智積院。南大門、法住寺、養源院と三十三間堂。コナンは寺でキスなんかするな-妙法院・蓮華王院【4/6】

[第653回]
   妙法院のすぐ南に、真言宗智山派智積院があります。↓
画像


( ↑ 「 i 」マークが、智積院。 )
真言宗の本山てどこだろう? とりあえず、中学校の歴史・高校の日本史の教科書にも出ている高野山の金剛峯寺、そうでなければ、新幹線からも五重塔が見える京都の東寺、空海の生誕地の讃岐にあってJR土讃線の駅名にもなっている善通寺・・・といったあたりが思い浮かびますが、実は、真言宗というのはずいぶんといくつもの派に分かれているらしく、《ウィキペディア―真言宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 を見ると、「各山会に参画する真言宗十八本山」として、古義真言宗系として13寺、新義真言宗系として智積院(智山派)・長谷寺(豊山派)・根来寺(新義真言宗)の3寺と真言律宗の西大寺・宝山寺が出ています。これらの18寺を「真言宗十八本山」と言うらしい。これら以外の宗派もあるようで、それらは異端みたいな寺なのかというと必ずしもそうではないようで、紀三井寺(和歌山市)とか鑁阿寺(栃木県足利市)などけっこう有名寺院もあります。紀三井寺なんてJR紀勢本線の駅名にもなってますし。真言宗のお寺の派を見ると、豊山派・智山派というのを見ることが多く、最初、豊山・智山てどこだろうと思ったのですが、豊山派の総本山は奈良県の長谷寺で、智山派の総本山はここ↑。京阪「七条」駅から東に直進した突き当りにある智積院。で、智積院は、なんで、「◇◇寺」と言わずに「院」と言うのだろうかと思ったのですが、《ウィキペディア―真言宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 には、≪ 根来山は大伝法院を含めて根来寺となり隆盛を極めたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉により、焼き討ちにされ灰燼に帰した。 そのため、1588年(天正16年)にこれを逃れた専誉が奈良県桜井市の長谷寺に入り、ここが後に真言宗豊山派の総本山となった。 また、徳川家康の保護を受け、1601年(慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院を京都・東山七条に再建した。のちに真言宗智山派の総本山となった。 ≫と出ており、和歌山県の根来寺にあった「院」が京都の東山七条の現在地に移転したものが「智積院」で、それが智山派の総本山になったということらしい。

   智積院の前の「東山七条」という三叉路を西に「七条通」を行くと南側に三十三間堂があります。
画像

↑ 智積院の前の「東山七条」交差点から西側、七条通を見たもの。

( ↑ 「 i 」マークが、三十三間堂の現在の入口。 )
   今は、三十三間堂に入るには北側から入ることになっていますが、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館)に掲載の「妙法院 三十三間堂 境内地図」を見ると、三十三間堂の南東に「南大門(みなみだいもん)」がある。三十三間堂は南北に長く、よく見ると、南大門を入った後、さらに、三十三間堂の南北の中央付近の東に「東大門」がある。 南大門から東大門の前までは通路というのか道路というのかになっていて、この通りの東に法住寺や養源院などがある。ということは、この南大門というのは三十三間堂の門ではないのか。となると、何の門なのか? ・・そのあたりを確認するためにも、今回は、「東山三条」交差点から西に七条通を行くのではなく、東大路通を南に行って、このあたりを西に曲がると南大門の前、三十三間堂の南側あたりに出るかなと思った所を西に進みました。東大路通から西に曲がる所、このあたりかなと見当をつけて曲がって進んだところ、南大門が見えてきましたが、「普通の道」です。もしも、通り過ぎたとしても、東海道本線を越える跨線橋に至りますから、それより手前ということでとんでもない所には行かないでしょうけれども。
三十三間堂の北側は七条通と広い通りですが、南側と西側はひっそりとしたあまり広くない「普通の道」です。その南側の東西の通りを「塩小路通」と言うらしい。↓
画像

