東大寺 参拝・見学【1/10】南大門〔1/2〕 近鉄奈良駅から南大門へ。知識で物を見ないで

[第639回] 飛鳥・白鳳・天平の建築
   「飛鳥・白鳳・天平の建築」シリーズ・・・とはいえ、東大寺の場合、南大門は鎌倉期の再建大仏殿になると、平重衡の南都攻めで炎上して鎌倉期に再建されたものが、戦国時代、松永久秀と「三好三人衆」との戦いにおいて炎上、今あるものは、1705年、18世紀初め、江戸時代に再再建された三代目の大仏殿であり、大仏殿は明治期に修理がされており、南大門も昭和に入って修理がされている。東大寺創建時からの建物としては、転外門(てがいもん)という門がひっそりと建っており、「すげえ~え!」て感じで人が押し寄せている大仏殿なんかと違って人は少ないのだが、「違いがわかる男のネスカフェゴールドブレンド、だあ~ばあだあだばだあ~だばだあ~あ♪」というものかもしれない・・・が、ともかく、「飛鳥・白鳳・天平の建築」と名づけると無理がある・・・・かもしれないが、とりあえず、そう難しく考えないで、ともかくも、「飛鳥・白鳳・天平」というイメージのある時代に建てられた寺社の建築ということで、その時代に建てられたものが今も残っているか、失われてその後の時代に復元的な再建がされたか、それともまったく違うものが再建されたか・・といったことは問わず、最初に建てられたものが飛鳥・白鳳・天平といった時代の寺社などを訪ね検討することにしたい。 そもそも、「飛鳥」はどの時代なのか比較的わかりやすいのだが、「白鳳」となるとどの時期なのか不明確だし、「天平」もはっきりしない。「天平」と「奈良」は同じなのか違うのかもよくわからない。 そのあたりの検討からまず始めたいと思うのだ。
※ 《YouTube-ネスカフェ ゴールドブレンド》https://www.youtube.com/watch?v=fYd2qsugZx4
   で、東大寺というと、≪ 今、中門から大仏殿を見ているんですが、大きいですな。東大寺は南大門、なくなった七重塔を含めてとにかく大きいというのがキーワードですな。 ≫(小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』2010.7.20.文春新書)と、「でっかいわあ♪」てのが特徴・・・だが、それは主に南大門と大仏殿。 転外門とかは大きさはあまり関係ない。 正倉院も大きさは関係なさそうに思ったが、昔、中学校の遠足でここに来たことがあったのだが、その時に正倉院を見た時には、正倉院というのは大きいとは思わなかったが、今、見ると、正倉院もまた、少なくとも「思っていたよりは」大きい。 敷地も広い。 ひとつの寺の敷地だからと思って歩いていると、けっこう歩く。 東大寺はけっこういろいろなお堂があるので、あまりにも一度に何か所も訪ねると印象がぼやけると思い、今回は南大門と大仏殿と転外門を中心に、二月堂・三月堂や正倉院は前を通り過ぎるくらいで・・・とか思っていたのだが、二月堂・三月堂には立寄る時間もなかった。
  蛇足だが、「でっかいわあ」の文句、「いしまるぅ~、いしまる~、便秘のことなら石丸便秘、石丸便秘はあきはば~ら♪ でっかいわあ♪」という便秘薬のコマーシャルソング?〔 《YouTube-石丸電気CM 1986年 》https://www.youtube.com/watch?v=l2MeEsU0gzI 〕が耳から離れない秋葉原の石丸電気て、最近、聞かないと思ったが、《ウィキペディア―石丸電気》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%B8%E9%9B%BB%E6%B0%97 によると、石丸電気(株)は≪2009年(平成21年)2月1日付けで株式会社エイデンに吸収合併され、店舗ブランドも2012年(平成24年)10月1日までにエディオンに変更された。≫らしい。
  ブルーノ=タウトは高層ビルに否定的であり、『建築とは何か』(鹿島出版会)で、そもそも、大きいことで評価されるというのはおかしい、優れた建築は小さくともひとに評価されるものであり、高層ビルのような大きさで評価されるというのは建築のあり方として望ましいと言えないのではないかといった内容を述べていたと思うが、それは最近の高層ビル群などを見て思うものであり、東大寺の大仏殿とか南大門とかの「大きさ」は高層ビルの「大きさ」とは意味が異なると思う。ブルーノ=タウトさんは桂離宮と伊勢神宮を称賛し日光東照宮や飛雲閣を「いかもの」として否定した人として有名だが、東大寺をタウトさんが訪ねたかどうかは知らないが、ともかく、タウトさんが否定的に評価した高層ビルの「大きさ」と東大寺の「大きさ」は「大きさ」の意味が違うように思う。
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〔 ↑ 南大門(なんだいもん) 〕

