妙法院2 宸殿・普賢堂と庭園。「三門跡寺院」―妙法院門跡・蓮華王院【2/6】

[第651回]
  妙法院(妙法院門跡)は、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)の「妙法院三十三間堂境内地図」には、≪ 公開時期以外は拝観できないが、案内のしおりをもらうことができる。≫ ≪妙法院内は、普段は非公開。年数回の特別拝観や法要のときにのみ公開。≫と書かれている。そうであれば、なおのこそ、表門から。 表門付近から中の雰囲気を見せていただくくらいは悪くないだろうと考えた。
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↑ 妙法院門跡 表門

   妙法院(妙法院門跡)では、建築では庫裏(くり)が国宝、玄関と大書院が重要文化財にしていされていると、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)の「妙法院 三十三間堂 境内地図」に掲載されている。 妙法院でいただいた由緒書によると、建築の国宝である庫裏(くり)〔桃山時代〕、建築の重要文化財である大玄関〔江戸時代〕と大書院〔江戸時代〕のほか、護摩堂の本尊である不動明王立像〔平安時代〕が重要文化財に指定されているらしい。 妙法院の本堂はというと、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)によると、規模は大きくない建物だが、南東の隅にある普賢堂(ふげんどう)で、普賢菩薩騎象像を祀る。普賢菩薩の騎馬像ではなく騎象像というのは、普賢菩薩が馬ではなく象に乗っているからである。
   『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)の「妙法院三十三間堂境内地図」には、≪ 公開時期以外は拝観できないが、案内のしおりをもらうことができる。≫ ≪妙法院内は、普段は非公開。年数回の特別拝観や法要のときにのみ公開。≫と書かれているのだが、まあ、表門のあたりから中を見まわすくらいさせてもらっても悪くないだろ・・・と思って、そうであるからこそ、私は怪しいものではありませんよお~お、なにしろ、大学だって裏口から入るのではなく正門から入る主義の人間ですからねえ、金権関西医大裏口入学http://www.kmu.ac.jp/ の医者屋の息子なんかとは違いますよお~お・・・・て態度で表門から入らせてもらった。
   表門を入ったあたりで左右を見まわすと、まず、正面に見えるのが、↓
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↑ 庫裏(くり)。 桃山時代。 国宝。
  
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↑ 大玄関唐門 。 重要文化財。
・・・とこの2つは、表門を入ってすぐのあたりから見えるので、≪ 公開時期以外は拝観できないが、案内のしおりをもらうことができる。≫ ≪妙法院内は、普段は非公開。年数回の特別拝観や法要のときにのみ公開。≫であっても、そのくらいは見せてもらっても悪くはないだろう、と思って来たのですが、見まわしますと、「普賢堂・宸殿は⇒」みたいなことが書かれた札が立っているのです。又、寺務所の建物の前に、「御朱印はこちら」みたいなことが書かれた札が出ています。 そういう説明書きが出ている以上は、説明書きに従って進む範囲は見学させてもらっても悪くないだろうと考えて進みました。

   妙法院(妙法院門跡)とは何宗かというと、天台宗。
≪ 妙法院は、青蓮院(しょうれんいん)、円融院(えんにゅういん)とともに天台宗の三門跡寺院のひとつで、かつては多くの皇族が門主となり、比叡山延暦寺の天台座主も兼ねた。・・・・由緒ある古刹である。
  もとは延暦寺の一坊であったが、平安時代末期、後白河法皇によって、ほぼ現在地に移された。鎌倉時代、祇園近くに移転したが、応仁の兵火で焼失。 その後、豊臣秀吉の方広寺大仏の造立のとき、その経堂(きょうどう)として現在地に再建された。
  豊臣氏滅亡後、徳川家康もその復興につとめ、方広寺、蓮華王院(三十三間堂)などの管理を任せた。≫
( 『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館 )
≪ 妙法院(東山区妙法院前側町)
  山号は南叡山。本尊は普賢菩薩。永歴元年(1160)に後白河法皇が新熊野(いまくまの)神社を勧請(かんじょう)する時に西塔(さいとう)本学院(ほんがくいん)の昌雲が別当となって法住寺付近に開創。鎌倉初期に尊性(そんしょう)法親王(後高倉院の皇子)が入寺して以来、梶井門跡(三千院)や青蓮院門跡とともに三門跡の一つに数えられた。
  その後の兵火で焼失したが、豊臣秀吉が方広寺を建立する時に当時を経堂とし、その寄進を受けて復興、国宝の庫裏は桃山時代の造営。大棟上のほか左側屋根上にも小棟を出して煙出しを設けるなど、変化に富んだ外観をもつ。近世の庫裏が居住機能を併せ持つのに対し、庫裏本来の調採喫飯(ちょうさいきっぱん)の場のみに限定されている。 他に同寺では大書院・大玄関(江戸初期)が重要文化財。国宝の「ポルトガル国(こく)印度(いんど)副王(ふくおう)信書(しんしょ)」(秀吉宛)のほか、寺宝多数。≫
( 森谷尅久 監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定 公式テキストブック』2007. 8版 淡交社)
というものらしい。
  「三門跡寺院」を、妙法院・青蓮院と円融院(えんにゅういん)とするか、妙法院・青蓮院と三千院とするか、『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』と『京都観光文化検定 公式テキストブック』で異なっている。 「円融院」は『改訂版 京都観光文化検定 公式テキストブック』の索引を見ても出ていない。インターネットで検索すると、宇喜多直家の嫁はんで宇喜多秀家の母であり豊臣秀吉の側室になったという説もあるらしい女性の名前が「円融院」だそうだが、それとは別に、《コトバンク 円融院 世界大百科事典内の円融院の言及》https://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E8%9E%8D%E9%99%A2-1279767 によると、要するに三千院のことで、三千院は≪もと円徳院,円融院,梶井門跡(かじいもんぜき),梨本坊(なしもとぼう)ともいい,三千院の呼称は1871年(明治4)以後である。≫という。青蓮院は東山区粟田口三条坊町。
  三千院というと、デュークエイセスが歌った「女ひとり」で「京都~、大原、三千院♪ 恋に疲れた女がひとり~。 結城に塩瀬の素描の帯が池の水藻に揺れていた・・・」の大原 三千院で左京区大原来迎院町。 東京もんのおっさんが大阪に行ってきたとか関西に行ってきたとかいう時、「大阪のどこに行きましたか?」とか「関西のどこに行きましたか?」と尋ねると、かえってくる答えは、何と言ってもダントツ1位で飛田新地。「大阪の人間てすごいですよねえ~え」とか言うが、飛田新地に行ってきたのは「大阪の人間」ではなく東京もんのあんただろうが。俺なんか、大阪の生まれでも飛田新地なんて行ったことないしどこにあるのかもよう知らんわ。母が子供の頃、母の父(私から見ると祖父)と一緒に大阪の市電に乗って窓から外を見ていると、塀で囲まれた区域があって、不思議に思って、「あそこ、いったい何?」と母の父(祖父)に尋ねたところ、「知らんでもええ」と言われて、それ以来、たとえ、比較的近い場所にあっても「知らんでもええ」所だと思うようになったというのが飛田新地だったらしい。そういう大阪の人間にとって「知らんでもええ」場所に東京もんのおっさんというのは1泊2日くらいで大阪に旅行に行って、そこだけピンポイントで行きよるんだわ。そんでもって、「いやあ、大阪ってすごい所ですねえ。大阪の人間てすごいねえ~え」とか言うのだが、飛田新地に行ってきたのは「大阪の人間」ではなく東京もんのあんただろうが、あ、ん、た! 自分がその「すごい所」に行ってきておいて、勝手なこと言うなちゅうんじゃい! 自分がそういう所に行ってきておいて「大阪の人間」のせいにするなちゅうんじゃい! と思ったものだったが、それに対して、私が小学生から中学生くらいの時、1960年代後半から1970年代前半、非関西人の10代後半から20代前半の女性が関西に来るという時に、「関西でどこに行ってみたいですか」と尋ねてよく出てきた名前が「京都 大原 三千院♪」。 恋に疲れたのかどうかは知らんが、恋に疲れたのでなくても、女でなくても、大原も三千院もいいと思う。少なくとも、飛田新地よりはいいと思う・・・・が、デュークエイセスが「女ひとり」を歌って多くの人がこの歌を知っていた時代においては、大原 三千院(おおはら さんぜんいん)も栂尾 高山寺(とがのお こうざんじ)もよく知られたが、残念ながら、最近では、若い世代では「大原 三千院」と言っても知らない人がけっこういるらしい・・・・が、私としては、大原 三千院は京都でも北東部にあって、JR「京都」駅のそばの東寺とか東本願寺とか、阪急「河原町」駅や京阪「祇園四条」駅からすぐの八坂神社とか知恩院などと違って「計画的に」行く必要があるが、それでも、お勧めです。少なくとも、飛田新地よりは。 念のため、老婆心から説明しておきますと、「京都 大原 三千院」とは、京都と大原と三千院という3つの場所があるのではなく、京都の大原に三千院という天台宗のお寺があるのです。念のため。
※ 《YouTube-デューク・エイセス 女ひとり 2014 》https://www.youtube.com/watch?v=25RJjgKOGdI
《YouTube-デューク・エイセス にほんのうたメドレー 2015》https://www.youtube.com/watch?v=bvJlYV1e7L0
↑「女ひとり」の歌は好きだが、デュークエイセスの「っっきょおとお~お♪」という喉をつまらせるような歌い方はいいとは思わない。それがいいと思って真似する人がいるようだが、よくないと私は思う。1970年代、北野高校のコーラス部の人で「っっきょおとお~お♪」という歌い方をしていた人がいて、なんでこの人そういう歌い方するのだろうと思ったのだが、デュークエイセスを真似ていたようだが、いいものでなければ真似ない方がいいと思う。