↑ 塩小路通り で西を見ると京都タワーが見えます。京都には背の高い建物は京都タワーだけで十分だと思います。

   1970年頃、母と一緒に京阪バスの観光バスで三十三間堂に行ったことがあるのだが、観光バスで行くと、その経路がどこを走っているのかよくわからないので、行った先のことはわかっても、それがどこにあるのかどうもよく理解できない。 三十三間堂の場合、「ともかく、なが~い♪」というのが特徴なのだが、東西に長いのか南北に長いのかもよく分からなかったが、三十三間堂は南北に長い。しかし、そうなると、南北に長い三十三間堂で、その南北の中央付近の前に東大門があるのはわかったが、その南に南大門があるとすると、その南大門は三十三間堂の門としては変な位置関係にあることにならないか・・・なんてことを考えた。
   やっぱり、寺でも神社でも、訪問する時は、基本的には正門・表門から入るもの。大学だってそうだ。東大の本郷の場合は、西側に赤門と正門が左右に並んでいて、どっちがより正門かわかりにくいが(慶應の三田も、かつては南側が「正」で、北東側は通用口みたいだったが、今は北東側もけっこう本格的な入口になったので、どっちが「正」かわかりにくい)、赤門から入ってもいいし正門から入るのも悪くないが、塀を乗り越えてこそっと入るものではないと思う。 ともかく、大学は試験を受けて合格最低点をたとえ1点でも上回る点数を獲得して入学するもの、「受験はアタマでやるもんや」と「 I D野球式学習法」でも「ドラゴン桜式受験術」でも駆使してもいいから、ともかく、合格最低点を1点でも上回る点数を取得して入るべきものであって、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして貯め込んだカネで裏から入るのが「思考が柔軟」かというと、私はそうは思わない。「正門」「表門」から入る入り方こそ「思考が柔軟」な人間のやることだと考える。だから、三十三間堂も、とりあえず、北側から行くのではなく、南にまわって、南大門から入って見ることにする。但し、知らない人にとっては種明かしになってしまうが、三十三間堂の南東にある南大門は1600年に豊臣秀頼が造営したもので、最初に三十三間堂が造られた時にはなかったものらしい。そもそも、三十三間堂は、今現在は北側、七条通りの側から入るようになっているけれども、もともとは、どこから入るものだったのだろうか。南北になが~いお堂の中央に東大門があるが、そこから左右にばかり長いお寺というのがそこにあったのだろうか? 「正門から入ろう」「表門から入ろう」という姿勢をとると、そういったことも考えるようになる。こういった思考は、裏から入るのを「思考が柔軟やから」とか自慢するようなテアイには理解できないだろう。

   鉄道の駅名には、同じ場所にあるのになぜ別の駅名にするのかと思える駅名があり、けっこう離れている場所にあるのになぜ同じ駅名にするのかと思う駅名があります。前者には、東京圏では、JRの「原宿」と東京メトロ千代田線「明治神宮前」、JR「田町」と都営三田線・浅草線「三田」、新京成電鉄「八柱」とJR武蔵野線「新八柱」、関西では大阪市地下鉄「南森町」とJR東西線「大阪天満宮」、南海汐見橋線(高野線)「汐見橋」と大阪市地下鉄千日前線・阪神なんば線「桜川」、阪急が「烏丸」で京都市地下鉄が「四条」。阪急が「西院」と書いて「さいいん」で京福電鉄はまったく同じ漢字で「さい」てのはむしろ面白いけどね。後者には、兵庫県尼崎市の阪急神戸線・伊丹線「塚口」とJR福知山線「塚口」、阪急千里線「吹田」とJR東海道本線「吹田」。駅名のつけ方には、もともとのその地名により近い場所にある駅を優先するという基準と、先につけた方を優先するという基準を尊重してはどうかと思うのですが、どうも、JRと京都市地下鉄は傲慢なところがあるのか、京福電鉄に「太秦」という駅が先にあるのにJR山陰線は離れた場所に「太秦」駅を作る。京福電鉄はこれを機会に「太秦広隆寺」に変更したけれども。京阪に「五条」「四条」という駅名があるのに、京都市地下鉄が「五条」「四条」駅を作って、京阪の方が「清水五条」「祇園四条」に駅名を変えた。京阪や京福電鉄からすると、「清水五条」「祇園四条」「太秦広隆寺」の方がいいのかもしれませんけれどもね。阪急の「烏丸」、京都市地下鉄の「四条」はどっちかに合わせろと言われても、阪急京都線は四条通りの地下を走っているわけだから、西院も大宮も烏丸も河原町も四条だし、京都市地下鉄烏丸線は烏丸通りの地下を走っているわけだから、南は「十条」、北は「今出川」「鞍馬口」まで烏丸だから、合わせるとすると「四条」でも「烏丸」でもなく両方を「四条烏丸」にすることになるかな。ついでに「鞍馬口」駅て、鞍馬に近い場所でもないのになんで「鞍馬口」なんだろと思ったが、烏丸通りと鞍馬口通りが交差する場所のようだから東西の通りの名前を取って「鞍馬口」のようだ・・が、どうもわかりにくいように私は思うのだが、どうだろうか。
   で、東京のJR山手線・京浜東北線・東京モノレールに「浜松町」という駅、何で有名かというと東京モノレールの始発駅として、私が子供の頃には貿易センタービルという高層ビルがある所として、海側のすぐそばに芝離宮恩賜公園がある駅として有名ですが、すぐ脇に都営浅草線・大江戸線の駅があって、同じ場所なのだから「浜松町」にすればよさそうなのに「大門」と書いて「だいもん」。これはどこの門なのか、増上寺は少し離れた場所なのだが・・と思ったのですが、増上寺の範囲はその時代によって違うようで、江戸時代は今の増上寺よりも広く、大門はJR「浜松町」駅と増上寺の山門の中間付近に道路上に今もるある。この「浜松町」の脇の「大門」は「だいもん」。ところが、「吉原の大門」は「だいもん」ではなく「おおもん」。な~んでだ?
   「南大門」の場合は、奈良の東大寺の「南大門」は「なんだいもん」。ということは、三十三間堂の南東にある「南大門」も「なんだいもん」だろうと思いこんでいたら、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)を見ると、「太閤塀と南大門」に「たいこうべい と なみなみだいもん」とフリガナが打たれており、三十三間堂の売店で購入した『国宝 三十三間堂』(2017.6. 発行:三十三間堂本坊 妙法院門跡。制作:飛鳥園。)にも、「みなみだいもん」とフリガナが打たれている。奈良の東大寺の「南大門」は「なんだいもん」で、京都の三十三間堂の南東にある「南大門」は「みなみだいもん」。な~んでだ??? ・・・と思うのだが、その「南大門(みなみだいもん)」が↓
画像