  鹿はそのへんにいっぱいいたが、鹿煎餅屋が何軒もでていて鹿煎餅をあげる人もけっこういたのだが、空腹なのか、紙を食ってる鹿がいたので、「おまえ、そりぁ、食っちゃ『まずい』だろ。おまえ、ヤギじゃなくて鹿だろうが」と言ってやりたかったのだが、とりあげて怒られても困るので、放置したが、紙を食わせては、やっぱり、それは「まずい」と思った。奈良の鹿は神の使いという位置づけだったと思うのだ。決して紙の使いではないし、決してヤギではないので、紙は食べさせないようにした方がいいと思う。ヤギじゃないので「ウメ~エ」とは言ってなかったが、それでも、なんか、うまそうに食っていたが、やっぱり、紙は食わさない方がいいと思うがな・・・・。
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 ↑ 鹿。 紙を食ってたのはこいつじゃない・・・。 こいつなら、「おい、おまえ、そんなの食うなよ」と言ってやってもよかったのだが、もっとでっかいのが何匹もで食ってたので、でっかい鹿が食ってるものをとりあげて襲われたのでは、こちらが、馬+鹿 になってしまうのでやめた・・・が、なぜ、その鹿が紙をくわえていたか、もしも、誰か、ヤギと間違えて紙を食べさせようとした人がいたのなら、そういうのはどうかと思う。
   猿の場合は警察漢と似ていて目を合わせてはいけないというが(うかつに目を合わせると襲いかかってくる〔この点、警察漢は犬よりも猿ににている〕)、鹿の場合はそういうことはない。 鎌倉の山のリスは人間を見ると逃げるが、ロンドンのハイドパークのリスは人間を見るとエサをくれると思うらしく寄ってくる。奈良の鹿も、人間を見て逃げることはない。 猿は警察漢と一緒でカメラを向けるのは十分に気をつけた方がいいが鹿は特にそういうことはないようだ。「ハイドパークのカラスはカメラを向けるとポーズをとる」という話があると『地球の歩き方 ロンドン』(ダイヤモンド社)に書いてあったが、奈良の鹿はさすがにポーズはとってくれない。

   近鉄の「大阪難波」駅から急行の奈良行きに乗ると、日本橋・上本町・鶴橋・布施・生駒・学園前・西大寺・新大宮と停まって終点の奈良までそれほどかからない。
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( ↑ 近鉄「奈良」駅に到着した 大阪難波から奈良行きの急行。 )
   帰りは京都行特急に乗ったが、特急は奈良から京都までで特急料金が510円乗車券と別にかかる。近鉄特急というと「ビスターカー」というイメージだったが、残念ながら、奈良から京都までの特急は、懐かしのビスターカーではなかった。あのオレンジと紺のツートンカラーのビスターカーは、どこへ行ってしまったのだろうか・・・。 奈良から京都までの特急の停車駅は西大寺と丹波橋のみ。 あえて特急料金のかかる電車に乗らなくてもいいようなものだが、駅に行った時に目の前に特急が停まっていて、急行はその後となると、特急料金かかっても乗るか・・・となりがち。 京都と奈良の間の路線は近鉄は京都線と言うがJRは奈良線。 近鉄で奈良線は大阪と奈良の間の路線で、JRの大阪と奈良の間の路線は関西本線と片町線だが、関西本線は大和路線、片町線は学研都市線などと最近は言っている。そのJR奈良線の場合だと、あるのは快速と普通で快速であっても快速料金は要らない。だから、特急料金を払いたくなければ最初からJRに乗るという選択肢もある。
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( ↑ 近鉄「奈良」駅停車中の京都行特急。 「愛称」は特にない。)
写真を改めて見ると、やっぱり、特急料金の要る電車というのは、なんとなく、見てくれが「特急だぞお」て感じがするが、所要時間については、特急料金の要らない急行だってそんなに遅いわけではない。 かつては、「大阪―奈良間は近鉄」と相場は決まっていたが、最近はJRも関西本線のJR難波(旧 湊町)からではなく大阪駅から快速が出るようにして大阪環状線の西側を経由して関西本線に入って奈良まで行く快速が走り、関西本線のJR難波から奈良までの部分を「大和路線」などと言ったりしているが、王子付近とか法隆寺とかに行くのならその「大和路線」が便利だろうけれども、大阪市内と奈良市との行き来ならば、近鉄奈良線の方がほぼ直線で結んでいるので便利だろう。奈良―京都間の場合は、かつては国鉄の奈良線てのはいなか路線だったが、最近ではJRの快速もライバルになってきたようだ。

   地下にある近鉄奈良線「奈良」駅から地上に出て東を見ると、登り坂。 それが「登大路」。↓
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「登大路」と名前がついているだけあって、ここから東は登り坂になる。
   関裕二氏の本によると、藤原氏の平城京の北東部の外京と言われる少々高い場所に藤原氏の氏寺の興福寺を作り、その東のさらに高い場所に氏神だとして春日大社を作ったが、藤原氏の縁戚ではあるが、他方において天武の子孫でもある聖武天皇は人生後半において「藤原離れ」の傾向を示し、そして、藤原氏が氏寺として作った興福寺よりもさらに高い場所に興福寺よりも大きい寺として作ったのが東大寺であったのではないか、として作ったいうのだが、ありそうな話である。

   「登大路」を東に登っていくと、北に奈良県庁、南に興福寺が見えるが、そのまま東に進むと「県庁東」交差点を地下道で車道をくぐり、そして、南に行くと春日大社の表参道、北に行くと東大寺の南大門という交差点に至る。 左(北)を向くと、相当の人通り。↓
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北に向かって直進すると、小川を石橋で渡る。↓
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↑ 橋の右手前の石碑には「華厳宗大本山東大寺」と書かれている。樹木の向こうに南大門が見える。

   さらに北に直進すると、「南大門」が姿をあらわす。↓
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   そして、
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   ↑ 「でっかいわあ♪」 ほんと・・・。 東大寺の大仏殿はでっかいとともに、東大寺の南大門もでっかい・・・というのは書物で読んでしっていたが、しかし、目の前で見ると、今さらながら、「でっかいわあ♪」

( ↑ 「 i 」マークが 南大門。)

   このブログでも、寺社を南から北に参道を進んで参拝する経過を写真とともに公開したことが何度かあるが、地図では南が下、北が上なのだが、ところが、参拝順路に従って写真を掲載しながら進むと、どうしても、北が下になってしまう。 逆に、下から読んでくださいとした方がいいのだろうかと思ってみたりもしたが、他方、やっぱり、下から上に読むのは読みにくいので、やっぱり、南から北に、北が下になるように掲載するしかない。

   東京のJR山手線・京浜東北線「浜松町」駅の西側に東京モノレールの駅があってこれも「浜松町」だが、そのすぐ下あたりの地下に東京メトロ浅草線と大江戸線の駅があって、これは「大門」と書いて「だいもん」と読む。同じ場所なのに、なんで別の駅名にするんだ? と思うがこれがけっこうある。 東京では「原宿」と「明治神宮前」、「田町」と「三田」、大阪だと「汐見橋」と「桜川」、JR大阪環状線の「野田」と大阪市地下鉄千日前線の「玉川」とか、「大阪天満宮」と「南森町」とか。京都の地下鉄の「四条」と阪急の「烏丸」なんてのはどっちも「四条烏丸」にすれば良さそうに思う。京都の「西院」は阪急が「さいいん」で京福電鉄は「さい」てのは奥ゆかしいというのか面白いが。 で、東京の「大門(だいもん)」駅はなぜ大門(だいもん)というのかというと、増上寺が西にあって、増上寺の山門よりも東に道路上に門があって、それが「大門(だいもん)」で、それによる駅名。 で、なぜか、「吉原の大門」はこれは「だいもん」ではなく「おおもん」らしいのだ。 同じ「大門」という字でも、吉原は「おおもん」で増上寺は「だいもん」というのは、これ如何に??? 
   で、奈良の東大寺では「南大門」は「なんだいもん」で、当たり前みたいに「なんだいもん」と読んできた。『週刊古寺を巡る2 東大寺』(2007.2.13.小学館)を見ても、「なんだいもん」とフリガナが打ってある。ところが、京都の三十三間堂の南東に「南大門」というのがあり、これは三十三間堂の塀の外側にある門で、三十三間堂(正式には、蓮華王院の本堂が三十三間堂)の南の門にしては変な位置にある。 なぜなのだろう・・・と思って、行ってみてわかった。三十三間堂の南東の「南大門」は三十三間堂(蓮華王院)の門として作られたものではなく、平安時代、後白河法皇の勅願で平清盛が財を出して作ったという三十三間堂をその境内にとりこむように、豊臣秀吉が方広寺を作ろうとして、方広寺の南大門として構想し、豊臣秀頼が1600年(関ヶ原の戦いの年)に創建したのが三十三間堂の南東にある「南大門」。三十三間堂の門ではないので、三十三間堂の門なのか? と思って見ると「変な位置」にある。 この「南大門」だが、『週刊 古寺を巡る26 妙法院 三十三間堂』(2007.8.7.小学館)を見ると、「みなみだいもん」とフリガナが打ってある。 なぜ、「南大門」と同じ字を書いて東大寺だと「なんだいもん」で三十三間堂の南東にあるのは「みなみだいもん」なのだろうか? なんでだかわからんから難題問???  これ、考え出すと今晩寝られなくなっちゃうね・・・・・。まあ、寝られなくなっても本当に疲れればそのうち寝るけどね・・・・。

    この南大門は、
≪ 東大寺南大門。大きいですなあ。これは鎌倉時代です。天竺様(てんじくよう)ですね。
   正面から見たら二層の屋根がありますね。ほとんど同じ大きさの屋根です。ですが下からのぞき見ればわかりますが、柱は通し柱で小屋裏まで届いています。外側が二層になってるだけなんです。・・・・≫
(小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』2010.7.20.文春新書 )
ということなのですが、その「様式」として、
飛鳥→白鳳→天平
というものがあって、東大寺というのは、天平期に創建された代表的な寺院ということになっているものの、焼失して再建された伽藍が多く、天平期に建てられたものがそのまま残っているのは、転外門くらいで、南大門・鐘楼・大仏殿は12世紀、鎌倉期に「天竺様」(もしくは「大仏様」)で建てられたもので、大仏殿はその後、「三好三人衆」と松永久秀との争乱で焼け、17世紀、江戸時代に再再建されたものが今あるものだということであり、東大寺に今ある建物がすべてが「天平」の様式ということでもないようです。
   飛鳥・白鳳・天平というのは、どういう時期のものを言うのか。 これもまたけっこう難しい。 「飛鳥」というと、やっぱり、聖徳太子とか蘇我入鹿とかいった人が生きた時代、飛鳥寺とか法隆寺とかが建てられた時代のことではないか。 難しいのが「白鳳」(「白鵬」ではない)で、年号としては「白鳳」という年号はないわけで、政権を基にした時代の呼び名としても「奈良時代」「平安時代」はあっても「白鳳時代」というものはないのだが、おおまかに言うと、天武・持統の時代を「白鳳」と呼ぶようだ。 で、「天平」だが、「天平時代」と「奈良時代」は一緒なのか違うのか。これもまた難しいのだが、比較的近いと考えて良さそうで、主に、聖武天皇の時代などを言うようだ。
   「天竺用」(もしくは「大仏様」)は17世紀、鎌倉時代の様式で、この時期においては、もうひとつ、「禅宗様」(もしくは「唐様」)と呼ばれる様式が発生したようだ。 「天竺様」は「大仏様」とも言われるように、東大寺の大仏殿の様式を言うようだが、現存する大仏殿は江戸時代に再再建されたものなので、今のものそのものが「天竺様」(「大仏様」)だとも言えないらしい。17世紀、鎌倉期の「天竺様」vs「唐様」、もしくは、「大仏様」vs「禅宗様」の後、「新和様」とか「折衷様」といったものが出現するようだが、とりあえず、ここではそこまでは「めんどうみきれん」てところで、「天竺様」(「大仏様」)を代表する東大寺大仏殿、「唐様」(「禅宗様」)を代表するのは中学校の「歴史」とか「日本美術史」の教科書にも写真が載っていた鎌倉の円覚寺の舎利殿、というくらいを頭において、東大寺の実物を検討したい。
   具体的な建造物がないと考えにくいところがあるので、かなり大雑把かもしれないが、並べてみると、
飛鳥・・・・法隆寺
白鳳・・・・薬師寺
天平(奈良)・・・・東大寺 転外門。 唐招提寺 金堂。
「天竺様」(「大仏様」)・・・・東大寺 大仏殿。 東大寺 南大門。
「唐様」(「禅宗様」)・・・・円覚寺 舎利殿
というくらいを頭において見てみよう。

    小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(2010.7.20.文春新書 )には、
≪ ずい分前ですが、ここで柱を見ていた時に、向こうから茶髪の学生がひとり両脇にボディガードの先生を連れて歩いてきたんですな。やんちゃな格好でね。おおっ、元気のいいのがいるなと思ったら、その学生はいきなりこの柱に抱きつきました。この柱の力強さがわかったんでしょうな。他の生徒は何もしないで、運慶だ、快慶だって言って通っていきました。
   私なら、この柱に抱きついた子がうちに弟子入りしたいって言えば入れましたね。大人ふたりで手が回らないほどの柱の力や大きさに感じる心がないと、ものをつくる心は生まれてこないです。 ・・・・≫
と書かれている。 なるほど。 その建物について、書物を読んで学習するのは悪いわけではないが、あまりにも理屈を頭につめこむよりも、ともかく、実物を見て、自分自身が感じるものを大事にすることが肝要だということでしょうか。
≪ 西岡常一師のところに弟子入りしても、古建築の本を読むことも寺巡りも必要ないと言われました。知識でものを見たら、見えるものも見えなくなる。感じ取るべきものを他人から借りた言葉で表現してしまう。心を素にして、自分が感じ取れるようになって初めて建物を見、知りたいことが出来たら先人に学べばいい。多分そう言いたかったのではないでしょうか。そういうことを言葉にする師ではなかったので、自分が弟子を取るようになって気づいたのです。 ・・・ ≫
( 小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』2010.7.20.文春新書 「はじめに」)
という。
   チムニー(株)https://www.chimney.co.jp/ の建設部におりました時、同社の「一千万円超プレーヤー」の「デザイナー」という男性と話をしていた時、私は自分自身が大学生であった時、横浜市港北区日吉の慶應大学日吉キャンパスに1985年(昭和60年)(阪神が優勝して日本一になった年。阪神が日本一になったのはこの年だけなのでわかりやすい)に竣工した日吉新図書館を実際に使ってみて、「東京大学の建築学科を卒業して慶應大学で教えておられる槇文彦先生」という「建築家」業界におけるビッグネームが設計された建物だということであったけれども、学生として図書館として使用した印象としては、あんまりいいとは思わなかった、はたして、「有名建築家」の作品というものが「普通の人」の設計のものと比べていいのかどうかよくわからない・・・ということを言おうとして、「慶應大学の日吉の新図書館にしましても・・」と言いかけたところ、その男性(当時、30代後半くらい?)は、「慶應大学の日吉新図書館」という言葉に「パブロフの犬」のように反応して、「ああ、槇文彦の日吉図書館ですねえ~え・・」と声まで変わって口にしたので、「だめだわ、これは」と思ったことがありました。どうも、「デザイナー」とか「建築家」とか称するようになった人というのは、建築を見る際に、あらかじめ、「名建築」とされているもの、及び、「名建築家」「世界的建築家」ということになっている人というのが頭にインプットされていて、「名建築」とされているものか、もしくは「名建築家」「世界的建築家」ということになっている人が設計したとされるもの(実際にはその人の設計事務所に所属している大学でたばかりの青二才が設計したものをその「有名建築家」の名前で発表したものである疑いがあるものでもおかまいなしに)であると、「ああ、◇◇☆☆の・・・・ですねえ~え」と声まで変わった声を出して一生懸命称賛する・・・ということをする習慣が身に着いているみたいで、逆に「普通の人」の設計だと関心はまったくないみたいな・・、そんな精神構造になるようなのです。 なんだか、変な連中だな、おかしな連中だなと思いました。 特に、「建築専門学校」というのはこの点で「害がある」のではないかと思っています。「バカでも入れる美大の建築学科」「バカでも入れる私大の建築学科」と「建築の専門学校」というのは、意図的にそういう精神構造の人間を育成しているのではないのか? 「丹下健三」とか「安藤忠雄」とか「槇文彦」とかなんかそういう名前を聞かされると「パブロフの犬」となってへこへこ称賛する・・というへんてこりんな精神構造が叩き込まれた人間をわざわざ育成しているのではないのか? という疑問を私は感じています。 バッカじゃなかろかルンバ♪ て感じがします。 第二次世界大戦後、アメリカ合衆国において、T=W=アドルノらが第二次世界大戦中のドイツの人たちの精神構造を研究したものとして『権威主義的パーソナリティー』(青木書店)が出版されていますが、どうも、「建築家」とか「デザイナー」とか称している人たちというのは「権威主義的パーソナリティー」≒「ファシズム傾向」の精神構造になっている人が多く、健全な精神構造をしていない人が多いように思えます。そういう人たちというのは、寺社の建築でも、「国宝」「重要文化財」とか「世界遺産」とかなんかそういうものに指定されていたり、『建築史』のテキストとか建築士の受験テキストとかに名前が出ていたりすると「名建築」と信じて受け入れる、そうでないものは犬の糞か何かのように無視する・・・みたいなそんな傾向があるように思えますが、なんとも馬鹿げた精神構造です。 テキストに何と書いてあるかよりも、自分自身がどう感じたかの方がより大事ではないのか?  と思うのですが、「世界の丹下健三」をせっせと称賛すれば自分自身も「世界の丹下健三のエピゴウネン」と認定されて「建築家」業界でえらそうにできるのではないかいなあとかアホなこと思ってるのとちゅうかみたいなしょーもないおっさん! てのが、どうも、「建築家」業界にはゴマンといるみたいで、なんとも、あほくさいこと限りなし・・・・・。
   千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕〔いずれも2013年11月に正式に倒産〕の仕事をしていたN村設計事務所のおっさんは名刺の自分の名前と設計事務所の名前の上に「建築家のつくる家」という三井ホームのパクリの文句を入れていましたが、三井ホームの「建築家とインテリアコーディネーターのつくる家」というしょーもないコピーも、いいかげんやめたらどうかと思うのですが、「天下の三井」とか言うわりには、あんまり賢くないのか今でも言ってるみたいです・・・が、そのまたパクリの文句を名刺に入れてるおっさんというのは、「建築家のつくる家」ということで、それだけ夢のある家、独創的な家だと言いたいみたいではあるのですが、名刺のおのれの名前と設計事務所の名前の上に入れるコピーをおのれで自ら考えるのではなく三井ホームのパクリを入れるような独創性のないことやってるおっさんが、なんで、独創的なものを作るであろうと期待できるのか、これがようわからんのですが、そういう「三井ホームのパクリ」のコピーを入れたがる人というのがいるようです。

