東大寺参拝【7/10】正倉院宝庫。校倉造の原理と言われていたものは実は・・なんて今さら言われても・・

[第645回] 飛鳥・白鳳・天平の建築シリーズ
   中学校の時に遠足で東大寺に来た時には、「はい、こちらに来てください」とかガイドさんだか先生だかに指示されて移動したので、何と何がどういう配置にあったか、帰ってみるとよくわからなかった。 東大寺の建築でのビッグネームというと、南大門・大仏殿とともに、正倉院と三月堂(法華堂)・二月堂だと思う。 昔から、二月堂・三月堂があって、四月堂とか五月堂はないんかい? ・・とか思ったものだが、四月堂(三昧堂)というのはあるらしい・・が、知名度は二月堂(法華堂)・三月堂に比べると低く、二月堂(法華堂)と三月堂は国宝であるのに対し、四月堂(三昧堂)は重要文化財である。 二月堂と三月堂(法華堂)は、名称が似ているので、どっちがどっちだっけ・・・・とこんがらがる。 正堂が天平期の建物で礼堂が鎌倉期の建物というのは、ええ~っと、どっちだっけ・・・と思って何度も確認しても、また、どっちだっけ・・・となるのが三月堂(法華堂)、そうでない方、お水取り(修二会 しゅにえ)をやるのが二月堂。
≪ さて、聖武天皇の時代を中心とする天平時代の美術は、この時期のもっとも巨大な記念塔であったはずの東大寺大仏殿や大仏をはじめ、第一流の作品がほとんど現存しないので、正確な評価はむつかしい。しかし、建築としては、困難を冒して、日本に渡航し、律を伝えた唐僧鑑真の住んだ唐招提寺の、ギリシアの神殿を思わせる吹き放しの柱列をもつ金堂や、東大寺法華堂その他が残っており、彫刻では、法華堂の執金剛神像(しつこんごうしんぞう)、日光・月光(がっこう)菩薩像、東大寺戒壇院の四天王像、新薬師寺の十二神将像、興福寺の八部衆像、十大弟子像など、盛唐の様式を継承した、写実的な作品がたくさん残っている。≫
( 家永三郎『日本文化史 第二版』1992.3.23.岩波新書 )
・・・その「法華堂」って、どっちだっけ・・て思うでしょ。 思いませんか? 法華堂が三月堂。 お水取りが二月堂。

   南大門をくぐってまっすぐ北に進むと中門があり、その両側に廻廊があって、中門の奥に大仏殿。 大仏殿の後ろ(北)に位置に講堂跡。 その講堂跡の北西のあたりに正倉院がある。↓
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( ↑ 正倉院 宝庫  東から見たもの。 )
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( ↑ 正倉院 宝庫  南から見たもの。 )


