条工務店という会社は。このじいさんが孫にやる小遣いというのは、それは本来は俺のカネだ。本来なら俺に払っておくべきカネを(株)一条工務店は払わずに深奥山方広寺にくれてやったものがそのじいさんの「給料」になって、孫の小遣いになるのである。従業員・元従業員からは「搾取」しまくって、そのカネを深奥山方広寺のボーズどもや、浜松市に「寄付」して”人格者”のふりしたい・・というのが(株)一場工務店のオーナー経営者一族とその取り巻き・・ということだったのかもしれない。深奥山方広寺には、静岡県地域の会社の社長の名前が入った石碑とかがいっぱい建っていたが、従業員の給料へつったカネを「寄進」して石碑を建てる寺が欲しいという「企業経営者」のニーズに応えるというのが深奥山方広寺のなによりの使命・・とこの「寺」のボーズは考えていた、今も考えているのかもしれない。 深奥山方広寺の「研修所」の「所長」だというムカイくんが、京都セラミックの稲盛という社長だったか会長だったかのおっさんをなぜかヨイショしていたが、稲盛からもカネもらったのかな? 従業員の給料へつって貯まったところから。深奥山方広寺というのは、そういう「寺」なのである。織田信長なら焼き討ちにしたいところだろう。私だって、焼き討ちにでもしてやりたいぐらいの「気持ち」だったが、放火で捕まったのではあほくさいし、焼けたら焼けたで、「お寺に寄付して人格者ぶりたい企業経営者症候群」みたいなビョーキのおっさんが、またもや、従業員の給料へつって貯めたカネから寄付して”人格者”ぶる材料になってしまう危険もある。フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』で「汝らの使命は蠅叩きとなることにあるのではない」と書いており、宗教と言うに値しないいかさま寺といかさまボーズに腹を立てて蠅叩きとなるべきではないのかもしれない・・が、それにしても、気分の悪い、不快指数が上昇する寺である。この寺とかかわると真面目に宗教について考えようとする者は「不快指数が上昇する」ので、それで、「不快」⇒「深い」⇒深奥山方広寺 と名づけられているのか? ・・もしれない。
( 雇用関係を悪用して深奥山方広寺での「研修」に参加させ、強制的に「心理テスト」まで受けさせ、これだけ、何度も断っているのに、「半僧坊を拝んだお守り」を作らせようと強制したというあたり、(株)一条工務店と深奥山方広寺の行為は強要罪に該当する可能性があります。)

  この「座禅研修」と称するボーズのやりたい放題・言いたい放題を無理矢理きかされるという拷問は、静岡県の掛川営業所の所長になっていた近藤正夫(まさお)が主張して実行したと、これも従業員の間の「通説」として言われていた。 「通説」が常に正しいとは限らないけれども、私自身が別件で近藤正夫の所に電話をした時、近藤正夫から私は「座禅研修にも、あんたには絶対に強制的に参加してもらうからな」と断言されたのだ。《「絶対に」「強制的に」参加してもらう》とはっきりと近藤正夫から言われた以上は、近藤正夫がこの「信教の自由」を侵害する行為をおこなった主犯であるかどうかはさておき、この件について、明らかに「ギルティ―(guilty)」(有罪)であるはずである。
  ↑の深奥山方広寺シリーズでも述べたと思うが、私は近藤正夫については、片方で評価していた部分もあった。近藤正夫は私が入社した時点において、「通算契約棟数1位」ということになっていた。(株)一条工務店は、年始に「年誌」という部厚い冊子を全従業員に配布していたが、それに、最初は「一条工務店の土台を築いてきた人たち」として、そのうち、「MVPメンバー」と称して通算契約棟数100棟以上の人の氏名と所属と通算契約棟数に顔写真が掲載されていたのだが、近藤正夫は通算契約棟数1位としてそこに掲載されていたが、私が彼を評価ししていたのは、そこに掲載されていたからではない。「通算」の契約棟数の場合、プロ野球の記録でも「通算」の記録というのは長くやった人が記録することが多く、「休まず、遅刻せず、働かず」みたいに出続けた「連続出場記録」なんてたいして価値はないはずで、安打数や本塁打数・打点でも「通算」の数は長くやった人が上位に入ることが多いのと同様、「通算契約棟数」も古くからいる人は多くなりやすいということとともに、そもそも、「バブル経済」が崩壊する前の棟数と「バブル経済崩壊」以降の棟数を比較しても意味はないし、(株)一条工務店は私が入社した頃から以降は「労働集約型」、1展示場あたりの営業の数が同業他社よりずっと多いというやり方で、営業1人あたりの棟数は多くならないが会社としての契約棟数は多くなるという方針でやっていたが、それより前においては、そうでもなかったらしく、会社が「労働集約型」でやるより前からいる人のその時代の棟数など「あてにならない」と考えるべきものなのである。そして、「一条工務店の土台を築いてきた人たち」だの「MVPメンバー」だのといって顔写真と氏名が出ていた人というのは、その多くが静岡県・愛知県地域の人であり、1992年に私が入社した時、「セゾン275S1」というタイプを東京都・神奈川県では「施工面積」という(株)一条工務店独自の計算方法で坪あたり55万円で売らされていたのにたいして、通算契約棟数2位の平松さんが勤務していた静岡県浜松市では48万円、通算契約棟数1位の近藤正夫さんが勤務していた掛川市も48万円、通算契約棟数3位の近藤路夫さんが勤務していた名古屋南営業所では49万5千円でダンピング販売しており、なおかつ、東京都では束石は「ピンコロ」という小さい束石であったのに対して、浜松・掛川・名古屋においては「マンホールのフタみたいなでっかい束石」をサービスしており、しかも、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県ではテレビ広告はまったくやらず、住宅雑誌の広告も他社と比べてずっと少なかったのに対して、浜松・掛川・名古屋など静岡県西部および愛知県においてはテレビ広告をドカンと一発やりまくり、テレビ番組のスポンサーもやっていたという、そういう「差別」した状況で彼らは営業やっていたのである。