東大寺【5】大仏殿3 花頭窓と観相窓。優婆塞を体制にとりこんだか反体制が手を組んだのか。日本史の問題

[第643回] 飛鳥・白鳳・天平の建築シリーズ + 大学入試における「東大の日本史」と「京大・阪大の日本史」の違い、それを理解できないアホ予備校。
  大仏殿の3回目です。
画像

画像

   『古社名刹 巡拝の旅1 平城(へいじょう)の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』(2009.4.20.集英社)には、
≪ 平城京を見下ろす地に坐(いま)す大仏(廬舎那仏。国宝)は、奈良のシンボル。元旦(午前0時~朝8時まで)と8月15日(万灯供養会)の夜の年に2回だけ、大仏殿正面の観相窓(かんそうまど)が開かれ、そこから大仏の尊顔を拝することができる。≫
と書かれているのですが、それが、小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(2010.文春新書)では、
≪ 正月には、正面の花頭窓(かとうまど)を開けるんですが、そうすると、ここから大仏様のお顔がパーンと見えるんです。 ≫
と出ています。 『古社名刹 巡拝の旅1 平城(へいじょう)の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』(2009.)では「観相窓」で小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(2010)では「花頭窓」というのは、同じなのか違うのか・・・、と気になりませんか?

  「花頭窓(かとうまど)」とは、「火灯窓(かとうまど)」とも書き、≪ おもに日本の、寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓である。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。≫(《ウィキペディア-火灯窓》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%AF%E7%AA% )のことを言う。このブログでも、鎌倉の光明寺の開山堂の火灯窓(花頭窓)を、[第592回]《光明寺(鎌倉市)参拝【5/11】開山堂。網引地蔵。「地蔵」とは。戦没者碑。 》https://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_5.html で掲載し、[第591回]《光明寺(鎌倉市) 参拝【4/11】大聖閣と記主庭園。景観に隠す建築と新たに創造する建築 》https://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_4.html で掲載した光明寺の大聖閣の写真にも火灯窓(花頭窓)が写っています。
  「観相」とは、新村 出(しんむら いずる)編『広辞苑 第二版』(1969。5.16.第二版 岩波書店)によると、
≪ かんそう【観相】 1.人の容貌・骨格を見て、その性質・運命・吉凶を判断すること。人相見(にんそうみ)。
2.世相・人生の喜怒哀楽を感じた俳諧の有心付(うしんづけ)の称。 ≫
   「火灯」と「花頭」は、火の形か花の頭かということで、意味は違うけれども、形は似ており、同じ形状の窓をどちらにルーツがあるかという問題のようですが、「観相」は形状のことではなく、「火灯」と「花頭」とは意味が違うように思えます。
画像

↑ クリックすると大きくなるので、大きくして見てください。
   自分が撮って来た写真をじっくり見てわかりました。 大仏の中央の正面、出入口の上の位置に、開閉することのできる窓が3つあるのです。 中央に大きいのがあり、その上の左右にそれよりも小さいものが2つあるのです。 上の2つが「花頭窓」(「火灯窓」)で、↑の写真では閉められているその下の大きいのが「観相窓」のようです。 ↑の写真を見ると、観相窓の下に、もうひとつ、横に長い窓があるようです。 上の2つの「花頭窓」(「火灯窓」)は、この写真を撮影した2018年10月後半においても開けられていますが、その下の大きい「観相窓」は正月元旦の午前0時から午前8時までと8月15日のみ開けられるということのようです。

   ≪柱の上に通り肘木を一、二、三、四本。で、手前側には挿肘木だけで受けています。南大門と同じ形式です。南大門には大天井張ってなかったけど、ここは張ってあるんですね。あの垂木の太さ、凄いものです。≫(小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(2010.文春新書)と出ています。
「通り肘木」「挿肘木」について、適切に図示したものがないかと思って、インターネット上で検索すると、《 原口秀昭≒原田ミカオの建築×不動産日記  大仏様の特徴 2018.10.01.》https://plaza.rakuten.co.jp/mikao/diary/201810010000/  が見つかりました。