( ↑ 「南大門(みなみ だいもん)」 桃山時代。 1600年(慶長5年)、豊臣秀頼により建立された。重要文化財。南西側から見たもの。 左は、「太閤塀(たいこうべい)」。≪1588年(天正16年)には着工していたと考えられている≫らしい。こちらも、重要文化財。 )
   南西側から見ると側面も見えるのだが、南東側からは↓
画像

↑ 東側は隣家が接しているので、東側の側面は見えない。

( ↑ 「 i 」マークが、「南大門(みなみ だいもん)」。 )
   この南大門は、現在も門の下を通行することができる。↓
画像

↑ 人だけでなく、自動車も通行している。
   国宝に指定されている奈良の東大寺の転外門(てがいもん)はすぐ横を通ることはできても、門の下をくぐることはできない。やはり、国宝の東大寺の南大門は今も門の下を何人もの人が通行している。この京都の三十三間堂の南東の「南大門」は人が通行するだけでなく自動車も門の下を通っている。この違いはどこから来ているのだろうか。転外門はそれほど大きくないので自動車なんて通すべきではないと思うが、人は通らせてもらってもいいのではないだろうか・・なんて思うが通ることはできない。三十三間堂の南東の南大門は人だけでなく自動車も日常的に通行している。重要文化財とはいえ、それほど重視されていないのだろうか。
   南大門の先、左側に見える赤い建造物は、蓮華王院(三十三間堂)の回廊と東大門。
   この位置で見ていた時には気づかなかったのですが、今、蓮華王院(三十三間堂)では庭園をひと回り歩くことができて、東側の回廊の部分にも内側から行くことはできるのですが、そこで、ふと思ったのです。なんで、この回廊と東大門て、「神社色」してるんだろうか? と。なんか、「神社色」していると思いませんか? ところが、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)に掲載されている「東上空から見た三十三間堂周辺」の航空写真を見ると、この東回廊と東大門は「神社色」ではなく「お寺色」してるんです。な~んでだ?
   「お寺色」というのはどんな色なんだ・・と思う方もあるかもしれませんが、要するに三十三間堂の本体みたいな色と考えていただいていいかと思います。 ところが、今現在、行ってみると、蓮華王院の東回廊と東大門は↑の写真で南大門の向こう左側に見えるように「神社色」してるんです。