坪55万円で売らされていた者と坪48万円でダンピング販売してきた者とをその数字をそのままで比較するというのはおかしい! 浜松・掛川・名古屋の人間がダンピング販売して契約してもらった数字は最低でも2分の1をかけて計算しなおした上で評価する必要があるはずだ。 又、静岡県地域にいた営業に聞いた話によると、通算契約棟数2位の平松さんは私が入社した1992年の年間契約棟数1位であったけれども、浜松の営業が見込客と折衝を進めてもうすぐ契約になる・・という時に、「おい、◇◇くん、☆☆さんてお客さんやってるだろ。あの人、俺が契約することにするわ」などと突然言い出して、ひとの最有望見込客を横取りして「契約をあげた」などということもあったそうで、「一条工務店の土台を築いてきた人たち」だか「MVPメンバー」だかいうような人というのはそういう「人たち」であった、「所長」とか「MVPメンバー」とか称している人たちの「契約」には、他の営業が追客して契約直前の見込客を横取りしてあげた「契約」もその中に入っているのです。 「MVPメンバー」とか言われても、要するに「特権階級」みたいにして会社全体・従業員全体の利益ではなくおのれらの利益をはかってきた連中のことでしかない。だから、そういうことをやってきた「人たち」が他の人間より多く契約をあげさせてもらえたとしても「当たり前」であって、毎年、称賛していた(株)一条工務店のオーナー経営者がおかしいのです。それよりも、そこに顔写真と氏名が出ていた人というのは、たいてい、「所長」といった役職につかせてもらっていた人であり、「所長」であるのなら、おのれが何棟契約を取ったなどと言って自慢するというのはそれがおかしいのです。ヒラの営業なら何棟契約を取ったぞおと誇るのもわからないことはありませんが、「所長」であるならば、新人や社歴の浅い人、長くいる人でも調子のよくない人にアドバイスをして契約があがるようにしてあげるのが所長の仕事のはずであって、自分ひとりが契約取りまくったとしても自分が「所長」になっている営業所で、所長でない従業員の成績なんてどうでもいいというそういう姿勢の「所長」なんて、そんなもの、所長と言うに値するのか? それは「所長」と言うべきものか? 「所長」というのは自分がどれだけ取るかよりも、自分が「所長」になっている営業所でどれだけの営業成績を残せたかで評価されるものと違うのか、「部下を伸ばすこと」というのが「所長」の仕事と違うのか、自分の営業所にいる営業に契約があがらなくても「おら、契約とってきたどお~お」とか言って自分だけ契約とったと自慢する人というのはそれは「所長」なのか? という疑問が大きい。少なくとも、「所長」であるならば、自分だけが契約いっぱいあげればそれでいいというものではないのではないか? ・・と思うのだが、(株)一条工務店という会社はそういう「所長」が多い会社だった
   私は、ひとの営業としての実力を見るのに、契約棟数だけで見るということはしていない。住宅建築業の会社の「トップセールス」とか営業部長とかの人の話を録画してビデオとして販売する会社というのがあって、2001年、(株)一条工務店で、栃木県地域の営業全員が集められてそれを見せられたことがあったが、その際、東日本ハウス(現 日本ハウスホールディングス)の「トップセールス」というおっさんが、「 営業力×その営業所の市場性=契約棟数」ということを話していたが、これはもっともなことだと思う。 但し、「かける」は比喩であり、「たす」という面もあるかもしれない。 「普通にやったら、5の契約を取れる」(数字に単位は特にない)という営業所で「普通」でない努力をした、もしくは、「普通」を超える能力を発揮した・・ということで、5+2=7 の成果をあげた・・というケースもあるのではないか。もっとも、「普通にやったら」という「普通」とはどういうものかという問題もあるが、考え方として、「かける」という考え方もあるかもしれないが「たす」と考えた方がいい面もあるかもしれない。「普通にやったら」10の成績があがる営業所で6か7の成績を残した人もあれば、「普通にやった」のでは1の成績もあがらない営業所、「プラス3くらいの努力」をしてもゼロの成績にしかならない、「プラス5」くらいの努力をしてやっと2か3くらいの成績があがる可能性がある営業所というものもあったはずだ。 「普通にやったら」10の成績があがる営業所で6か7くらいの成績を残した人間と、「普通にやったら」ゼロの成績しか残らない営業所で「プラス5か6くらいの努力」をしてそれでやっと3くらいの成績を残した人間では、(株)一条工務店のオーナー経営者は前者を高く評価し後者は「売れない営業」と断定される。 それなら、「普通にやったら」2か3の営業所で「普通」を超える努力をして5か6の営業成績を残したとすると、当然、「普通にやったら」10か12の成績が残る営業所で5か6の成績の者より上に評価してもらえるはずだ、同じ営業成績なら条件の良い営業所にいてその成績を残した者と条件の悪い営業所で奮闘努力してその成績を残した者なら条件の悪い営業所で条件の良い営業所で同じ営業成績を残した者よりも評価してもらえて当然だ・・と思うと、(株)一条工務店ではそうではない。条件の良い営業所にいた人間と条件の悪い営業所にいた人間が同じ営業成績なら条件の良い営業所にいた人間の方が高い評価にされてしまう。条件の良い営業所にいた人間というのは、(株)一条工務店においては、いわば、「長嶋みたいなやつ」「巨人みたいなやつ」なのである。〔⇒ 《YouTube-阪神ファンによる『くたばれ読売』の大合唱!》https://www.youtube.com/watch?v=H4448dAQp1s 、《YouTube-【阪神タイガース 大合唱】開幕戦の"商魂こめて"は凄まじい》https://www.youtube.com/watch?v=jqA-_IY2Gu8〕11年余在籍して約10年営業をやった「永年勤続表彰」の時計もらった人間の一人である私が言うのであるから間違いない。毎年毎年、この会社に滅私奉公・破私奉公を続けてきて、それで、毎度毎度、条件の悪い営業所にばかり配属されてきて、よくもまあここまでやってくれたものだと思うが、「普通にやったら」10くらいの営業所で7か8くらいの営業成績を残してきて「売れる営業」に評価されてきたような人間というのが何人もいることを私は知っている。そういう人間が自分はそういう条件で営業成績を残させてもらったにもかかわらず、勝手なこと言いまくるというのも嫌ほど見てきている。