   東大寺は華厳宗 大本山。 網干義教 他執筆・奈良商工会議所編『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック[改訂版]』(2007.9.20.山と渓谷社)には、
≪ ・・・・ 天平15年(743)に聖武天皇は廬舎那仏造顕の詔を発し、紫香楽宮の甲賀寺に大仏鋳造の骨柱を建て始めたが頓挫。
   平城京に遷都したのちの同17年(745)に大仏の鋳造を再開し、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われた。このころまでに七堂伽藍がおおむね完成。大仏鋳造と伽藍造営は国家組織の造東大寺司が担ったが、行基(ぎょうき)のまとめる大衆の勧進によるところも大きかった。また、寺務は良弁(ろうべん)が担い、弟子の実忠(じっちゅう)がよく師の業を継いだ。
  天平勝宝6年(754)には鑑真和上が大仏殿の前に設けられた戒壇で聖武上皇はじめ440人余りに授戒して名実ともに国家寺院としての体裁が整った。
  斉衡2年(855)に廬舎那仏の頭部が地震で落ちたのを始めとして、天平建築の講堂・三面僧坊・西塔・東塔・南大門などが焼失または倒壊、
  さらに、平重衡(しげひら)による南都焼討ちにより法華堂・二月堂・正倉院などの一部堂宇を除いた伽藍の大半が焼失したが、重源(ちょうげん)が造東大寺大勧進となって伽藍再建に奔走し、源頼朝をはじめ武家の協力もあって復興が進められた。
  永禄10年(1567)に松永と三好の兵乱がおよんで大仏殿や戒壇院などの主要伽藍が焼け落ちたが、江戸時代の元禄期に公慶の勧進によって再建されたものが今日まで伝わっている。
   建築に天平期に創建され鎌倉時代の増補が見事な法華堂、大仏様(天竺様)の代表的建築である南大門、京都方広寺の梵鐘に次ぐ巨鐘を吊るした鐘楼、世界最大の木造建築である大仏殿、良弁の開山堂、二月堂などがあり、いずれも国宝。四月堂、大湯屋なども重要文化財に指定されている。・・・ ≫
と出ている。
   『古社名刹巡拝の旅1 平城の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』(2009.4.28.集英社)には、
≪  ・・・・この国家事業である大仏造営の勧進(かんじん)(寄進を募ること)を命じられたのが行基(ぎょうき)である。それまで民間伝道に励んでいた76歳の行基は、弟子らを率いて全国を奔走して勧進した。
   開山(創建を担う高僧)は良弁(ろうべん)である。良弁はもともと金鐘寺の僧といい、天皇の信任を受けて、東大寺造営の実務に手腕を発揮した。東大寺初代の別当(総責任者)に任じられ、85歳で入寂するまで国家仏教の重鎮として活躍した。
   東大寺は国家鎮護の寺であるとともに、仏教哲理を研鑽する最高峰の学問寺であった。平安時代以降、南都仏教の六宗と天台、真言を含めた八宗兼学の道場として隆盛し、多くの優れた学僧を輩出する。
   しかし、中世以降には大きな苦難にも遭遇した。平氏による南都焼き討ちでは、伽藍のほとんどを失う。大勧進に抜擢された俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、61歳の高齢で難事業に身を投じ、源頼朝など有力者の支援を受けて大仏や大仏殿の復興を実現させた。
   戦国時代には松永久秀と三好三人衆の戦いによって、ふたたび大仏殿が焼失。大仏は約200年もの間、露坐(ろざ)となったが、公慶(こうけい)の努力によって現在に伝わる姿に復興されたのである。・・・・ ≫
( 『古社名刹巡拝の旅1 平城の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』〔2009.集英社〕 「東大寺 歴史と人物」 )
≪ それからおよそ100年後のこと、東大寺に修行に入った13歳の公慶(こうけい)上人がはじめて大仏を拝する。その日は大雨が降っていた。少年僧の公慶は、「自分には傘があるが、大仏さまは風雨にさらされたままだ」と涙を流し、心の中で大仏殿再興を誓ったという。
  大願を心に秘めながら修行に打ち込んでいた公慶に機会がめぐってきたのは、1684年(貞享1)。江戸に下向した公慶は、幕府に大仏の修復を願い出た。幕府の返答は、「幕府は協力しないが、東大寺が勧進(寄付を募る)のは容認する」というものだった。奈良に帰った公慶はさっそく勧進を開始し、復興は端緒についた。
  ・・・・・
  ・・・大仏の修復がなり、1692年(元禄5)3月8日には大仏の開眼供養が盛大に営まれた。
  大仏の次はいよいよ大仏殿の復興である。公慶の熱意が通じ、将軍徳川綱吉とその母の桂昌院の支援を得て、1705年(宝永2)4月には大仏殿上棟式が行われる。しかし長年の疲労がたたったのか、公慶上人は病に倒れ、7月12日、江戸で亡くなった。 ≫
( 『古社名刹巡拝の旅1 平城の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』〔2009.集英社〕 「文学の小径(こみち) 芭蕉『野ざらし紀行』と公慶上人の大仏殿再建」 )
とある。
   松永久秀は、大仏殿を燃やした極悪人・・・みたいに言われてきたが、何新聞だったか忘れてしまったがの日曜版だったと思うがに書かれていたのだが、松永久秀は子孫がとぎれたことから、江戸時代などにおいて、悪人として描く人物として使いやすかったということで、実際以上に悪人にされてしまっているところがあり、三好三人衆との戦いにおいて東大寺の大仏殿を焼失したというのも、松永久秀は決して意図的に大仏殿を燃やそうとしたわけではなく、三好三人衆が東大寺に立てこもったことから、その戦いの中で火が大仏殿に燃え移り焼失してしまったということであって、松永久秀は、その後、大仏殿の復興に尽力したりもしたらしく、お話として言われているほど「極悪人」ではないらしい。

