あけおめ。渋谷駅前のイヌ。 渋谷と本郷のハチ公。 職場学校鳥獣戯画巻。イヌ・ブタ・サル・・・

[第580回] 2018年の第1回 (会社と営業の話(140) )
   「あけおめ。 よろしく~う」・・・
   2018年(平成30年)は、イヌの年。 イヌてことは、これ↓ か・・
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〔 ↑ 警視庁渋谷警察署 渋谷駅前交番。 ☆1つ(日光の手前=今市) 〕
↑ これか・・・・・。
※ 渋谷駅前交番 http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/3/shibuya/koban/koban.htm

    JR山手線「渋谷」駅の北西側に出て、↑の渋谷駅前交番を見て、180度ぐるっと回転すると、そこに鎮座されているのが↓
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(↑ 渋谷駅前。 「忠犬ハチ公」の像。 )
   今は、東大の農学部は、文京区の東大本郷キャンパスの道路を1つ隔てた北側の弥生キャンパスにあるが、かつては駒場にあったらしい。駒場にあった時代の東大農学部のなんとか先生が飼っておられた「ハチ」という犬が、いつも、その先生を迎えに渋谷駅まで行き、出会えた時には2人(というのか、1人と1匹というのか)は喜びあったらしい。そのうち、その先生が亡くなったが、その後も、ハチは渋谷駅まで迎えに行って、主人が帰ってくるのを待ち続けた・・・・というお話らしい。JR「渋谷」駅の北西側、京王帝都電鉄井の頭線「渋谷」駅の北側に鎮座している「ハチ公」の像には説明書きはないが、実は、ハチ公の像は、東京にはもうひとつある。文京区の東大弥生キャンパスの門を入って右側に、(株)一条工務店が労基法違反で従業員の給料へつりまくり、安全対策費用へつりまくって貯め込んだカネから、東京大学に建設費を出して建てた「弥生講堂 一条ホール」があり、左側に、(株)エンゼルハウスが費用を出したらしい「弥生講堂 アネックス」があるが、その「弥生講堂 アネックス」の前に、ハチ公となんとか先生 の2人というのか1人と1匹というのかが会って喜びあっている姿の像がある。↓
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   犬の名前が「ハチ」というのは有名だけれども、飼い主の先生は何という名前か知らない人が多いと思うが、上野英三郎という先生らしい。 東大農学部の方の像には名前が書かれていて説明書きもある。
☆  東大農学部の「弥生講堂 一条ホール」については
⇒[第494回]《東京大学 「弥生講堂 一条ホール」について。不良企業の宣伝広告に加担する東京大学と浜松市と杉山英男》http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_6.html
☆  東大農学部の「弥生講堂 アネックス」と「上野英三郎博士とハチ公」の像については
⇒[第496回]《東大「弥生講堂アネックス」。「V」の溝にほこり、木にはカビが生え鉄は錆び「建築家」は・・+ハチ公の像 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_8.html

   渋谷駅のJR山手線より西、京王帝都電鉄井の頭線より北 に「ハチ公」は鎮座していらっしゃるのですが、「ハチ公」と渋谷駅前交番 との間 の位置、犬とイヌの間の位置に見えるのが↓
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↑  1970年代後半、私が東急東横線「渋谷」駅で東横線に初めて乗った時は、すでに東横線は銀色というのかステンレス鋼色というのかだった。その頃、東横線の桜木町行きの電車に乗ると、急行でも、中目黒・学芸大学・自由が丘・田園調布・武蔵小杉・日吉・綱島・・・・といっぱい停まって、通勤路線にしてはもたもたした感じの路線という印象だった。渋谷から日吉までの途中に、「この漫才で田園調布に家が建つ」というフレーズで有名な「田園調布」があった。だから、田園調布なんて所を走っている電車はさぞかし、近代的な電車なんだろう・・・なんて思って東横線の電車に乗って、その電車が田園調布の駅に着くと、横っちょに、なんだか、緑色の芋虫みたいなコロコロした感じの電車がやって来た。目蒲線だった。なんだ、こりぁ・・・。 今は、目黒からその頃は「多摩川園」と言っていた駅が駅名変更した「多摩川」までが目黒線。「多摩川」から「蒲田」までが多摩川線になったが、その頃、目蒲線と池上線は、どっちも似たような感じで、緑色の芋虫みたいな電車がコロコロ走っていたのだ。各駅停車しかない路線で。ところが、いつしか、都営三田線が「三田」から「目黒」まで伸びて、目蒲線の多摩川までが目黒線になって多摩川から日吉まで行くようになり、しかも、駅も電車もずいぶんと近代的なになった、というのか、なってしまった。かつての目蒲線とは思えないような・・・。あの芋虫みたいのがコロコロ走っていた目蒲線はどこかへ行ってしまった・・・。大岡山の駅なんて地下に潜って地上歩いてると、どこに駅があるのかよくわからんし。その頃、目蒲線・池上線を走っていた電車が、↑の緑色の電車だったように思うのだ。そのまんまかどうかはよくわからんが、↑みたいのがコロコロ走ってたと思う。けっこう愛嬌があって、しかも、都内でそんなのが走ってるというのが、なかなか風情があった・・のだが、東横線も昔は芋虫みたいのがコロコロ走っていたということか・・・。
   で、↑の電車の内部はどうなっているのか。「入口」「出口」と書いてあるが、入場料は取られるのかというと、要らない。入るのは無料。観光案内所兼休憩所みたいな感じのようだ。