   この「南大門」ですが、もしも、蓮華王院(三十三間堂)の門だとすると、この門より内側が蓮華王院の境内ということになりそうですが、そのわりに、この門のまだ内側に蓮華王院(三十三間堂)の回廊があって蓮華王院(三十三間堂)の東大門があり、又、南大門から北に進む道の東側に、法住寺があり、養源院があります。
   『古寺を巡る26  妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)には、
≪ 桃山時代、豊臣秀吉は三十三間堂の北に方広寺(京の大仏)を造営。三十三間堂の南側にある南大門は、彼の没後の1600年(慶長5)、その子 秀頼によって建立された。 重厚な桃山建築の特色をよく示す。
   門の西に続く長い築地塀は秀吉ゆかりと伝わり、俗に「太閤塀」とよばれる、瓦の銘から南大門より早く、1588年(天正16)には着工していたと考えられている。いずれも重要文化財。 ≫
とあり、『国宝 三十三間堂』(2017.6. 発行:三十三間堂本坊 妙法院門跡。 制作:株式会社飛鳥園。)には、
≪ 南大門は三間一戸切妻の八脚門で虹梁の刻銘から慶長五年(1600)の建造と推測される。
   これに先立ち、天正期に豊臣秀吉が東大寺を模して発願市建物大仏殿方広寺は、定礎から七年を経て文禄4年(1595)9月に竣工(現 京都国立博物館一帯)した。 この門はその大仏殿の南門として置かれたものだった。
  これに接する木骨土造の築地塀は高さ5.3m桁行92m(29間)の堂々たる建造物で蓮華王院をも方広寺に取り込み、その南限を区画する目的で設けられた。「天正16年8月大ふつ殿瓦」のへら書がある瓦があり、軒平瓦には「太閤桐」の文様が用いられることから太閤塀と呼ばれ、ともに豊臣家ゆかりの桃山気風にあふれたものである。≫
と出ている。
要するに、この「南大門」は三十三間堂の門ということではなく、方広寺を主体とした三十三間堂も含めたこの地域一帯の門として計画されたものだったようだ。今は、この南大門をくぐった先の南北の通りを北に進むと東西の七条通りにぶつかり、その北側には京都国立博物館があって、その向こうの豊国神社や方広寺との間はこの道は遮られているが、かつては、方広寺は今の方広寺よりも広大なものだったようで、平安時代から存在する三十三間堂は、この南大門を入ってすぐ左側(西側)に配置される立地となり、主として方広寺の南大門として作られたもののようだ。 そう考えれば、この南大門と三十三間堂の位置関係も、そういうことか・・とわかるような気がする。

   ≪豊臣家ゆかりの桃山気風にあふれたもの≫というが、「桃山気風」とはなんぞや?
   家永三郎『日本文化史 第二版』(1982.3.23.岩波新書)には、
≪ 政権の所在について区分すると、織田・豊臣政権下の十六世紀末を安土桃山時代、徳川氏が政権を掌握した十七世紀以降を江戸時代とよぶことができよう。しかし、文化史の上では、寛永年間ごろまで、すなわち十七世紀前半までの約八十年間を一括して桃山時代として取り扱うのが適当であろう。
  鎖国以前の支配者たちは、従来商業上の特権を独占してきた座を停止して、国内の交易を自由にするとともに、海外貿易を奨励し、大判・小判などの貨幣を鋳造して、流通経済の発展を促進していった。そして、このような政策に協力したのが、堺・博多等で海外貿易を営む豪商たちであった。この時代にはまだ町人文化と明確に定義できるものは十分に発達していない。桃山文化のおもなるにない手は、第一に新しい支配者となった成り上がりの武将であり、つぎにこれに同調した豪商たちであって、かれらの規矩にこだわらない、闊達豪放な精神がそのまま反映して、この時代の文化には、高雅ではあるが弱々しい古代の貴族文化とも、また爛熟しているが頽廃的でスケールの小さい江戸の町人文化ともちがった、力強さがみちている。
   城郭建築は、その意味で、桃山文化の特徴をもっともよく発揮するものといわねばならない。・・・
   これまで寺院建築には、塔婆や山門などの大陸の様式を踏襲した多層建築があったけれど、天守閣はまったく日本人の創意から出た多層建築であって、宗教と関係のない住宅建築の一部にこのような建築が生まれ出たのは、今まで例をみない現象である。・・・・ ≫
とある。

   南大門(みなみ だいもん)をくぐって進むと、左側(西側)に蓮華王院(三十三間堂)があり、右側には南よりに法住寺(ほうじゅうじ)があり、その後ろ(東側)に、後白河法皇法住寺陵があるらしい。法住寺の北には、「『名探偵コナン』にも登場する」養源院がある。