≪ 一方、正倉院に代表される校倉造は、板ないしは三角形断面材によって壁面構造がなされている。 ≫
( 藤井正一・小原二郎編『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』1994.1.10.インテリア産業協会)
≪  法華堂は、大仏殿東方の若草山中腹に建つ、元来、正堂(せいどう)礼堂(れいどう)という双堂(そうどう)形式の2つの建物を1棟にしたもので、結果的に側立面は独特の美しさを放っている。また正倉院倉庫も当時の建築である。 ≫
( 西田雅嗣・矢ヶ崎善太郎『カラー版 図説 建築の歴史 西洋・日本・近代』2013.12.15.学芸出版社)
≪ 校倉造(あぜくらづくり)は日本にも古くからある構法です。その校倉造で代表格の正倉院は、奈良の東大寺大仏殿の後方にあります。もともとは東大寺の一部ですが、現在は宮内庁に所属しています。 「正倉」とは、正式の倉というほどの意味で、「正倉院」はその正倉のある一郭の通称です。
   わたしたちが正倉院と呼んでいる建物自体は「正倉院宝庫」といいます。聖武天皇の御物をはじめとする宝物を収蔵している倉ですが、現在その中身は別の収蔵庫に納められています。この正倉院宝庫は奈良時代に建てられたもので、・・・・≫
( 坂本功『木造建築を見直す』2000.5.19.岩波新書 )
    小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(2010.7.20.文春新書)に、≪今、中門から大仏殿を見てるんですが、大きいですな。東大寺は南大門、なくなった七重塔を含めてとにかく大きいというのがキーワードですな。≫と出ているのですが、その「大きい」というのは建物としては南大門と大仏殿のこと、それに敷地の広さのことで、正倉院は「普通」じゃないかと思ったのですが、来てみると、正倉院もまた、けっこう「大きい」。 
   1970年代前半、中学校の遠足で来た時には、南大門・大仏殿・正倉院というのが、人気ベストスリーみたいな感じだったのですが、ところが、今は南大門と大仏殿には人がいっぱいいますが、正倉院はすいている。↑の東面の写真を撮った時も、中国人の3人づれの若いにーちゃんがいただけ。 彼らもすぐに帰ったので、人が入らない写真も撮ったのですが、こういう場所は誰か人がいる方が普通ではないかと思うし、人が写っていた方が大きさがわかりやすいと思うので、人が写っている方の写真を公開します。
  たしか、私が小学校の時、小学校の先生から教えられたはずなのです。正倉院というのは、校倉造で、この湿度が高い時には木が膨張して隙間がなくなり、湿度が低い時には木が収縮して隙間ができることで、倉庫の中の湿度が高くもなく低くもない状態に保てるようにできている・・・と。 誰が教えたかというと、小学校の4年の時の担任の先生でした。 中学校の時に遠足でここに来た時も、ガイドさんが同じようなことを言ったような気がするのです。 へえ~え、すごいなあ~あ・・・と感心したのです・・・・が、どうも、違うという説が今では有力なようですね。 今、正倉院が「すいている」というのは、このお話がなくなったことが一因ではないのか・・とか思いますね。 この話を聞いて、すごいなあ~あ・・と思って見に来る人がかつてはいっぱいあったのではないでしょうか。
   ≪ さて、読者の多くの方は、つぎのような話を聞いたことがあるでしょう。
「正倉院の建物は、校倉造といって、木を横に積んで隅のところを組み合わせてつくってあるので、外の空気が乾燥しているときは木が乾いて縮み、木と木のあいだにすきまができて、その乾燥した空気が中に入る。逆に外の空気が湿ってくると木も湿って膨張し、すきまが閉じて外の湿った空気は中に入らない。したがって、この建物の中はつねに乾燥状態に保たれているので、日本のように湿度が高いところでも、中の宝物が1000年以上も腐らずに保存されてきた」
   結論から言うこと閉じて、この説はほんとうではありません。たしかに、木は水分をどれだけ含むかによって膨張・収縮します。しかし木の加工精度からいっても、また、膨張・収縮にともなってねじれや割れが生じることを考えても、微妙なコントロールがなされるわけがありません。岩波新書『正倉院』の著者東野治之(とうの はるゆき)氏は「これはよくできた嘘だった」と書いています。 ≫
・・・というのですが、なんか、今さらそんなこと言われてもなあ~あ・・・・て気がしませんか?
  私が中学生の時に、中学校の遠足で来た時には、南大門・大仏殿だけでなく、正倉院もまた「人気スポット」だったように思うのですが、なんだか、南大門・大仏殿に比べて人気薄・・てのは、この湿度が上がれば木が膨張して隙間がなくなり、湿度が下がれば木が収縮して隙間ができる・・というお話が嘘やった・・ということになったというのが、これがなんとも大きい! というのか痛い! というのかなのでしょうか。
    だいたいねえ~え、仁徳天皇陵なんてのは、私が小学生の頃から「仁徳天皇陵」といって、最大の前方後円墳と言ってきたのですが、義務教育の学校の教科書にも「仁徳天皇陵」と書いてあったし、あちらこちらにそう書いてあったと思うのですが、それが、最近では「大仙陵古墳」なんてややこしい言い方して、仁徳天皇の古墳ではないかもしれないとか言い出して、さらには、仁徳天皇て実在したのかどうか・・とかいう話まで出てきて、それならそれで、教科書というものにはそういう書き方してもらえんもんでしょうかねえ。 小学校や中学校の教科書に載っているくらいだから、そういうところに載っているものというのは、今もいくつかの説があるとかいうものではなく、この点についてはもう議論の余地はなく確定的だとされたものが載っているのだろう・・と思っていたら、なんか、違ったみたいで。 なんか、騙されたみたいな感じ。邪馬台国は北九州なのか近畿なのか・・・というのは、これは、そう言われていたので、どちらなのかはっきりと断定できるものではないのだと理解したのだけれども、「仁徳天皇陵」と教科書はじめとしてあちらこちらに書いてあるから、『古事記』『日本書紀』に登場する天皇には実在していない天皇もあるが、仁徳天皇というのは『古事記』『日本書紀』に書かれているお話が本当かどうかはさておき、実在はした天皇であって、それが大阪府堺市にあるでっかい古墳に葬られた人だということなんだなあ~あ・・・と思っていたら、違うの? 教科書てあんまり信じない方がいいのかあ? 聖徳太子てのも、大変優秀な人でなんたらかんたら・・・というわりに、そんなに優秀な人が皇族にいたのなら、さっさと天皇へーかになれば良さそうなものなのに、あくまでも「推古天皇の摂政」という立場だったて、なんでなんやろうなあ・・とか小学生の時から思ったものでしたが、そのうち、別にどうでもいいやみたいに思い出してた頃になって、「聖徳太子はいなかった」とかいう話が出てきたみたいで、なんか、小学校の教科書て、そんなにええかげんなこと書いてきたんかあ? ・・・て感じ。 なんだかなあ~あ・・・・。

   ところで。 芸術新潮編集部編『国宝』(1993.5.20.新潮社)に掲載の「日本国宝地図」(1993年3月現在)によると、都道府県別で、国宝が最も多い都道府県は京都府で249、次いで東京都で218、3位が奈良県で203、4位は大阪府で64、5位が滋賀県で55、6位は和歌山県で34、7位は兵庫県で23、8位が広島県と神奈川県で19、10位は栃木県で16、11位は福岡県と愛媛県で12・・・というのですが、東京都の場合は他から持ち込まれた国宝が多く、建築の国宝は少なく、「ええ、これえ~え?」て感じの正福寺地蔵堂(東村山市)のみ。それに対して、京都府や奈良県は建築の国宝はいっぱいあります・・・が、同書の終わりに掲載されている「国宝全リスト」というのがありまして、桂離宮なんてのは、当然、国宝に指定されているだろうなあ~あ・・と思って見ると、いくら、捜してもないのです。 なんでだろう? これ、考え出すと、今晩、寝られなくなっちゃうね・・・て感じで何度も見返したのですが、掲載されていないのです。
   坂本功『木造建築を見直す』(2000.岩波新書)の正倉院宝庫について述べたところを見てその理由がわかりました。
≪  この正倉院は奈良時代に建てられたもので、もちろん文化史上きわめて貴重なものです。ところがごく最近までは、文化財には指定されていませんでした。それは、宮内庁が維持管理にあたっているので、わざわざ文化財にしなくても十分に保護の手が行き届いているからです。桂離宮も同様です。ちなみに国の重要文化財の指定は、「文化財保護法」という法律にもとづいています。
 その正倉院も、1997年に国の重要文化財に指定され、同時に国宝にも指定されました。そのような指定がなされたのは、1998年に正倉院も含めた古都奈良の一帯が世界文化遺産に登録されることになったとき、その前提としてそこにある各建物は国であらかじめ文化財に指定していなければならない、という条件を満たすためでした。・・ ≫
    ちなみに。 国宝の都道府県別の数ですが、京都府や奈良県は多そうですし、東京都は他から持ち込まれたものが博物館にいっぱいありそうに思えます。滋賀県は比叡山とかありますし、和歌山県も高野山とか那智とかありますし、広島県は宮島、神奈川県は鎌倉、栃木県は日光、福岡県は大宰府てのがありますから、その関係のものが国宝になってそうですが、愛媛県て何だろうな・・て思いませんか? 愛媛県というと、道後温泉・・・なわけないよな、国宝になるほど古くないもんな。まさか、蜜柑???・・・なわけないよな。 調べてみますと、瀬戸内海に大三島という島があるのですが、大三島は広島県か岡山県かというと愛媛県らしいですね。大三島に大山祇神社というのがありまして、これが国宝をけっこういっぱい持ってるようです。残念ながら、蜜柑でもなければ手ぬぐいでもなかった。

   正倉院の南のあたりが、少々広場みたいになっていまして、そこに白黒のパトカーとそうでないパトカー(覆面パトカーというのか)が停まっていまして、そのあたりで、ちょろちょろとゴーカートみたいに動かして、「遊んでおった」のかどうか知らんが、そのへんにいました。 なんか、邪魔やな。 こいつら、何やってんだろうな・・・と思ったのですが、正倉院というのが宮内庁の管轄だということが関係しているのでしょうか。 「何やってるんですか」と尋ねてやろうか・・て気もしましたが、うかつにそういうことを訊くと、逆にこっちが「何やってるんですか」と言われそうなのでやめました。 私が「何やってるんですか」て?  そりぁ、あんた、「建築探偵団」ですがな。
※  「建築探偵団」の歌 ⇒《YouTube-少年探偵団の歌(テレビ原音)》https://www.youtube.com/watch?v=98smURw4ig0

   関裕二『もうひとつの日本史 闇の修験道』(2015.10.5.KKベストセラーズ ワニ文庫)には、
   ≪ 行基は、各地をめぐり、橋を架けたり、道を整備したりした人として知られている。律令の陰で苦しむ人々を救済することがその目的で、行基は税を納めるために都へ往復する途中で行き倒れになる人々のために布施屋を設け、援助したのである。もちろん、この行為は朝廷とは無関係の独立した布教活動であったが、民衆の圧倒的な支持を得ていく。
   行基らの集団のほとんどは、優婆塞(うばそく)と呼ばれる朝廷未公認の僧たちであった。正式に出家するためには朝廷の許可が必要とされていたからだ。僧になれば、税や労役から免除された。当然、優婆塞が増えれば、律令の理念は破綻する。
   聖武天皇の東国行幸の翌年、『続日本紀』天平13年冬10月の条には、奈良の北方の木津に橋を架けるのに、行基が畿内と諸国の優婆塞を招集し使役したとあり、さらにこれに参加した優婆塞たち七百人あまりすべてを、正式な僧として認めている。
   また、天平15年10月には、聖武天皇は大仏を建立するために紫香楽宮に土地を用意し、行基は弟子たちを率いて、人々に勧め導いた、という。以降、行基は大出世し、大僧正の地位にまで上り詰めるのである。
   なぜ聖武天皇は行基とつながっていったのか。民衆のための布教を実践していた行基が権力の寺である東大寺の建立を支援していったのは、転向とする説もある。しかしそれも当を得ていない。東大寺は決して権力の寺ではないからだ。・・・
   たしかに聖武天皇は、「普通岩手県藤井条藤原のための天皇」を上手に演じていた。・・・
   ところが、長屋王の死後、藤原四兄弟が天然痘の病魔に襲われ一気に滅亡した段階で、聖武天皇は「藤原の子」から、「天武の子」に豹変している。通説はこれを、「反藤原派の台頭に迎合した」と解釈し、聖武天皇を優柔不断な帝と決めつけるが、真相は異なる。
・・・・
   ・・・長屋王の祟りに震え上がっていた聖武天皇は、母との再会によって、「正義」と思っていた「藤原」の裏の顔を知ってしまったのだろう。そして、この人物は、「天武の子」であることに目覚めていくのである。
   しかも聖武天皇には、母から伝わる「葛城の血」が流れていた。その聖武天皇が葛城から湧きあがってきた乞食坊主・行基を重用したのも、理由のないことではなかったはずである。
   聖武天皇は、鬼を味方につけることで、藤原氏と対等に立ち向かうすべとしたのである。 ≫
・・・・・というのだが、正倉院については、宮内庁の管轄であり、それが理由かどうか、訊いてみたろかとか思ったが、うかつにかかわると怖いから訊けなかったが、軽殺漢なんてのが、ぱとかー でそのへんにおった。
   「君子、危うきに近寄らず」と言うことだから、転外門に行きたかったのだけれども、ぱとかー のおる所を通らないと行けない、そうでなければ、もう一度、南大門の南まで行って遠回りしないといけないので、今回は、南大門・大仏殿とともに転外門(てがいもん)の見学を主たる目的に来たが、「安全第一」「君子危うきに近寄らず」であり、どこかに行って、ナンバーのそろった窓にスモークがはいった外車が停まっておったら、自分のクルマはそのすぐ脇ではなく離れた所に停めるようにするか、そうでなければそこの利用はあきらめるか・・・てそんな感じで、あきらめるか・・とも思ったが、せっかくここまで来たのだからと思って、私服で参拝者風でないおっさんの脇を通って転外門へ行った。 広くもない通路にクルマとめてからに、邪魔やった。

↑ 池の横、広くもない通路に軽察漢がクルマとめて邪魔やった所。 この東の広場みたいな所にもおった。

   関裕二氏は≪東大寺は権力の寺ではない≫というが、たしかに、宮内庁の管轄の正倉院はどうかはともかく、今も、東大寺には「えらい人でないと入れたらんぞ」みたいな雰囲気はない。

  正倉院宝庫のような校倉造の倉庫は、奈良時代・天平時代のものとしてはよくできたものであったとしても、もう、それは「過去の建物」かと思っていたら、明治以降にも建てられたものがあるようで、千葉県の香取神宮の「神庫」「宝庫」は正倉院のような校倉造で作られていました。 [第423回]《香取神宮参拝【3/5】摂社鹿島新宮・末社諏訪神社。イワイヌシ・フツヌシとは。香雲閣。鹿苑。神庫。 》https://shinkahousinght.at.webry.info/201607/article_3.html に写真を掲載して公開しましたのでご覧ください。

  次回は、ぱとかーと軽察漢のおっさんがいた横を通り抜けていった先の転外門・・・・

   (2018.11.12.)

☆ 東大寺参拝
1.南大門〔1〕 近鉄奈良駅から南大門へ。知識で物を見ないで。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_12.html
2.南大門〔2〕 挿し肘木・通し肘木。鉄骨の貫は見えない。背割りはない。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_13.html
3.大仏殿〔1〕 中門・西楽門・廻廊・大仏殿。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_14.html
4.大仏殿〔2〕 鉄釘と銅輪で締めた柱。鉄骨製トラスは見えない。大仏殿は「伝統構法による木造建築で世界最大級」  https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_15.html
5.大仏殿〔3〕 花頭窓と観相窓。優婆塞を体制にとりこんだか反体制が手を組んだのか。「東大の日本史」と「京大・阪大の日本史」の問題 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_16.html
6.大仏殿〔4〕 横方向の太い材が多い大仏殿。 東大の入試の科目を知らなかった進学校の3年担任の教諭 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_17.html
7.正倉院  校倉造の原理と言われていたものは実は・・なんて今さら言われてもなあ・・ 〔今回〕
8.転害門  「木は生育のままにつかえ」を実践した柱 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_19.html
9.奈良公園の加圧注入材。注入直後の木材にさわるのは非健康的。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_20.html
10.


☆ 「飛鳥・白鳳・天平の建築」シリーズ
法興寺〔飛鳥寺〕〔安居院〕
上 本堂、塔跡 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_9.html
下 思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
山田寺跡・飛鳥資料館 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_11.html
飛鳥坐神社 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_12.html
「孝元天皇陵」 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_13.html
飛鳥の街並み https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html 


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