東大寺参拝【3/10】大仏殿1 なぜ東大寺の大仏は大きいか。幅・奥行・高さの釣合い。中門・西楽門

[第641回] 飛鳥・白鳳・天平の建築 シリーズ
   南大門をくぐり直進すると、
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↑ 手前に見えるのが「中門」(重要文化財)で、その向こうに見えるのが「大仏殿」(金堂)(国宝)です。
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↑ 「南大門」から「中門」に至る参道の右手にある池は「鏡池」

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↑ 「中門」(重要文化財)。
   南大門を見てそこを通ってきた者にとって、向こうに大仏殿を見えた場所においては、中門はたいしたことないみたいに見えてしまいますが、他の場所に「中門」だけあれば、これも、けっこうな規模のものです。
   ≪今、中門から大仏殿を見てるんですが、大きいですな。東大寺は南大門、なくなった七重塔を含めてとにかく大きいというのがキーワードですな。≫と小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(2010.7.20.文春新書)に出ていますが、たしかにそうです。 かつ、ブルーノ=タウトは『建築に関する省察』 「機能」(『建築とは何か』篠田英雄訳。 1974. 鹿島出版会 SD選書 所収。)において、≪およそ巨大な容積をもつ建築物は、人の心にゆゆしい結果を生ぜしめる。人は小さなものによって美を創造できなくなると、それにつれてますます巨大な容積の意義と価値とを狂信し、このような容積そのものを美と思いなすのである。・・ ≫と述べ、高層ビルについては否定的で、小さいもので建築として芸術的に優れたものを発揮できない者が、大きさ・容量でアピールするような建築は「いかもの」であるとし、そういった高層ビルについて否定的に述べているのですが、その批判は、最近、日本各地で出現している悪趣味な高層建築についてはあてはまるとしても、東大寺の南大門や大仏殿の場合は、また、事情は違うように思えます。
   関裕二氏の本を読むと、お寺の門というものは、横に偶数の柱が立ち、間は奇数で中央が開いているのに、法隆寺の中門だけはなぜか奇数の柱が立って間は偶数で中央に柱が立っている、これは怨霊が外に出るのを防ぐ意思でそう建てられたのではないか・・・・というのだが、関裕二氏の本を読むまで、門の柱と間が奇数か偶数かということにそれほど気にしていなかったのだが、言われて見ると、↑東大寺の中門にしても、南大門にしても、柱は横に偶数で間は奇数になっていて中央は開いている。
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↑ 中門から見た大仏殿(本堂)。

   南大門は、南大門をくぐって通ることができるが、中門から廻廊の内側へは、現在は中門を通るのではなく、廻廊の西よりから入り、東よりから出るようになっている。 本来の門は「エライ人」でないと通らせてもらえないのか、わしみたいな「日陰の月見草」は通してくれへんのか、わしぁ貧乏やからな・・・とかいじけそうになりますが、そういう問題ではなく、来場者が多いので、入口と出口を分けて、又、廻廊部分もまた「順路」として通るようにとそうなっているようです。

   この付近では、中門・西楽門・東楽門・廻廊が重要文化財、大仏殿と廻廊の内部の八角灯籠が国宝に指定されている。
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↑ 南西側から見て。
西楽門・廻廊とその向こうに大仏殿(金堂)

( ↑「 i 」マークが 西楽門。 )

   南側の東西の廻廊の西よりから拝観料を払って廻廊の内部に入ります。
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↑ 南側の東西の廻廊
   
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↑ 南側の東西の廻廊の西よりから見た大仏殿(金堂)
   東大寺の場合、「大きいというのがキーワード」といいますが、「大きい」のは大仏殿や南大門の建物が大きいということもありますが、「広さ」というものもあると思います。 廻廊の内部の面積も比較して相当広い。

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( ↑ 「 i 」マークが大仏殿。 )