  「かける」と考えるか「たす」と考えるか、いずれにしても、営業成績というものは、その営業所の状況によって大きく異なるものであり、特に「一条工務店の場合は、営業所による条件の差が甚だしい」とある程度いる従業員で比較的良心的な人(それを指摘するとオーナー経営者に嫌われると感じ取って、その逆言いまくることでおのれだけ条件のいい営業所に配属されてきた、とかいうイヌもいるのだが)は理解しており言う会社であり〔会社は従業員に対して公平であるべきであり、公平であってこそ従業員のモラールも上がるのであり、どの状態が公平か、どうすれば公平になるかを考えるのが経営者の仕事であり、私は慶應大学商学部の卒業生として採用され、そういったことを考えるのがこの会社での私の仕事だと認識していたが、この会社のオーナー経営者はそうではなく意図的に不公平な状態にして気に入らない人間を条件の悪い営業所に配属して成績があまり上がらないようにして「人間のカス」を条件の良い営業所に配属してそれによって営業成績を上げさせるということを意図的にしようとしていたようだ〕、テレビ広告付きで東京都で坪55万円のものを坪48万円だの坪49万5千円だのでダンピング販売してきた連中を「一条工務店の土台を築いてきた人たち」だの「MVPメンバー」だのと言われても・・・、「ああ、そうですか」とでも言うしかないのである。むしろ、「よく言うわ♪」て感じがする。大隅賢二郎が好きだという『水滸伝』の横山光輝による漫画版を読むと、「梁山泊」においては「108星の英雄豪傑」と指定されているメンバー同士においては、ずいぶんと義理堅く、危機には何人もで助けに行くのだが、そのためには「108星の英雄豪傑」に指定されていない「梁山泊」の下っ端の従業員は無茶苦茶な采配(経営)で何人もが犠牲にならされているのだ。『水滸伝』の「108星の英雄豪傑」というのが「MVPメンバー」とか「一条工務店の土台を築いてきた人たちと自称している人たち」であり、その「人たち」が自分たちを守るためには『水滸伝』では「梁山泊」の下っ端は平気で犠牲にされるのと同様に「MVPメンバー」(別名、「長嶋みたいなやつ」)に一般従業員は平気で犠牲にされる会社運営がされてきたのが(株)一条工務店だったのである。
  但し、近藤正夫さんについては、私は片方で彼を評価していたのだ。それは、私は数字だけで営業の能力を見るのではなく、その人がどういう動き方をしているかその人がどういうことを言うか、ということも合わせて判断していたからで、「研修」で近藤正夫さんが講師役として来た時に話したことというのは、「なるほど」と思うものがあったのだ。又、自分が参加した研修でなく、他の人が参加した研修に講師役で近藤正夫さんが来てこういうことを話した・・と聞いたものにも、もっともなことを言うと思ったものがあったのだ。だから、テレビ広告付きで東京都で坪55万円で売らされているものを坪48万円でダンピング販売してきた人の通算契約棟数なんて八百長だと思っているが、話す内容がなかなかもっともなものがあるのでその点を私は評価した。又、神奈川県相模原市の営業所にいた人から聞いた話だが、近藤正夫さんは静岡県掛川市の営業所に一貫して勤務してきた人だが、神奈川県相模原市の営業所の「所長」を兼任した時があり(実際にその地域にいない人を「所長」だとして兼任させるというのはいけません、と労働基準監督署からその後、言われたらしく、2001年から、それぞれの地域にいる人が「所長」もしくは「副所長」になるように変わった)、相模原市の営業所にいた人は近藤正夫さんから「◇◇さん、俺、掛川に行ってこなきゃならないんだけど、〇日に戻ってくるから、それまでに話をすることができるお客さんを1件、必ず、出しておいてくれ。そうしたら、俺が一緒に同行して何が何でも契約に持っていってやるからなあ」と言ってくれた、と言ってその人は喜んでいた。実際には契約にならなかったのかもしれないが、それでも、そのあたりを聞くと、いいところあるじゃないか・・・という感じがする。しませんか? 「聞いた話」だけれども、なかなか、いいところあるじゃないか・・と思いますね。
  しかし、片方で、明らかに「信教の自由の侵害」になる行為を推し進めた人間であり、この「信教の自由」というのは、これは人間にとって大変重要なもの、人間の根源的なもの、最も大事なものであり、それを平気で侵害するというのは、これは許せるものではないのです。又、「信教の自由の侵害」を平気でおこなうような無神経な人間というのは、その部分において、営業としても優秀とは言えない、と評価せざるをえません。たとえ、通算契約棟数1位であったとしても、人間の「信教の自由」を侵害するような人間と呼ぶに値しない人間は、営業としても評価できません。

  日本国憲法には、
《 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 》
という条文がありますが、誤解してはいけないのは、《日本国憲法にこの条文があるから「思想・良心の自由」「信教の自由」は守られないといけない》と考えるのは正しくないという点です。そうではなく、《憲法にこういう条文があろうがなかろうが、「思想・良心の自由」「信教の自由」は守られないといけないものであり、「思想・良心の自由」「信教の自由」というものはいつにおいてもどこにおいても守られないといけないものであるから、日本国憲法も条文を設けてそれを保障し確認している》のです。
  それを平気で侵害する深奥山方広寺のボーズどもというのは、まず、自分自身が法の精神と宗教について理解できていない人間であり、ひとに「研修」してやろうなどとおこがましいことを考える前に自分自身が学習するべきなのです。