   「庫裏」が国宝に指定されているとはいえ、たとえ、国宝あっても、あくまでも、「調採喫飯(ちょうさいきっぱん)の場」であるから、やはり、本堂に先にお参りするべきであろう・・・ということで、庫裏は後にして、庫裏の前を右(南)に進み、「大玄関」の前も通り過ぎると、左手(東)に庭が広がり、その奥の左側(北)に宸殿、突き当り付近の右手(南)に本堂の普賢堂がある。
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↑  「宸殿(しんでん)」

( 「 i 」マークが 宸殿。 )
≪ 宸殿(しんでん)  明治時代
 室町期、御花園天皇より歴代天皇、皇后の御尊牌を奉安し、前三代の各祥月には法要が行われます。電車は明治31年の再建です。 鎌倉期に宮門跡となった当院には、宸翰、奉書をはじめ皇室ゆかりの什物が多く所蔵されています。・・・≫
( 妙法院でいただいてきた由緒書 )
≪ 室町以降の歴代天皇、皇后、中宮が奉祀されている。≫
( 『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館 「妙法院 三十三間堂 境内地図」 )

  ところで、「宸殿(しんでん)」とはどういう意味なのか。『広辞苑』を見ても、『岩波 古語辞典』を見ても、「寝殿」や「神殿」は掲載されていても、「宸殿」は掲載されていない。 インターネットで検索すると、《コトバンク 精選版日本国語大辞典の解説 宸殿》https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B8%E6%AE%BF-2052283 に、
≪「ししんでん(紫宸殿)」の略。≫
と出ている。 では、「紫宸殿」とは、《コトバンク―紫宸殿》https://kotobank.jp/word/%E7%B4%AB%E5%AE%B8%E6%AE%BF-73421#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 に、
≪ 内裏正殿。神明造りの殿舎で南面し、中央に一八段の階があり、その前方左右に桜と橘(たちばな)の木が植えられてある。殿内の中央には御帳台があり、その後方に賢聖障子(けんじょうのそうじ)をもつ。即位、朝賀、節会(せちえ)などの公式の儀式を行なった。南殿(なでん)。前殿。ししいでん。≫
≪ …はじめは節会,季御読経(きのみどきよう),立后,立太子,天皇元服等の通常の公事が行われたが,大極殿(だいごくでん)の廃亡とともに即位や大嘗会(だいじようえ),朝賀等重要な儀式も行われるようになった。内裏のほぼ中央の位置に仁寿殿(じじゆうでん)があり,その南にあるのが紫宸殿で,南に広い白砂の南庭をもつ。庭を囲んで東側に宜陽殿,日華門,春興殿,左掖門(さえきもん),西側に校書殿(きようしよでん),月華門,安福殿,右掖門と対称的に殿舎,門が並び,南庭の南に承明門(じようめいもん),さらにその南に建礼門がある。…≫
≪ 内裏の正殿。南面して建つ入母屋いりもや造り檜皮葺ひわだぶきの建物。正面九間の母屋の四方に廂ひさしを設け、母屋と北廂の間に賢聖障子けんじようのそうじを入れる。もと日常の政務を議する所であったが、大極殿だいごくでん焼失後は即位などの儀式も行うようになった。南殿なでん。前殿。現在の京都御所のものは1855年の造営。 ≫
とあるが、一通り読んでも、どうもよくわからん。 ともかく、皇族がそこで儀式をしたりなさる所で南側に庭があるらしい。 妙法院でも宸殿の南側は庭になっていて、紅葉がなかなかきれいです。

  大覚寺に行って時も、大覚寺というのは真言宗大覚寺はの大本山・・にしては、なんだか、お寺というよりも皇族の離宮か何かのような雰囲気。 東寺などはいかにもお寺という感じがしますが、大覚寺は東寺よりも、むしろ、桂離宮などに雰囲気が近い。 妙法院もまた、門跡寺院だけあって、お寺にしては、皇族の離宮か何かのような印象があります。
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↑ 宸殿の前の庭。


   宸殿の南東側に本堂である「普賢堂(ふげんどう)」
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↑ 西から東に入ることになります。 普賢堂はお堂の規模は大きくないが、妙法院の本堂にあたるようです。 
≪ 江戸時代の宝暦年間(1751~64)に、妙法院第37世 堯恭(ぎょうきょう)親王が境内の北方へ移建したもので、現在の位置へは1893年(明治26年)に移された。堂内奥に設けられた須弥壇上に本尊が安置される。≫( 『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館 )
  普賢菩薩を祀るお堂なので普賢堂と言うらしいが、
≪ 普賢菩薩『法華経』を信奉する者を守護し、6本の牙をもつ白象(びゃくぞう)に乗ってあらわれるという。平安時代、『法華経』への信仰が高まると、当時の美意識を反映した美麗な普賢菩薩象が数多く作られるようになった。
   妙法院本堂の普賢菩薩騎象像は、そのなかでも12世紀の代表作のひとつに数えられる優品である。重量感のあるどっしりとした象の上、蓮華座に坐す普賢菩薩の表情は優しく穏やかで、体つきは細く女性的だ。
   本像は、記録から近世初期に普賢堂に安置されたことが知られるが、それ以前の伝来はわからない。蓮華王院(三十三間堂)の東に後白河法皇の墓所があり、本像はそこに建つ法華堂のもとの本尊であったとする説もある。 ・・・・≫
≪ (普賢堂は)屋根は宝形(ほうぎょう)造り、正面の扉の左右には花頭窓(かとうまど)が付き、内部の天井に竜の絵が描かれる。・・・ ≫
≪ 普賢菩薩騎象像  木造 像高57.8cm(総高140.0cm)
平安~鎌倉時代  重要文化財
 普賢菩薩は文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍(わきじ)として造立される場合と、本像のように独尊として祀られる場合がある。薄い衣の表現や静かに合掌する姿に、平安時代後期の特徴がみられる。≫
( 『古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』2007.8.7.小学館 )
という。 窓から中は見えるのだが、その普賢菩薩騎象像というのはよくわからなかった。
   その花灯窓が↓
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〔 ↑ 「 i 」マークが、普賢堂(本堂) 〕

   前回、述べましたが、妙法院の北側の敷地は、
~1954年(昭和29年)  妙法院の境内地
1954年(昭和29年)~ 京都専売病院
2005年(平成17年)~ 東山竹田病院
2014年(平成26年)~ フォーシーズンズホテル京都
と移り変わって現在は「フォーシーズンズホテル京都」の敷地になっているのですが、普賢堂が江戸時代に境内の北方に移された後、現在の位置に移されたのは1893年(明治26年)。 専売公社に北よりの敷地が売却される時に移されたのだろうか? などと考えましたが、そういうことでもないようで、それより50年以上前に今の位置に移されているようです。

  普賢堂の北面は↓
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   普賢堂の建物は悪いということはないのですが、妙法院の敷地の広さから考えると、本堂にしては小ぶりです。 やっぱり、門跡寺院というだけあって、お寺はお寺でも、本堂よりも宸殿などの方が規模は大きく、お寺でないわけではないのですが、皇族の屋敷というのか離宮というのかのようなところはあります。

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↑  普賢堂の奥(東)の池と庭。

※ 《ウィキペディア―妙法院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E9%99%A2


   次回https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_3.html 、大玄関と庫裏について。

  (2018.12.11.)

☆ 妙法院・三十三間堂・南大門
● 妙法院門跡
1.表門・フォーシーズンズホテル京都の側・土塀 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_1.html
2.宸殿・普賢堂ほか 〔今回〕
3.大玄関・庫裏 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_3.html
● 智積院、南大門、法住寺、養源院と位置関係 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_4.html
● 蓮華王院(三十三間堂)
1.東大門・廻廊・蓮華王院本堂(三十三間堂)・鐘楼・庭園・西門 https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_5.html
2.三十三間堂は木造軸組構法の基本。https://shinkahousinght.at.webry.info/201812/article_6.html 




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