   東大寺の大仏殿(本堂)の大仏は、「廬舎那仏(るしゃなぶつ」
≪ 金堂(大仏殿)の本尊である廬舎那仏(るしゃなぶつ)(毘盧遮那仏 びるしゃなぶつ とも)は、奈良の大仏さまとして親しまれ、人々の信仰を広く集めている。 廬舎那仏は、サンスクリット語(梵語 ぼんご)のVariocana(ヴァイローチャナ)の音写からきており、光明遍照(へんじょう)を意味する。
  ・・・・
   宇宙の無限の広がりと永遠の時間を象徴するため、中国の雲崗石窟(うんこう せっくつ)(山西省大同市)・龍門(りゅうもん)石窟(河南省洛陽市)の石仏のあるように、廬舎那仏は巨大であることが理想とされた。信仰心の篤かった聖武天皇も、可能な限り巨大な仏を造ることを祈念した。・・・・ ≫
( 『古寺を巡る2 東大寺』2007.2.13. 小学館 「本尊讃歌 廬舎那仏」 )
   日本で「大仏」と言われるものというと、この東大寺の「奈良の大仏」、高徳院の「鎌倉の大仏」、千葉県の鋸山日本寺の大仏、「鎌ヶ谷大仏」・・・・などあるわけですが、「大仏さん」てどんな仏さんなのだろう・・・とか考えたことがあります。 調べてみると、
奈良の大仏。 東大寺(華厳宗)の大仏・・・・廬舎那仏。
鎌倉の大仏。 高徳院(浄土宗)の大仏・・・・阿弥陀如来。
鋸山の大仏。 日本寺(曹洞宗)の大仏・・・・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい) 。
鎌ヶ谷の大仏 ・・・・釈迦如来。
※ 高徳院HP 「鎌倉大仏と高徳院の宗旨」http://www.kotoku-in.jp/about.html
鋸山日本寺HP 「境内案内 大仏広場」http://www.nihonji.jp/keidai/area03.html
《ウィキペディア-鎌ヶ谷大仏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%A4%A7%E4%BB%8F
・・・・と、この4つでもそれぞれ異なるのです。 「大仏」と言っても、大仏という名前の仏さんがおられるわけではなく、廬舎那仏だったり阿弥陀如来だったり薬師瑠璃光如来だったり、釈迦如来だったり、それぞれ、別の仏さんを「大仏」と言っているらしい。
   それなら、なぜ、「大仏」というのか?  大きいからか・・・・?  しかし、だ。 大きい仏像を「大仏」と言うと定義すると、鎌ヶ谷大仏て、実際のところ、あんまり大きくないのだ。 鎌ヶ谷大仏の前の道をクルマで通ると、「ええ、これえ~え?」みたいな顔したにーちゃんねーちゃんがいることが多い。 決して悪いとは言わんが、新京成電鉄の駅名にもなっているくらいだから、奈良の大仏ほどではないとしても、鎌倉の大仏くらいかそれより少し小さいくらいの大きさの大仏さんがいらっしゃるのではないかいなあ・・・と思って行くと、地図では新京成電鉄「鎌ヶ谷大仏」駅のすぐ近くに書かれているのだけれども、見当たらない。 多くの人間は周囲の建物の3階か4階あたりの高さを見まわすのだが、見当たらないのだ。 それで、ふと視線を自分の前あたりに落とすと・・・、なんと、そこにいらっしゃったではないか・・・・・と。 デンマークのコペンハーゲンの人魚姫の像・ベルギーのブリュッセルの小便小僧・シンガポールのマーライオンと鎌ヶ谷大仏の4つで「世界4大がっかり」に指定されている・・・て、最初の3つは『地球の歩き方 北欧』だったか『地球の歩き方 シンガポール』だったかどちらかに書いてあったのだが、最後の1つは私が入れたのだけれども。 別に鎌ヶ谷大仏さんは悪くないのだが、駅名になったり「大仏」と名前がついたりするから、もっと大きいかと多くの人間が思ってしまうのだ。
   鎌倉の大仏については、与謝野晶子が「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」と歌ったという歌碑が高徳院に立っているわけだが、しかし、鎌倉の高徳院の大仏というのは阿弥陀如来であって釈迦牟尼ではないはずなのだが・・・、まあ、有名歌人だからいいことになっているのだろう。