  さらに、深奥山方広寺の「研修所」の「所長」だというムカイくんは、仏教や寺の話だけでなく、会社の経営だとか会社員としてのあり方だとかそういうことまで口出していましたが、おまえ、いったい何様なんだ!?!? と思いますね。そんなアホにカネをくれてやるのが(株)一条工務店の経営者の「趣味」だったようですが、そんな「趣味」にカネ使うのならば、もっと従業員にまともな給料を払うようにした方が良かったはずです。

  江本孟紀(たけのり)の解説はなかなか鋭いところをついていて、また、ユーモアとともに本音? の発言があっておもしろい。西武ライオンズに鹿取がまだ現役で在籍して、デッドボールをぶつけ、鹿取が帽子をとって頭を下げた時、ラジオの解説で、
「なんで、あんなもん、謝るんでしょうねえ。ちっともよけてないじゃないですか。むしろ、こっちが謝ってほしいくらいやわ。なんやねん、あんなもん、ぶつかって一塁まで行きやがってからに。ぼくら、昔、現役の時、敬遠すんのに四球投げるのめんどくさいから、ぶつけたったことある~う」とか、
阪神が長期低迷していた時、アナウンサーが「試合前、球団の人と話していましたら、『今年はお客さんの入りが悪いんですよ。どうしてでしょうねえ』なんて言ってました」と言ったところ、「はあ~あ。『どうしてでしょうねえ』なんて言ってましたか。そうですか、ぼくはどうしてお客さんの入りが悪いか知ってますよ、ぼくは。そりぁ、いくらなんでもこんなけボロクソに負けまくったら、いいかげん、見に行くの嫌になりますよ、これだけボロクソに負けまくったらあ。球団の人というのはわからんのでしょうかねえ。案外、球団の中にいるとわからんもんなのかもしれませんね。一度、教えてあげましょうかねえ。」・・・。
衣笠の連続出場記録がかかっていた時、広島カープは優勝争いの最中だったが、毎試合、1打席だけ衣笠に打たせて凡退させるということを繰り返していたが、「解説者ラジオ討論」において、どこが優勝するだろうかという話で、
「広島は今年は優勝しなくてよろしい。来年以降は別としてね。今年の広島は衣笠の連続出場をとるのか優勝をとるのかという問題で、衣笠の連続出場の方を選んだんですから、自分で優勝を捨てたようなチームは優勝しなくてよろしい」と発言、誰だったか他の解説者が「その通り。いいこと言うねえ~え」と。
オールスター戦の中継でゲストの芸能人が「それにしても、プロのピッチャーというのはよくあれだけ速い球を投げますねえ。また、それをバッターはよく打ちますねえ」と言ったところ、江本は「ええ。そりぁ、なにしろ、それしか知らんのですから」と・・・(笑)・・
さらに、ラジオのアナウンサーが「それにしても、甲子園球場というのは、よくお客さんが入りますねえ」と言うと、
「ええ。それだけ、野球の好きな人が多いいうことでしょう。・・ほか、な~んも知れへ~ん!」・・・て・・(笑)。
   その江本孟紀の著書『プロ野球 勝てる監督・使える選手』(1998.4.10.)には、
《 ・・選手の脱税問題が社会を騒がせた。こういう事件が起きると必ず「野球人は青少年の模範であらねばならぬ。ドーシタコーシタ」という者が現れる。
  なるほど、スポーツ一見、厳正なルールに則って行われているかに思える。しかし、話は逆だ。ルールがなければ何が起こるかわからないから、ルールを作り、審判を置く。
  アマチュアリズムの牙城といわれるのがラグビー界であった。
  そのラグビーですら今はプロ化の波にさらされているが、それでもフェアプレー精神が金科玉条とされている。
  ノーサイドの笛が鳴ると同時に敵味方が健闘を讃え合う。なるほど、麗しい光景。しかし、実際の試合ではフェアプレーもヘチマもない。審判の目が届かないところでは「何でもアリ」がフェアプレーの真の姿なのだ。そういう世界に住む人間に模範的人物であれと求めてどうする。・・・・》
《 チームを優勝させた監督には企業などから、講演の依頼が殺到する。途端に監督は人格者になり「世の道、人の道」を説き始める。それに頷く人たちというのはいったい何なんだ。人事や組織論を書いた解説者や監督、大選手の著書を座右の銘にして、会社の経営を考える経営者が結構いるそうだが、そんなこっちゃから会社が左前になるのだ。 ・・・・ 》
( 江本孟紀(たけのり)『プロ野球 勝てる監督・使える選手』1998.4.10. 三笠書房)
  江本はほんとに「いいこと言うねえ」・・・。

  そして、安達精治(あだち せいじ)『社長よ、あなたがお辞めなさい』(1998.6.10.ゴマブックス)には、
《 先日、日本経済新聞を読んでいたら、こんな記事にぶつかった。「企業の選択」という続き物の企画の中で、最近の経営者が自信を失い、各界のいわゆる「教祖」といった人たちのもとへ大挙して日参しているというのである。自分の至らなさを知り、謙虚になって勉強しなおそう、人の教えを乞おうというのは悪いことではない。それだけをとってみれば、むしろ推奨すべきことがらだろう。
  しかし、この記事を読み進むにつれて、ことはそう簡単ではないと気づかされた。というのも、私がここ十数年、数百社の経営者と会い、さまざまな問題の相談に預かっている中で感じた危惧が、ここにも色濃く出ているような気がしたからである。日経の記事をかいつまんで紹介するとこうなる。
  大阪市のある大宴会場に集まったスーツ姿の経営者百五十人の前に表れたのは、なんと黄金色の袈裟をまとった僧侶だった。この僧侶は、日蓮宗・妙見閣寺の住職・竹内日祥氏で、日頃から経営者相手に仏典から経営を説く「経営人間学講座」で人気がある。受講者は、おとなしくこの竹内氏の話を聞くのかと思ったら、講師の登場とともにいっせいに立ち上がり、「ひとつ、経営とは経世済民の高い志を実行に移すこと。ひとつ、経営とは人間の究極の理想を・・・」と唱和しはじめたというのである。・・・ 》
  なんだか、こういうのを読むと、日本の会社の経営者というのは、よっぽどアホちゃうかて感じがしてくる。しませんか?
