光明寺(鎌倉市)参拝【1/11】光明寺は鎮西派と西山派の鎮西派。総門と大殿の菊と三つ葉葵の紋。本殿。

[第588回] 鎌倉シリーズ(3)-1
   神奈川県鎌倉市材木座 の 天照山 蓮華院 光明寺(浄土宗大本山)に参拝してきました。
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↑ 光明寺 大殿。
   JR・江ノ電「鎌倉」駅の東口より、京浜急行のバス、材木座から逗子まで行って鎌倉に戻ってくるバスに乗り、「光明寺」バス停で降りると、地図を見ると、そこから「内陸部」に歩いていくような感じに見えますが、実際にバス停で降りて見ますと、バス停のすぐ山側が光明寺、道路を隔てた海側はもう砂浜。

( 「 i 」マークが「山門」。 「卍」マークが「大殿」(重要文化財)↑。 山門の前の門は「総門」。
総門―山門ー大殿 というラインの総門より海側、道路の光明寺に近い場所に「光明寺」バス停がある。 )


   ≪ 山号は天照山(てんしょうざん)。開山は然阿 良忠(ねんな りょうちゅう)。創建は1243年(寛元 元)と伝えられる。 四代執権北条経時(つねとき)が開いた浄土宗の大本山。
  良忠は浄土宗の第三祖で、良忠が鎌倉に住んだことで浄土宗が関東以北へ広がったといわれている。
  歴代執権の帰依を受け、大寺院に発展、念仏道場の中心となっていった。
  江戸時代には関東十八壇琳の筆頭寺院として各地から学僧が集まり、修行の中心としても栄えた。
  朝廷との関係が深く、山門の「天照山」の扁額は後花園天皇の直筆と伝えられ、後土御門天皇からは関東総本山の称号を受け勅願寺に定められた。 また「お十夜法要」も勅許され、以来現在まで念仏法要が盛大に行われている。
  本堂左手の記主(きしゅ)庭園は伝小堀遠州で、夏の紅蓮が見事。
  境内には光明寺の大檀家、磐城平(いわき たいら)藩・日向延岡藩主の内藤家歴代の墓がある。
  江戸時代の宝篋印塔数十基をはじめとする石造の墓塔群が二百基近く並ぶ。寺宝の「当麻曼荼羅縁起(たいままんだらえんぎ)絵巻」二巻は国宝で鎌倉期の作品。
  戦後間もなく光明寺には、新しい時代の教育を目指す自立大学「鎌倉アカデミア」が開校された。≫
( 『鎌倉観光文化検定 公式テキストブック』2007.4.3. かまくら春秋社)
  ≪ 浄土宗の関東総本山。1240年(仁治元)、4代執権北条経時が佐助が谷に蓮華寺として建立したのを、1243年(寛文元)に現在地に移して寺名も改めた。
  境内には関東屈指の規模をほこる山門や17間四方の大本堂(重要文化財)などが整然と立ち並ぶ。所蔵する当麻曼荼羅(たいままんだら)は国宝。
  10月12~15日には昼夜念仏を唱える十夜法要(じゅうやほうよう)が行われる。 春は桜が美しい。≫
( るるぶ国内編集局 企画 編集『アイじゃぱん 18 鎌倉を歩く ’04』2003.9.1.JTB) 
という寺らしい。

   福島県いわき市のJR「いわき」駅の南西に松が丘公園という公園があって、そこに安藤信正のでっかい立像が立っている。江戸時代の終わり、桜田門外の変で井伊直弼が倒れた後、筆頭老中として公武合体政策を進めたが、坂下門外の変で襲われて失脚した「受験日本史頻出人名」であるが〔(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ で、いわき市の営業所に勤務した時、1990年代、同じ営業所にいた いわき市うまれのS藤さん(男。当時、40代)に、「松ヶ丘公園に大きなお殿様の像が立っていますが、あれは誰なのでしょう」と赴任してすぐの頃、尋ねたところ、Sさんは「知らねえ。どうせ、ろくな殿さんじゃねえ。いわきの殿さんなんて誰も知らねえ殿さんだ。どうしようもねえ殿さんだ」と言うので、もっと知名度の低い殿さまかと思ったら、なんと、畏れ多くも「受験日本史頻出人名」様で、「おっさん、何いうてんねん」と思ったものだったが〕、磐城平藩というのは、その安藤家ではなかったのかと思ったのだが、《ウィキペディア―磐城平藩》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%9F%8E%E5%B9%B3%E8%97%A9 を見ると、福島県の浜通り南部を領有した磐城平藩の領主は、平安時代から岩城氏だったが関ケ原の戦いで西軍についたことから出羽亀田に転封され、徳川家譜代の鳥居忠正が領主となって磐城平城を築き、1622年に山形に加増転封になった後、内藤家が藩主になって6代続いた後、1747年に日向延岡に転封になり、井上正経の1代をはさんで安藤家7代が藩主になったが、佐幕と討幕の争いの際、佐幕側について平城は焼失した、らしい。 安藤家は幕末時の領主で、内藤家はその前の前、1622年~1747年の領主らしい。
 《ウィキペディア―湯長谷藩》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E9%95%B7%E8%B0%B7%E8%97%A9 によると、内藤家が磐城平藩の藩主であった時代に、磐城平藩の支藩として、 JR「湯本」駅の南西あたり、いわき市下湯長谷町 に、湯長谷藩ができ、こちらは、幕末まで内藤家であったらしい。
  《ウィキペディア―延岡藩)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E8%97%A9 によると、1747年に延岡藩主の牧野氏が常陸国笠間藩に転封された後、内藤氏が延岡藩主となり、幕末まで延岡藩主であったらしい。その時、笠間藩主であった井上正経が藩主となったようだ。
   光明寺に、≪ 磐城平(いわき たいら)藩・日向延岡藩主の内藤家歴代の墓がある≫というのは、磐城平の内藤家と延岡の内藤家の墓があるということではなく、江戸時代前期には磐城平藩主で、江戸時代後半から明治維新までは延岡藩主であった内藤家の墓がある、ということのようだ。

   浄土真宗の場合、西本願寺が本願寺派で東本願寺が大谷派・・・て、どっちも本願寺でどっちにも大谷があるのに、片方が本願寺派で他方が大谷派てややこしいな・・・と最初は思ったが、今は慣れた。 臨済宗だと、いくつも「派」があるが、鎌倉にある建長寺は建長寺派、円覚寺は円覚寺派の大本山。 さて、浄土宗て、「派」はあったっけ。 京都の知恩院が頭のような気がしたが、鎌倉の光明寺も↑の『鎌倉観光文化公式検定 ガイドブック』には「大本山」て書いてあるところを見ると、「光明寺派」なんてのがあるのか? 東京タワーの横にある増上寺なんてのは、あれは「増上寺派」なのか?  鎌倉でも「鎌倉の大仏」がある高徳院も浄土宗だったと思うが、あれは「大仏派」なのか?
   そこで、インターネットで《ウィキペディア―浄土宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97  を見ると、
≪ その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。 もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如「の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。 だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することがある。・・・・≫ というものらしい。 その後、さらに読むと、さらに、「・・・・派」というのがいくつもできたりしたらしいが、現在では、「鎮西派」は、総本山を知恩院、大本山が東京タワーの近くの増上寺(東京都港区)、京大の近くの百万遍知恩寺(京都市左京区)、善行寺大本願(長野市)、それに光明寺(鎌倉市)など7寺とし、西山派は、永観堂(京都市左京区)を総本山とする西山禅林派(せいざん ぜんりんじは)、京都府長岡京市の粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)、京都市中京区の誓願寺を総本山とする西山深草派(せいざん ふかくさは)の3派に分かれているらしい。
   京都の佛教大学というのは、名前から考えて、仏教の全宗派が集まって作った大学かと思っていたらそうではなく、浄土宗の大学らしい。 大阪市天王寺区の上宮高校は、聖徳太子を「上宮」と言ったことや、近くに四天王寺があることから、四天王寺の「和宗」か、和宗として独立する前に四天王寺が属した天台宗かと思っていたらそうではなく、浄土宗らしい。 熊本県にある野球部が甲子園大会に出場したことがあった、巨人の末次外野手の出身校らしい鎮西高校も浄土宗らしい・・・が、《ウィキペディア―鎮西高校》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 を見ると、≪建学の精神  国恩 - 国の恩  親恩 - 親の恩  衆生恩 - 社会大衆の恩  三宝恩 - 佛教の教えの恩 ≫と書かれており、後の2つはともかく、前の2つについては、戦前戦中の「お国のために」「親コッコッコのために」「わしに親孝行せえよお、わしにじゃ、わしにい。わ、し、にい~い!!!」という軍国主義の思想がそこに残っていると思われ、それは浄土宗と特に関係のないものではないのかと思われ、浄土宗と関係のないものが浄土宗であるかのように入り込んだエセ教義、もしくは、浄土宗を軍国主義的に解釈したような「教義」がそれが残存していると思われ、気色悪い。

   で、鎌倉の光明寺は、西山浄土宗の総本山の粟生光明寺ではなく、鎮西派の7つの大本山の1つ。 もともとは、関東地方では鎌倉の光明寺が浄土宗では一番の寺だったが、江戸時代に徳川家と結びついた増上寺がその政治力のもとに東国で一番のような立場にのし上がった・・・とかどこかで読んだように思うのだが、どこで読んだか、忘れた。 京都の東山の浄土真宗本願寺派の大谷本廟は、かつては今の場所よりもう少し北にあったが、徳川家が浄土宗であったことから、知恩院の寺域を拡張するために、かつてより南の場所である現在地に移ったとかいう話をどこかで読んだが、浄土宗内部においても、権力との遠近が寺の力関係に影響を及ぼすことがあったのか・・・。 しかし、光明寺にしても、鎌倉時代において、執権の北条家の支持のもとに発展したのだから、そのあたりはお互い様かもしれない。 ↑の『鎌倉観光文化検定 公式ガイドブック』には朝廷との関係が深い、鎌倉幕府の執権 北条氏の帰依を受けた・・と出ていて、片や、江戸時代になると徳川家と結んだ増上寺の力が増した・・・となると、光明寺は徳川家とは疎遠だったのか・・・という感じを受けそうになるが、しかし・・、
  「光明寺」バス停を降りて、すぐ左を見ると、そこは光明寺への入口。 最初にくぐる門は「総門」。↓
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↑ クリックすると大きくなるので大きくして見てください。右の石碑には「関東總本山」と書かれています。
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↑ 「総門」の右手前には「大本山 光明寺」と書かれた石碑が建っています。
   さて、この総門の扉を見て気づいたのですが、菊の紋と三つ葉葵の紋が合わさって入っているのです。↓
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  他の建物はどうでしょう。 大殿(本堂)の屋根を見ますと、↓
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↑ 本堂の屋根のてっぺんにも、菊の紋と三つ葉葵の紋が並んで入っています。 江戸時代、上野の寛永寺とともに徳川家の墓所となり、徳川家と深い関係となった増上寺は、江戸城の南西の裏鬼門を固める位置にあって、寺であるとともに、もしも、東海道から江戸城を目指して攻め込んでくる者があった場合には、そこに塀を配置して江戸城を防ぐ砦にもなる寺として大きな位置を占めた・・・らしいけれども、だからといって、鎌倉の光明寺の方が徳川家と敵対したとかいうわけでもなかったようで、そんなことおまへんでえ~え・・という印にか、三つ葉葵の紋が入っています。 大殿(本堂)に向かって左にある開山堂の屋根にも、やはり、菊の紋と三つ葉葵の紋が入っていました。 光明寺でもらった「山門のしおり」にも、≪ 江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八壇琳の筆頭におき、学問と修業の道場となり、全国から多くの僧侶が集まりました。≫と書かれており、増上寺が徳川家との結びつきから地位を上げたということはあっても、光明寺は、別段、徳川家と敵対したわけでもないようです。

   JR「鎌倉」駅から歩いてもそれほどないのだが、今回は、京浜急行バスに乗って「光明寺」バス停で下車して行った。 寺社の参拝は登山と一緒で「早立ち、早帰り」が原則。 なぜなら、お寺さんは都市部の一般世間に比べて、早寝早起きだし、神社の場合、『本当にあった怖い話』(朝日新聞出版)で、寺尾玲子さんが神社には昼の顔と夜の顔がある、と述べておったが、基本的には神社は昼間に行くものだし、お寺も「霊場」として考えると、基本的には昼間に行くもので、泊めてもらえるお寺で宿泊するとかの場合は良いとしても、そうでなければ、夜に行くものではなく昼に行くものであり、「早立ち早帰りの原則」を守っておれば、急になんらかの支障が発生しても、それでも帰ってこれる。 最初が遅ければ、あともうちょっと時間があればあそこに行けたのにい~い・・・ということになる場合があるので、行きにはバスに乗り、帰りは鎌倉駅まで歩いて帰った。

   光明寺に掲示されていた境内案内図に載っていた参拝時間は、
4月1日~10月14日  6:00~17:00
10月15日~3月31日 7:00~16:00

世間一般では、午後4時00分というと、「ええ、まだ、いいじゃん」て感じだが、お寺さんは一般世間よりも早寝早起きである。銀行は、9:00~15:00 で午前7時に開いてるとは誰も思っていないが、お寺は開いているお寺は少なくない。コンビニは、最近では24時間営業のコンビニが増えたが、むかしは「セブンイレブン」と言ったように午前7時から午後11時というコンビニがけっこうあった。福島県双葉郡では「午前6時から午後10時」という店を見たことがあるが、「地方」の人間は東京の人間よりも早寝早起きであり、福島県人と話すと、「東京の人間が来ると、夜、遅くまで起きているからかなわん」などということを聞くことがある。 ともかく、お寺さんは一般の店舗なんかと比べると、初めも終わりも世間一般よりも早めなので、「午後4時なんて、まだ、いいじゃん」なんて認識は持たない方がいい。 そのあたりも考えて、お寺の参拝は「早立ち、早帰りの原則」で行動した方がいい。

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↑ なバスが走ってます。 今回はJR「鎌倉」駅から乗車しましたが、JR横須賀線「逗子」、京浜急行逗子線「新逗子」駅からもこのバスには乗れるようです。

   「光明寺」という名前の寺は浄土宗に多いような気がしたのですが、《ウィキペディア―光明寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA  を見るとそうでもなく、さまざまな宗派で「光明寺」を名のっている寺があります。
   岐阜県高山市の大雄寺(だいおうじ)〔浄土宗〕では、境内に「若き日の法然さま」の像が建っていて、台座の支柱の1本に「光明遍照」と書かれています。〔⇒[第450回]《東山白山神社・大雄寺(だいおうじ)・秋葉神社(高山市)参拝-東山遊歩道を歩く(2)》http://shinkahousinght.at.webry.info/201610/article_16.html 〕 「光明遍照」とは、《コトバンク デジタル大辞泉の解説 光明遍照》https://kotobank.jp/word/%E5%85%89%E6%98%8E%E9%81%8D%E7%85%A7-497553 には、≪阿弥陀仏の救いの光があまねく全世界に及んでいるということ。≫でています。 大雄寺の「若き日の法然さま」の像の支柱には他に「南無阿弥陀仏」と書かれており、それ以外の3本に何と書かれていたか見落としましたが、「南無阿弥陀仏」にしても「光明遍照」(≪阿弥陀仏の救いの光があまねく全世界に及んでいるということ。≫)にしても、浄土宗の考え方に沿った言葉であり、大雄寺も浄土宗の寺ですし、「光明遍照」から「光明寺」という寺の名前がつけられたのか、なるほど、浄土宗の寺に「光明寺」が多いのもそこからか・・・と思ったのでした。
  しかし、浄土宗では、鎌倉の光明寺もあれば、京都府長岡京市に西山浄土宗の粟生光明寺もありますし、私の親戚がお世話になっている浄土宗の光明寺もあるのですが、浄土宗・浄土真宗以外の宗派でも「光明寺」はけっこうあるらしいのです。なぜだろう・・・と思ったのですが、もともと、念仏というのは浄土宗・浄土真宗だけがおこなっていたものではないわけです。法然・親鸞を弾劾した栂尾高山寺の明恵上人は、最初、法然が念仏をおこなうと聞いて、それは大変けっこうだと賛成したが、法然が念仏のみをおこなう、それ以外はおこなわなくて良いと主張すると聞いて、それはおかしい、そのような主張は認められないと『摧邪輪』を書き、法然を批判する立場となったらしいが、明恵上人などは、念仏がいかんとは言っていないわけです。あまりにも念仏を重視してそれ以外は要らないかのような主張に対して、それは違うと言ったらしい。ですから、「光明遍照」(≪阿弥陀仏の救いの光があまねく全世界に及んでいるということ。≫)にしても、特に浄土宗・浄土真宗で重視しているかもしれないけれども、浄土宗・浄土真宗のみの考えというわけでもないはずですから、他の宗派で「光明寺」があってもおかしなことではない・・・・、ということかなと思ったのでした。 ・・・それで、いいかな・・・?
《ウィキペディア―光明寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA 
※ 高山市公式観光サイト 大雄寺(高山市役所観光課)http://kankou.city.takayama.lg.jp/2000002/2000026/2001294.html


※ 光明寺 HP http://komyoji-kamakura.or.jp/
《ウィキペディア―光明寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)

  (2018.4.10.)

  次回、
2.「山門」と桜。「羅漢」とは。 鐘楼。http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_2.html


☆ 鎌倉シリーズ(3) 光明寺(鎌倉市)参拝
1.光明寺は、浄土宗の鎮西派と西山派のうち、鎮西派。 菊と三つ葉葵の両方の紋が入った「総門」 〔今回〕
2.「山門」と桜。「羅漢」とは。 鐘楼。http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_2.html
3.「大殿」(本堂)と桜。火灯窓。善導大師とは。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_3.html
4.「大聖閣」と「記主庭園」。景観に隠す建築と新たに創造する建築 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_4.html
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_5.html
6.天照山の展望台から見た山門・大殿と海、「廟所」、背後から見た大殿と大聖閣 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_6.html
7.「鎌倉アカデミア」碑。 「『教育』する側」の論理・「される側」の論理 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_7.html
8.2階追焚有浴室と耐力壁配置。自分の都合に合わせ構造基準を変える会社+光明寺前の海 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_8.html
9.コンパネはぬるま湯ではがれる? 釘と接着剤による接合の違い。建築専門学校は役立つか http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_9.html
10.「集成材はムク材の1.5倍強い」て誰が言った? http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_10.html 
11.九品寺・日本基督教団鎌倉教会・「共産党建築」・「警察建築」・交番研究 http://shinkahousinght.at.webry.info/201804/article_11.html

鎌倉シリーズ
(1) 荏柄天神社 http://shinkahousinght.at.webry.info/201401/article_7.html
(2) 山崎天神 http://shinkahousinght.at.webry.info/201504/article_2.html


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