   「奈良の大仏」というのは、奈良市にある・・・けれども、もうひとつ、千葉県市原市にも市原市の「奈良の大仏」というのがあるらしい。 私は鎌ヶ谷大仏は実際に見に行った。前は何度も通っている。 それに対して、「市原市の奈良の大仏」は、インターネットで知ったが実際に見に行ったことはないが、市原市奈良 という所にあるらしい。 「市原市の奈良の大仏」も鎌ヶ谷大仏と同じく釈迦如来らしい。
※ 《ウィキペディア-奈良の大仏 (市原市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F_(%E5%B8%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

↑ 「 i 」マークが「市原市の奈良の大仏」。 「 i 」マークにしようか「旗」マークにしようか迷ったが、「市原市の名勝」に指定されているらしいので、とりあえず、「 i 」マークにした。 ≪ 現在のものは文化元年(1804年)に建立された等身大(像高約1.7m)の石製立像である。≫らしい。( 《ウィキペディア-奈良の大仏 (市原市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F_(%E5%B8%82%E5%8E%9F%E5%B8%82) )  「市原市の奈良の大仏」の周囲の公園を「奈良公園」と言うらしい・・・・。 ・・・・。 まあ、たしかに、「市原市奈良」にあるわけだが・・・・。・・・・。

   ≪ 廬舎那仏は巨大であることが理想とされた。信仰心の篤かった聖武天皇も、可能な限り巨大な仏を造ることを祈念した。 ≫( 『古寺を巡る2 東大寺』2007.2.13. 小学館 「本尊讃歌 廬舎那仏」 ) といい、又、≪ 東大寺の起源は728年(神亀5)、聖武天皇が早世した皇太子基(もとい)親王の菩提を弔うために建てた金鐘寺(きんしょうじ)をはじまりとするといわれる。 741年(天平13)、当時、恭仁京(くにきょう)に都をおく聖武天皇は、全国に国分寺と国分尼寺建立の詔(みことのり)を発し、金鐘寺は大和国分寺に昇格して金光明寺(こんこうみょうじ)と称した。≫ ≪ 740年(天平12)に河内国(大阪府)の知識寺(ちしきじ)で、本尊の廬舎那仏を拝した聖武天皇は感銘を受け、「朕(われ)も造り奉(たてまつ)らむ」と願い、743年(天平15)10月、大仏建立の詔が発せられる。 はじめ恭仁京にほど近い紫香楽宮(しがらきのみや)(現、 滋賀県甲賀市信楽町)で開始された大仏造立であるが、災害が相次いだため都が平城京に移ることとなり、金鐘寺の地であらためて行われた。 大仏が座すことになった金鐘寺は、平城京の東にある大寺という意味から、東大寺とよばれるようになる。 平城京の東北に位置し、宮城の鬼門を守る寺であったともいう。≫ ( 『古寺を巡る2 東大寺』2007.2.13. 小学館 「東大寺はどんなお寺か 大仏の大きな慈愛」 ) ということになっているらしい。 そういうこともあったかもしれないが、しかし、それだけではない可能性も考えられるようだ。
   関裕二『古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体』(2013.1.1.新潮文庫)では、平城京は、平安京と違って、洛陽にも長安にもない外京という出っ張った部分が北西部にあるが、これは平城京の東側の少々高くなった部分を藤原氏が占めて、藤原氏の氏寺の幸福寺と藤原氏に氏神の春日大社をそこに作ることで、藤原氏の支配を示し、又、いざという場合にも藤原氏が有利な場所を占めるように作られたものであった可能性が指摘されている。 さらに、聖武天皇というのは、天武天皇と持統天皇の孫で草壁王子の子である文武天皇の子で、母は藤原不比等の娘である宮子で、皇后は藤原不比等の子の光明子であり、生涯の前半は「藤原の子」として生きていたが、人生の後半になって、反藤原の態度を取り出した天皇であり、そのひとつが東大寺の建立だったのではないかと推測する。 藤原不比等が、蘇我氏など大和政権の旧豪族の力が強い大和盆地南部から大和盆地北部に都を移転して平城京を作り、さらに、その北東部の少々高くなった場所に外京を作ってその部分を藤原氏の根拠地として藤原氏の氏寺の興福寺を作ったのに対し、そのさらに東のさらに高くなった場所に興福寺よりもさらに大きい東大寺を作ったというものではないか、と。
   ≪ 聖武天皇は伊賀、伊勢、美濃、不破(関ケ原)、近江を巡り、山背国(やましろのくに)の恭仁京にいたり、ここを都に定めてしまう。その後、紫香楽宮や難波宮を転々とし、平城京に遷都したのは、天平17年(745)5月であった。
  なぜ聖武天皇は、混乱が収まらないなか、平城京を捨てて関東行幸を敢行してしまったのだろう。・・・・
  ・・・・
   そして第二に、「藤原の子」からの脱皮とかかわりがある話だが、平城京そのものが、「藤原のための都」だった。だから聖武天皇は、「藤原から離れるには、平城京から離れなければならない」と考えたのだろう。
   平城京遷都を敢行したのは藤原不比等だった。奈良盆地南部の蘇我氏の強い地盤を藤原不比等は嫌い、盆地北部に都城を築いたのだ。しかも平城京は左右対称ではなく北東の隅に出っ張りがある。これが外京(げきょう)で、藤原氏が外京の高台を独占した。近鉄奈良駅東側の興福寺一帯がまさに、藤原氏の土地で、天皇のおわします「平城宮」を見下ろす場所を手に入れることによって、「誰が本当の平城京の主なのか」を、天下に見せつけたのだった。
  実際平城京でいったん争乱が始まれば、外京の高台を砦にした藤原氏が、絶対的に有利である。
  聖武天皇は、この「藤原氏のための都」「天皇家にとっての平城京の地の利の悪さ」を嫌ったのだろう。 ≫
≪ 藤原氏が独占する場所よりもさらに高い場所に、聖武天皇は東大寺を建立している。これも、「藤原」を意識した「布石」と考えられる。 ≫
( 関裕二『古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体』2013.1.1.新潮文庫)

   ≪ 創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。江戸期には柱とする材が調達できず、芯となる槻(つき)を檜(ひのき)板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした。そのため、創建時に11間(けん)あった正面が7間(57m)となった。現在でも世界最大級の木造建築であるが、往時の壮大さがうかがえる。・・・≫
( 『古寺を巡る2 東大寺』2007.2.13. 小学館 )
≪ 金色の鴟尾(しび)が輝く現在の大仏殿は1709年(宝永6)に落慶供養が行われた。大仏殿は天平の創建時も鎌倉の再建時も間口11間の規模(約86m)だったが、江戸の再建時には財源不足や巨木調達の困難から間口7間(約57m)に縮小された。それでも世界最大の木造による歴史的建造物である。国宝。 ≫
( 『古社名刹 巡拝の旅 平常の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』2009.4.28.集英社 )
   ≪ この大仏殿が高さが48.74メートル。奥行きが50メートル。間口が57メートル。ほぼ真四角に近いんですね。
  創建当時は造り方が違いますが、間口が11間で、長さが86メートルというから、想像が付かない大きさです。
  ・・・・
  正月には、正面の花燈窓を開けるんですが、そうすると、ここから大仏様のお顔がパーンと見えるんです。高さや奥行きが創建の頃とそう変わらなかったというのは、中に大仏さんがいるから、そんなに変わらないんですね。 ・・・・ ≫
( 小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』2010.7.20.文春新書 )
   なるほど、中に大仏さんがいらっしゃるから、横方向の長さはいくらか縮めることができても、奥行きと高さは創建時とそれほど変わらないということか・・・。
   もっとも、大仏殿の中の廬舎那仏は、
≪ 銅像 像高1498cm  天平~江戸時代 国宝 
地震や兵火による大規模な損壊があり、数度にわたる大修理が行われた。造立当初の部分が腹部・両脚と台座の蓮弁などに残る。 右手は1580年(天正8)、頭部は1690年(元禄3)の補鋳。 創建時、宇宙そのもののように広大無辺の姿に造り上げられた大仏は、髪の毛をあらわす巻貝状の螺髪(らはつ)だけでも966個あった。 ≫ (『古寺を巡る2 東大寺』2007.小学館 )
ということなので、観相窓の位置が大仏さんの顔の位置であるわけだし、高さはもう少し縮めようと思えば縮めることができそうな感じがしないでもない・・・・が、その上の屋根を支える小屋組みが必要であるし、大仏さんの頭の上が天井ぎりぎりというわけにもいかないだろうから、だから、奥行きと高さはこの大きさが変わらないということか・・・・。 大仏の像高が14mと98cm、約15mで、大仏殿の高さは48.74m、 数字だけを見ると、高さは縮めることは可能のような感じがしないでもないが、実際に大仏殿の中に入って見ると、幅・奥行・高さとも大仏の大きさとの釣り合いを考えるとちょうどいいのではないかと思う。だから、天平期に創建された時・鎌倉時代に再建された時には間口が86mあったが江戸時代に57mに縮められたというのは、≪財源不足や巨木調達の困難から≫ということになっているが、そういうこともあったかもしれないが、再建した時の担当者がこの幅の方がむしろいいと考えた可能性もないとはいえないのではないか。