  深奥山方広寺の「研修所」の「所長」だというムカイくんも、「信教の自由の侵害」をなんら抵抗を感じることなくおこなうという宗教者として失格の男でありながら、それでいて、会社の経営だなんだと口にするというのは、それはいったい何様なのだ? というのか、思いあがるのもほどほどにした方がいいだろう。
  従業員には「もっと給料ほしいなんて言うても、カネないのにからに払えるわけないやろうが」とか従業員には言うくせしてからに、深奥山方広寺の不良坊主にはそんなものにカネくれてやるというあたりは、「通算契約棟数1位」は八百長としてもある程度以上の契約をもらってきた人間のわりに、アホやな・・・と判断するしかない。

  深奥山方広寺は、まず、その存在が反社会的である。 「反社会的勢力」と呼ぶべきであろう。
  私は、本人がその問題についてよく考えた上で、自分なりに結論を出して行くのならば、キリスト教徒がお寺や神社に行ってもかまわないと思っている。しかし、あくまでも、「本人がよく考えた上で」であり、「本人がこうしようと考えた」ということをやるのなら、それでいいと思っているということであり、他人がああせえこうせえと言ってさせて良いものではない。 「本人が望まない宗教の儀式への参加の強制」は「信教の自由の侵害」にあたる。 「自ら虫けらとなる者は後で踏みつけられても文句は言えない」、このような「信教の自由の侵害」には労働者はそれを許してはならないものであり、「信教の自由の侵害」を認めるというのは自分だけが我慢すればいいというものではなく、そのようなものがまかり通っているならば、それは日本の社会そのものにおいて人権侵害がまかり通るということをも意味しているのである。 私は、(株)一条工務店の近藤正夫が、電話で、なんだか、興奮した調子で、「座禅研修にも、あんたには絶対に強制的に参加してもらうからな」と断言するので、私はこの会社には入社以来、「堪え難きを堪え、忍びがたきを忍び」「雨にも負けず、風にも負けず」「韓信の股くぐり」「臥薪嘗胆」「目立たず騒がず」「見ても見ざる、聞こえても聞かざる、言うべきことでも言わざる」と我慢に我慢を重ねて生きてきたが、この時も、「寺」で実施する「座禅研修」などというものに参加を強制されるというのはおかしいし、そもそも、座禅は健康法として良いと私は思っているけれども、そういうものは本人が自分で考えてやるものであって、会社の誰かに強制される筋合いはないし(又、実際に深奥山方広寺の「座禅」に参加してわかったが、私は、もともと、心身医学の研究者になりたいと考えていた人間であり、座禅なども研究し体験し実施してきた人間なのだが、私の考える座禅のあり方と深奥山方広寺のボーズの考える座禅のあり方とは異なるところがあり、私のやり方の方が基本的には正しい。方広寺のボーズは今一つ、わかっていないというのもわかった。これは効果があるのだろうか、本来的な状態になるため戻すためにはどのようにすればいいのだろうか・・といったことを考えて実行し試行錯誤した者と、やれと言われたからやったという者との違いかと思います。)、そもそも、「座禅」をするとかしないとかいったことは、(株)一条工務店の従業員は(株)一条工務店の使用者との間に結んだ労働契約において業務としての対象に含まれておらず、そのようなものに参加させられる理由がないし、(株)一条工務店は営業職の従業員に時間外賃金を支払っておらず、「座禅研修」に参加したことで営業活動に費やすことのできる時間を奪われるということは、その分を時間外労働をして補わないといけないことになるわけであり、それに対する時間外賃金を(株)一条工務店は営業社員に支払う必要が出てくるが、それを支払うことなく、「座禅研修」に参加するのが当然みたいに近藤正夫は言っているというあたりからして、近藤正夫は会社員としての社会人としての常識に欠けている。
  だから、この「座禅研修」なるものに参加しろなどと言うことは会社の態度・対応としておかしいし、《「絶対に」「強制的に」参加してもらうからなあ》などという文句が口から平気で出てくるというあたり、「あんまり、賢くないなあ」て感じがした。しかし、座禅であれば、これは体調を整え、心を整えるものとしておこなって悪くないものであり、キリスト教徒が座禅をおこなっても決して悪いものではないし、もともと、インドでおこなわれていた座禅を仏教が取り入れたのであって、座禅は仏教が座禅を考えたのではなく、場所が寺だという問題はあるが、「座禅」そのものは、特定の宗教とは関係なくおこなって悪くないものであるので、かなりぎりぎりの所で参加することにしたのだ。
  ところが、参加すると、「座禅」だけではなく、「心理学もどき」のおっさんが登場して、「エニアグラム」という怪しいものの話をやりだし、「心理テスト」を受けてもらいますなどと言いだしたので、私は「心理テスト」といったものは本人が希望した場合でなければ受けるべきではないと考えているし、「心理テスト」には怪しいものが多いので基本的には受けないことにしており、それで、(株)一条工務店の研修担当の若いにーちゃんが来ていたはずだったので、「心理テスト」などというものを受けてくれという話は聞いていないし、そのようなものを受けるのはお断りしたい、そのようなものに参加は断る! と言おうと考えて、その研修係のにーちゃんを捜したのだが見あたらず、浜松市倉松町の本社に電話をしてそれを言おうと考えたが、深奥山方広寺の「研修所」に公衆電話がなく電話をすることもできなかった(その頃は、携帯電話は持っている人と持っていない人があり、持っていない人の方が多いくらいで私は「電磁波が健康に悪影響を及ぼす携帯電話」をその頃は持っていなかった)。深奥山方広寺は「研修所」内に公衆電話を設置しておらず、外部に連絡しにくいように意図的にしていたようで、こういう扱いは人権侵害である。 その「エニアグラム」を担当していた「講師」係のおっさんも、少々、病的な感じがしないでもない人だった。そして、深奥山方広寺の「研修所」の「所長」だというムカイくんもそのあたりを理解できていない人間だった。気づいていない人というのがいる、「少々、病的な感じの人」には「エニアグラム」なるものをありがたがる人がいるのだが、血液型と一緒で、「もしかするとそういうこともいくらかあるかもしれない」くらいで考えると「マイナスにはならないかもしれない」というものでも、絶対的に信頼してとらえるとむしろ害があるものである。自分で、自分は「タイプ〇」かもしれない・・くらいに考えるのならば、「かもしれない」くらいに考えるのならばそれほど害はないかもしれないが、芸能人とか運動選手とか直接に会ったこともない人を「◇◇さんはタイプ☆なんですが・・」などと断定して話をするが、そのあたりはもはや笑止である。 結論として、私は「エニアグラム」は「害がある」と考えている。そういうものについては、それでも本人が希望するのなら受講しても自由であろうけれども、希望もしていない者に、そういう怪しいものについて強制的に受講させるという(株)一条工務店がおこなった行為は人権侵害であり、掛川営業所というダンピングとテレビ広告で営業していた営業所に長くいて通算契約棟数を多く残したという近藤正夫さんは、そういう「心理学」について詳しいわけでもないのに思いあがった行為は慎むべきであろう。
  さらに、「研修所」の「所長」だというムカイくんが、「普通はお守りというものは、僧侶が拝んだものを授与所で購入するものですが、今回は、自分自身で拝んでお守りを作ってもらいます」などと言いだしたので、それで、私は、これは明らかに限界を超えたと判断し、世話係の年配のボーズに、「申し訳ありませんが、私は、こういうものにはあまり気が進まないのです」「たとえ、お守りをここで作りましても、お守りというものは、基本的には1年間くらいが有効なもので、それ以上持つものではないと言われますが、静岡県の地元の人間ではありませんので、1年間を過ぎた時に、もう一度、ここにお返しに来るということもできませんから、このお守りを作るというのは、それは辞退させていただきたいと思います」と苦労して婉曲話法を駆使して話したのです。ところが、深奥山方広寺のボーズは断固として理解しないのです。「ここまで返しに来れないのなら、近所のお寺に持っていってもらえばいいです」とか、そんなこと言っちゃいねえよ、この糞ボーズめが!!! といったことばかりを言ってはぐらかし、無理矢理、お守り造りに参加させようとしたのです。私は、深奥山方広寺で受けた人権侵害については決して忘れはしません!!! 深奥山方広寺は宗教の敵です。


  深奥山方広寺は、1904年(明治37年)、日露戦争の年に南禅寺派から離脱したらしいが、「大本山」という形式を持たせようという人が静岡県の「財界」なのか企業の人間にはいるらしく、深奥山方広寺の本堂のあたりには、静岡県の企業の名前で寄付者の名が入った石などが並んでいる。遠州地方を中心とした財界と結びついて大きくなった寺のようである。「禅の精神」とは相当かけはなれている。

  キリスト教徒がお寺や神社に行って良いか・・・とか、そういうことは、本人が自分自身で考えて、自分がいいと思う選択をするしかないことである。自分がこのようにやろうと考えたのならば、それがその時点においては正しい選択なのではないか。
  いずれにしても、宗教をその宗教の信者でない他人に強制しようとする傲慢な者というのは、近藤正夫さんにしても深奥山方広寺のボーズどもにしても、その態度は、宗教というものの性質から考えて、許される態度ではないのは明らかで、それは宗教のあるべ姿に敵対する態度である。 創業の地において、その地域に合った商品をテレビ広告付きでダンピング販売して売ったような営業成績は八百長であってそのまま認めることはできないのは当然のことであるが、それでも、それなりの棟数の契約をあげてきた人ならば、このくらいのことは理解できるかと思ったが、買いかぶっていたようだった。

  近藤正夫は、記録として残っている契約棟数の数字は間違いなく八百長であり、そもそも、テレビ広告付きで大幅なダンピング販売やってきた連中の営業成績と比較されてもそれがいったい何だ・・というものなのだが、もしも、比較するのなら、ダンピング販売やって売ってきた者の契約棟数は高い坪単価で売らされてきた者の契約棟数とは性質が異なるのであるから、最低でも、0.5をかけた数字で考えるとか、テレビ広告付きで売ってきた者の契約棟数もまた、0.5をかけた数字で考えるとか、そういった数字の補正をした上で考えるのが当然であり、そのくらいのことは当然理解できないと「頭おかしいのと違うか」ということになるはずであった。 ところが、1998年、私が電話で近藤正夫と話した際、近藤正夫は「いわきの営業は草野所長も含めて全員が成績不振者だ」と発言、私が「それはどういうことですか。消費税が上がった後、営業は条件が厳しく、いわきの営業は相当の苦労をしてなんとか今の営業成績を残したのでしょう。これだけの契約を取るのがどれだけ大変だったか、そのくらいのことわかるでしょう。それなら、どれだけの契約を取れば成績不振者ではないと言うのですか」と言ったところ、近藤正夫は「最低10棟だ。10棟以上、契約とらないと成績不振者だ。だから、いわきの人間は草野所長も含めて全員が成績不振者だ。私は(ぎりぎり)10棟、契約を取った。」と言うので、この野郎、いいかげんにしろよ!!、と思い、「あなたが契約を取ったというのは掛川ででしょ。違うのですか。他の地域よりずっと安い値段でテレビ広告付きで売っている浜松や掛川の人間の契約棟数が他の地域の人間よりも多くてもあたりまえでしょ。そのくらいのこともわからないのですか。『草野所長も含めて』いわきの営業がこれだけの契約を取るのにいったいどれだけ大変な思いをしたと思ってるんですか。安売りとテレビ広告で契約とってきた掛川の人間が何を勝手なこと言ってるんですか」と言ったのだが、浜松・掛川・名古屋の営業というのは、安売りとテレビ広告、それに「地元の会社」という評価、カタログや販促ツールその他は浜松・掛川・名古屋向けの内容で作られていること、商品自体が静岡県中西部・愛知県向けの商品であること、そういった条件、さらには展示場も1992年に私が入社した時の東京展示場(江東区潮見)は床鳴りしまくりで外壁も汚れて汚く来場客から「普通、展示場というのは、一般の家よりきれいに造るものだと思うのだけれども、なんで、ここの会社の展示場は外壁とか汚れて汚いのですか。普通、展示場は床鳴りなんてしないのと違いますか」と言われる展示場だったのに対して静岡県中西部・愛知県の展示場は新しくてきれいであること、そういった「いくらなんでも、そこまでやるか」て感じのありとあらゆる不公平な条件によって浜松・掛川・名古屋の営業は契約を取ってきたのであり、近藤正夫の通算契約棟数1位というのもそういう八百長によって残した成績であり、いわば、裏口入学みたいな全国1位なのである。私は何が嫌いと言って裏口入学ほど嫌いなものはないのだ!!! その時にわかった。私は近藤正夫という男を買いかぶっていた、ということを。私は彼の「通算契約棟数1位」というのは八百長であってそのままは評価できないと思っていたが、しかし、「研修」で彼が話したことはもっともなものがあったし、他の人間から聞いた彼がこういうことを言ったという話もまた、もっともなものが多い、と思い、そちらの方から考えるなら、彼は、たとえ、安売りとテレビ広告で売っている営業所に入社以来在籍した人間で、(株)一条工務店では他の地域で営業やったことない人間であったとしても、それでも、その場所では努力してきた人であろうと考えたのだが、そして、そういう努力をしてきた人ならば、当然、自分たちの場所が他の地域よりも、意図的に安い坪単価に設定されていて、他の地域ではやっていないテレビ広告をドカンと一発やりまくっていて、展示場も東京展示場などと違って新しいきれいな展示場を作ってもらっていて、「地元の会社」という利もあり、商品も静岡県中西部・愛知県向けの商品である、浜松インテリア館というのも静岡県中西部・愛知県の人間は利用できるが東京の営業は利用できない役に立たないインテリア館であること、といったそういうことは、こういうものは得してきた人間よりも条件が悪い場所にいた人間の方が理解しやすいことではあっても、自分自身が真面目に努力をして営業してきた人間ならば、条件が恵まれた場所で仕事をした人間でもある程度以上理解できているであろう、「掛川営業所でぎりぎり10棟」というのは「並の営業所で5棟以下」「条件の悪い営業所なら3棟以下」のはずであるというそのくらいは理解できているであろう・・・と思い込んでいたら、近藤正夫はそうではなかったのだ!!! あきれた。なんだ、この男もまた、名古屋南営業所の近藤ローオとそれほど大きく変わらないアホと違うのか。買いかぶっていたが実際は「空の広さは浜松の広さと同じだ」と思っている「遠州人」のひとりだったではないか!
  同じものを坪55万円で売らされている者と坪48万円でダンピング販売している営業とでは1棟あたりの価値は同じではないはずである、テレビ広告やりまくって売っている営業所とやらない営業所とで条件は同じではない、その地域に合った商品である営業所とそうでない営業所では条件は同じではない、その地域の人が(株)一条工務店で年間何棟くらい契約してくれるかというものに対してその地域の営業の数が多い営業所と少ない営業所では少ない営業所の方が営業1人あたりの契約棟数が多くなるのは当たり前である、「所長」だ「一条工務店の土台を築いてきた人たち」だ「MVPメンバー」だと称してひとの契約横取りしまくってきた連中と横取りされまくってきた人間とでは条件は同じではない、といったことは、こういうことは得してきた人間よりも条件が悪い場所にいた人間の方が理解しやすいことで得してきた者の方がわかりにくいとしても、自分自身が真面目に努力をして営業してきた人間ならば、条件が恵まれた場所で仕事をした人間でもある程度以上理解できているであろう、「掛川営業所でぎりぎり10棟」というのは「並の営業所で5棟以下」「条件の悪い営業所なら3棟以下」のはずである、その数字を掛川営業所のアホどもはもっと自分の営業所に有利なように解釈したいかもしれないが、それにしても、「掛川営業所でぎりぎり10棟」というのはその時の近藤正夫のように「私は(ぎりぎり)10棟契約取った」などと大威張りで口にするというのは笑止千万、近藤正夫の「ぎりぎり10棟」というのは「並の営業所」では間違いなく5棟以下というのは普通の人間は理解している。(もっとも、何が「普通」かという問題もあり、「(株)一条工務店の遠州人」には普通でない人間だらけだったが。)ところが、近藤正夫という男は「通算契約棟数全国1位」ということになっていたにもかかわらず、それを理解できていなかったのだ。そもそも、掛川営業所は私が入社した1992年、「(株)一条工務店では全国で一番営業成績があがっている営業所」と言われていたが、しかし、それならば、掛川市に営業所をあと2つ作って営業の数も3倍にすればよかったのだ。そうすれば、掛川地域での(株)一条工務店の契約棟数はさらに増えたであろうけれども、営業所1ヵ所あたりの契約棟数、及び、営業1人あたりの契約棟数は間違いなく減ったはずである。これを経済学では「収穫逓減の法則」と言う。ひとの所には営業をいっぱい採用して(株)一条工務店で契約してくれる可能性のある見込客の数がそれほど多くない地域に営業ばっかりいっぱい配置しやがって、おのれの所には営業の数を少なくして、その結果、営業1人あたりの契約棟数を増やすという作戦をとってきたのがそれが掛川営業所と近藤正夫ではないか!!! 違うというのなら掛川市の展示場を増やして掛川地域の営業の数も増やしてそれでもそれまで以上の契約を取ってみやがれ。おそらく、その時は「売れない営業を増やされたために、所長の契約が減ってしまう」とかなんとか言って、「会社のために強い営業に見込客をまわすようにするべきだ」とか何とかかんとか言いまくって、自分にだけ有望見込客がいっぱいまわるように細工・工夫しまくることだろう。そういうヤカラのことを「一条工務店の土台を築いてきた人たち」とか「MVPメンバー」(ottomo konnjyouga ivinntyona Person)と(株)一条工務店では言うらしい。
  それから、消費税が上がった直後は戸建住宅建築業の業界は全国的に景気が悪かったが、それでも、その地域によってその影響の受け方には違いがあったその業界の景気の動向は日本全国で低下したとしても、それでも低下の度合いは地域によって異なるのだった。これも、経済学的思考によって理解する人できる人もいるだろうけれども、そうでなくてもある程度以上の営業経験のある人ならわかるだろうと私は思っていたが近藤正夫という人は理解できない人だった。結論として、アホ! だったのだ。私は実際に福島県いわき市から栃木県佐野市に移動して理屈だけでなく体で理解した。栃木県地域の方が福島県浜通り地域よりも影響は小さかったようで、消費税が上がった直後の時期に、栃木県地域の営業で言っちゃなんだが「たいしたことない営業」でも福島県浜通り地区の営業に比べれば「それなりの棟数」をあげている人がいたのを見たこの「景気の動向は全国一律に変化するというわけではない」という点についても、近藤正夫さんは「通算契約棟数全国1位」の営業成績を残した人なら「常に遠州人が有利なように解釈するのが正しい」という鉄則でしか考えられない「一条オリジナル」営業とは同じではないだろう・・などと買いかぶっていたがそうではなかった。もし、わかっていたならば、「私は(掛川営業所で)(ぎりぎり10棟)取った」などと大威張りで言わないはずだが、それを言う男であり、「常に遠州人が有利なように解釈する工夫ばかりしているずるいだけのアホ」だった・・・ということは、「営業としてもそれほどたいして評価はできない」ということでもある。営業としても私はこの男を買いかぶっていた。
  普通、静岡県中西部・愛知県のことしかわからない人間には、その地域のこと以外には口出させないようにするものだが、ところが、(株)一条工務店という会社は、「東海を制する者、天下を制する」とかアホなことを言って、静岡県中西部・愛知県の条件を意図的に他の地域より有利に設定することで静岡県中西部・愛知県地域の営業の営業成績が他の地域の営業よりも「見た目で」良い数字が残るようにしていたのだが、その結果として他の地域より良い営業成績を残させてもらえた、ということをまともな営業なら・まともな人間なら当然理解できているはずであったが、「通算契約棟数1位」で「一条工務店の土台を築いてきた人たち」「MVPメンバー」と勝手に自称していた近藤正夫はそれを理解できていなかったのである。結論として、「アホやった」のである。あきれた。(株)一条工務店の「浜松・掛川・名古屋病」の患者の一人だったのだ。この「病気」は簡単には治らない。で、そういう「遠州人」のアホが、なんで、勿来の関より北の営業所にいる人間に、当時の静岡県引佐郡なんとか町にあった深奥山方広寺などというわけのわからん怪しげな「寺」で仕事と何の関係もない「研修」なんて受けさせられなきゃならんのか? 結論として、「遠州人」近藤正夫が思いあがっていたからである。思いあがった人間はひとの人権を侵害するという傾向がある。近藤正夫が「信仰の自由」という人間にとって根源的なものを侵害したい侵害したいという衝動にかられるようになったというのは、それは人間が傲慢であったからである。私は今でも彼が営業としてまったくだめだとは思っていない。もっともなことを発言した部分もあるけれども、それでも、長年、掛川で営業してきたという点において、根源的な部分において人格が傲慢であったというのは否定のしようがない。 そういう人間は、少々、「座禅」なんてしても、その「病気」は簡単には治らない。どうすれば治るか・・といっても、治癒の方法はないかもしれない・・・。まず、「病識がない」というのがこの「病気」の特徴であり、近藤正夫も「病識がない」状態だったが、そこがこの「病気」の難しいところでもある。

  「宗教の敵」深奥山方広寺(静岡県浜松市)は焼き討ちにしてやった方が、世のため人のため、なにより、宗教のため、仏教のためではないか、という感じがする。 私はやらないけれども、もし、焼き討ちにする人があったとしても、その付近の自然環境については守られた方がいいとは思うが、深奥山方広寺の建物なんぞは、もともと、ホトケの心が入っていない俗物、労基法違反の札付き企業からせしめた「みかじめ料」が化けたものであり、消えてなくなった方が世のためである。
深奥山方広寺に転がっている石仏などというのは、労基法違反の会社からせしめたカネで作った従業員に本来は払っていないといけないカネが化けたもの、化け物の像である。

   (2020.1.14.) 


  なお、この稿において、浜松市北区引佐町奥山 にある「方広寺」は「深奥山方広寺」と一貫して表記しましたが、これは単に「方広寺」と記載したのでは、京都にある「方広寺」と誤解されるおそれがあると考え、京都にある「方広寺」(天台宗。山号はないらしい。)と浜松市北区引佐町奥山の「深奥山方広寺」とは宗派も異なり別のものなので、誤解のないように(山口組の分裂以来、「神戸山口組」に対して「六代目山口組」という表記がマスコミでされてきたのと同様?)、単に「方広寺」ではなく「深奥山方広寺」という記載にしました。深奥山方広寺は、もともとは南禅寺派に所属していたのが、1904年に離脱して「浜松南禅寺派」・・ではなく「方広寺派」を名のるようになったようですが、なぜ、離脱したのだろう・・・。深奥山方広寺に行って、一通り、見学してまわったところ、本堂のまわりなど、静岡県・愛知県地域の企業の名前が刻まれた石碑がいっぱいあり、静岡県中西部から愛知県にかけての地域にも、東京や関西に比べれば少ないとはいえ企業はあり、そういう会社から「寄進」されるものはあるが、お寺の本山というのはその多くが京都・奈良・鎌倉といった所にあって南禅寺派も京都の南禅寺が本部・・ではなく本山であり、静岡県・愛知県の企業からそれなりの「寄進」を受けているのにそれを京都の寺に「上納」させられたのではおもろない・・てところで、「浜松南禅寺派」として「〇代目南禅寺派」から離脱した・・・てところでしょうか。静岡県愛知県の企業のおっさんとしても、深奥山方広寺よりも全国的にはずっと有名な寺院であっても静岡県・愛知県からは遠い場所の寺に上納金を納めさせられるよりは、「浜松南禅寺派」の「大本山」として独立した浜松近郊の「寺」に石碑やお堂やなんやらかんやらを建てまくって、どこそこの会社の誰やらが寄進したんやでえ~え、わしぁえらいんやでえ・・とした方がいい、と考えた・・・といったところでしょうか。寺といっても、「その程度の『寺』」みたいですね、深奥山方広寺というのは・・・。
  (2020.1.15.)

  慶應大学の商学部にいた時、「資本家が労働者を搾取しておのれの腹だけを太らせ、労働者・人民を苦しめているというマルクスが描いた資本主義とは、現在の資本主義社会は違ったものになってきている」といったことを言う教授先生がおられた・・・が、実際に会社という所に勤めてみると、そういう「マルクスが描いた、資本家が労働者を搾取しておのれの腹だけを太らせるという資本主義」とは異なった会社というのも中にはあるのかもしれないが、そうではなく、「マルクスが描いた資本家が労働者を搾取しておのれの腹だけ太らせている」という「古典的資本主義」そのものの会社というのは現在の日本に実在する。経済史的視点で見ても、社会における企業というのはすべての企業が同じようにその内容を推移させているのではなく、それぞれ異なった状態で推移している。だから、「古典的資本主義」みたいな会社も実在するのであり、そして、そういう会社においては「古典的資本主義」の「搾取する者」に取り入ることでその分け前にあずかろうとする妖怪変化のような存在もまた登場するということである。深奥山方広寺はそれであろう。
  (2020.1.15.)
憲法講話 (1967年) (岩波新書)
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ゴルゴ13(B6) 204 2019年 7/13 号 [雑誌]: ビッグコミック 増刊
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・・しかし、鉱山のそのクソ経営者2人は、すでにゴルゴ13によって射殺されていた・・。
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従業員の安全対策をとらず、オーナー経営者の利益だけをはかる経営者というのは、日本だけではなく外国にもいるということか。
「防潮堤の費用」と称して300億円を(株)一条工務店からもらって浜松市長で慶應大学ア法学部卒の鈴木康友が大喜びしているようだが、そのうち、大澄賢二郎と息子の「親子鷹」の銅像でも浜松駅前か浜松市役所の入口脇かに作られるのかもしれない。安全対策を怠り従業員を殺した父親と「刃物で女を刺し殺し官憲に追われ逃げる」という父親が好きな『水滸伝』の登場人物「呼保義 宋江(こほうぎそうこう)」そのまんまを実行した関連会社の社長になっていたドバカ息子との人殺しコンビの像が。鈴木康友と3人セットというのもありうるか?・・・・
追分殺人事件 (角川文庫)
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プロ野球 勝てる監督・使える選手―ゼニを稼げる男と稼げない男の頭と体の使い方
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社長よ、あなたがお辞めなさい (ゴマブックス)
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