   三十三間堂は通称というのか俗称というのかで、正式には「蓮華王院の本堂」らしいのだが、蓮華王院に三十三間堂のほかにお堂があるのかというと、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)に掲載の「三十三間堂境内地図」を見ると、東側の回廊の北に「尊堂」、南西、三十三間堂の後ろの位置に「久勢稲荷大明神」が書かれている。実際、三十三間堂の周囲の庭園を今は歩くことができるのでまわらせてもらったが、たしかに久勢稲荷大明神はあった・・・がそのくらい。鐘楼や手水舎は手前(東側)にあり、西側に「南蔵」があり、宝篋印塔があるが、これはお堂というわけではないだろう。 だから、「蓮華王院の本堂」と言うけれども、「蓮華王院」はほとんどが本堂(三十三間堂)が占めている。
   今は、北側の「普門閣」と名づけられた入口から入ることになるが、もともとは、東側の「東大門」から入るようになっていたはずである。しかし、東側の東大門から入ったとしても、その前にあるのは左右(南北)に矢鱈と長い三十三間堂だけである。建築としては「すごい」としても、どうもお寺としては不自然な感じがする。
   今は妙法院と三十三間堂の蓮華王院はひとつの寺となっているが、もともと、妙法院が三十三間堂を建てたということではないらしい。では、誰が建てたのかというと、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)によると、≪三十三間堂は、後白河法皇の勅願で、1164年(長寛2)、平清盛の私財によって建立、寄進された。≫らしい。
   その後、木曽義仲と後白河法皇が不仲になり、木曽義仲が法住寺殿を襲撃した際に法住寺殿の御所は炎上したが三十三間堂はその際には焼失を免れたらしい。
≪  折しも平家が西国で勢いを盛り返し、同年(1183年 寿永2年)9月、義仲は平氏追討を法皇から命じられ、下向。しかしその間、法皇は頼朝に東海、東山道の沙汰権を与えて上洛を促す。加えて法皇の近臣が、蓮華王院(三十三間堂)を擁する法皇の御所、法住寺殿(ほうじゅうじどの)で反義仲の兵を挙げた。そのことを知った義仲は激怒。ついに暴挙ともいえる最後の賭けに出た。
   11月19日、あろうことか義仲は法住寺殿を襲った。法王は、北面の武士や比叡山の僧兵らを動員していた。義仲は焼き討ちを命じ、御所は折からの風をうけ炎上した。・・・・
   この通りき、三十三間堂は奇跡的に焼失をまぬがれた。≫
(『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館)
   しかし、その後、鎌倉中期、1249年に三十三間堂は全焼し、1251年から1266年にかけて再建されたものが今の三十三間堂らしい。
≪ ・・・三十三間堂は、京都の大社寺のなかでは比較的火災の難に縁遠かったほうだが、鎌倉中期の建長元年(1249年)3月、姉小路室町に発した大火に罹災し、一度だけ全焼という憂き目をみている。はたしてこのとき、追ってくる火魔と競争で必死の搬出作業が行われたものの、無事に運び出せたのは本尊の首と左手、千体仏のうちの百五十六体ならびに二十八部衆のみ、残りはむなしく炎上するがままに放置せざるを得なかった。普通の寺院なら、尊像のことごとくを避難させるぐらいの時間的余裕があったのに、三十三間堂の場合は、あまりにも尊像の多すぎることが災いしたのである。・・・・・
   三十三間堂の堂宇はむろん、このとき炎上した。再興の事業は、後嵯峨上皇の主宰のもと建長3年(1251年)7月に開始され、文永3年(1266年)4月、落慶供養が営まれた。現存の本堂および千体仏の大半は、この再興事業の折につくられたものである。・・・ ≫
(『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館 所収  百瀬明治(ももせ めいじ)「京都百話―三十三間堂」 )

   南大門をくぐり、すぐ右手(東側)に、法住寺(ほうじゅうじ)
画像

↑ 「法住寺」
画像

↑ 「法住寺殿跡」 「旧御陵正門」
画像

↑ 「身代不動尊 法住寺」
( ↑ クリックすると大きくなります。大きくして見てください。)