  次回 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_15.html

   (2018.11.10.)


☆ 東大寺参拝
1.南大門〔1〕 近鉄奈良駅から南大門へ。知識で物を見ないで。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_12.html
2.南大門〔2〕 挿し肘木・通し肘木。鉄骨の貫は見えない。背割りはない。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_13.html
3.大仏殿〔1〕 中門・西楽門・廻廊・大仏殿。〔今回〕
4.大仏殿〔2〕 鉄釘と銅輪で締めた柱。鉄骨製トラスは見えない。大仏殿は「伝統構法による木造建築で世界最大級」 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_15.html
5.大仏殿〔3〕 花頭窓と観相窓。東大寺は優婆塞を体制にとりこんだのか、反体制が手を組んだのか。「東大の日本史」と「京大・阪大の日本史」の違い、それを理解しないアホ予備校 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_16.html
6.大仏殿〔4〕 太い横材が多い大仏殿。 東大の試験科目を知らなかった進学校の3年担任の教諭 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_17.html
7.正倉院  校倉造の原理と言われていたものは実は・・なんて、今さら言われてもなあ・・ https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_18.html
8.転害門  「木は生育のままにつかえ」を実践した柱 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_19.html
9.奈良公園の加圧注入材。注入直後の木材にさわるのは非健康的。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_20.html
10.奈良女子大学の想い出。お年玉は「親がもらったもの」か? https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_21.html


☆ 「飛鳥・白鳳・天平の建築」シリーズ
法興寺〔飛鳥寺〕〔安居院〕
上 本堂、塔跡 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_9.html
下 思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
山田寺跡・飛鳥資料館 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_11.html
飛鳥坐神社 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_12.html
「孝元天皇陵」 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_13.html
飛鳥の街並み https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html

古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体 (新潮文庫)
新潮社
2012-12-24
関 裕二

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≪ 平城京を見下ろす地に坐す(います)大仏(廬舎那仏・国宝)は、奈良のシンボル。 元旦(午前0時~朝8時まで)と8月15日(万灯供養会)の夜の年2回だけ、大仏殿正面の観相窓(かんそうまど)が開かれ、そこから大仏の尊顔を拝することができる。≫(『古社名刹 巡拝の旅 平常の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』2009.4.28.集英社 )というのが、↑の『古社名刹 巡拝の旅 平常の都 奈良 東大寺・春日大社・興福寺』の表紙の写真。 
≪ 正月には花頭窓(かとうまど)を開けるんですが、そうすると、ここから大仏様のお顔がパーンと見えるんです。高さや奥行きが創建の頃とそう変わらなかったというのは、中に大仏さんがいるから、そんなに変わらないんですね。・・・≫(小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』2010.文春新書)
※ 《ウィキペディア-火灯窓》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%AF%E7%AA%93 

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