   坂本功『木造建築を見直す』(2000.5.19.岩波新書)を見ると、≪ 南大門は重源によって再建された大仏様の代表作です。 ≫とあるものの、≪ 昭和初期の修理は大胆でした。南大門では、大仏様に特徴的な貫が柱の外に突き出し、それが片持ち梁として軒を支えています。おそらくこの貫が老朽化して、軒を支えきれなくなっていたのでしょう。それならばというわけで、貫を鉄骨にとりかえています。ただし、それでは不自然なので、もともとの貫を半分に割って鉄骨を両側からはさんでいます。柱はもとの木のままですが、貫が鉄骨になっているので、南大門はいまや木造と鉄骨造の混構造です。 ≫ と書かれています・・・が、その貫がどれのことなのか、鉄骨をもとの木で両側からはさんだというのはどれのことを言うのか、けっこう目を凝らして見たつもりでしたが、よくわかりませんでした。

  次回https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_13.html 、南大門 続き・・・

  (2018.11.9.)

☆ 東大寺参拝
1.南大門〔1〕  近鉄奈良駅から南大門へ。知識で物を見ないで 〔今回〕
2.南大門〔2〕  挿し肘木・通し肘木。鉄骨の貫は見えない。背割りはない。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_13.html
3.大仏殿〔1〕  中門・西楽門・廻廊・大仏殿。https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_14.html
4.大仏殿〔2〕  鉄骨製トラスは見えない。大仏殿は「伝統建築の木造として最大級」https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_15.html
5.大仏殿〔3〕 花頭窓と観相窓。東大寺は優婆塞を体制にとりこんだのか、反体制が手を組んだのかhttps://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_16.html
6.大仏殿〔4〕 太い横材が多い大仏殿 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_17.html
7.正倉院  https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_18.html
8.転害門  https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_19.html
9.奈良公園の加圧注入材https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_20.html
10.奈良女子大学の想い出 https://shinkahousinght.at.webry.info/201811/article_21.html


☆ 「飛鳥・白鳳・天平の建築」シリーズ
法興寺〔飛鳥寺〕〔安居院〕
上 本堂、塔跡 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_9.html
下 思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
山田寺跡・飛鳥資料館 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_11.html
飛鳥坐神社 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_12.html
「孝元天皇陵」 https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_13.html
飛鳥の街並み https://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html


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