( ↑ 「 i 」マークが、法住寺。)
   法住寺は今も天台宗の寺として存在する。
≪  天台宗法住寺は、参拝や観光の人々でにぎわう三十三間堂の東に、ひっそりと佇む。
   法住寺は元来、太政大臣藤原為光(ためみつ)が、夫人と娘の菩提を弔うため988年(永延2)に建立された。しかし、寺は1032年(長元5)の火事で全焼し、再興にはいたらなかった。
   1世紀あまり後の1161年(永歴2)、後白河法皇がこの地に移り住み、広大な法住寺殿を造営、院の御所とした。
   法王は没後、法住寺殿内の三十三間堂東にある法華堂に葬られ、法住寺がその御陵の守護にあたったという。
   明治維新後、御陵と寺域が分割され、寺名は大興徳院(だいこうとくいん)となったが、1955年(昭和30)に再び「法住寺」の名に戻った。寺の東に隣接する御陵内には、いまも法住寺の名を刻んだ石の手水鉢が置かれている。
   法住寺本尊の不動明王像は、あらゆる災厄をひきうけて鎮める「身代わり不動」とよばれ、法住寺創建当初から尊崇されている。法王がこの地に御所を構えたのも、この像の霊験を体験したからという。現在も方除け、厄除けの信仰で有名。
   仏像としてはほかに、「親鸞聖人そば喰い像」がある。そば喰い像は、親鸞が比叡山を降りて六角堂に参籠中、留守居を務めたとの伝説が残る。天台座主がこの像にそばを振る舞ったとき、親鸞本人の代わりとなって食べたという。赤穂浪士の大石内蔵助が訪れ、本尊に仇討ちの成功を祈ったとされ、四十七士の木造が安置されている。 ・・・・・ ≫
( 『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館)
   「親鸞そば喰い像」があるというが、浄土真宗ではなく天台宗らしい。
※ 法住寺HP http://hojyuji.jp/

   法住寺の北側に「養源院」がある。↓
画像

↑ 「養源院」とは、
≪ 浄土真宗遣迎院派(けんごういんは)。 本尊は阿弥陀如来。
   文禄3年(1594年)に淀殿(淀君)が父の浅井長政の菩提を弔うために建立し、寺名は長政の法号にちなむ。開山は浅井一族の成伯法印。元和5年(1619年)に焼亡したが、2年後に淀殿の妹の崇源院が、夫である徳川秀忠に願い伏見城の遺構を移して再建した。以来、将軍家の位牌所、皇室の祈願所となった。
   本堂の有名な血天井は、伏見城落城の時に鳥居元忠らが自刃した廊下の床板を用い、天井に上げてその霊を弔ったもの。
   また鳥居元忠らの霊を慰めるために、俵屋宗達が描いたとされる杉戸の「獅子図」「麒麟図」「百象図」八面は表現が奇抜で新線。同じく襖の「松図」十二面は、松と岩だけを描いた豪壮なもので、ともに重要文化財に指定されている。
   庭園は小堀遠州の作とされる。≫
( 森谷剋久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定 公式テキストブック』2007.10.8. 8版 淡交社)
   現在は浄土真宗遣迎院派(けんごういんは)らしいが、《ウィキペディア―養源院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E6%BA%90%E9%99%A2 を見ると、≪もと天台宗。≫と出ている。
   「浄土真宗遣迎院派」は「真宗十派」に入っていない。《ウィキペディア―浄土真宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97 を見ると、≪浄土真宗遣迎院派があるが、元々天台宗の寺院が独立したものであり、教義的に浄土真宗との関連は薄い。 ≫、《ウィキペディア―遣迎院派》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E9%81%A3%E8%BF%8E%E9%99%A2%E6%B4%BE には、≪昭和30年(1955年)、天台宗の寺院であった遣迎院が独立して一派を興した。浄土真宗と標榜しているものの、本尊に釈迦如来、阿弥陀如来の二尊を立てるなど、他の真宗教団とは教義的にも関連が薄い。≫と出ている。逆に、《ウィキペディア―天台宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97 では、「その他 天台系宗派」として「浄土真宗遣迎院派 遣迎院(京都市北区)」が掲載されている。 遣迎院とはどこにあるのかというと、今は、京都市北区鷹峯にあるらしい。
※ 《ウィキペディア―遣迎院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E8%BF%8E%E9%99%A2

