クリスマスを迎え―山下達郎の音楽的強姦とニセ教会・にせクリスチャン。及、ワイングラスはステムを持とう

[第572回]
   このブログでも、これまで、クリスマスに際して、いくつかの稿を述べてきた。
● 2011年 クリスマスを誤解している人たち~山下達郎の罪、及、クリスマス・誕生日のケーキについて http://shinkahousinght.at.webry.info/201112/article_1.html
● 2012年 クリスマスになぜ山下達郎の野蛮な歌を流すのか?  及、サンピエトロ寺院とミラノ大聖堂での経験 http://shinkahousinght.at.webry.info/201212/article_3.html
● 2013年 クリスマスの思い出 。「いいこと」て何だろ。傍若無人な子供帝国主義の日。営業経験者が頼まない営業とは http://shinkahousinght.at.webry.info/201312/article_4.html
●  〃   [補足]クリスマスは外国では「聖なる日」であるのに対し、日本では「性なる日」なのか。 山下達郎の罪。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201312/article_7.html
   私のブログが効果があったのかどうか、わかりませんが、山下達郎のクリスマスとキリスト教を冒涜する歌は、最近、12月にかかるのは減ってきたように思います・・・・が、先日、千葉県習志野市の千葉県国際水泳競技場http://www.chiba-swim.gr.jp/ に行った際、あの「クリスマスイブ」という山下達郎のキリスト教を冒涜する不潔な歌がかかっていたので、あのようなキリスト教を冒涜する歌を公共機関でかけるのはやめてもらうことはできませんかと受付に意見として言わせていただいた。  

  他に、過去に、クリスマスとクリスマスの時期について、
● 2015年 クリスマスが来ると思いだす事(上)自分の分はなかったケーキ。子供独善主義の母子。自分さえよければ女 http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_2.html
●   〃   クリスマスが来ると思いだすこと(下) 小堀住研の支店長は痴漢人間―富士銀行は会社をつぶす(1)http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_3.html
● 2016年 クリスマスが来ると思いだす事3-ワイングラス鷲掴み「建築家」と三井ホームの「隙間風が吹き込む家」他 http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_3.html
を公開いたしました。

    クリスマスというのは、ナザレのイエス(イエス=キリスト) が生まれた日・・・ということになっている。 実際には、イエスが生まれたのは12月ではなく、もっと暖かい季節だったという説があるらしいことをある方から教えていただいたが、そうかもしれない。 私はイスラエル・ヨルダンといったあたりに今まで行ったことがないので、あのあたりの気候がどうなのか今一つよくわからないところがあるが、日本の東京とか大阪とかいったあたりでのことを考えてみて、「イエスさまは馬小屋でお生まれになった」という幼稚園で聞かせてもらったお話を考えると、たしかに、12月よりももう少し暖かい季節であってこそ、馬小屋で生まれても育つことができるのであって、そんなもん、12月の末に馬小屋なんかで生まれたのでは、死んでまうわ・・・・て感じがしないでもない。
    我が家は両親がキリスト教のプロテスタントの方で洗礼を受けていて、私自身、カトリック系の幼稚園に行ったこともあって、子供の頃から、キリスト教とクリスマスについては、ある程度以上、馴染みがあった。父母はプロテスタントの教会で洗礼を受けていたのに、なぜ、私がカトリック系の幼稚園に行ったかというと、子供の頃、住んでいた大阪市東住吉区のそのあたりには、幼稚園は生長の家が経営しているらしい生長の家系の幼稚園とカトリックの教会が経営しているカトリック教会に併設された幼稚園の2つがあって、プロテスタント系の幼稚園は遠かったので、それで、生長の家系の幼稚園とカトリック系の幼稚園ではどちらがいいかという判断でカトリック系の幼稚園に行かされたようだ。今は、その幼稚園はなくなってしまった。 小学校の2年から3年くらいにかけて、大阪府阿倍野区の父母が行っていたことがある日本キリスト教団の教会の日曜学校にも行った・・というのか行かされたというのか。 国鉄「天王寺」駅の近くにあったYMCAの体操教室に小学校の1年から2年にかけて通ったこともあって、YMCAもキリスト教系だったことから、私の周囲にそういう雰囲気はあった。 もっとも、両親ともにキリスト教の洗礼を受けていたようだったが、どこまで「クリスチャン」だったのかというと、よくわからないところもあるが、「なんとなくクリスチャン」という人もおられるわけで、それはそれでいいのではないかと思う。
   「なんとなくクリスチャン」と名のる人というのは、それは、自分自身でキリスト者として、どれだけ神の命に沿った生活をしているかと言われると自信をもってどうだと言えるかどうかはわからないが、しかし、そうであっても、神とのかかわりをもって生きてきた、生きていることはたしかなので、それで、「なんとなくクリスチャン」だということではないかと思う。 それに対して、「敬虔なクリスチャン」という人もまたいるのだ。こいつがくせものなんだわ。
 1978年、大阪府高槻市のYMCA予備校高槻校(今はつぶれて、ない!)で、「京大東大文系クラス」と称して受験生を集めながら、実際はちっとも「京大東大文系クラス」でない予備校があった。 どこが「京大東大文系クラス」ではないかというと、