   井上清『日本の歴史 上』(1963.9.25.岩波新書)には、
≪ 仏教は、聖徳太子の後も歴代の朝廷から、ますますあつく保護された。国費で大寺院がぞくぞくたてられ、それらには広大な土地と数百人の奴婢があたえられた。朝廷の仏教興隆政策は、聖武天皇の代に頂点にたっした。天皇は741年(天平13)、国ごとに「金光明四天王護国寺」(国分寺)と「法華滅罪寺」(国分尼寺)をたてることを命じ、ついで都に、東大寺をたて、その本尊として五丈三尺もある金銅の廬舎那仏を鋳造した(743年起工、752年完成)。このために天皇は国費をかたむけ、また人民に出挙を強制した。東大寺とその大仏は、美術的価値のみでなく、古代日本人が、これだけのものをつくる建築および金属鋳造の技術をもったことを示すてんでも、歴史的意義は大きい。この前後が古代日本の仏教文化の最盛期で、これを文化史上に天平時代という。
   これほど朝廷から保護された仏教は、もっぱら「国家鎮護」すなわち天皇制の安泰をいのることを使命とするもので、個人が戒律をまもり正しい道をおさめて、悟りをひらき魂の救いを得るという、仏教の根本精神からは、まったくはなれたものであった。またこの仏教は民衆の信仰とも関係がなく、僧侶が民衆の間に仏教を説くことや、民衆が寺に参るのはゆるされないことも、以前と同じであった。 ≫
と書かれている。
   戦国・安土桃山時代の「キリシタン大名」がどこまでキリスト教を理解していたか、実際にはヨーロッパから渡来するものに珍しさを感じていただけであって、真剣にキリスト教を信仰した「キリシタン大名」は高山右近くらいだった、という話があり、さらに、高山右近にしても、領地の高槻においては、キリスト教を広めるために既存の神社などを迫害したという話もあり、真の宗教者であるならば、自分自身の信仰を守ろうと思うならば、他人が信仰する他の宗教に対しても信仰の自由は認めるべきであり、信仰の自由の尊重こそ、キリスト者の第一の心がけではないかと思われるのだが、伝わっている話がすべて本当かどうかはわからないけれども、既存の神社などを迫害したという高山右近の話などを考えると、本当にキリスト教を理解した大名などほとんどいなかったのではないかとも思われる。
   1998年、(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ において、今は浜松市になって北区引佐町奥山 という地名になった場所にある深奥山方広寺http://www.houkouji.or.jp/ という臨済宗の寺で「座禅研修」と称して、ボーズが勝手な講釈をきかせるという明らかに「信教の自由」の侵害にあたる「研修」を強制的に受けさせられた。(株)一条工務店と深奥山方広寺のこの行為は「信教の自由の侵害」であり、国民の「信仰の自由」を踏みにじるものであり、深奥山方広寺の坊主は宗教者としての初歩を理解できていない仏教徒としては明らかに失格の人間であると言わざるをえないが、ところが、その「研修所」の「所長」だというムカイくんという坊主が、「戦後、日本では『信仰の自由』ということが言われて、そのために、国民から宗教が離れてしまった」などと発言したが、ムカイくんの認識はあまりにもオソマツである。ムカイくんの発想こそ、国民から宗教を引き離すものであり、道元という仏教の思想家・僧の中でも本格的な仏教を求めた者の宗派である曹洞宗の寺として不適切な行動、邪道の方向に進んだ間違った仏教もどきを広めようとしてする者であり、ムカイくんこそ、まず、「研修」を受けてそのあたりの間違いに気づかせてもらうようにする必要があるだろう。
   今日においても、1970年代後半、私がローニン中に行ったYMCA予備校高槻校の「主事」というよくわからん職種についていた「敬虔なクリスチャン」と称する藤井(男。当時、50くらい?)は「聖書なんてあんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんやから、あんなもん。あんなもん、読んではいかん。たとえ、読むにしても、歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若いうちに読むもんと違う。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。聖書なんてあんなもん、読まんでも、洗礼を受けて、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、献金はらっておけばそれでいいことなんや。聖書なんてあんなもん、読むもんと違う!」と何度も何度も大威張りで言いまくっていたのだが、はたして、そういう人を「キリスト者」とか「クリスチャン」とか言うべきなのかどうか、「世の中いろいろ、人間いろいろ」であるから、『聖書』を読んで、これは大変価値があるすばらしい本だと思う人もあれば、「いいことなんて何ひとつとして書いてない」と思う人がいても、それはしかたがないことだと思うが、しかし、「聖書なんてあんなもん、いいことなんて何ひとつとして書いてないんやから、あんなもん。あんなもん、読んではいかん。たとえ、読むにしても、歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若いうちに読むもんと違う。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。」と思っている人が、なんで、洗礼うけるんだ???  そんなこと思っているなら洗礼なんて受けなきゃいいじゃないか・・・と私は思ったのだが、そうではなく、洗礼を受けて日曜ごとに教会に行って礼拝に出て献金を払えば、YMCA予備校で仕事にありつけるし、「あの人はクリスチャンだから決して悪い人ではない」「あの人はYMCAで主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。相当に偉いクリスチャンのはずや」と私の母みたいに思う人が出てくる(私は、こういう発想はおかしいと思ったが、母は息子の言うことはきかない女で、「なんで、息子の言うことなんてきかんといけませんのん。息子ちゅうもんは言うことをきかすもんでしょうが。言うことをきくものと違うでしょうがあ」と言って私が何を言っても絶対にきかない女で、「敬虔なクリスチャン」と称する「洗礼うけてる」にせクリスチャンの言うことは本当によくきく女だった。「敬虔なクリスチャン」の宗教上の義務は、1に洗礼を受ける、2に日曜ごとに教会に行って礼拝にでる、3に献金を払う、4に『聖書』は読まない、5に『聖書』に書いてあることを実行しようなんてことはまかり間違っても絶対に考えない、この5つらしい、この5つを守れば、教会と牧師屋から「敬虔なクリスチャン」と認定してもらえて、「クリスチャン」としての御利益を授かることができるらしい。なんか、ちっぽけな野郎だなあ! て感じがするがそういうことは「クリスチャン」は言ってはならないらしい。そして、時々、「かわいそうな人のための特別献金」なんて企画があるから、そういう時に、「あれだけだすのにどれだけ、きついかきついか~あ! わかるっしょ! あーめんそーめん、北海道~♪ あーめんそーめん、ほっかいど~♪」〔⇒《YouTube-【パオパオチャンネル】ヤーレンソーラン北海道》 https://www.youtube.com/watch?v=t7Eye6wKMtY 〕とか心の中で思いながらも、「かわいそうな人」のための「特別献金」を献金袋に入れて納めれば、教会と牧師屋は「聖人」とか認定してくれることになる。いわば、献金は免罪符であり、洗礼は「クリスチャン」という称号を得るための儀式であり、特別献金により「聖人」の称号を受けることができる。)・・というご利益があるわけであり、そういうご利益を得るためには、洗礼うけて日曜ごとに教会に行って礼拝にでて献金を払うという作業をする必要があるわけであり、『聖書』というものは読む必要はないし、ましてや、そこに書いてあることを実行する必要なんてものはない・・・・ということらしい・・・・が、そういう人生を送りたい人もあるようだけれども、そういう人生は送りたくないと思う人間もいると思う。
   ともかく「敬虔なクリスチャン」を称していても「『聖書』なんてあんなもの、いいことなんて何ひとつとして書いてやから、あんなもお~ん。あんなもの、読んでいいことなんて何ひとつとしてないんだ、何ひとつとして」と言いまくる男というのが今の時代にもいるように、巨大な寺を創建しても、≪ もっぱら「国家鎮護」すなわち天皇制の安泰をいのることを使命とするもので、個人が戒律をまもり正しい道をおさめて、悟りをひらき魂の救いを得るという、仏教の根本精神からは、まったくはなれたもので≫ある仏教というものが繁栄したことだってあったのだろう。
   井上清『日本の歴史 上』『日本の歴史 中』『日本の歴史 下』(岩波新書)は、月刊だったか隔月刊だったかの「受験の日本史」(聖文社)の4月号で、「大学受験の日本史のために読んでおくべき本」としてあがっていたものだった。 それで、私は読まないといけないものだと思ってこの3冊を読んだ。家永三郎『日本文化史』(岩波新書)は、「蛍雪時代」(旺文社)の別冊の大学受験特別号だったかに、「大学入試のために読んでおくべき本」としてあがっていたもののうち、日本史の対策として読んでおくべきであるとしてあがっていたので、これも読んでおかないといけないのであろうと思って読んだ。いずれも、読みやすい本で、さっさと読めたし、特に負担とも思わなかったが、最近、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』の中で、この井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)は、読む必要はないと主張しだし、その影響かどうかわからんが、ふと気づくと、新刊では絶版になっているようだ・・・が、私は、「試験対策に直結」という意味ではなく、「普段の読書として読む」という読み方ならば、読んで悪くない本と考えている。 柴田孝之自身が、『司法試験機械的合格法』だったか『司法試験 絶対合格の秘訣』だったかどちらかで、青木雄二の『ナニワ金融道』を司法試験の学習に読むといい本にあげていたと思うが、『ナニワ金融道』はおもしろいけれども、だからといって『ナニワ金融道』を全巻熟読したからといって旧型司法試験に合格するということはないと思う。あくまでも、「普段の読書として」「読み物として」読むと、けっこうプラスになるかもしれない・・・という本ではないか。井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)も、そのくらいの気持ちで読むにはいい本であって、特に東大の二次試験に直結するかというと直結しない。むしろ、東大の二次試験対策としてなら他にやることがあるだろう。 柴田孝之が井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)を「読む必要がない本」に指定したのは、ひとつには、その柴田の著書が『東京大学機械的合格法』という本、東大の受験を対象とする本であり、柴田孝之自身が合格・入学・卒業した大学は東大の文科一類→東大法学部であるということも関係しているのではないかと思う。 『ドラゴン桜』では、登場人物の弁護士が、各大学の入試の問題はその大学の歴史と関係して特色があると言い、京大はアカデミックな学風の大学であり試験問題もまたアカデミックな問題が多いのに対し、東大の場合は「事務処理能力」を問う問題が出る、と言う。実際、私が受けた頃、1970年代後半から1980年代にかけての東大の社会科、日本史・世界史などの問題というのは、「・・・について、800字以内で述べよ」とかそういう問題であり、日本史・世界史についてのそれぞれの課題についてどれだけ自ら思索したかを問う問題ではなく、日本史・世界史についての教科書レベルの内容をいかにして「800字以内」とか「700字以内」とかにうまくまとめるかという能力が問われる問題が出題されていた。だから、アカデミックに、教科書よりいくらかなりとも上のレベルの本、一般学術書になるような本を読んで自ら考えて自らの意見をもつようになったとしても、京大の日本史・世界史の試験には役立っても東大の日本史・世界史の試験にはあまり関係ない、むしろ、学説として議論があるものについて、教科書に記載されているものをそのまま書いておけば問題がないものを、岩波新書くらいの本に書かれていることを書いたがために「不正解」にされてしまうおそれだって絶対にないとは言えない。だから、私は「受験の日本史」とか「蛍雪時代」に「大学入試の日本史の対策として読んでおくべき本」として、井上清『日本の歴史 上・中・下』を読み、難関大学の日本史の試験に対応するためには岩波新書くらいで出ているような歴史学者が書いた本を読む習慣をつけておかないといけないのではないかと考えたのだが、それは東大の二次試験には役に立たなかった。京大の試験になら役だったのではないかと思う。おそらく、阪大の試験にも役立ったと思うし、神戸大の試験にも役立ったのではないかと思う。なぜ、京大の試験に役立つもので東大の試験に役立たないものがあるかというと、1970年代後半から1980年代にかけての京大の日本史・世界史の問題と東大の日本史・世界史の問題は、同じ学科名がついていても、試験問題の出題傾向・出題形式がまったく違ったからだ。 それなら、京大の日本史・世界史と阪大の日本史・世界史はどうなのかというと、これは、京大の日本史・世界史の問題を解けるようにする対策は阪大の日本史・世界史の問題をとけるようにする対策にも通じた。なぜなら、京大の日本史・世界史の問題の出題傾向・出題形式と阪大・神戸大の日本史・世界史の問題の出題傾向・出題形式は、「関西地域の国立大学」として、比較的似ていたからだ。 私立大学には、早稲田大学の入試の科目と試験問題を参考にしてそれに多少の変化をつけたような試験科目と問題を出しているのではないかと思われるような所があったように思うのだが、それと同様に・・かどうかわからないが、「関西地域の国立大学」は京大の試験問題を決して無視していないと思うのだ。その際、「無視していない」のは「東大の問題」ではなく「京大の問題」だったと思う。
(念のため、お断りしておきますが、私が述べているのは、1970年代後半から1980年代にかけての入試について、です。今も、変らない部分はあると思うけれども、変っている部分もあると思うので、高校生や大学受験生でこのブログを読んでくださる方は、どこが今も同じでどこが今は違うかを自分自身で考えて補正して対処してください。私のブログを読んで、その結果、落ちたと言われても責任はとりようがありません。自分自身で補正する能力がない人のためにどうかしてあげようという気持ちはありません。どこが自分にもあてはまり、どこは違うかを自分自身で考えて補正しようという姿勢・意思がない人は難関校に行く必要はありません。落ちればよろしい、そういう人は。これは私が冷たいのではなく、「そういうもの」なのです。柴田孝之は「たとえ、多くの者がやっているものでも自分が要らないと思えば要らないのだ」「あえて少数派になる勇気をもてない者は、東大や司法試験などの難関試験で高得点を取ることはできない人である」と述べていたと思うが、私もそう思う。)
   YMCA予備校高槻校「京大東大文系クラス」の「古文」の授業で、「北野高校卒、京都大学文学部卒、元天王寺高校教諭」という山之内というおっさんが、5月頭だったか、「最低で京大、うまくいけば東大」などと言ったことがあったが、その考え方は間違いである。京大型の試験で相当高得点がとれるなら東大の試験にも通るかというとそういうものではないし、京大型の試験問題で相当の高得点がとれないなら東大の試験にも通らないかというとそうでもない。まがりなりにも予備校の講師ならそのあたりは理解しておいてもらいたいと思うが、理解しない・理解できない予備校講師がいるようである。山之内のおっさんは「駿台や代ゼミにいれば通るというもんやないの。どこの予備校にいるかは関係ないの」などとも発言したが、予備校の講師に「どこの予備校に行ってるかは関係ないの」などというそういう発言はしてもらいたくないものである。予備校の講師なら、自分のところに来た受験生こそ通りやすいという授業をしてもらわないと困る。 特に、「京大東大文系クラス」と名前をつけたクラスの講師が「どこの予備校でも一緒」などと言ってもらいたくないし、YMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」というのは周辺の他の予備校よりもいくらか授業料は高かったはずであり、ほかの予備校よりも高い授業料を設定している予備校が「どこの予備校に行ってるかは関係ない」などと言うのなら、周辺のほかの予備校よりも高めの授業料に設定していたYMCA予備校に行く人間はアホだとその予備校の従業員が自ら言っているということになる。
  「どこの予備校にいるかは関係ない」などと講師が自ら言うような授業では困る・・・とそのくらいのことに気づかない講師というのは困りものである・・・が、「主事」だという藤井という男は、毎日毎日、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と一日に最低3度は言わないと気がすまないという男で、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と言えばひとは自分を評価してくれるという信仰をもっている男であったが、あれはまず学歴詐称であると思うが〔だいたい、本当に早稲田大学の政治経済学部を卒業したのなら、そこに合格するまでにどういうことがあったか、在学中にどんなことがあったかという話が少しくらいあってもいいはずだが、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と言うばっかりで、そこを受けた際にどうだったかという話、在学中にどんなことがあったという話がまったくないというのはおかしい! なにより、「早稲田の政経」というのは「学歴詐称の定番」である。〕、山之内のおっさんの場合は「北野高校卒、京都大学文学部卒、元天王寺高校教諭」というのは詐称ではないと思うが、学歴詐称ではないわりには、この人、受験についてわかってないのか? みたいな発言が時々あった。