   ・・・で、なぜか、『名探偵コナン』では、この養源院に、蘭ちゃんと園子と牙のねーちゃんの3人が高校の修学旅行の際に訪ねるのだが、どうも、『名探偵コナン』のやることはようわからん。行って悪いとは言わんが、なんかこう、マイナーというのか、「知る人ぞ知る」みたいな所に東京もんが修学旅行に行ってわざわざ行くというのが不思議。普通、京都に行って、京都初心者が行く所というと、キワモノ・ゲテモノ系だと清水寺とか金閣とか、そして、ともかく長い三十三間堂、もしくは東福寺通天橋とか。そうでなければ、「ぞくっとしたのは冬の寒さだけが原因だろうか」という迫力のある東寺。かつては女性に人気があった大原三千院。桂離宮・修学院離宮はあらかじめ予約しておかないと見学できないから、修学旅行で「どこに行こうかあ~あ」とか言ってるむきには無理として、竜安寺とか嵐山大覚寺とか天龍寺とか知恩院とか東本願寺・西本願寺とか、平等院とか、弥勒菩薩で有名な広隆寺とか。高校3年ならば「人事を尽くして天命を待て」という合格祈願の神さま・北野天満宮とかいくらでも行く所はあると思うのだ。なんで、三十三間堂に行かずに養源院に行くんだろうなあ? ・・て思いませんか。「血天井だって。こわいわ、こわいわ。キャー」とかあほくさいカマトトやらせたいのか?!? つくづく『名探偵コナン』というのはくだらんな。
   さらに、清水寺の舞台で、工藤新一(コナン)に蘭がキスする・・なんて場面まであるのだが(単行本では95巻所収)、高校生が制服着て修学旅行で「桃色遊戯」やるんじゃねえよ! 私らが高校生だった頃は、高校生が「キス」なんてしているというのは、「不良」だと思っていた。そういうものは結婚してからするものだと思っていた。ましてや、制服着て、修学旅行の時に、ひとの前でやるものではない・・と思っていたし、今でも、成人後においても、人前でやるものではないと思うのだ。それを、高校生に制服着せて、修学旅行において、人前で、それも「世界遺産」「国宝」「大本山」の寺の境内で、高校生が「キス」て。「名探偵コナン」はいったい何やってんだよ。お寺というのはそういうことをする場所と違います。やるにしても他でやってください。『名探偵コナン』の作者はそのあたりの認識がおかしい。 内田康夫の浅見光彦シリーズの浅見光彦ならそういうことはしないと思う。浅見は33歳だから年齢からいけば結婚してもいい年齢だが、寺の境内というものはそういうことをする場所とは違うということは認識している人間である。その点が、浅見光彦は「探偵」であっても「旅と歴史」のルポライターだけあって、工藤新一=コナンとははっきりと違う。又、修学旅行というものは、高校においては「高校での学習の一環」「校外学習のひとつ」と位置付けられており、単なる娯楽ではないので修学旅行においてそういうことはやめてもらいたい。 又、制服着てやらないでもらいたい。「少年誌」に掲載の漫画でも、『金田一少年の事件簿』は比較的高年齢層を読者と考えているのに対し、『名探偵コナン』は子供向けらしく、『金田一少年の事件簿』と違って『名探偵コナン』では蘭が足を振り上げた時には、なぜか、画像ではスカートの中が隠れるように描かれている・・・・が、そのわりに、工藤新一と蘭に修学旅行で清水寺に行って、寺の境内で高校生に制服着て「キス」させるなど、これは「子供の教育に悪い」。私なら、「子供に読ませたくない漫画ナンバーワン」として『名探偵コナン』をあげる。ミラノ大聖堂では、ノースリーブの服を着た女性などは入口で警備員に入場を阻止され、カーディガンでも羽織るなどしないと入れてもらえない。キリスト教徒が寺に行っても悪いことはないと思うし、仏教徒がキリスト教の教会堂に入って悪いことはないと思うが、そこは宗教施設であり、それに即した態度というものが求められる場であるということは認識しないといけない。『名探偵コナン』の作者はよく反省するべきだと思う。アホだから反省する頭はないかもしれないが。寺は信仰の場でありテーマパークとは違う。そのくらいのことは理解するべきであろう。「名探偵コナン」は京都に行っても寺には行かずに、行くなら太秦映画村か京都タワー、もしくは嵐山保津峡のトロッコ鉄道とかそういう所にのみ行くようにしてもらいたい。
   なお、ジャパニーズおばさんはサンピエトロ寺院の教会堂内で「信徒の接吻により光るようになった」と言われるローマにおいて殉教した聖ペテロの像のつま先をつかんで写真撮影禁止の堂内において記念撮影するのはやめてもらいたい。そういう行為はその宗教の信者に対する侮辱であり日本人の恥である。