   さて。警察のことを「イヌ」と言ったりします。池波正太郎『鬼平犯科帳』では、火付盗賊改方長官 長谷川平蔵 のもとで、密偵として働く元盗賊のことが盗賊から「イヌ」と呼ばれたりしています。職場などで、経営者の従業員への態度がひどいのではないかと従業員が話していると、それを経営者に報告しておのれだけ、経営者からかわいがられようとする者とか、会社のあり方に対して経営者に意見を述べようとする者に対して、ともかく、わんわんわんわんと吠えかかることで自分だけ経営者からいいエサをもらおうとするヤカラを「イヌ」と言ったりもします。しかし、実際の動物の犬というのはそういうものなのか。猫とか豚とかも、人間から言われているような根性の動物なのか。 そのあたりを、少々、述べてみたいと思います。

   まず、「イヌ」と「ブタ」です。
≪ 聖なるものをにやるな。真珠をの前に投げ与えるな。さもないと、彼らはそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方を噛み裂こう。≫
( 『新約聖書 マタイ福音書』7-6 前田護郎訳。 『世界の名著 聖書』1978.9.20.中公バックス)
≪ 聖なるものをにやるな。また真珠をに投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。≫
( 『新約聖書 マタイによる福音書』7-6 日本聖書協会口語訳。)
   慶應大学で、「近代思想史」という講義で、ジャン=ジャック=ルソーが『エミール』で述べている話として、教育とは、「自分は自分で守らないと誰も守ってなんかくれないぞ」ということを教えることができれば、その教育は成功だということをルソーは言ってる・・という話を教授はされたのです。『エミール』は教育の原則論について述べた本だと言われ、読みたいと思って岩波文庫の3分冊の本を買って我が家の本棚にすでに何年もあるのですが、けっこうな量のある本で今も読めずにいるのですが、教授がそう言われたからには、ルソーはそういうことを言ったのでしょう。その講義を聞いた時は、そうだなと思ったのです・・・が、それから後、会社という所に勤めて何年か経った後、違うのじゃないかと思ったのです。「自分は自分で守らないと誰も守ってなんかくれないぞ」というのは、それは、学校という所で学んだり、書物を読んで学んだりするものではなく、自分自身が人生を生きて学ぶものではないかと思うようになった、というより、痛い目にあって学んだのです。「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らくは彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」ということを。 実際、人間の「犬」や「豚」に噛みつかれたのです。そして、実感したのです。この文句を。