(  ↑ かつて、YMCA予備校高槻校 があった場所。 今は、YMCA予備校高槻校はなくなったが、建物はそのまま残っており、大阪医大 本部北西部キャンパス になっている。
 YMCA予備校は、1970年代後半においては、大阪府に土佐堀・阿倍野・豊中・堺・高槻の5校と、横浜市に関内と菊名に2校あったが、ふと気づくと、2000年代、天王寺(阿倍野)だけが残っていたが、それも無くなった。良心的でない予備校は淘汰されたようである。
  YMCA予備校高槻校があった建物を使用している 大阪医大 本部北西部キャンパス の写真は、[第637回]《訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校+上宮天満宮参拝【9/10 】》https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_10.html に掲載した。 )
   京大・阪大を受けるのであれば、井上清『日本の歴史 上・中・下』・家永三郎『日本文化史』(岩波新書)ほか、岩波新書あるいは、中公新書でも講談社現代新書でもそのくらいの教科書よりもひと回りレベルが高い教科書よりもひと回り詳しいくらいの本を読むというのはプラスになったと思うが、1970年代後半から1980年代の東大の日本史・世界史の対策としては、新書本くらいの本を読むよりも、内容は山川出版社の『詳説 日本史』『詳説 世界史』くらいの教科書のレベルでいいから、その内容を「800字以内」とか「700字以内」とかにまとめる練習をするようにした方が良かったと思う。 柴田孝之はそういう問題を解いて合格して東大に入学した人間であるから、だから、井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)は、「大学入試において読む必要がない本」に指定したのだと思う・・・・が、京大・阪大など東大以外の大学を受ける受験生にとっては、そうでもないと私は思う・・・し、最近、教学社から出ている『東大 文科』という東大のここしばらくの過去問を見たところ、東大の日本史・世界史も私が受けた頃とはずいぶんと変わってきているので、今の東大の入試の社会科、日本史・世界史の場合は柴田の言う「読む必要がない本」という指定は「必ずしもあてはまらないかもしれない」が、ほかの科目との学習時間の時間配分を考えて、「読めるなら読んで悪くない本」であっても「時間がないのに無理に読まないといけないことはない本」の可能性もあるかもしれない。高校の時の私の場合はこういうものを読み過ぎたかもしれない。
   YMCA予備校高槻校の「主事」というよくわからない職種の藤井という男は、「去年の受講生の悪口を今年言い、今年の受講生の悪口を来年言い、来年の受講生の悪口をさ来年言う」という男で、そういうことをすれば、「勝ちはYMCA予備校の勝ち、負けは受講生の負け」とすることができてYMCA予備校の評価が上がると思いこんでいたようであるが、そういう態度というものが、神と聖書の前に正しいものであるかどうか、自ら『聖書』を読んで、おのれの態度・姿勢について自分自身で考えてみたらどうか、と思ったが、なにしろ、彼は「『聖書』みたいなもん、あんなもの、いいことなんて何ひとつ書いてないんやから」と信じている人間で、「『聖書』なんてあんなもの、読んではいかん」というのが「敬虔なクリスチャン」のつとめであるという信仰をもっている人間であるので、その態度を改めるということは絶対にないようだった。そういう予備校はどうなったかというと・・・→高槻校のみでなく、土佐堀・阿倍野・豊中・堺と大阪府の5校、横浜市の関内・菊名の2校、計7校とも、つぶれた。ざまあみろ!
   YMCA予備校高槻校の藤井が実行していた「去年の受講生の悪口を今年言い、今年の受講生の悪口を来年言い・・・」という手法だが、同じ地域で予備校を経営していると、その悪口を言われた人間の知り合いが翌年来ているケースも出てくる。そういう際、私などは、藤井に執拗に悪口を言われていた人と面識はなかったが、そうであっても、この藤井という男は嫌なヤツだなと思い、そして、こいつは来年、俺のことをこんな感じで言うのだろうかと思った。それに対し、「エスカミリオ」(仮名)はそうは考えずに、「アホなやつがいたんだな、俺は優秀だからそんなことはない、自分は言われることはない」と考えるようだ。「エスカミリオ」とはオペラ『カルメン』の登場人物である。カルメンに恋したドン=ホセがおのれの立場を捨ててカルメンとともに生きるようになったものの、そのうち、カルメンはホセよりもエスカミリオに魅力を感じ出す。エスカミリオは得意がって「闘牛士の歌」を歌う。このエスカミリオが得意がって歌う歌をかっこいいと思う人もいるらしいが、私はそうは思わない。私なら、かつて、魅力を感じた男であるホセを見捨てて、別の男をたらしこもうとする女に自分が評価されたとしても、もしも、自分がカルメンとつきあうようになったなら、そのホセという男のみじめな姿こそ自分の明日の姿ではないのか・・と考える。YMCA予備校高槻校に行った人間にも、そう考える人間と、自分は優秀だから悪口を言われることはないと信じる男とがいたようだ。 さて、あなたの周囲を見回してみてください。軽佻浮薄な「エスカミリオ」が何人かいませんか?
〔 ⇒《ニコニコ動画-カルメン:闘牛士の歌 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ》https://www.nicovideo.jp/watch/nm13269382 〕
   YMCA予備校高槻校の藤井はその手法が予備校の評価を上げると信じていたようだが、大阪府というのは東京圏に次いで人口が多い地域ではあるが、それでも、知り合いの知り合いは知り合い・・みたいに話が伝わることがあり、まったく別の所から、「なんや、YMCA予備校の高槻の主事て、嫌なヤツらしいなあ」という評価を聞くことになった。そういう評価を受けるやり口が予備校経営にプラスになると藤井とYMCA予備校は考えていたようだった。

   関裕二氏は、聖武天皇は「藤原の子」であったにもかかわらず、人生の後半においては「藤原離れ」「反藤原」の姿勢をとるようになった天皇であり、東大寺も、平城京の北東側の少し高くなった所に外京(げきょう)を設けて藤原氏の拠点として藤原氏の氏寺の興福寺が作られたのに対して、その興福寺よりもまだ高い場所に興福寺よりも大きい寺を設けた、というものではないかと推測する。で、東大寺の設立に貢献した行基(ぎょうき)とは何者だったのか?
   井上清『日本の歴史 上』(1963.9.25.岩波新書)には、
≪  貧窮の人民があふれると、社会の不安がたかまる。その世情を背景にして、各地に、禁令をおかして、民衆の間に仏教を説く僧侶があらわれ、困苦する民衆の信望をえた。中でも、和泉国から出た行基(ぎょうき)(668-749年)は、仏教の因果応報を説くだけでなく、彼にしたがう民衆とともに、道路や用水路を修理し、橋をかけ、病者を治し、救世主のように信仰せられた。717年、政府は「小僧行基、みだりに罪福を説いて百姓をまどわす」と、行基を迫害したが、彼は民衆にまもられて布教をつづけた。730年(天平2)秋には、平城京の若草山で、毎日数千人から一万人の民衆が、行基を中心として集会するという事態が生じた。この翌年(731)、政府は、民心をなだめるためか、行基の布教を公認した。このころから行基は、しだいに政府に懐柔されてゆくが、民衆の困苦と社会不安は解消されない。 ・・・・ ≫
とある。
    行基というと、東大寺と大仏造立に貢献した僧侶として、「その時代の代表的な僧」みたいな感じがしたが、実はそうではなく行基は、僧侶としてはかなり異端の存在であったようである。

   関裕二『古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体』(2013.1.1.新潮文庫)には、
≪ 聖武天皇がなぜこのような寺院を建立しようと考えたかというと、天平12年(740)、河内国(かわちのくに)大県郡(おおかたのこおり)を訪ねた聖武が、智識寺(ちしきじ)に感動し、「私もこのような寺を造ってみたい」と一念発起したのだ。智識寺とは、「善知識(ぜんちしき)(智識)」らが力を合わせて造った寺だった。 「善知識」とは、出家はしていないが、人々に仏の道を説き、広め、信仰を勧める人のことで、要するに庶民であり、寺を造る有志のことだ。
   また聖武天皇は、東大寺建立のために、優婆塞(うばそく)(乞食坊主)を活用し、彼らを束ねる行基を、大抜擢した。
   藤原氏全盛時代、優婆塞たちは平城京の東側の山に集まり、気勢をあげていた。数千人、多いときで一万人というから、驚異的な人数である。当然、朝廷は彼らを取り締まった。優婆塞は与えられた土地を手放し、勝手に僧の格好をして税も払わず漂流する人たちで、優婆塞が増殖すれば、律令制度は崩壊する。けれども行基は、彼らを救済した。当然、弾圧の対象となったのである。
   しかし聖武天皇は、優婆塞に手をさしのべたのだ。これも、藤原氏に対する当てつけであり、それよりも、聖武天皇には、「みなの力を結集しよう」という思いが強かったのだろう。 ≫