   方広寺が、豊臣秀吉が生存中は現在の方広寺よりも広大であったように、法住寺も後白河法皇の時代においては現在の法住寺よりも広大であったらしい。
≪ 後白河法皇は、1127年(大治2)、鳥羽天皇の第4皇子として産まれる。・・・・・
   御所の名にある法住寺は、現在、京都国立博物館の南、養源院のさらに南にある。かつてはは、いまの三十三間堂から京都国立博物館などを含む広大な寺域であった。法王は天皇在位中から方違え(かたたがえ)などでここに何度か行幸し、この地が気に入ったらしい。
   1161年(永歴2)法皇はここに移り、その前年に、新熊野社(いまくまのしゃ)、新日吉(いまひえ)社を勧請して御所の鎮めとした。そして、1192年(建久3)、66歳で崩御するまで約30年間この地に住み、陰の実力者として政治を動かしたのだ。・・・≫
( 『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館)
≪ 保元3年(1158年)8月、二条天皇に上位した後白河上皇が院庁として造営したのが「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」である。その敷地は四方十余町に及ぶ広大なもので「常の御所」と呼ぶ住居に宗教施設が付設された南殿(みなみどの)と政治施設の北殿(きたどの)からなり、阿弥陀峯山麓より鴨川の河原まで続いていたという。
   蓮華王院は、常の御所西隣に建立されたので、院庁は「蓮華王院御所」とも呼ばれた。
   御所は、寿永2年(1183)11月、木曽義仲の襲撃により焼失したが、三十三間堂は奇跡的に難を免がれ、往古の盛を物語る稀有な物証として現存している。 ≫
( 『国宝 三十三間堂』2017.6. 発行:三十三間堂本坊 妙法院門跡 制作:株式会社飛鳥園 )
画像

( ↑ 三十三間堂内 「法住寺殿略図」 )
   豊臣秀吉は、三十三間堂より北、現在、方広寺・豊国神社・京都国立博物館があるあたり一帯に方広寺大仏殿を設け、三十三間堂の南に築地塀を東西に設け、三十三間堂の南東に南大門を配置し、方広寺大仏殿の東に妙法院を移転させて経堂とし、又、千僧供養会の際には妙法院の庫裏を利用したらしいが、三十三間堂は秀吉の時代に造られたものではなく、平安時代後期に造られたものだが、後白河法皇法皇の勅願で平清盛が出資して三十三間堂を建立した時、入口は東西南北にあったが、東門が主要な入口で後白河法皇の住居であった南殿の方を向いていた、ということらしい。 後白河法皇の住居のスペースであった「南殿」と蓮華王院との間の南北の通りは、豊臣秀吉が造ったというわけでもなく、後白河法皇が法住寺殿を作った時から存在したものらしく、その時からこの通りの西側の蓮華王院には塀があって東門があったらしい。
   もともと、三十三間堂は、東に「法住寺殿」の「常の御所」「南殿」があるという前提で建てられたものなので、独立した寺として見ると、東門を入った位置では左右(南北)に長すぎて違和感があり、むしろ、東側の「常の御所」「南殿」が無くなった後においては、法住寺・養源院が南北の通りの東にあって、北に方広寺大仏殿が設けられて、南北の通りの西側に三十三間堂・・・という方が、三十三間堂としては自然な感じになったかもしれない。

   ところで、東回廊と東大門は、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)に掲載の航空写真では「お寺色」、三十三間堂と同じような色合いをしているのだが、現在は「神社色」(赤と白のツートンカラー)をしているのだが、もしかして、三十三間堂も建立された時点においては派手な「神社色」をしていたのだろうか。それとも、三十三間堂は最初から「お寺色」だったのだろうか。

   次回、「ともかく長い三十三間堂」。

   (2018.12.15.)

☆ 妙法院・三十三間堂・南大門
● 妙法院門跡
1.表門・フォーシーズンズホテル京都の側・土塀 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_1.html
2.宸殿・普賢堂ほか https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_2.html
3.大玄関・庫裏 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_3.html
● 智積院。南大門、法住寺、養源院と位置関係。〔今回〕
● 蓮華王院(三十三間堂)
1.東大門・廻廊・蓮華王院本堂(三十三間堂)・鐘楼・庭園・西門 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_5.html
2.三十三間堂は木造軸組構法の基本。https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_6.html 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック