内田康夫 追悼【1/5】―旅情と人間関係と推理、刑事をヒーロー扱いしない推理小説、実際にありそうな話

[第599回]
   「推理小説」作家の内田康夫が、この2018年3月13日に亡くなった。愛読者としては残念である・・が、『遺譜-浅見光彦 最後の事件』(角川書店)で、30年以上に渡って、「33歳・独身」を続けてきた内田康夫の作品の最主要人物の浅見光彦を、作家業としての内田康夫としては最大の 「売れ筋商品」の「33歳・独身の浅見光彦」をついに、というのか、あえて、34歳にして、しかも、浅見が登場した2作目に登場した女性との結婚をにおわせ、今後は「探偵」はやめると宣言させて、読者に、そうは言ってもこの男はやめられないだろう・・・なんて片方で思わせながらも、これまでとはいくらかなりとも違った人生を歩む予感を持たせることができた、内田康夫が愛した自分自身の小説の中の登場人物を、いつまでも、「寅さんみたい」な状態におくのではなく、「探偵」を完全にやめるかどうかはさておき、異なった人生を歩む予感を持たせることができた、というところは良かったのではないかとも思う。

   私は、一般に、「推理小説」というものを、あまり高く評価していないのだが、内田康夫の作品についてはそうではない。内田康夫の「推理小説」は、多くの「推理小説作家」の作品と異なる点がいくつかある。まず、内田康夫自身が「推理小説全般」については必ずしも高く評価しているわけではないらしく、
『金沢殺人事件』では、
≪ 午後、夕方まで学校にいたとなると、どういう手品を使おうと、東京へ行って、山野を殺害して帰って来るには無理だ。金沢から東京へ行くには、飛行機がもっとも速いけれども、たとえ飛行機を利用しようと、とにかく、あの日の夕刻近くに東京に存在する方法は絶対にあり得ない。事実は小説より奇なり――などと言うけれど、ご都合主義のインチキな推理小説のように、そうそううまくいかないのである。
 浅見はあっさり永瀬のセンは諦めることにした。≫
とある。 内田康夫の頭には「ご都合主義のインチキな推理小説」というのがあったのだろう。

1. 旅情ミステリー。 「時刻表を見ただけで書いたような小説」は内田作品にはない。
   「推理小説作家」の西村京太郎の作品で、福島県の浜通り地方のどこかを場面として書かれたものがあり、1990年代、福島県の地方新聞である『福島民報』の日曜版で、それについて述べられていたのだが、「地元をとりあげてもらえるのはうれしいが、時刻表を見ただけで書いたような小説で、その地域について何ら述べられていないのは残念」と書かれていた・・・・が、「時刻表を見ただけで書いたような小説」というのはそれは西村京太郎の作品の特徴であり、そうでないものを書いてくれと言っても言う相手を間違えている。 単に推理だけではなく、その地域の「旅と歴史」、人間関係・人情、それに推理を合わせた小説を書いてきたのは内田康夫であり、西村京太郎ではない。逆に、内田康夫の小説には「時刻表を見ただけで書いたような小説」はない。

   西村京太郎『高山本線殺人事件』では陣屋前朝市が殺害現場にされているのだが、その場所が選べばれる必然性というものが何もない。どこでもよかった、というよりも、陣屋前朝市なんて、人が多くて目撃者も出やすい場所で殺さなくても他に場所がありそうなもので、あくまでも、「名所」を殺害現場にしただけである。それに対して、内田康夫の「推理小説」では、そこが殺害現場にされた、ということについて、十分に必然性が感じられるし、あくまでも、フィクションかもしれないが、実際にあった話だとしても十分にありえそうに思える話が多い。
  内田康夫『金沢殺人事件』では、
≪ ・・・「美術の小径」」での犯行は、急な石段の上から突き落とすという、きわめて乱暴なやりクチだった。入念に計画されたものとは、とても思えない。
   いくら冬のシーズンオフとはいえ、付近には散策する観光客がいただろう。あらかじめ、目撃者がいないという想定をするのは、無理なことだ。
  計画的犯行なら、もう少しましな場所と方法を考えたことだろう。
  要するに、犯人は北原千賀と接触した瞬間に殺意を固め、次の瞬間には犯行に及んだ――といってもいいほど、突発的に襲い、殺したのである。
(なぜ――?)
 何が犯人をして、そういう凶暴な犯行に駆り立てたのか――。・・・≫
と、殺人事件が発生したという話では、場所の設定に単に史跡・観光名所などを選ぶのではなく、犯人の立場に立って考えてその犯行を行うのに適した場所なのかどうかといった考察があり、犯人の立場で考えてその犯行をおこなう場所としてはふさわしいと思えない場所で犯行がおこなわれたということであると、それは計画的なものでは突発的なものだったのか、犯人にとって予想外の事態に驚いてあわてておこなったようなものなのか・・・といった考察がある。西村京太郎の「単に時刻表を見て書いただけの小説」であるとともに犯行現場に史跡・名所旧跡が出てきてもそれも「観光ガイドブック」か何か見てその地域で有名な場所の名前を引っ張り出して書いただけで犯人の立場で考えてその犯行に適した場所かどうかという考察のない小説とは違う。

   内田康夫の小説は、大変、よく取材されて書かれており、その地域についてのいいかげんな観光案内書を見るよりよっぽど役に立つようなところがある。 『薔薇の殺人』については、内田康夫は兵庫県宝塚市に取材に行くことができず、自分自身は行かずに書いたらしいが、本人は行かなかったかわりに編集者が足を運んで相当きっちりと取材して執筆したらしく、そういうものは編集者との共作と考えればいいかもしれない。
   大部分の本の巻末に、≪ 本作品はフィクションであり実在の個人・団体などとは一切関係ありません。≫と書かれている。≪風景や建造物など、現地の状況と多少異なる点があることをご了承ください。≫と書かれているものもある。 内田康夫の作品を読むと、よく取材して書かれていると感心したのだが、どこが≪現地の状況と多少異なる点がある≫のかと思ったのだが、それは、[第591回]《内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山[2]高山ラーメンー高山シリーズ第5回【2/15】 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201710/article_6.html で述べたように『風の盆 幻想』に登場する高山の「ロスト」という喫茶店を捜してみたが、残念ながら、小説で書かれている付近に喫茶店「ロスト」はなかった・・・ように、「遺体が発見された」とかいうのは、あくまでも小説の中での話であって実際にそこで遺体が発見されたわけではないとしても、個人の零細な店で発見されたとかいう話にはせず、名所旧跡だったり公共施設だったり、小説の中で事件が発生しても特に営業に支障がでることはない場所が選ばれているらしいが、個人経営と思われる喫茶店とかは、単に、登場人物がそこで誰やらと待ち合わせをしていたが会えなかったというだけの話でも、モデルとなった店はあるのかもしれないが、小説に書かれているそのまんまの店は行ってみてもそこにはない。[第592回]《内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山[3]K病院(高山第5回【3/15】)+高圧電線下を勧める不動産屋》http://shinkahousinght.at.webry.info/201710/article_7.html で述べたが、『風の盆 幻想』では、登場人物が、かつて、高山市のK病院に勤めていたという話があるが、K病院とは、頭文字から考えて、高山市の久美愛(くみあい)病院か高山厚生年金病院のどちらかではないかと思うが、そのどちらかならば実在する。別段、そこの病院で人が殺されたとか遺体が発見されたとか、病院で医療ミスがあって恨みをもっている人が犯行をおこなったとかそういう話ではなく、単に登場人物が勤めていたことがあるというだけの話なので実名にしても悪くもないとも思うが、どこと特定する必要性もない話なので「K病院」という表記にしたのかもしれない。登場人物の1人の勤務先は高山市役所となっていましたが、[第593回]《内田康夫『風の盆幻想』と巡る高山[4]高山市役所(高山5【4/15】)+銀行建物で見るデザインと立地 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201710/article_8.html で写真つきで公開しましたが、もちろん、高山市役所は実在します。
   『追分殺人事件』(角川春樹事務所 ハルキ文庫 )では、岡部警部の発言として、「いや、近頃の推理小説なんて、旅情ミステリーだとかなんだとか、ロクなものはありませんからね、・・・・」というものがある。 これは、ひとの「旅情ミステリー」のことを言っているのか自分のもののことを言っているのか不明だが、ところどころにこういう発言がさりげなく登場するところが内田作品のおもしろいところである。

   西村京太郎の「推理小説」に、時刻表を見ると、東京駅に到着する時刻が、日曜日だけ、1分違うという電車があり、その1分を利用して犯罪をおこなった・・・という話があった。 しかし、時刻表を見ていると、日曜だけ、あるいは、土日だけ到着時刻が1分違うという列車がときどきあるのだが、その1分て何だろう? と私なども不思議に思うわけで、そこに着目して何かできそう? とかも考えがちではあるが、だからといって、その1分を使って人を殺した上で、容疑対象からはずれる・・というのは、計画的に完全犯罪をおこなおうという視点からは無理だと思う。なぜなら、一般に、電車とクルマでは、日本では電車の方が時刻表通りに運行される、〇時◇分に遅れないように行くという点では電車の方がたしかと見られているけれども、それは、クルマで行く場合、都市部では渋滞があったり事故があったりで何十分と遅れてしまうことがありうるが、電車の場合はそういうことは比較的少ない、と言えるとしても、あくまでも、「何十分と遅れることはそう多くない」という話であって、「1分遅れるということがないという保証はない」わけだ。実際、海に近い場所を走っている京葉線とか東京メトロ東西線とかは「風の影響で」遅れることがしょっちゅうあるし、JR中央線はなぜか「人身事故の影響で」遅れるということがよくある。だから、時刻表に記載されている「1分」の違いを絶対視して、必ず、その1分まで正確に運行されるであろうと思いこんで、殺人を実行に移したりすると、予定が狂うことは十分にありうることで、殺人がいい悪いの問題と別の問題として、それはトリックとしては使えないと思う。
   また、西村京太郎の「推理小説」で、岐阜県の下呂温泉の高山本線の下呂駅のすぐ北のあたりのすぐ東側に露天風呂があって、かつては、男女とも素っ裸で入ることができたらしいのだが、水商売の女性にカネを渡して、そこに素っ裸で入って、特定の特急列車に向かって手を振ってくれと頼み、列車の客がいっせいにそちらを向いた間に、列車内で人を刺し殺して、目撃者が出ないようにした、という話があったが、冗談としてはおもしろいかもしれないが、実際には使えないトリックである。女が裸で列車に向かって手を振れば、あほな男はいっせいにそちらを向くという前提が正しいかというと、正しくないし、そもそも、列車の乗客は男ばかりではない。子供づれの男が、子供をほったらかしにして裸の女を見物するか? それよりも、高山本線の特急「ワイドビュー飛騨」という列車は中央に通路があって、両側に2席ずつある。自分が座っている側の窓から見えるなら、何、あれ・・・と思って見るかもしれないとしても、わざわざ、逆側の窓の方まで見に行くか? ・・・というよりも、もっと大きな問題がある。 高山本線は未電化で単線であるが、それなら特急でもゆっくり走っているかというとそうではない。下呂駅を発車してすぐだから、まだ、スピードはそれほど出ていないだろうと時刻表を見ただけなら思いそうだが、実際に乗ってみると、最近のディーゼルカーは加速がいいのか、下呂駅を発車してすぐでもけっこうスピードが出ているのだ。 だから、今は、たとえ、見に行っても裸のねーちゃんも裸のおっさんも見ることはできなくなったらしいが、たとえ、裸のねーちゃんが列車に向かって手を振ってくれたとしても、見えたとしても一瞬のことであって、そんな一瞬の間に人を刺し殺すなんて、できない。 できないものをできると思ってやりかけたなら、むしろ、あんた、何やってんの・・と思われて、銃刀法違反でつかまるのではないか。 西村京太郎の「時刻表小説」にはそういうものが相当多い。
   内田康夫の小説は、むしろ、そういう「時刻表トリック」を否定する。 『白鳥殺人事件』では、
≪ すっかり気落ちした浅見に反して、さっきまで意気消沈気味だった小山は逆に気負い立った。
「新幹線には間に合わなくても、車という手があるじゃないでしょうか?」
グローブボックスからロードマップを取りだして、熱心に距離計算を始めた。
「新津から東京までが、三百五十キロぐらいかな。途中、新潟から小出までと、前橋から東京までの約二百キロ近くが高速だから、そこを二時間と見て、残りの百五十キロばかりを三時間で飛ばせば、五時間程度で行き着けますよ。つまり、八時に新津を出れば、午前一時頃には東京に着いていることができるってわけです。多少、余裕を見ても、これなら犯行は可能じゃありませんか」
「なるほどねえ・・・・」
「なんだか、あまり感心してくれないのですねえ」
・・・・・
「・・・・ああ、そうか、もう一つ、ホテルへの出入りの問題がありましたね。ホテルに外部から無理やり侵入した形跡はなかったのだから、なんらかの方法で、通常の出入口を通ったと考えるしかないわけだ・・・・。あっ、ありますよ、方法が」
浅見の沈黙を無視して、小山は勝手に喋り、勝手に興奮して、叫んだ。
「岸田を使うのです。つまり、岸田は峰村――つまり石黒の共犯者だったわけですよ。いや、あるいは、利用されただけかもしれませんが、とにかく朝、石黒が帰る頃を見計らって、非常口を開けてやったのじゃないですか? 非常口は外から開けられないが、中からだと、いつでも開けることができるのですよね。・・・」
小山は胸を張って「どうでしょう」と言った。
「立派ですよ」
浅見は苦笑した。
「可能性ということだけなら、立派なご意見だと思いますよ。しかし、それはあくまでも可能性というだけのことで、ご都合主義の推理小説ならそれで済むかもしれないが、完全犯罪を企(たくら)もうとする人間にとっては、可能性だけではだめなのです。たとえばですよ。いまのストーリーの中には、齟齬をきたす危険がいくつもあるでしょう。まず、基本的なこととして、道路の状況です。新潟はぼくが言うまでもなく豪雪地帯ですよね。事件当日の空模様はまあまあでしたが、万一・・・いや、確率としては二分の一ぐらいですか、雪でも降ってきたらどうするのですか? 雪で道路が閉鎖されたら、その時点でプランは狂ってしまう。閉鎖されないまでも、峠付近がノロノロ運転になる可能性は常にあるではありませんか? 交通機関というのは、いついかなる場合にも、不測の事態が起こり得るのです。ホテルを抜け出たのはいいけれど、朝までに帰着できなければ最悪ですよ。殺人事件があって、そこから一人の客がいなくなった――となると、怪しまれるのは、まずその人物でしょうからねえ。まるで、自分が犯人であると宣言しているようなものです。それくらいなら、何もしないで、朝、何食わぬ顔でチェックアウトした方が、むしろ安全ですよ。たまたま、道路が順調で、計算どおりの時間に往復できたとして、犯人は二時のアリバイを作るという目的のために、走り詰めに走ったわけですか? ずいぶん大変でしょうねえ。そして、自宅に着いて、たまたまあの日、二時に放火事件が発生したからいいようなものの、何もない、平穏な夜だったとしたら、彼は困ったでしょうねえ。『二時には確かに自宅にいたが、何もありませんでした』では、証拠にも何もなりませんからね」
「うーん・・・・」
小山は唸った。自分の折角の着想を、そんなふうにあっさり論破されたのでは面白くない。矢島警部の言い種ではないが、素人に言い負かされて、このまま凹んではいられないと思った。 ≫
浅見光彦によって、きっちりと指摘されている。

   西村京太郎に特に個人的に恨みはないが、西村京太郎の「推理小説」には、これは馬鹿馬鹿しいと思えるものがけっこうある。「名探偵」十津川警部が、和歌山県に行って、被害者が「下りの」だったか最後に口にして死んだという事件で、「下り」の列車に乗っていた人間から何か毒物を飲まされたのではないかと「下り」の列車を調べまくったが何も見つからなかった。ある時、十津川警部は「名探偵」だけに気づいた。和歌山から亀山までの紀勢本線は時刻表で見ると、和歌山から亀山の方に向かう列車を「上り」、亀山から和歌山に向かう方の列車を「下り」と記載しているが、天王寺駅では和歌山に向かう列車を「下り」と表記している。これは、間違いではないか!?! と東京もんの傲慢そのまんまで言い出し、そこで気づく。「なぜ、阪和線は、天王寺から和歌山に行く電車を『上り』と表記しないのだ?」と。 《ウィキペディア―西村京太郎》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E4%BA%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E を見ると、彼は東京生まれで、学歴としては専門学校卒という人らしいが、「東京もんの傲慢そのまんま」が小説に出ている。大阪の人間の感覚からすれば、大阪市内のターミナル駅のひとつである天王寺駅から和歌山に向かう電車・列車が「下り」で、大阪市内に向かう方が「上り」は当たり前。時刻表でも阪和線については、天王寺から和歌山に向かう方が「下り」で、和歌山から天王寺に向かう方が「上り」になっている。ところが、特急は、かつては天王寺発で和歌山を通って新宮行き、紀勢本線経由で名古屋行きという「くろしお」が走っていて、今は天王寺発ではなく、新大阪発か京都発で新大阪駅から梅田貨物線を経由して大阪環状線の西側を通って天王寺駅から阪和線に入り、和歌山から紀勢線を走っているが、紀勢本線に直通の特急でも、阪和線内では天王寺から和歌山に向かう方が下りで、紀勢本線については、東京から離れる方向が「下り」という原則に従って、亀山から和歌山に向かう方が「下り」、和歌山から亀山に向かう方が「上り」と表記されている。 こんなことは大阪の人間にとっては常識であるが、東京もんの西村京太郎とか十津川警部は知らない。こんなことも知らずに「警部」は「名探偵」を名のっている。和歌山から亀山までは、紀勢本線は亀山の方へ進む列車を「上り」と紀勢本線ではしているけれども、和歌山県の人間にとっても、県庁所在地の和歌山は和歌山県の最北西部にあり、紀勢本線の亀山と逆側の終点にあるわけで、紀勢本線でも亀山付近では、首都になっている東京に近づく方が「上り」で東京から遠ざかる方向が「下り」になっていることに特に違和感を覚えないとしても、和歌山県においては、県庁所在地で江戸時代は御三家 紀伊徳川家の城下町であった和歌山から遠ざかる方向が「上り」で、県庁所在地の和歌山に近づく方向が「下り」というのは違和感があるはずだ。 そして、紀勢本線の特急「くろしお」は大阪市内から和歌山県に向かって走っており、同じ列車が天王寺から和歌山までが「下り」で和歌山からが「上り」というのもややこしい。 だから、和歌山から遠ざかる方向を時刻表通り「上り」と言う人もあるかもしれないが、阪和線内の表現を和歌山から以降も継続して「下り」と言う人だってあるわけだ。 そんなことは、紀勢本線の沿線の和歌山県に住んでいる人間にとっては特別のことでもなんでもないはずだ。ところが、「名探偵」だという十津川警部はずいぶんと長いこと、それに気づくことができず、相当経ってからやっと気づいて、それを「さすがは十津川警部」などという扱いにしている。バカでねえの? て感じがする。西村京太郎の「推理小説」は「時刻表小説」であるとともに「東京もん小説」だと思う。「東京もん」の感覚をその土地の人間も同じように持っていると思っているのではないか。最近では、大阪および関西地域の経済的政治的地盤沈下が進んでしまったが、たとえ、東京一極集中が和歌山県にも影響を及ぼしたとしても、和歌山県の人間が東京に行こうとした場合、紀勢本線は三重県の亀山に向かう方向が「上り」だからという理由で紀勢本線の特急で名古屋まで行って名古屋で新幹線に乗るかというとそうではなく、新宮あたりの住人だと名古屋経由で行くかもしれないが、海南・御坊・白浜あたりの住人なら新大阪行きで新大阪まで行って新幹線に乗るのではないか。だから、海南・御坊・白浜あたりの住人が東京に行く場合を想定しても、和歌山の方に向かうのが感覚としては「上り」である。「東京もん小説」の西村京太郎はそんなこともわからずに小説を書いて発表してコミック版まで出ているのだ。「東京もん」には大阪嫌いの人間が多く、「どうして、大阪に向かう方を『下り』にしないんだ」とか言ったりするかもしれないが、それぞれの地域に住んでいる人間が、「東京もん」の感覚・西村京太郎や十津川警部の感覚にいちいち合わさなければならない筋合いはない。
   内田康夫の小説には、このような馬鹿馬鹿しい話はない。内田康夫は、実際にその土地に行って、その土地の人間と話してみたりした上で書いていると思う。『薔薇の殺人』では宝塚市に取材に行くことができずに書いたらしいが、その場合でも編集者が代わりに足を運んで取材してその報告のもとに書いたらしい。「時刻表だけ見て書いた小説」「東京もん中心主義の小説」だらけの西村京太郎とはその点で違いがある。


2. 三流の推理小説と違って、「法律の学習のため」という視点で読んで、害になるものは少ない。
   今となっては40年近く前だが、慶應大学の「刑法」の講師の先生が言われたことだが、多くの推理小説の作家は刑法や刑事訴訟法、警察・検察・裁判所というものについてよくわかっているわけではないので、読んで面白いものがあっても、法律の勉強のつもりで読むのならば、司法試験の勉強のためと思って読むのならば、むしろ、害がある者が多い、、と。 但し、唯一の例外としては、佐賀潜(さが せん)の推理小説については、佐賀 潜は中央大学法学部卒で元検事なので、実際の検事の行動を知っている人であるから、読んでマイナスになることはない、と。 たしかに、佐賀潜が『華やかな死体』で江戸川乱歩賞を受賞した時、佐賀潜 自身が、「(元検事である)私にはおとぎ話を書くことはできない」と述べていたように、元検事などではない推理小説家は、実際にはありえないような話を書いていることが少なくない。特に、警察・検察・裁判所・弁護士というものについて、ありえないようなことが書かれている場合が少なからずある。そもそも、十津川警部なんて、あんなスーパーマンか「正義の味方」みたいな刑事、いるわけがない!
   内田康夫の小説では「正義の味方」みたいな刑事は登場しない。但し、すべての刑事がなってないという書き方はしていない。 本当になっていない刑事も登場する。代表格は『後鳥羽伝説殺人事件』に登場するキャリアの捜査主任の男で、まさにその男こそ犯人であったわけである。しかし、『後鳥羽伝説殺人事件』では、野上という刑事が、ねちこくて感じが悪い・・・という人間とされているが、その感じの悪い男が、まったく何も手がかりがないところから、大変な努力をして犯人グループにつながると思われる男をついに突き止める・・・が、せっかくそこまでやったにもかかわらず、独断での行動だとして謹慎を言い渡されてしまう。野上を訪ねた浅見光彦に野上が経緯を話すのを、野上の妻が隣室で聞いていて、うづくまって泣いていた。「どうしたんじゃ」と言う野上に、「・・・、男の人って偉いなって、そう思っただけなの」と言うのに対し、浅見は「いや、奥さん、偉いのは男でなく、おタクのご主人ですよ」と言う。
   内田康夫の小説に出てくる刑事で、基本的には「ええもん」として描かれているのは、『死者の木漏れ日』『軽井沢殺人事件』『追分殺人事件』などの長野県警の竹村、『「萩原朔太郎」の亡霊』『シーラカンス殺人事件』『追分殺人事件』などの警視庁の岡部、それに『多摩湖殺人事件』の河内、『優しい殺人者』などの福原。『後鳥羽伝説殺人事件』の野上。『江田島殺人事件』の久野。久野の場合、引退間際になってやる気も失せてきたようなところを浅見に触発されて、「刑事という職業がこんなに面白いものとは思わなかった」と自分の身の危険もかえりみず捜査に突き進み殺されてしまうわけで、だから、1回限りの登場だが、それ以外の刑事にしても、竹村も岡部も特別のスーパーマンのように描かれているのではなく、あくまで、「比較的良心的な刑事」としての書き方である。テレビの刑事ドラマみたいに実際の刑事がどうかなんておかまいなしにスーパーマンみたいに描lくことはしない。そもそも、刑事を職業としている人間が捜査した場合、相当優れた推理をしたとしても、プロとして見た場合には優秀なのか「プロなら普通」なのか判断は難しい。何年か前、テレビの野球中継を見ていたところ、巨人対どこやらの試合で、巨人の新人の内野手がショートを守っていたが、ショートへのヒット性の当たりを捕れなかったという場面があり、解説者の星野仙一が「あれを捕れないのではだめですね」と言い、アナウンサーが「でも、エラーじゃないですから」と弁護すると、星野が「エラーじゃないと言っても、あれを捕るのがプロのショートの醍醐味じゃないですか。あれを捕れないショートは一軍の試合に出ないでもらいたい」と言ったことがあったが、それを職業としてやっている人がやった場合、すばらしい仕事のように見えても、それは実際に「すばらしい仕事」なのか「それを職業にしている人間にとっては普通」なのか、わからないと思うのだ。殺人事件の捜査についても、テレビの刑事ドラマや西村京太郎の十津川警部シリーズのように「名刑事」なんて称して登場されても、それが刑事として見て相当に優秀なのか、「プロなら普通」なのか、わからない。「名刑事」と言われても、それなら、その刑事のほかはヘボ刑事なのか? ということになる。市民の立場からすれば、「名刑事」を警察に期待しているのであって、誰がヘボ・カス・アホ・クズを期待しているか? 内田康夫の小説に登場する刑事は、自分を「名刑事」とか「名探偵」とか言われた時に喜ばない。長野県警の竹村は『追分殺人事件』で、「私は不勉強で知らなかったのですが、竹村警部さんは、長野県警では有名な探偵さんなのだそうですなあ」と言われて、竹村は「ははは、私は刑事ですよ、探偵じゃありません」と答える。刑事が「名探偵」と言ってほめてもらっても喜ぶわけにはいかないはずだが、さすが、「ええもん」の側の刑事として登場する竹村だけあって、そのあたりは心得ているようだ。
   『死者の木霊』では
≪ 妻の洋子がNのファンで、放送日の夜はテレビの前に釘づけになる。亭主が帰宅していようが、お構いなしだ。
「こんなふうにカッコいい刑事なんて、ホント居ないのよねえ」
まじめくさって言う。
「ばか、俺を前にして、なんてことを言う」
憤ってみせたが、刑事稼業に、ドラマの主人公のような、人間的深みやデリカシーなど、求めようもない、竹村自身、そう思っていた。・・・≫
   《ウィキペディア―内田康夫》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB には、長野県警の竹村のことを「信濃のコロンボ」などと書いてある。「信濃のコロンボ」などと言うとテレビドラマの『刑事コロンボ』みたいなスーパースターのような名称であるが、『死者の木霊』を読むと、そういう意味ではないことがわかる。
≪ 「コート着て行ったほうがいいかな」
牛乳を飲みながら、竹村は窓の外をうかがった。
「コートって、バーバリの?」
「ああ」
「やめなさいよ、あれ、ちょっとみすぼらしいわ。刑事コロンボみたい」
「ばか、刑事じゃないか」
あはは、と陽子は笑って、レインコートを出してきた。交番勤務から刑事に抜擢されたときに買った、記念すべきコートだ。
 高校の仲間の多くが進学する中で、父のいない竹村は、警察官への道を選んだ。学業成績がよかっただけに、教師や友人たちが惜しみ、彼自身lも挫折感にさいなまれた。警察学校から交番勤務へ、単調な日々が続いた。その頃の夢といえば、捜査係に配属されて、私服を着ることであった。ネクタイもお仕着せでないヤツを締め、バーバリのレインコートを着る――。
  その夢が実現して、七年経った。当時の感激は希薄になり、バーバリは色褪せた。
・・・・≫
「信濃のコロンボ」のバーバリのコートは、スーパースターの象徴としての服装としては描かれていない。

   佐賀潜『華やかな死体』は、佐賀潜が元検事だけあって検事の立場で書かれている。一般に、警察→検察というのは嫌らしいものだと思うし、実際間違いなくそうなのだが、検事の立場から見て、「被疑者」の側がズルイ場合もあるようで、佐賀潜『華やかな死体』ではズルイ被疑者を検事が期限内にそれを解明できず歯噛みする。それに対し、内田康夫の小説では、「警察→検察→裁判所」のうち、検察・裁判所はほとんど出てこないが、警察はしばしば登場する。浅見光彦は「警察庁刑事局長の弟」という設定で、そうであるからこそ、いざという時には「浅見刑事局長の弟さまでしたか」という「水戸黄門の印籠」みたいのが出てくるが、浅見は最初から印籠を振り回したりはしないので、事件に首をつっこもうとして、警察から被疑者扱いされたりする。そういう際に警察がどういう態度をとるかということについて、内田康夫はよく知ってるなと思える部分が多いのだが、浅見光彦と同様に、親戚に警察のエライ人というのがいたとか何かあったのだろうか・・・。《ウィキペディア―内田康夫》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB によると、≪ 父は長野県長野市出身の医師≫だそうだが、もしかして、警察から委託された監察医とかやっていたのだろうか・・・などと考えたりするが、そういった面について述べられたものは見つからない。

   山村美紗の「推理小説」では、キャサリンというバカ女が、自分は何の関係もないのに、殺人事件の捜査に口出してくる。しかも、それを楽しんでいる。被害者の遺族からすれば、この女、一番むかつくのではないかと思う。『名探偵コナン』でも、コナンと服部平次は事件、特に殺人事件が発生すると、大喜びする。そういう態度というのは、よくないと思うし、遺族にとっては、警察が調べるのはそれは仕事としてやっているのだから、有能な警察官か無能な警察官か、良心的な警察官かそうは言えない警察官かということはあっても、ともかくも、仕事としてやっている人間が、事件を調べようというのはわかるのだが、何の関係もないのに、しゃしゃり出てきて、興味本位にひとのプライバシーもおかまいなしに口出すキャサリンというバカ女。こいつ、いったい、何様? て感じ。 その点、内田康夫作品の浅見光彦にしても和田教授にしても千晶にしても、「被害者」になる人間から頼まれたり、行きがかり上、無視できなくてかかわることになったり・・・というケースが多く、浅見光彦自身が、おもしろがるというのは失礼だ、という発言もしており、そのあたりに内田作品の登場人物には自覚・認識がある。

   夏樹静子の「推理小説」では、弁護士の女が推理をするが、弁護士というのは本来は推理は仕事ではない。正木ひろし『冤罪の証明』(旺文社文庫)では、弁護士の正木ひろしは、刑事事件の弁護人を引き受けた事件について、事件そのものについて調べにかかるが、これは弁護士としての仕事としてよりも、警察の対応がおかしいと見て、調べにかかったもので、本来、弁護士は探偵ではない。夏樹静子の小説に登場する女性の弁護士は、裁判に負けた後、同じ法律事務所にかつていて検事になった男に、「今回は負けたけれど、次は負けないわよ」などと言う場面があったが、こういう発言は依頼者に失礼である。弁護士にとって「次」はあっても、刑事被告人にされた者には、その時だけが大事であって「次」なんか、ない!  スポーツの試合に負けたというようなケースなら、「今回は負けたけれども、次は負けないわよ」というのは悪くないだろうけれども、刑事裁判であれ民事裁判であれ、当事者にとってはその裁判こそが大事であって、カネもらって引き受けた弁護士が別の依頼人の事件で頑張って勝訴しても、その事件で敗訴にされた当事者には何の利益もない。 「次は負けないわよ」などという発言は非常識である。 又、夏樹静子の小説に出てくる女性弁護士は、何かとショックを受けて泣くが、女は泣けば認められる・・みたいに思っているなら、そんな女、弁護士になるな! いつであったか、田中真紀子が「国会議員というものは、おらのような男らしい女でないとだめなんだ」と発言していたことがあったが、個々の政策についてどうかはさておき、私は田中真紀子のそのあたりの姿勢については評価する。他の仕事ならともかく、ただでさえ、精神的に不安な依頼者にとって、弁護士が女だからと簡単に泣くようなヤツ、そんな頼りにならん弁護士、私なら頼みたくない。もっとも、現実にいる弁護士というのは頼りにならないのが多く、「頼みたくない」ようなのが多いと思うが、それにしても夏樹静子の小説に登場する女性弁護士はひどい。

   『名探偵コナン』では、実際は高校生で見てくれは小学生だという江戸川コナン(工藤新一)が、殺人事件が発生すると、「わくわくしてきた」とはっきりと口にして大喜びするのだが、まともな読者なら、その発言には嫌悪感を覚えると思う。ふざけんな! まがりなりにも人が殺されたというのを喜ぶバカがあるか! 刑事ならば、それを解明するのが仕事なのだから、単に「ゴツイ」だけの事件よりも推理を必要とする仕事を担当させてもらった方がやりがいがあると感じたとしても、どうせ、そういう職業についているわけで、犯罪は多かれ少なかれ発生するのだから、自分自身に推理を必要とする仕事がわりあてられるのを喜ぶというのは悪くないとして、警察を職業としているわけでもない人間が、人が殺されたことを大喜びするとはけしからんことである。ところが、江戸川コナンというがきんちょは喜びやがるのだ。内田康夫『金沢殺人事件』の「エピローグ」には、≪ 事件の終焉には、いつも重苦しい後悔がつきまとう。犯人が捕まり、正義は行われたとしても、死んだ人が還ってこない虚しさは永遠に残る。何もしなかったほうがよかったのかな・・・と、投げやりなことを思う。≫ 『名探偵コナン』のコナン(工藤新一)とか山村美紗のシリーズのキャサリンとかいうバカ女は、浅見のようなこういった意識を持つことなく、大喜びではしゃぎまくりおるのだ。刑事はそれが職業であるから「何もしない」というわけにはいかないとしても、キャサリンとかコナンとかいう連中が興味本位で「わくわくしてきたあ」とか言って嘴をつっこむという態度は気分が悪い。犯人に代わってこいつらやっつけたろか、て感じすらする。
   内田康夫『金沢殺人事件』には≪ 「死」というかたちで、山野は被害者と呼ばれることになったが、それ以前に、多くの被害者を、じつは山野が作り出していた可能性がある。 朱鷺を滅ぼした者たちがそうであったように、山野自身には加害者としての意識はなかったのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、被害者は存在し得るのだ。 朱鷺は復讐しないけれど、人間は復讐することのできる動物なのである。≫とあるが、実際問題として、全体として見た時、どちらが加害者でどちらが被害者かよくわからないようなケースだってあるはずだが、『名探偵コナン』や山村美紗のキャサリンにはそういう認識が完全に欠落している。
   金田一少年は、コナンやキャサリンに比べれば良心的である。ちなみに、船津紳平『犯人たちの事件簿』という漫画が講談社から出版されたが、その中で、金田一少年に謎をとかれた犯人の反省会として「金田一に勝つにはどうすればいいか」という質問に対し、
画像

という回答があった。たしかに、金田一を先に殺しておけば、「謎はすべて解けた!」とかやられることなかったんだ♪ ・・・てそんなこと言われても、ウルトラマンと寺尾玲子は最終回以外は絶対に負けないのと同じく、周囲で何人殺されても、金田一耕助・浅見光彦・金田一 一は絶対に殺されることはないというのはこれは「お約束」なんで、どうしようもない。

  又、『名探偵コナン』では公安とかFBIとかが正義の味方のように描かれているが、そんな描き方をした漫画を子供に読ませて洗脳していいのだろうか? 内田作品にはそのようなものはない。

   『名探偵コナン』に登場する刑事は、ヤサ男みたいのとか、そのへんのおっさんみたいのとかが出てくるが、実際の警察官というのはそういうのとは違うと思う。(株)エイブルhttps://www.able.co.jp/ にいた時、不思議なもので、入口から入って来る人の顔を見ただけで、借り手か貸し手(家主)かがわかったのだが、時として、どちらでもない、「いかにも人相が悪い」という、なんや、このおっさん・・・てのが入って来ることがあったのだが、それは何者かというと、刑事だった。何らかの事件の捜査に必要だということで、アパートの入居者の情報を教えてほしいと言って来たことがあったのだが、本当に人相が悪い。 最も人相が悪い人間が犯人だとするならば、どう考えても、警察官ほど犯人ヅラした人間はないだろう。この点で、『名探偵コナン』は根底から間違っている。 その点、内田康夫は実体を知っているらしく、登場する刑事は、しばしば、「人相の悪い男」として書かれる。たとえば、『萩殺人事件』では、
≪ ビュッフェスタイルの食事を済ませ、ようやく落ち着いてコーヒーを啜っているところに、ウェートレスが近づいて来た。店を追い出されるのかと身構えたが、違った。「お客様は松田様ですか?」と確かめて、「ご面会の方が見えてますけど」と言う。
   心当たりはないが、たぶん康子だろうと思って出て行くと、 人相の悪い男が二人、ロビーに佇んでいた。直感的に(刑事だ――)と分った。長門の時も美祢の時もそうだったが、同じ人間に変わりはないのに、なぜ刑事だと分かるのか、不思議だ。
   案の定、男は手帳を示して、「山口警察署の者ですが、松田さんですね? 松田将明さんですね」と念を押して確認した。
「そうですが、何か?」 ≫

   又、『名探偵コナン』では、警察も公安もFBI も一緒くたにして「正義の味方」みたいに書いているが、実際には、警察官と刑務官はあまり仲がよくないとかいう話もあり、警察と公安もまた、必ずしも、「仲がいい」わけではないはずだ。内田康夫はそのあたりについても、『軽井沢殺人事件』では、公安の人間が1人殺されたにもかかわらず、公安は警察に協力的ではなく、警察は頭にきている・・・・という話を書いている。

   西村京太郎の小説は「時刻表小説」「ばかばかしい刑事礼賛小説」がほとんどですが、『母の国から来た殺人者』だけは徳永直『太陽のない街』を思い浮かべる内容のある話と思いました。


3. トリックが先にあるわけではない。
   『名探偵コナン』というのは、あれは「子供向け」だからということもあるのかもしれないけれども、話にトリックはあっても、なぜ、犯人はその犯罪をおこなうに至ったのか、という点、動機の部分が薄弱である。普通、この程度のことで人を殺したりはしないのではないか、と思えるような殺人事件がしばしば登場する。その点、『金田一少年の事件簿』は、「少年誌」に掲載された漫画とはいっても、『名探偵コナン』が掲載された「少年サンデー」が子供向けであるのに対して、『金田一少年の事件簿』が掲載された「少年マガジン」は「少年サンデー」よりも高年齢層をターゲットとした雑誌ではないかと思える点もあるかもしれないが、そこがある。
   内田康夫の「推理小説」は「トリック」「推理」だけがある話ではない。むしろ、浅見光彦は、「動機がわかればトリックなんてどうにでも解明できる」とどこかで発言していたと思うが、なぜ、犯人はそういう行為をおこなわざるをえなかったのか、というそこが重視されている。
   アガサ=クリスティ『ABC殺人事件』では、犯人は自分が遺産を相続するために小さい頃からコンプレックスをもってきた兄を殺し、なおかつ、捜査の対象が自分に向かないように、Aから始まる地名の場所でAが頭文字の人間をまず殺し、次にBで始まる地名の場所でBが頭文字の人間を殺し、3番目にCで始まる地名の場所でCの頭文字の本名の兄を殺し、最後にDで始まる地名の場所で4人目を殺し、戦争の際に記憶喪失の傾向をもつようになった男を犯人にしたてあげる。これは、「トリック」としては面白いといえば面白いかもしれないが、結論を言うと、変だと思う。もしも、自分が犯人の立場、相続するために兄を殺して自分が捜査の対象外になるようにしたいと思ったとしても。特異な性格の人間がいたなら別だが、普通の人間としては、1人殺すだけでもいい気持ちのものではないはずで、兄は憎い対象だったとしても、それ以外の3人は関係ない人間であり、特に関係のない人間を3人も殺すというのは、それは殺される側ではなく殺す側であっても気持ちのいいものではないと思うのだ。 だから、Cの場所でのCの頭文字の人間への犯行を隠すためにA・B・Dの場所でも犯行を行うというのも、殺人ではなく、もっと軽い犯罪ならばわからないこともない。しかし、「コストと利益を比較衡量して」考えても、4人も殺すという行為のコストに対しては、相当の遺産を相続したとしても割が合わないように思うのだ。 〔アガサ=クリスティ『ABC殺人事件』については、「木を隠すなら森の中へ」ということで、Cの頭文字の兄を殺した犯人をわからなくするために、A・B・Dの殺人をおこなうが、純粋にトリックだけを考えても、はたして、1件の殺人事件の捜査を攪乱するために、それ以外に3件の殺人事件をおこなったとして、1件だけおこなう場合よりも、見破られにくいだろうか、という問題もある。1件だけなら解明されずに逃げおおせるところが、4件も殺人事件をおこなった結果、見破られる確率が4倍になる・・・という面だってあるのではないか。〕
  内田康夫自身が書いている。
≪ もしあなたが人を殺したとする。そのとき、殺意が芽生えたのは、被害者に対して怨恨なり利害関係があるためであって、トリックのいいのが見つかったから殺したくなったわけではない。いいトリックを使ってみたいばっかりに、殺人を犯すというのは、もはやビョーキである。・・・≫
( 内田康夫「時間の旅、心の旅」 〔『浅見光彦ミステリー紀行 第2集』光文社文庫 所収〕 『美濃路殺人事件』2015.5.15.徳間文庫 所収 )
   登場人物浅見光彦は、警察庁刑事局長の弟という立場、いわば、警察に対しての「水戸黄門の印籠」みたいのを持っているからであろうが、私が同じことをしたなら何らかの犯罪をでっちあげられて逮捕され有罪を宣告されるであろうところだが、「あっしには関わりのねえことでござんす」と私なら言いたいような問題、新聞記者であるかその刑事被告人から依頼された弁護士であるかそういった立場ならともかく、そうでもないのに、わざわざ、嘴をつっこんで警察にかかわりを持とうとするが、浅見は単に残酷に殺した・殺されたというだけの事件には関心はない。暴力団関係や精神異常者の犯行といったものについて、解明しようと嘴をつっこんでいったりはしない。


4. 純文学としても通じる
   「推理小説」という分野が、「純文学」に比べて低い評価しか受けていない、という点に内田康夫は不満であったらしいが、内田康夫の小説の場合は、「純文学」として考えても通じるのではないかと思えるものが多い。
   『美濃路殺人事件』(2015.徳間文庫)に所収の「時間の旅 心の旅」(初出は『浅見光彦ミステリー紀行 第2集』光文社文庫)らしい)で、
≪ 先年、あるところで読書会を仕切っている中年のご婦人と会った。推理小説など、文化的存在意義など皆無だと信じている、カチカチの硬派である。その際、僕の『〇〇殺人事件』を進呈しようとしたら、露骨にいやな顔をして、「こういう本はどうもねえ」と言われた。「まあ、そうおっしゃらずに、一度でいいから、読んでみてください」と強引に押しつけておいたら、何日か経って手紙を頂戴した。「まことに失礼、認識を新たにしました」というもので、異例ファンになってくれている。・・・≫
と書かれているように、内田康夫の小説は「推理小説」でないわけではないが、推理小説にしては純文学に近い推理小説ではないかと思う。だから、逆に、純粋にトリックだけを求める人には評価されないのか、内田康夫としては自分の作品の中でも優れている方と考えているらしい『死者の木霊』も、江戸川乱歩賞を受賞することはできなかったのは「トリックだけ小説」ではないからかもしれない。

  (2018.4.20.)

 次回、
2.「巡査長」「部長刑事」「確保」とは。日本の警察は優秀か無能・有害か。対警察防衛。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_13.html 

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