   どうも、「善知識」とそれを束ねる行基、「優婆塞」を弾圧せずに、彼らの力を集めて造ったのが東大寺であるとすると、「善知識」「優婆塞」といった反体制とまでいくかどうかはともかく、体制側でない者と天皇が協力して造った寺のような感じであり、この「善知識」「優婆塞」と聖武天皇が手を組んでの東大寺建立は、体制側でない者を体制に取り込む動きであったのか、それとも、「体制側」とはこの時代においては天皇ではなく「藤原氏の支配体制」のことで、「反藤原」という点において、「体制側」ではない聖武天皇と「善知識」「優婆塞」が大同団結して、藤原氏の寺である興福寺よりも高い位置に興福寺よりも大きい寺を造った、それゆえ、東大寺は大きければ大きいほどいい、というものだった・・・ということなのか・・・。
   今現在においても、官庁のHPを見ると、「五三の桐」の紋が出ていたり、なんで、官庁が「五三の桐」、即ち、豊臣の家紋なんだ・・・? と不思議に思うが、明治維新の後、豊国神社が復活したりしたというのは、「徳川」に対抗するために、「豊臣」を持ち出すことで、「徳川」と同格の位置に「豊臣」というすでに子孫はとだえたらしい家を出して、「徳川」と同格のものがもうひとつ存在するようになることで、「徳川」をその分だけ格下げした・・・ような作業をおこなったようだが、それと似たところがあるように思うのだが、それまで、平城京の北西に「外京(げきょう)」という長安にも洛陽にもない出っ張りの部分を作り、外京以外の平城京よりも少々高い立地の外京を藤原氏の拠点として、そこに藤原氏の氏寺の興福寺が作られたところに、それよりさらに高い位置に、興福寺よりもさらに大きい東大寺を作ったことで、なんだか、奈良を代表する寺というと、興福寺ではなく東大寺・・・みたいになった。 今でも、「奈良県を代表する寺」ということなら法隆寺もあるが、「奈良市を代表する寺・・・・というと、東大寺」という感じではないか。 明治維新の後、「五三の桐」の豊臣の紋を官庁が使用し、討幕と佐幕の戦いの時には、徳川家の「三つ葉葵」の紋に対抗して、薩摩の島津や長州の毛利の紋ではなく皇室の菊の紋を持ち出し、「徳川」に対抗して「豊臣」を復活させ、東照宮に対抗して豊国神社を復活させて「徳川」の位置を引き下げたのと同様、興福寺よりもさらに高い位置に興福寺よりも大きい寺、「大きければ大きいほどいい」という仏像とお堂を建てることで、興福寺と藤原氏の位置を引きずり下ろした、興福寺を「1番の寺」から「2番の寺」の位置に引きずり下ろした・・・・というのが東大寺と大仏と大仏殿の建立だった・・・ということなのか・・・。