   デビッド=クーパー『家族の死』(塚本嘉寿・笠原嘉訳 1978.6.5.みすず書房)には、「君の豚肉(ポーク)に思いこがれよ」という章があります。
≪ 因習的なブルジョアの両親は極端に両性的特徴を備えたでもあれば巨大なベーコン工場でもある。これがその中心となる曖昧さなのだ。非常口から逃げ出したり労働者のふりをして逃げ出したりする人々は、大きな豚箱とか監獄とか、あるいはもう一つ別の屠殺場に行きつく傾向がある。ごく少数の人々が非常に苦労して何とか逃げ出し、正気になるのだ。そしてこれら正気の人々は不可避的に予言者としての重荷を負うことになるのである。・・・・≫
≪ 確かにアメリカ合衆国の革命的若者が、警察とその協力者、精神科医、そして一般に偽りの権威に向かって浴びせる「豚(ブタ)」という名称は、いい加減なものではない。豚という言葉ははっきりした身元の確認である。・・・≫
   ジャン=ポール=サルトル『自由への道 第一部 分別ざかり』(佐藤朔・白井浩司訳。1983.改訂重版 人文書院)には、
≪ 彼の内ポケットには、膨れた、札束のつまった財布、豚商人の財布がある。・・・・≫という文章があり、『自由への道 第二部 猶予』(佐藤朔・白井浩司訳。1983.3.10.人文書院)には、
≪ すると、灰色の富良野の服を着た、褐色の髪の大男にぶつかって、商店のショーウィンドーの方に押しやられた。ジョゼフ・メルシェは眼を上げて、『タンスみたいな奴だ!』と思った。こいつはタンスであり、壁である。無感無情な乱暴者で、クラスの真中で彼を嘲った、初等数学の、大男シャメルリエにそっくりだ。こういう手合は、なにも、自分のことも疑わず、決して病気にならず、顔面神経痛もなく、女と生活を腕一杯に抱え、他人をショーウインドーに押しのけて、目的に向って、まっしぐらに進む奴らだ。・・・・≫という文章もある。
  慶應大学文学部の白井浩司教授は、「サルトルの紹介者」として評価される一方、「誤訳の名人」という批判もあるらしい。 英語の life 、ドイツ語の Leben には、(1)生命、(2)人生、(3)生活 の3つの意味がある。フランス語ではどうかというと、フランス語の vie は、
≪ vie (女性名詞) 1.生命、生。 2.一生、生涯、人生;伝記。 3.生活、暮らしぶり;生き方;生活費、生計。4.実社会、世間。5.・・・・ ≫
(大賀正喜・田桐正彦編『ポケットプログレッシブ 仏和・和仏辞典 第2版』1999.第2版 小学館) と、やはり、フランス語の vie もまた、生命・生活・人生の3つの意味があるようだ。サルトル『自由への道 第二部 猶予』の↑の部分だが、佐藤朔・白井浩司訳では「生活」ではなく「人生」になっているのだが、前後の文脈から考えて、ここは「生活」とした方が適切ではないかと考えたので、他は佐藤・白井訳を引用したが、その部分だけ、変えさせてもらった。

   『新約聖書 マタイ福音書』の「荒野の試み」で、イエスが「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」とイエスが言われたという話がある。
≪ そこでイエスは荒野へと霊に導かれた。四十日四十夜断食し、ついに飢えられた。試みるものが枯れに近づいてきていった、「もし神の子なら、これらの石にパンになれといいなさい」と。答えていわれた、「聖書にいわく、『パンだけで人は生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによる』と」。・・・≫
(『新約聖書 マタイ福音書』前田護郎訳。 『世界の名著 聖書』1978.9.20.中公バックス )
≪ そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。≫
(『新約聖書 マタイによる福音書』4-2~4。 日本聖書協会口語訳。)
   イエスが、「聖書に書いてある」としてここで述べている言葉は、落ち着いて考えてみると特別のことではないと思う。英語の life 、ドイツ語の Leben 、フランス語の vie には、生命・人生・生活の3つの意味があり、人間は、この3つがいくらかずつあってこそ生きていけるのであり、いずれかがゼロになってしまうと、生きていけなくなる存在ではないかと思えます。1981年、慶應大学の生協が、遠藤周作の『沈黙』の映画の上映と遠藤周作の講演会を開催した時、遠藤周作が「私たちも踏絵を踏んでいるのと違いますか。生活のために人生を踏んでいるのではありませんか」と述べた話が生協の「新聞」というのか何というのかに載っていました。実際、人間は、人生のために生活を減らすこともあれば、生活のために人生を踏むこともあって生きているのではないかと思います。ところが、不思議なことに、生活にだけ関心があって、人生についての関心はないのではないか、というような人というのが時としているのです。消費にばかり関心があり、いわば、「両腕いっぱいにカネと女をだかまえて生きる」ことにしか関心がない、「神の口から出ることば」など、平気でドブに捨てる人、土足で踏みにじる人というのがいるのです。 「慶應ボーイ」なんてのはそのタイプだと慶應大学に行って私は思ったのですが、こういうことを言うと、「慶應ボーイ」は「就職のため以外に何がある? 『神の口から出ることば』だなんて、おまえは原理研か!」とか言うのです。「両腕いっぱいにカネと女をだかまえて暮らす」ということを夢見て、「慶應タイプの女たらし」になりたいなりたいなりたいな♪ とか思って慶應に入学した連中の思想というのはそんなものなのでしょう。慶應の学生というのはそういうテアイが大変多かった。おそらく、今もそんな感じではないのかと思います。
   カール=マルクスの『フォイエルバッハについて[フォイエルバッハにかんするテーゼ]』(エンゲルス『フォイエルバッハ論』藤川覚・秋間実訳 1972.8.10.大月書店 国民文庫 所収)には、≪ 哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。しかし肝腎なのはそれを変えることである。≫という有名な文句が書かれている。これは、ロンドンのハイゲート墓地にある「マルクスの墓」に書かれている文句でもあるのだが、慶應の学生には、こういう意識はみじんもない。あくまで、この世で、おのれの収入をいかに増やすかというそれしか関心がない。まさに、ブクブクと太ることにしか関心がないブタ。 こういうことを言うと、「収入がなければ生きていけないだろうが。甘ったれるな」と言ったことを言う人がいるのだが、たしかに、収入がないと生きていけないのだが、それは「生活」「パン」がなければ生きてけないという意味であり、「生活」「パン」とともに「人生」「神の口から出る言葉」もまたないと生きていけないのではないだろうか。 これは、「どちらか」ではなく、両方がいくらかずつあってこそ、人間は生きていける存在ではないのか。そして、「肝腎なのはそれを変えることである」などと言われても、それはたしかにそうで・・・、そんなに簡単に変わらんでしょうがあ・・て面もまたあるわけで、革命的に根底からひっくり返すような「変える」だけではなく、基本的な経済体制は維持しながらも、「徐々に変える」とか「部分的に変える」というものであっても、変えようとすると、そんなに簡単に変わらなかったりするのです・・・・が、しかし、迎合するだけしかない人間というのは、はたして、それは人間なのか・・・? と思うのだが、しかし、慶應という学校の人間、特に内部進学の人間及び「準内部進学」の人間はそういう迎合するしか能のない人間のことを、「慶大生らしいスマートさ」とか「塾風を身につけている」とか「独立自尊」とか、さらには「ギャルにもてもて」とか言うのです。「独立自尊」の意味が逆ではないのかという気がするのですが、そういうことを口にすると、「慶大生らしくない」とか「慶應のアイデンティティーを身につけていない」とか「自我が確立されていない」とか「診断」されたり、「そんなこと言ってると、就職先なくなるぞ」とか脅されたりするのです。慶應という学校では。つくづく感じの悪い学校だと思います。人間はそうやって骨抜きにされていくということなのかもしれません。 ≪この第三世界は教育を奪われているのではなく教育によって奪われている。≫(デビッド=クーパー『家族の死』塚本嘉寿・笠原嘉訳 1978.6.5.みすず書房)。慶應の内部進学の人を見て、この人たち、かわいそうな教育受けてきてるなあ・・・と思ったのですが、うかつに口に出すと彼らは怒って殴りかかってきます。又、彼らはそれを自慢にしているのです。「独立自尊の精神を身につけている」とか言って。

   フリードリヒ=ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』( 中公バックス)には、
≪ あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量のがうごめいている。またあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上にである。
という言葉が書かれている。
   大谷愛人(ひでひと)・泉治典(はるのり)『古典入門 キルケゴール 死に至る病』(1989.4.20.有斐閣新書)には、
≪ 帰宅したキルケゴールは、約三年間恋をしていたレギーネ・オルセン(顧問官の娘)に接近をはじめ、九月八日、結婚の申し込みをし、承諾をえた。そしてこの婚約は11ヵ月続く。ところがここにいわゆる「レギーネ事件」と呼ばれるものが起こる。それは、この婚約が、一般人の常識からは、実に不可解な仕方で、キルケゴールの方から一方的に破棄されるのである。それが不可解であるのは、キルケゴールが、自分は愛しているがゆえに結婚できない、と言っている点であり、しかも、彼は生涯愛し続け、死の床についていたときもその愛はかわりなかった点にある。ところがその破約の具体的理由については、決して直接的には語らず、作品の中では文学的比喩により、また日誌の中ではごく暗示的にほのめかしているにすぎない点にある。そのため研究者たちは、その理由についてのさまざまな憶説を述べてきたわけである。そこでそれらさまざまな憶説を検討してみると、まことに興味深いことに、それらは一つの共通の法則のようなものに支配されていることが眼につく。つまり、それらの憶説はどれもこれもそれを立てた研究者自身の「感情」や「品性」の枠か、「思考」や「概念」の枠かが、真相の深さとは無関係に、まるで絵をくりぬかれた額縁だけのようにのさばりさらけ出されてみえるという点である。たとえば、その憶説を立てる者が文学者であれば、そこでは、それぞれの「女性観」「恋愛観」「人生観」等々の枠が事実を決めこみ、心理学者の場合は、「精神病」という枠が決めこみ、医者の場合は、「身体の病」という枠が決めこんでいる。そこでそれらを検討していると、どうしてもキルケゴールが好んで用いたあのレヒテンベルクの言葉「このような作品は鏡のようなものである。がのぞいても、そこには使徒の顔は映ってこない。」が浮んでくる。・・・・・
   ・・・なぜ研究者がこの問題について憶説を立てようとすると、結局はそのような「自分」の枠をさらけ出すことで終わるのか、という理由である。それは、キルケゴールがこの問題の真相を「信仰」の問題として述べているのに、それらの研究者には、その「信仰」という問題の重さと深さとがそっくり理解され実感されていない点にあると考えられる。・・・・≫ と述べられている。

    「猿」というのは、常に物真似をして生きるしかできない人間、正しくても間違っていても、自分自身で考えて、自分が人間らしい生き方であると思う生き方をするという態度をとることができない人間のことを言う場合が多い。映画『屋根の上のバイオリン弾き』では、≪ 「伝統」(tradition)さえ守っておれば危険なことなんて何もない、伝統を守らずに生きるなんて危なっかしいことこの上ない。なぜ、伝統を破ろうとするのか。愚かな。馬鹿げたことだ。危険極まりない。それは、あの屋根の上でバイオリンを弾くあの男のようなものだ。なぜ、そんな愚かなことをしなければならないのか。足をすべらせて落ちたらどうするのか。どうして、そんな愚かなことをしなければならないのか・・・≫というナレーションのもと、「伝統」を守らずに生きていこうとする「愚かな人間」が描かれる。愚かと言われても、馬鹿げていると言われても、それでも、「伝統」を守らずに自分が信じた道を歩もうとする者が。

   人間が、比喩として用いる動物や植物などの名称が、はたして、実際のその動物植物などにあてはまるのかどうかというと、必ずしもあてはまらない可能性がある。「イヌ」とは飼い主に忠実で、自分の意思で動くのではなく飼い主に喜ばれようとして、飼い主が気に食わないと思う相手にほえかかったりする人間のことを言うのに対して、「ネコ」というのは「イヌ」ほどは飼い主の言いなりにならないが、やはり、飼い主に飼われていることに違いないので、最終的・究極的には飼い主の意向を反映するようになる存在を言う・・・・ことがあるらしい。昔、中学校のある先生が「警察のことを『政府のイヌ』と言いますが、ぼくらのこと(学校の教師のこと)を『政府のネコ』と言います」と話したことがあったのだが、そういう意味でだと思う。
   しかし、実際の動物の猫はそういうものか。「犬は3日の恩を3年覚えるが、猫は3年の恩を3日で忘れる」とか「犬は飼い主になつくが、猫は飼われた場所になつく」とかいう話があるが、佐藤優氏がモデルの『憂国のラスプーチン』という漫画で、佐藤優氏がモデルの憂木護という男が猫を飼っていた話が出るのだが、そこでは、猫は決して飼い主の恩を忘れたりはしない・・・という動物として書かれている。「猫は3年の恩を3日で忘れる」という動物として書かれていない。
   『美味しんぼ(おいしんぼ)』では、山岡が豚を放し飼いにしてある所に人を連れて行った時、そこが清潔で臭くないのに驚いた人に、「豚は清潔好きな動物ですから」と語る場面がある。「養豚所のよくない環境を見て、豚を誤解している人が多いのです」と。又、豚という動物は太っているものと思っている人間が多いが、それは食肉用に太らせた豚のことのようで、もともとの動物の豚は必ずしも太っていると決まっているわけでもないみたい・・・。

   実際の動物がどうかと別に、「イヌ」は、
(1)警察・警察漢のことを言うことがあるが、
(2)職場においては、経営者の方針に多くの従業員が納得いかないというような時、自分だけが経営者の気に入るようなことを発言するなりして、従業員に敵対する態度をとって、自分だけが経営者に好かれようという態度をとる人間、独立自尊の態度をとる従業員に誹謗中傷を加えて経営者に喜ばれようとする人間、経営者が気に食わないと思う人間に、経営者よりも先に襲いかかってわんわんわんわんと吠えかかる人間。 そういう人間のことを「イヌ」ということが多い。2000年代初め、(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ の工場部門 生産事業部〔日本産業(株)〕にいた石川(男。当時、30代)なんか、典型的なそのタイプだ。会社の経営者たるもの、そういうイヌ人間は見抜いて、あさはかなヤツだなあと思って、そういう人間は、これはその程度のヤカラなんだなと思って「その程度の扱い」にするべきであるはずなのだが、そんな人間をのさばらせて会社にとっていいはずないのだが、ところが、(株)一条工務店の経営者というのは、そういうヤカラが大好き♪ という経営者だった。「この程度の経営者にはこの程度の会社。この程度の会社にはこの程度の経営者」というような状態になっていた。「その程度の会社」は一時的にはぶりがいい時があっても、長い目ではその状態ではうまくいかないのではないかと思うが、うまくいってもうまくいかなくても、「イヌ」が好きな経営者にとっては、人間よりイヌが喜ばれるのだから、どうしようもない。1993年、名古屋の八事(やごと)営業所で営業成績があがっていなくて、千葉県松戸市の営業所に転勤してきて、松戸にきても8カ月間契約ゼロだった松下(男。当時、30代前半)なども「イヌ人間」だった。(株)一条工務店の経営者は「イヌ人間」が大好きだ。
(3) 「イヌ」という動物にたとえられる人間には、もうひとつある。岩井志摩子という肩書は何かよくわからんおばさんが書いていた・・のか、西原理恵子が岩井志麻子が述べていた話として漫画に描いていたのか、なんかそんな感じのもので見たような気がするのだが、「イヌ」というのは「人間を序列化した上で、常に自分を下から二番目に置きたがるヤツ」だそうだ。そう言われれば、そんな人間いるし、動物の犬も、家庭内で自分がどういう位置かを見て、「下から二番目」に置きたがるのか? みたいに見えないこともない。 そう思ってみると、犬って嫌な動物だなという感じがしてくる。 大阪府の同じ中学校から北野高校に同じ年に入学して同じ年に卒業して、私より先に慶應大学に入学したS本は、こいつ、嫌なヤツだなと思ったのだが、その「嫌なヤツ」というのが、どういう「嫌なヤツ」だったかというと、その「イヌ」だったのだ。「人間を序列化して、常に自分を下から二番目に置きたがるヤツ」だったのだ。彼を自分たちより下の扱いにしてやろうとする連中がいて、一緒の中学校から一緒の高校に行ったのに何もそんな態度をとらなくても・・・などと私などは思っていたのだが、そういう態度をとる人間を見ると、「自分を下から二番目に置きたがるヤツ」というのは、自分を対等に置いてつきあおうとする人間は自分より下の存在にしようという気持ちになるらしいのだ。S本を見てわかった。だから、そういう意味での「イヌ人間」とは、そいつを自分よりも下として扱うか、そうでなければ、つきあわないか、ということになる。だから、人間を序列化して考えるという思考が好きではない私は、S本とはつきあわないことにした。こういう男は、S本を自分たちより下に扱いたい人間か、もしくは一番下に扱われたい人間かのいずれかとしかつきあえないだろう。彼は慶應大卒業後、兵庫県庁に勤めたと聞いたが、その後、どうなったか知らんが、おそらく、その後も似たような態度で生きてきたのではないか。

   「ブタ」というのは、
(1)消費にしか関心がない人間。普通、人間というのは、人生・生命・生活の3つがあってこそ、生きていける存在であるはずなのだが、ところが、生命と生活には関心があっても人生には関心がないというタイプ。別名「慶應タイプ」「慶應ボーイ タイプ」である。『セブンビューティーズ』という映画で、詐欺だか何かで捕まった男が、拘置された場所にいたもう一人の男に、あんたは何で捕まったのだ? と尋ねたところ、「 Communist(コミュニスト)」という返答を聞いて、「バカじゃないか」と詐欺師が笑う場面があった。詐欺で捕まるのはバカじゃないが、コミュニストで捕まるヤツはバカだ・・と認識する、いわば、そういうタイプである。要するに、「慶應ボーイ」とその裏返しの女のことである。「両腕いっぱいにカネと女をだかまえて暮らす」ということを何より望み、そうなったり、その夢はかなわなかったりするという、そういうヤカラのことである。その希望のためなら、平気で仲間を売る。そういうヤカラである。↑のS本は(3)の意味の「イヌ」であるとともに「慶應タイプのブタ人間」たる「慶應ボーイ」になりたいなりたいなりたいなりたい♪とあこがれてなれない!という「ブタ」でもあったが、(3)の意味の「イヌ」は「ブタ」と重複することはけっこうある。(2)の意味の「イヌ」も「ブタ」と重複することはある。
(2)無神経な人 という意味で「ブタ」という言葉を使うこともある。2011年、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕(いずれも、2013年11月に正式に倒産)で「工事責任者」を自称していたU草A二(愛称「ブタクサA」)〔男。当時、30代なかば〕が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業で~きま~すもお~ん」と大きな声で何度も叫んでいたことがあったが、まず、実際にやったこともない人間がそういう口をきくということ自体、無神経で、実際にその職種をやってきた人間に対して失礼であり、そういった無神経な性質というのは、営業できない要素の1つと言えるが、そのあたり、U草はブタ人間と評価されるものだろう。体型がデブで無神経な人間というのがおり、そういう人を見ると、体形のデブは無神経なブタ人間に通じるのではないかと思えたりもするが、太めの体つきの人間が誰もが無神経であるわけでもなく、太めの体形でなくても無神経な人はいるので、体形と無神経な人間という意味でのブタ人間とは関係はないと私は考える。

   「サル」というのは、
(1) ひとの物真似しかできない、独立自尊の精神の欠落した人間のことである。自分で考えて自分の考えのもとに行動するということは、天地がひっくり返ってもやらない、かつ、それを自慢にしているというタイプ。いるでしょ。
(2) 仕事の内容でも、独創性のない人間、「マニュアル」か何かのとお~りしかできない、自分で工夫してできない人を「サル」と言ったりもします。
(3) もうひとつ。眼を合わすと襲いかかってくる性質の者を「サル」なんて言ったりもしますね。だから、警察漢なんてのは、「イヌ」であると同時に「サル」でもあるわけです。交番の前を通る時は、眼を合わさないように気をつけて、さりげなく通り過ぎる。これ、善良な市民の心がけです。「サル」とは眼を合わせてはいけません。

   「草」というのは、これは「公儀隠密」のひとつのタイプ。外様大名のもとに潜入し、普段は、その地の普通の人間として暮らしながら、公儀に「情報」を送り、いったん、動きがあれば、命令に従って、「人間」をやっつける・・・というそういう存在。江戸時代の「草」は外様大名についての「情報」を「公儀」に送ったようだが、現在の会社においては、「情報」は「大名」の情報とは限らない。一般従業員についての「情報」を密かに送信する。それも、事実を事実として送信するならまだいいのだが、相当アレンジしたり、捏造したりした「情報」を送ったりするし、また、そういうアレンジされたり捏造されたりした「情報」を受け取って喜ぶ営業本部長なんてのもいるわけだ。(株)一条工務店にいた時、私のまわりには、常に「草」がいた。ははあ~ん、今度はこの人が「草」かあと、ある程度の年数、在籍するとわかるようになった。「草」の役をさせられていた人にも、自分が「草」の役をさせられていると気づく人と気づかない人がいたようで、又、「草」の役をさせられていることに喜びを感じる人というのもいた。2001年、栃木県佐野市の営業所にいた時の「T木のおっさん」(男。当時、50代。創価学会員)もそのタイプだった。「T木のおっさん」は11年余在籍した私よりもまだ古い人間、栃木県にいた従業員のなかでは南部の所長のK下さん、北部の所長のK原さんの次に古い人間だったのだが、それだけ、長くこの会社にいて、わ~からんのか、このじいさんは・・・と思ったのだが、長くいてもわからん者はわからんようだ。 (株)一条工務店においては、自分は「草」だからとか、自分は「イヌ」だからとかいう理由で、営業本部長は自分の後ろ盾になってくれると思いこんで、つけあがるという人がけっこういたのだが、だから常に得すると決まっているわけでもなく、時として、その態度が気に食わないと思われることもあるらしく、お仕えした相手から「はしごをはずされる」ことになって、「あ~れえ~え」となる人もいる・・というお話が従業員の間では神話のような童話のようなお話として伝わっていたが、人間なら「草」だの「イヌ」だのにならずに人間になって人間らしく会社に貢献すべく努力すればどうかと思ったのだが、根っからの「草」とか「イヌ」は人間として生きるよりも「草」や「イヌ」として生きる方がその人間には合っているようだ。

   「ひまわり」てのは、これは別名「長嶋みたいなやつ」。会社においては、「オーナー経営者の好みのタイプ」もしくは、オーナー経営者とかではなく、「営業所長の好みのタイプ」。 私みたいな「日陰の月見草」からすると、「長嶋みたいなヤツ」てのは、I D野球でも駆使してこてんぱんにやっつけたくなるのだが、こういうのをやっつけると、経営者とか営業所長とかは怒りだすのだ。営業の職種であれば、不公平がないように会社経営者は配慮しないといけないはずで、不公平がないように配慮するのは経営者や営業所長などの仕事だと私は思っていたのだが、ところが、(株)一条工務店では、「一条工務店の場合、営業所による条件の違いが甚だしい」と言われていたのだ。ある時、気づいたのだ。なぜ、私は入社以来、ここまで徹底して、条件の悪い営業所にばかり配属されなければならないのか、と。一時的になら悪いことはないと思う。人間、条件のいい営業所にばかりいたような人間はだめです。条件があまりいい方ではない営業所で「なにくそ」と思ってやってこそ実力がつくのであって、条件のいいところ条件のいいところと配属してもらって、据え膳みたいに契約とらせてもらった・・なんて人はだめです。だから、一時的になら条件の良くない所に配属されてもそれは悪くはないと思う・・・が、なんで、私はここまで徹底して条件の悪い所にばかり配属されなければならないのか。滅私奉公を続けて会社に尽くしてきた人間で、会社のために我慢を重ねてきた人間で、横領とか何かしたわけでも何でもないのに。ところが、そんなこと思っても、だめなのだ。まず、(株)一条工務店では「一条工務店はトップの学歴コンプレックスが甚だしい」と言われていた。世の中には、「一流大学」を出ると常に得をする・・・みたいなことを言う人がいるが、絶対にそのようなことはない。オーナー経営者が高卒であったり営業本部長が中卒であったりする会社においては、逆である。「営業所長と経歴が似ている」とかいう人間は、実力・実績がなくても優遇される。そういうのを「ひまわり」、もしくは「長嶋みたいなヤツ」と言う。「俺が打席に入っている時なら『ストライク』と言われる球を、なんで、あいつが打席にいる時なら『ボール』と審判は言うんだ」みたいな、そんな感じ。普通、条件のいい場所にいた人間と条件の悪い場所にいた人間が同じ営業成績なら、条件の悪い場所でその成績を残した人間の方が評価は上のはずだ!・・なんて思うと、会社の評価は逆だったりするのだ。なぜなら、条件のいい場所に配属された人間は「ひまわり」もしくは「長嶋みたいなヤツ」だったのだから。だから、「長嶋」に逆らっちゃいかんかったのだ。「ひまわり」は営業成績があがらなくても経営者は「ひまわり」の味方だし、「ひまわり」よりいい成績をあげてやろう、こんちくしょうと思って努力するヤツというのは、会社の経営者としてはおもしろくないのだ・・・・が、「月見草」としては、「ひまわり」を見ると、「こんちくしょう」て気になって、「ひまわり」とか「イヌ」とか「草」とかよりいい成績を残してやろうという気持ちになる・・のだが、そういう人間を見ると、経営者は余計に腹が立ってくるらしいのだ。

   2010年、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建設業〕(2013年11月に正式に倒産)にいた時、同僚のS井さん(男。当時、40代前半)が、前に在籍した某社にいたある人間のことを「茶坊主」などと言っていたことがあったので、なるほど、世の中には「茶坊主」なんてのも棲息してるんだ・・・と思ったことがあったが、S井さんはそういうことを言える立場かな、自分はどうなのかな・・・とも思った。

   女性の場合、「メカケ」というのがおり、メカケではないのだが、「縁故入社」というのもいる。これは、字の通り。「社長のメカケ」というのが従業員にいる会社というのがあるのだ。「メカケ」と奥さんの違いははっきりしている。社長というのは、社長だから一般従業員よりいくらかえらそうにしても通じるところもあるし、一般従業員よりも高い給料は取得しているはずであるが、片方で、一般従業員よりも大変なところもあり、一般従業員なら必要のない苦労も気遣いも必要とされることもある。「奥さん」というのもそれに共通するところがあるのではないかと思う。ところが、「メカケ」はそうではないのだ。得する部分だけ取るのだ。 「実際にはメカケではないらしいのだが、なぜか、メカケみたいな人」がいる会社もある。
  「スーパー オバタリアン 2号」なんてのも・・・。

   クルマを運転中は、落ちてきそうな物を不安定に乗せているトラック・ナンバーのそろった外車、それに、白黒のパンダみたいな配色のクルマが前を走っていた時には、車間距離は長めに。間に入りたいという車があったら、どうぞと入れてあげる。クルマの運転は安全第一。パンダみたいな配色のクルマが前走っていたら、車間距離は長めに。これ、善良な市民のドライバーの常識! クルマの配色はパンダでも中にはイヌが乗ってる。見るからにゴロツキて感じの警察漢は、どこに因縁つけてくるやらわからんし。いくらなんでも検察官はこんなゴロツキの味方なんでせんだろなんて思うと、考え甘い。検察はゴロツキの味方。裁判所はその下請。内田康夫の小説「浅見光彦シリーズ」の浅見光彦みたいに「兄上が警察庁刑事局長さま」とかならともかく、そうでない人間は「君子、危うきに近寄らず」。建築屋は「安全第一」。2018年はイヌの年。

   (2018.1.4.)

   私事のぞきのデバ亀 なんて亀も会社にはいるが、ブログの字数制限を超えるので、その話はまたの機会に・・
   (2018.2.12.)

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