(1)京大の法学部・経済学部・文学部・教育学部、東大の文科1類・2類・3類の試験対策を考える能力がある講師を集めていない。 授業やテキストが京大の法学部・経済学部・文学部・教育学部、東大の文科1類・2類・3類の試験に対応していない。特に、東大の入試に対応していない。明らかに「看板に偽りあり」である。
(2)YMCAの職員が自ら「東大よりも京大・阪大を受けるように勧めていますから」などと口にしたことがあり、それなら、「京大・東大文系クラス」ではなく「京大・阪大文系クラス」と命名するべきであったはずで、名称のつけかたを間違っている。
(3)私が大学生の時、東京都で家庭教師をした高校3年生なんかは、ちっとも勉強しないやつで、行くと逃げていない。これ、次までにやっておいてと言ってもやらない、夏休みに八丈島だったか三宅島だったかに海水浴に行くというから、高校3年の夏休みにそんなことして「一流大学」に通った人なんて、あんまり見たことないよおと言っても、それでも、きかずに行く・・・というやつで、「代わってやろうか」と何度も思ったものだが、そういう人間なら、締めつけて無理矢理にでも課題をさせるという方法は有効かもしれないが、京大や東大くらいに行こうというような受験生の場合、自分自身で考えて学習するもので、締めつけてYMCA予備校の受験の経験がない事務職員がでたらめな内容を強制したのでは害があるのだが、それをしたがる。これは、私立の底辺の方の大学に行くような人の指導法であり、「京大・東大文系クラス」の人間にやることではない。
以上の3つの点から「京大東大文系クラス」という名称は明らかに「看板に偽りあり」と言わざるをえないものであった。
   「どこの大学を出たかで人を判断してはいけない」といったことを言う人がいる。 それは、もしも、「一流大学」と言われる大学を出た人間なら無条件にエライ、中卒・高卒か底辺の大学卒の人間は無条件にカスだと言うのなら、それは適切ではないだろう。 しかし、京大や東大に進学したいと考えている受験生を指導しようと思ったならば、自分自身も京大か東大に進学した人か、もしくは、京大か東大に行きたいと思って目指したが行けずに阪大か神戸大あたりに方向修正して進んだ人、京大か東大を受けたが合格できずに慶應・早稲田あたりに進学した人などであれば、自分自身の経験を踏まえて、こういうやり方はうまくいくと思う、これはやっても無駄だと思うといった話もできると思うのだが、自分自身は亜拓大東帝国あたりしか出てない人には無理だと思う。 ほかの仕事であれば、大学はあんまり評価の高い所を出ていないけれども、職場においては一生懸命努力して実績を残しました・・ということだってあると思うが、「京大東大文系クラス」と称して、京都大学や東京大学の文系学部への進学を考えている人間を指導しようということなら、亜拓大東帝国あたりしか出てない人には無理です。自動車学校に行って、指導を受けて運転免許を取得しようと思ったなら、やっぱり、指導員は普通自動車第一種免許くらい取得している人にやってもらいたいと思いませんか?  実際に、京大・東大に合格した人と、合格したいと思ったけれども、断念して阪大あたりに行った人、受けたが合格できずに慶應・早稲田あたりに行った人とどちらがいいかというと、これはいちがいに言えない。相撲の高砂親方(元 大関 朝潮)が、朝青龍を指導できないのは親方が大関どまりの親方だからではないかと言われた時に、大関どまりの親方と横綱にまでなった親方なら、大関どまりの親方は横綱になった親方に劣るということはない、横綱にまでなった親方は「達成した」という意識の人が多いのに対して、大関まではなれたが横綱にはなれなかったという親方は、なぜ横綱になれなかったのだろう、どこがいけなかったのか、どうすればよかったのか・・・と引退した後もいつまでもいつまでも考え続ける。考えるなと言われても考えないでいることはできない。だから、その意識が弟子を指導する時に生きてくる。だから、大関どまりの親方は横綱にまでなった親方に劣るということはない、と本に書いていたとスポーツ新聞に載っていたのだが、それと同様のことはあると思う。また、現役ですんなり通った方がいいか浪人した方がいいか2浪以上した方がいいかというと、当人にとっては現役ですんなり通った方がいいに決まっているけれども、現役ですんなり通った人の中には、なぜ通ったのか、どうしたから通ったのか自分で十分に理解しないうちに通ってしまった・・みたいな人もいる。 だから、京大や東大に行きたいと思って合格できた人間と、断念して阪大あたりに行った人間、受けたが落ちて慶應なり早稲田なりに行った人間では、京大や東大に行った人間に比べて落ちた人間が指導者になった時に劣るとは必ずしも言えないと思う・・・・が、だからといって、亜拓大東帝国あたりしか出てないような人が受験生の指導に向いているのかというと・・・、それは違うと思うぞ。YMCA予備校はそれだった。そんなことだから、だから、つぶれた。つぶれて当然だと思う。つぶれて良かったと思う。
   そのYMCA予備校高槻校の「主事」というなんだかよくわからない名称の職種についていたF井(男。当時、40代?)という男がいて、この男は「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と1日最低3回は言わないと気がすまないという変わったやつだった。藤井の「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」を何度も何度も「もう、それ、聞いたよ」とあきあきしながら聞かされて、早稲田大学てのはなんともくだらん大学なんだなあとその時は思ったが、後になって考えてみて、そうではなく、「あんな早稲田ないわなあ~あ」と思うようになった。おそらく、学歴詐称だろう。 私は、高校を卒業した頃まで、今から考えると、なんともおぼこかったというのか、世間知らずだったというのか、学歴詐称する人なんてそんなにいっぱいいると思っていなかったし、予備校とはいえ学校という所において学歴詐称する人なんてないと思い込んでいたが、そうではなく、世の中、学歴詐称する人間なんてゴマンといるし、そういう人に、学歴詐称をやめさせようとしても、相当難しい。 で、その自称「早稲田の政経でてる」という藤井がいつも言っていたのだ。 「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて、何ひとつ書いてないんだ。あんなもん、読むものと違う。聖書なんて、読んではいかん」と。 「聖書なんて、あんなもの、読むべきではないし、たとえ、読んでも、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん」と。「もし、読むにしても、年齢をいってから読んで、『はあん、そうかいなあ』と思えばいいことであって、若い頃に読むようなことは絶対にしてはいかん」と。 「もし、読むにしても、その時は、牧師か誰かに教えてもらって読むものであって、自分自身で読んで、自分でその意味を考えるというようなことは、絶対にやってはいかん」と。 彼はそう何度も何度も大きな声で大きな顔で口にしたのだった。・・・・で、私は思ったのだ。そんなこと思ってるなら、洗礼なんて受けなければいいのに、なんで、この人はキリスト教の洗礼を受けて、「クリスチャン」を名のっているのだろうか? ・・・と。 なんで?  なんでやのん?  な~んでえ~え??? と。
   なんでか・・・という答えははっきりしている。
(1)キリスト教の洗礼を受ければ、YMCA予備校で雇ってもらえる、職業・飯の種にありつける。
(2)キリスト教の洗礼を受けた上で、YMCA予備校とかそういったキリスト教系の職場に勤めれば、私の母みたいな人間から、「あの人はクリスチャンだから、決して悪い人ではない」とか、「YMCAで主事をしているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも、並みのクリスチャンではない、相当にえらいクリスチャンのはずだ。」とか言ってもらえる。
この2つが理由である。そういうご利益があるから、だから、藤井はキリスト教の洗礼を受けたようだ。 なるほど、たしかに、F井にとってはご利益のある宗教だったようだ・・・が、そんなヤツ、その程度の男を「主事」とかいう意味不明な役職につかせた予備校はどうなったかというと・・・→つぶれた。 神はそういう学歴詐称と名前だけ名乗る「クリスチャン」を決してお許しにならなかった・・・ということなのか、「聖書みたいなもん、絶対に読んではいかん」という宗教は、一時的には御利益はあっても、「長い目で見るならばハリコの虎」だったのか・・・・・。
   YMCAの藤井はこう言ったのだ。 「そんなもん、聖書みたいなもん、あんなもの、読まなくていいんだ。」と。なんか、不思議な宗教ですなあ、「クリスチャン」というのは。 そう思いませんか? 「聖書みたいなもん、あんなもの、読んでもいいこと何ひとつ書いてないんだ。あんなもん」「聖書なんて読んではいかん、あんなもの」と大きな声で何度も何度も言う人というのを、洗礼を受けた上で献金払えば「敬虔なクリスチャン」と「教会」は認定してくださるわけだ。 なんだか、ちっぽけな宗教だなあ・・・・と思いませんか?
   「聖書なんて、あんなもの、読まなくたって、日曜ごとに教会に行って礼拝にでて、献金はらっておけば、それでいいことなんや。 聖書なんて読まなくたっていいんだ」と。 藤井はそう言ったのだ。 藤井の見解によると、結論として、「クリスチャン」の4大義務として、
(1) 聖書は読んではいけない。
(2) 日曜ごとに教会に行って、牧師がなんたらかんたらぐだぐだ行ってる間、席に座っている。
(3) 献金箱に賽銭を入れる。 月定献金は忘れずに払う。
(4) 洗礼を受ける。
この4つが「クリスチャン」として認められる条件で、中でも大事なのは一番目、「聖書は絶対に読んではいけない」であるらしい。 なんか、変な宗教やな・・・。 要するに、洗礼と献金というのは、免罪符みたいなものなわけだ。そういう考えの人を「敬虔なクリスチャン」とか「クリスチャンの中でも並みのクリスチャンではない、相当にえらいクリスチャン」とか言うらしいのだ。
   慶應大学の内部進学の人というのは、「福沢精神」とか矢鱈と口にするのが好きな人が多い・・・のだが、『学問のすすめ』『福翁自伝』『文明論之概略』『痩せ我慢の説』といった福沢諭吉の著作や福沢諭吉の伝記といったもんは1冊も読んだことがないという人が多い。そもそも、福沢諭吉の著作や福沢諭吉の伝記といったものを1冊も読まずに、何が「福澤精神」なんだ・・・と内部進学の人が「(慶應義塾の)外部の者」と呼ぶ大学だけ慶應に行った私などは思うのだけれども、そういう考え方は「福沢精神に反する」らしいのだ。 「福沢精神」というのは、福沢諭吉の著作とか福沢諭吉の伝記とかはまったく関係ないらしいのだ。ともかく、内部進学の人のやることが「福沢精神」らしいのだ。 ・・・なんか、勝手な「福沢精神」だなあ、なんか、勝手な「独立自尊」だなあと思うのだが、それは「外部の者」の思考であって、「塾風を身につけている」内部進学の方としてはそうではないらしいのだ。 ともかく、内部進学の方のなさることが「福沢精神」であり「独立自尊」であり、「自我が確立されている」で「アイデンティティーを持っている」で「社会で役に立つ」であり「ギャルにもてもて」とかいうらしいのだ。「言ったもの勝ち」というのか「嘘でも百回言えば真実」みたいなもの・・・なんて言うと怖いから、言うたらいかん言うたらいかん・・・とか思いつつぽろっと言ってしまうあたり、やっぱり、私は人間できてないのかもしれない・・・が、そんなものだ。 YMCAの「敬虔なクリスチャン」てのも、慶應の内部進学の人が言う「福沢精神」と似ている。「そんなもん、福沢諭吉の本なんて読む必要ないんやでえ。あんなもん、何の関係もない」と「慶應タイプ」の慶大生から私は言われたものだ。 それと一緒。YMCAの人間にとっては「聖書みたいなもん、あんなもの、読む必要ないし、読んではいかん」というのが「敬虔なクリスチャン」なのだ。

   もうひとり、よくわからんのがうちの父親だった。 家では、毎日のように、「共産党は死刑にしろお」「日教組は刑務所にたたきこめ」「朝日新聞の人間は全員、刑務所にいれろお」とか叫んでいるおっさんだったのだが、ところが、「『宗教はアヘンであ~る』とマルクスが言うてお~る」と、その部分限定で「教条的マルクス主義者」になってしまっていたのだ。 これは、父の親友で医者屋のM川から教えられたことを忠実に守って叫んでいたようなのだが、その「宗教はアヘンであ~る」と叫び、「焼~き討ちじゃあ」「焼~き討ちじゃあ~あ!」としょっちゅう叫んでいた「焼き討ち織田信長大好き人間」が、なぜか、キリスト教の洗礼を受けていたのだ・・・・。 なんか、ほんまに、ようわからん・・・・。
   「宗教はアヘンである」とカール=マルクスが言ったというのだが、この意味を誤解している人が多いと思う。父の親友の医者屋のM川も誤解というのか、曲解していた。 日本共産党の宗教委員であった蔵原惟人氏の『宗教-その起源と役割』(新日本新書)に、わかりやすく説明されている。
(1) カール=マルクスは「宗教はアヘンである」と言ったことがあるのか、というと、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で、一度だけ、この表現を使っている。それ以外の所では使っていない。又、エンゲルスはこの表現を使ったことはない。レーニンもこの表現を使ったことはない。(さいとう たかを の『ゴルゴ13』で登場人物の中国人が「レーニンが『宗教はアヘンである』と言った・・・」という発言をする場面があったが、レーニンはこの表現を使ったことはない。)
(2) 「宗教はアヘンである」という言葉はマルクスが最初に使った言葉かというと、そうではなく、マルクスが生きていた頃のドイツで比較的よく使われていた表現で、最初に使ったのは誰かはよくわからないが、マルクスが最初に使った表現ではないようだ。
(3) 「宗教はアヘンである」という表現は、マルクスだけが使った表現かというと、そうではない。 わかっているだけでも、詩人のハイネ、哲学者のヘーゲルなどが使っている。
(4) 「アヘン」という言葉には、「毒薬」という意味と、「なぐさめ」という意味がある。 宗教にも、中には毒薬のような宗教もあるけれども、マルクスは毒薬のような宗教を批判する時には「宗教はアヘンである」という表現は使っていない。『ヘーゲル法哲学批判序説』の中では、マルクスは、「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という「なぐさめ」という意味で使用しており、決して、「毒薬」という意味で使っていない。宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである。 なぐさめであるが、しかし、それは幻想である。 誰もが幻想としてのなぐさめを必要とせず、現実の世の中で誰もが生きた幸せをつかむことができる社会が実現されれば、なぐさめとしての宗教は必要なくなっていくだろう、しかし、なぐさめを必要とする社会を改善することなく、なぐさめだけを取り上げるというようなことは、決しておこなってはならないことだ・・・・といったことを言っているようだ。 だから、マルクスが言った「宗教はアヘンである」という言葉は、「焼き討ちじゃあ」「焼~き討ちじゃあ~あ」という「焼き討ち織田信長大好き人間」とは全然違うのだった。
(5) レーニンは「宗教はアヘンである」という表現を言ったことはないのだが、しかし、宗教批判はマルクスやエンゲルスより厳しいくらいであったが、それは、ロシアにおいては宗教と政治の結びつきが強かったことからである。
・・・ということのようだ。 だから、「焼き討ち織田信長大好き人間」が「焼き討ちじゃあ」と叫んで、その部分限定の「教条的マルクス主義者」になられても、マルクスとしてはいい迷惑てところだろう。
   「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る」というのは、父はその言葉の意味を誤解していたのであり、父に吹き込んだ医者屋のM川は曲解していたのであるが、それにしても、そういう「焼き討ち織田信長大好き人間」が、なんで、キリスト教の洗礼を受けたのか・・・・・、なんかようわからん・・・・と長年思ってきたのだった。
   父は、取引先の容器屋の社長のおっさんからプラスチックのケースをもらってきて、毎日毎日、それに手を合わせて、「ま~んまんまんまんまん」とか拝んでいたのだ。 あのプラスチックの箱の中にいる「神さま」というのは、キリスト教の神なのか仏教の神なのか神道の神なのか・・・、なんかほんまにようわからん・・・。 で、そのプラスチックの箱に向かって両手を合わせて、顔は私の方に向いて、「親孝行せえよお、親孝行せえよお。親孝行せんとバチ当たるぞ、親孝行せんとバチあたるぞお。まあんまんまんまんまん、まあんまんまんまんまん」と何度も何度も唱えていたのだ・・・・が、あの箱の中にいた「神さま」というのはいったい何教の神さんなのか・・・、「まあんまんまん」というのは、キリスト教ではどういう意味があるのか、一度、教会の牧師さんに訊いてみたいと思ってきてずいぶんと経つ。
   大阪府箕面市の日本キリスト教団箕面教会の牧師だったSさんは、大阪経大(大阪経済大学)卒で、「家が貧乏やったから、だから、慶應なんか行かせてもらえなかったから、学費が安い大阪経大に行ったんや」と何度も何度も言っていたようだ。 「牧師説教」でもそんな類のことを言っていたのを聞いた。 Sさんは、子供の頃、債権者に追いかけられて大変だったそうで、「債権者に追いかけられる苦労を考えれば、何だってできる。債権者に追いかけられることほど大変なことはない」と、「牧師説教」として何度も何度も言っていた、聞かされてきた・・・のだが、しかし、「債権者に追いかけられて」いる人というのは被害者なのだろうか?  ひとからカネを借りて返さないか、ひとに仕事をさせてその報酬を払わないかだから、追いかけられているのではないのか?  「債権者に追いかけられて本当に大変だった」と毎度毎度言うのなら、せめて、十回に一回くらいは、本来なら払ってもらわないといけないものを払ってもらえずに逃げられた人間の大変さというのも口にしてはどうなのか?!?! 本来なら払ってもらわないといけないものを払ってもらえずに逃げられた者というのは、ちっとも大変ではないとでも言いたいのか!?!?  そして、私は父から何度も何度も言われたのだ。「ええか、わかっとるか。箕面教会のS牧師さんは大阪経大やねんぞお。おまえとは違って大阪経大やぞお。おまえみたいに慶應みたいなもん、行かせてもらってないねんぞお。ええか、わかっとるか、チャンコロ。おまえとはちごうて大阪経大やねんぞ、わかっとるか、わかっとるか、わかっとるか、チャンコロ!ちゃんころ、わかっとるか、ちゃんころ!」と、父は私の顔を指さしながら、何度も何度も言ったものだった・・・・が、そんなに家が貧乏なら、私立の大阪経大なんて行かなくても、学費の安い国立大学に行けばよかったのと違うんかい??? ・・・・て思いませんか? 家が貧乏なら、東大でも京大でも阪大でも、ともかく、国立大学に行くべきだったのじゃないのか? なんで、家が貧乏なのに、わざわざ私立大学に行くのか? まったく、わけわかんないよ、ほんとに。
   もしも、家が貧乏なら、大阪経大なんて私立大学に行かずに、東大でも京大でも国立大学に現役で行けばいいだろうが! 違うのか?!?  というよりも、S牧師さんは私より少し年上だったが、制度としては私が高校を卒業した頃と同じ制度だったのではないかと思うが、そんなに家が貧乏なら、日本育英会奨学金というのをもらうことができたはずで、もし、日本育英会奨学金を受給できたなら、出してもらえる金額は「学費分」であったはずで、国立大学の場合しか支給してもらえないということはなく、慶應でも早稲田でも私立大学でも支給してもらえたわけで、その場合も出してもらえるのは「学費分」なので、早稲田大学の方が慶應義塾大学よりも学費は高かったけれども、日本育英会奨学金を受給できた場合には「学費分」をだしてもらえたので、どちらに行っても行く人間にとっては変わらなかったはずだ。 なおかつ、慶應大学の場合は、「慶應義塾奨学金」というのがあって、日本育英会奨学金を受給して「学費分」を支給してもらった人には、自動的に「慶應義塾奨学金」から生活費を出してもらえるという制度があったのだ。 だから、「家が貧乏やったから、だから、慶應みたいなカネのかかる大学には行かせてもらえなかったんや」とSさんは「牧師説教」として何度も何度も言いまくってきたわけだが、それは話としておかしい。 だいたい、普通、「説教」というのは、カネを払う側がするもので、カネをもらう側は我慢して聞いているのであって、なんで、わざわざ、カネ払って「説教」聞かされなきゃならんのだ、なんでえ??? て思いません?
   「家が貧乏やったから慶應みたいなカネのかかる大学には行かせてもらえんかったんや」とか牧師は言うようだが、しかし、根源的な問題として、Sさんが慶應大学に行けなかったのは、それは「家が貧乏やったから」だろうか? そうではないと思うぞ。 「ち~が~う~だ~ろ、このボケぇ~え!」と言ってやりたい。「黙って聞いてりぁいい気になりやがって、やいやいやい!!!」て、遠山の金さんみたいに言いたくなってくる。
   さらに。 Sさんは「大阪経大卒」の牧師だが、しかし、大阪経大卒では牧師にはなれないはずなのだ。関学の神学部とか同志社の神学部とかそういう神学部を卒業するかしないと「大阪経大卒」だけでは牧師になれないはずだ。 で、Sさんは大阪経大を卒業した後に、なんと! トーシンダイ(東京神学大学)に行ったらしいのだ。 なんか、話が違うんですけど。 私は慶應大は嫌だったし、経済学部・商学部なんかに行ったのでは、せっかく、小学校の1年から努力して勉強してきたのにそれが無駄になってしまう。 だから、どうしても、慶應大に行けというのなら、しかたがないから、ともかく、卒業して、卒業してから、自分が行きたいと思う大学の進みたいと思う学部に行って、やりたいと思う研究をやるようにしたいと言ったことがあったのだが、父はその時にはこう言ったのだ。「うちは、大学を2つも行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と。 それにしては、「家が貧乏やったから慶應みたいなカネのかかる大学には行かせてもらえなかったから、だから、大阪経大に行ったんや」というSさんは、「家が貧乏やった」わりには大阪経大を卒業した後、さらにトーシンダイ(東京神学大学)に進学したのだ。 はて、「家が貧乏やった」人が、私立大学を2つも行くのか???  「うちは大学を2つも行かすような金持とは違います。甘ったれなさんな」と父は私に言って、私の人生を断ち切ったはずだったが、それにしては、大阪経大しか通らんようなSさんが大阪経大を卒業した後にトーシンダイ(東京神学大学)にさらに行ったことについては、「おまえとはちごうて、家が貧乏やから大阪経大やねんぞお。わかっとんのんか、チャンコロ。Sさんはチャンコロとはちごうて大阪経大やねんぞ、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ。チャンコロ、わかっとんのんか、わかっとんのんか、わかっとんのんか、チャンコロ」と言い続けたのだが、なぜ、家が貧乏な人が、大阪経大しか行けないくせして、大学を2つも行くのか。 まったくつくづくわけわかんないよ。 「これも神のおぼしめし」なのだろうか・・・・・?
   そして、父は私の鼻のあたりを指さして、何度も何度も言ったのだ。「あんたはなあ、慶應大学に行ったと思うておるかもしれんけれどもなあ、あんたが何か努力したから慶應に行けたのとは違うんやぞ、わかっとるか。わしがえらいから行けてんぞ。おまえは何ひとつ、努力しとらんねんぞ。すべて、わしがえらいからやねんぞ」と。 どういうことやねん? ・・・・これはからくりはわかっている。 父の親友の医者屋のM川がこの表現を父に教えたのだ。 「わしは息子に言うたりますねん。 おまえがエライから大学に行けたのとは違うねんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。わしがえらいからおまえは大学に行けてんぞ。心得違いを起こすなよと」と。 しかし、M川のドバカ息子が金権裏口関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に行ったのは、それはM川が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネを関西医大に払ったことで、裏口入学したのであって、M川のドバカ息子が優秀だったから通ったのではないということをM川は言っていたようなのだが、しかし、私は慶應大学の入学試験に何も裏口で入れてもらったのとは違うのだ。 そもそも、父は慶應大に裏口入学させてもらうようなコネもカネも持ってないのだ。 よく言うわ! と思うのだが、親友のM川の言う言い回しを真似たようだった。 M川は「わしがえらいからおまえは大学に行けてんぞ」とドバカ息子に言っていたようだったが、それも違う。M川がエライからではなくM川に薬漬け・検査漬け・毒盛りされた「患者」のおかげで行けたのだ。 で、なんで、裏口入学させてもらったわけでもない私が、裏口入学のドバカ息子と一緒にされにゃならんのだ???
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産経新聞:2016/09/29(木) 04:15:51.05 ID:hHdpofJcリハビリ中、20代女性の胸触る…容疑で51歳元理学療法士を逮捕 大阪府警  https://potato.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1475090151/ によると、
2016.9.28 20:25
  関西医大香里病院の理学療法士 が20代の女性の胸を療法中にさわったということで寝屋川署に逮捕されたらしい。
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    父は、何度も何度も言っていた。私の鼻の頭のあたりを指さして。「このわしは英雄やねんぞお。ヒットラー総統のようにエライ人間やねんぞ。おまえとは違うねんぞ、チャンコロとは。わかっとんのんか、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ。 民族の違いを決して忘れてはならんぞ、チャンコロ。このわしはドイツ人やぞ、チャンコロ。わしはヒットラー総統やねんぞ、チャンコロ。決して決して民族の違いを忘れてはならんぞ、チャンコロ、階級の違いを忘れるなよ、チャンコロ」と。 その「ドイツ人のお父さん」は、こうも言っていたのだ。「わしかて、家が貧乏やなかったら、間違いなく慶應に行きました。 おまえとはちごうて、家が貧乏やったから、だから、慶應みたいなもん、行きたかったけれども、行けなかったんや。家が貧乏やなかったら、わしは間違いなく絶対に慶應に行きました。おまえとは違うねんぞ、チャンコロ。おまえとはちごうて家が貧乏やったからほんまは行けたのに慶應に行かせてもらえなかったんやぞ、チャンコロ。わかっとんのんか、わかっとんのんか、わかっとんのんか、チャンコロ!」と。 たしか、父は、昔は「このわしは、同志社大学という立派な立派な大学を出てます」と言うておったはずだった・・・・が、ある時から、「わしは慶應やぞお。わしはほんまは慶應の人間やねんぞお。おまえとは違うねんぞ、チャンコロ。おまえとはちごうて慶應の人間やねんぞ、チャンコロ」と言い出すようになったのだ。 そして、「おまえは拓殖じゃ!」と私に言うようになった。 「ええか、わかっとるか。 このわしはほんまは慶應の人間やねんぞお、おまえはほんまは拓殖じゃ。民族の違いを忘れるなよ、拓殖。階級の違いを忘れるなよ、拓殖。わかっとんのんか、拓殖。わかっとんのんか、チャンコロ。わしは慶應やねんぞお、わしは、わしは、わしはあ」と。 たしか、昔は「同志社大学という立派な立派な大学をわしは出てます」と言うておったはずだったのだが、いつから、慶應に宗旨替えしたのか? ・・・なんかようわからんな・・・と思ったが、要するに、父は息子が「自分より上の大学」に行ったというのがとうてい許しがたいことだったようだったのだ。 息子が「自分より上の大学」に行ったというのは、とうてい耐え難いことだったようだ。だから、「わしはほんまは慶應やねんぞお。わしはほんまは慶應」となり、そして、「おまえはほんまは拓殖じゃ、この拓殖めがあ!」ということになったようだった。
    たしかに、父が「慶應の経済」と「神戸大の経済」が好きだというのは聞いていた。だから、私は「慶應の経済」と「神戸大の経済」は大嫌いだった。 で、「わしは家が貧乏やったから、だから、ほんまは絶対に慶應に行けたのに行かせてもらえんかったんや」と何度も何度も言っていたのだ。「おまえとは違うねんぞ、チャンコロとは違うねんぞ。チャンコロとはちごうて、慶應に行きたかったけれども、家が貧乏やったから行かせてもらえんかってんぞ」と何度も何度も毎日のように、私の鼻の頭を指さして叫んでいた・・・・のだが、父が他界して10年ほど経ってから、かつては父に同調していた母が正反対のことを言い出すようになった。 「あの人が、ほんまやったら慶應に行ってたってえ? よく言うわ。 あの人、慶應を受けたけれども、落ちたんでしょ。 私、結婚する前からあの人の近所に住んでたから知ってるよ。 受けたけれども落ちたから行けなかったんでしょ。 『貧乏やったから行かせてもらえんかった』やて、よく言うわ。 あの人の家、結婚した頃はもう戦争でだめになってお金のない家やったけれども、あの人が大学に進学する頃は、ここのお父さん(わたしからすると祖父)は、大阪の船場の商社でものすごいやり手で、新聞の一面に名前が載るような人やったんじゃないの。家に女中さんがいるような家だったでしょうよ。何が貧乏やったから慶應に行かせてもらえんかったよ。よく言うわ、受けたけれども落ちたから行けなかったくせしてからに。息子が知らんと思って、よくそんなこと言うわ」と。 「だいたい、同志社も、あの人、裏口と違うの?」と言うのだ・・・・、で、思い当たった。 裏口であるかないかと言っても、そもそも、父が大学に進学した頃は、私が高校を卒業した1970年代後半なんかと違って大学は入りやすかったはずで、正規であるかどうかにかかわらず、同志社なんて入りやすかったはずなのだが、「推薦入学」という制度があって、「推薦入学」は「裏口入学」と一緒ではないのだが、試験を受けて入った人間から見ると「裏口」みたいに見える時があるのだが、同志社のようなキリスト教系の学校の場合、「推薦入学」させてもらおうとすると、「キリスト教の教会で洗礼を受けること」というのが条件らしいのだ。 それで、父の父(祖父)は慶應に裏口入学で息子を入れるコネは見つけることができなかったけれども、同志社に「推薦入学」で入れてもらうコネとしてある教会の牧師さんを見つけてきたらしいのだ。 その牧師さんに頼んで、父に洗礼を受けさせて、もともと、家の宗教は浄土真宗だったのをキリスト教に改宗して、父を同志社大学に入れたようだった。 しかし、父としては「ほんまは慶應に行けたはずや」という意識があって同志社では不満だったらしい。 祖父がきっちりと慶應に裏口入学するコネを見つけてくればよかったのだろうけれども、祖父が見つけることができたのは同志社に「推薦」してくれる牧師さんであって、慶應に裏口で口をきいてくれる人をみつけることはできなかったらしい・・・というカラクリだったのではないかと思う。 だから、「わしかて、家が貧乏やなかったら、間違いなく慶應に行きました。おまえとは違うねんぞ、チャンコロ。おまえは自分は慶應に行ったと思うておるかもしれんけれども、わしがえらいから行かせてもらったのであって、おまえは何一つ努力しとらんねんぞ、チャンコロ。おまえは柘植やねんぞ、拓殖。おまえは拓殖でチャンコロでニグロでプエルトリコでロスケでイタコでチャンコロやねんぞ、拓殖。のぼせあがるなよ、チャンコロ。つけあがるなよ、拓殖」と、毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれていやになっちゃうくらいに言い続けたのだった・・・・。毎日毎日、言われ続けて・・・疲れた。
   なんで、「焼き討ち織田信長大好き人間」がキリスト教の洗礼うけるんだろうなあ~あ・・・と不思議だったのだが、「謎はすべて解けた。じっちゃんの名にかけて」てことだ。〔←の文句、わからない人は『金田一少年の事件簿』を読もう♪ 〕 同志社に入れてもらうために受けた洗礼だったのだ。 だから、「焼き討ちじゃあ」「宗教はアヘンであ~る。とってちってたあ~あ」と叫び続けるおっさんが、「クリスチャン」になったのだった。
  
    世の中、わけわかんないことだらけ!  キリスト教の葬式というのは、「冷たい」とか「味気ない」とか言って人気薄であるのに対して、結婚式は最近大人気らしくて、それまで、教会という所に行ったこともなく、YMCA予備校の藤井が勧めていた「聖書みたいなもん、あんなもん、いいことなんて何ひとつ書いてないんや。あんなもの、読んではいかん」という説を信奉してかどうか知らんが、聖書なんて1ページも読んだことがないようなにーちゃんねーちゃんが、「キリスト教式」の結婚式をあげるということが多いらしい。 そして、そういう結婚式用の「コスプレ牧師」なんてのもいるらしいのだ。 『本当にあった笑える話』とかいう漫画雑誌に載っていた読者投稿で、「結婚する前に、ちょっと遊ぼう」と白人の男とホテルに行って「やった」ところ、結婚式の担当の牧師(なのか宣教師なのか司祭なのか)は、その結婚式前に一緒にホテルに行って「やった」相手の男だった・・・・などという話が載っていた。 そういう「キリスト教式」結婚式というのは、それは、はたして、キリスト教だろうか? そういうのを、たとえ、結婚式場に十字架が設置してあったとしても、それをキリスト教と言うべきだろうか・・・・???

    「建築家 安藤忠雄」とかいうおっさんがいるわけだ。 知らない人は、ウィキペディアでも載ってるはずだから見てください。 その安藤忠雄の「代表作」というと、「住吉の長屋」というのがあげられることが多いが、他に、「光の教会」と「水の教会」というのがあげられることがある。 これが、何ともくせものなのだ。 「光の教会」は、大阪府茨木市北春日丘 にある日本キリスト教団茨木春日丘教会という教会の教会堂であるが〔茨木春日丘教会HPhttp://www.ibaraki-kasugaoka-church.jp/ 〕、「水の教会」ば北海道のトマムというリゾート地に作られた「結婚式場専用教会」、「なんちゃって教会」なのだ〔星野リゾート トマム 水の教会HP https://tomamu-wedding.com/waterchapel/visit/ 〕。 どれだけ、キリスト教徒として立派な態度をとっているかいないかはさておき、日本キリスト教団の、ともかく、信仰の教会の教会堂を設計した人間が、他方において、「結婚式場専用教会」などという「なんちゃって教会」の設計もするというのは、これは、安藤忠雄という人は、他の点についてどうかは別として、この点においては、節操がなさすぎる!

    山下達郎の下品な歌は、私は歌と言うに値しないと思うが、それでも聴きたい人は自宅で聴けばいいだろう。 あんなものを公的な場所で流すのでは、それは「音楽的強姦」である。 女性のヌード写真の掲載された雑誌を家に持ち帰って見るのなら好きにすればいいとしても、電車中で周囲に他の人間もいるのにおかまいなしに広げるというのは節操がない・・・ということ以上に、山下達郎の「クリスマスイブ」などという下品・下劣な歌を公衆の場で流すのは下品で節操がない。
   「聖書みたいなもん、読んではいかん」と主張する「敬虔なクリスチャン」、「焼き討ち織田信長大好き人間」で「宗教はアヘンであ~る!」と叫ぶ洗礼うけたおっさん、聖書なんて1ページも読んだことがないのに「キリスト教式」で結婚式あげてさっさと離婚するにーちゃんねーちゃん、山下達郎の下品な歌に抵抗を感じない自称「クリスチャン」、片方で日本キリスト教団の教会の教会堂を設計して他方で平気で「結婚式場専用教会」を設計して抵抗を感じず「代表作」にしている「建築家」。 こういう人が増えるのを、神さまはお喜びになるのだろうか? イエスさまはお喜びなさるだろうか?
    何年か前から、クリスマスイブの12月24日とクリスマスの12月25日の2日間は、必要がない限り、外に出ないようにして、そして、家でバッハの『マタイ受難曲』を聴くことにしている。 日本においては、クリスマスには『メサイヤ』よりも『マタイ受難曲』の方がよく似合う。 どう考えても、キリストが生まれた日という感じがしない。むしろ、受難にあった日、受難にあっている日という感じがしてならないのだ。
   聖書には、「何を食べようか、何を着ようかと思いわずらうな」と書かれているのだが、神さまは野の鳥も野の草も見守ってくださっているように、私たちの髪の毛1本まで数えられている・・・らしいのだが、神さまは、どうして、私にお嫁さんをくださらなかったのだろう・・・と思ったことがあった。 そして、クリスマス用のケーキを2人分買ってきて食べたことがあったが、ひとりで2人分食べると胸が悪くなってかえって気分が悪かったので、それは翌年からやめた。 ケーキを見ると思いだす。山梨県上野原市の不二家で、私が先に入っていて奥に向かって呼びかけているのにテレビでも見ていたのか出て来てくれず、子供連れの女が入ってくると、何も言わないのに飛び出てきたおばさん。 それ以来、上野原の不二家では買わないようにしたところ、しばらくすると、上野原市の不二家は閉店した・・・・が、気分が悪いので、最近ではクリスマスにはケーキは買わないことにした。

   クリスマスの時期は、忘年会の時期と重なる。 忘年会のことを「クリスマス会」と称する職場もあるみたいだ。 2010年、千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング(有)〔建設業〕の忘年会で、「建築家」と称するN村(男)が、ワイングラスのボウルの上部をグワッと鷲掴みにしたのには強烈な印象を受けた。 あんまり、そんな持ち方する人ないと思うけどねえ~え・・・・・。 ワイングラスはステムの部分を持つべきだ。 ワインではなく水が入っている場合でも同様。 ステムの部分ではなくボウルの部分を掴むのなら、ワイングラスに入れる必要はない。「普通のコップ」に入れればいいことだ。 ボウルの上部をグワッと鷲掴みにして、それでもって、「建築家のつくる家」と名刺にいれてるおっさん。「建築家」てなんか変わってるよね。 信仰のかけらもない「結婚式場専用教会」などという「なんちゃって教会」を平気で設計する「建築家」と同様、ワイングラスのボウルをグワッと鷲掴みにする自称「建築家」というのは・・・・・、まあ、そういう人なんだろうな、と考えるしかないか・・・な・・・。
   愛知産業大学の建築学科でお世話になった守屋弓男先生はなかなかユーモアのセンスがある人で、『時空のアトリエー建築家の夢と現実』(1993.5.20. 悠思社)で、≪ 現状からみて我々の職業にはおよそ二つの方向があるように思われる。一つは設計士、図面士、ドラフトマン、何と呼んでもけっこうだがそういう方向、図面を一枚描いていくらという世界である。それからもう一つは“先生”と呼ばれるような芸術家の世界。こちらの仲間入りをすると、対価はもちろん一枚いくらではなくなる。値段などあってないような世界である。 先生や芸術家と呼ばれるからには、呼ばれる方もせいぜい芸術家のフリをしなければならない。難解な文章を書いたり、奇抜な格好をしたり、奇行をして見せたり、さらに、奥さんを替えてみせれば完璧だと思われる。だいたいこちらの方はパフォーマンス能力というか、タレント性がないとなかなかつとまるものではない。 ≫と書かれている・・・・が、この「先生」の物真似というか猿真似というかをやりたがる男が、五流大学の建築学科とか建築の専門学校とかを卒業したおっさんには多いんだわ。アホが。変った帽子かぶったり羽根のついた暴走族みたいな真っ赤なスポーツカーに乗ったりしてみせるN村のおっさんもその類かな・・・。ワイングラスについては、建築屋ならさりげなくステムを持つのがマナーだが、ボウルの上部をグワッと鷲掴みが「建築家」とか思っていたのか・・・どうか・・・?

   あす、12月23日は天皇へーか のお誕生日で、24日がクリスマスイブ、25日がクリスマス。 なんだか、キリストが十字架につけられた日みたいな感じのクリスマス。

※ 《YouTube-J.S.バッハ《マタイ受難曲》第1部全曲 カール・リヒター(1958) 》https://www.youtube.com/watch?v=ba9TMBUAmMc
   (2017.12.22.)

  本日、近所のファミリーマート 船橋飯山満町店 に行ったところ、山下達郎の「クリスマスイブ」という野蛮・下劣な音楽がかかっていた。この歌は神とキリスト教を冒涜する歌であり、私は嫌悪感を覚える。とりあえず、向こう1ヶ月はそこでは買い物はしないことにする。
  (2017.12、24、) 

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