  (2018.11.10.)

  次回、大仏殿4 太い横材が多い大仏殿。 東大の試験科目を知らなかった進学校の3年担任の教諭 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_17.html

☆ 東大寺参拝
1.南大門〔1〕 近鉄奈良駅から南大門へ。知識で物を見ないで。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_12.html
2.南大門〔2〕 挿し肘木・通し肘木。鉄骨の貫は見えない。背割りはない。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_13.html
3.大仏殿〔1〕 中門・西楽門・廻廊・大仏殿。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_14.html
4.大仏殿〔2〕 鉄釘と銅輪で締めた柱。鉄骨製トラスは見えない。大仏殿は「伝統構法による木造建築で世界最大級」  https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_15.html
5.大仏殿〔3〕 花頭窓と観相窓。優婆塞を体制にとりこんだか反体制が手を組んだのか。「東大の日本史」と「京大・阪大の日本史」の問題 〔今回〕
6.大仏殿〔4〕 太い横材が多い大仏殿。 東大の試験科目を知らなかった進学校の3年担任の教諭 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_17.html
7.正倉院  校倉造の原理と言われていたものは実は・・なんて、今さら言われてもなあ・・ https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_18.html
8.転害門  「木は生育のままにつかえ」を実践した柱 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_19.html
9.奈良公園の加圧注入材。注入直後の木材にさわるのは非健康的。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_20.html
10.奈良女子大学の想い出。お年玉は「親がもらったもの」か? https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_21.html 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック