祐天寺(目黒区)参拝【6/7】書院。免震とバリアフリーの関係。鬼怒川・毛野国の地名の由来。

[第578回]
   本堂の右側に「書院」がある。↓
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( ↑ 「 i 」マークが書院。 )
≪ 寛保元年(1741)、六代将軍家宣の正室天英院が逝去ののち、その御座の間の材木、金具等が祐天寺に寄進されました。それを使って寛保4年(1744)にほかの建物と共に、書院が建立されました。しかし明治27年(1894)書院は本堂と一緒に火災で焼失し、明治30年(1898)に再建されました。≫( 「祐天寺HP 書院」http://www.yutenji.or.jp/main.asp?fl=show&id=1000002137&clc=1000002122&cmc=1000002126&cli=1000002128&cmi=1000002130&win=True )
   《ウィキペディア-祐天寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%A4%A9%E5%AF%BA によると、本堂・地蔵堂・地蔵堂門・表門・水屋とともに、書院も「国 登録有形文化財」に指定されているらしい。

   書院もまた、免震構造が施工されているのだが↓
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↑ このカラーコーン(パイロン)だが、建物のすぐそばにいると、大地震が突如発生したという時、建物が最大45cm横方向に動くので危険であるということを示すために置いているのかもしれないが、ところが、カラーコーン(パイロン)をすぐそばに置くと、今度は、大地震が発生して建物が横方向に動いた時にカラーコーン(パイロン)がはじき飛ばされるか押しつぶされることになる可能性がある。〔↑の写真のカラーコーン(パイロン)の場合、押しつぶされることになるのではないか。〕 免震構造はいいところはあるのだけれども、問題もあるわけで、戸建住宅においても、建物のすぐそばには自転車を停めたり、植木鉢を置いたりといったことができないわけで、かつ、新築直後はそういったことを覚えていても、住んで何年かすると忘れてしまって置いてしまい、そして、地震は「忘れた頃にやってくる」ということになる可能性があるわけです。
  ↑のカラーコーン(パイロン)は溝に置くのではなく溝のすぐ外側に置くべきだと思います。
   本堂のところでも見たものですが、↓の部分、
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↑ の1枚が、地震発生時に建物が横方向に動き出した時、どう反応するのか。 ぴょこーんと跳ね上がるのだろうか。 しかし、それだと、そのすぐ近くにいたり、その上に足をのせていた人は危ないのではないか。どうなるのだろう・・・・・・。

   本堂と書院はよく見るとつながっているのです。↓
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↑ 本堂と書院の接続部です。 紅葉がきれい。
↑ のようにつながった建物というのは、免震構造についてはどうなのだろう。免震装置もつながっているのだろうか?・・・・・と思って見ると、↓
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↑ どうも、免震装置もつながっているみたいです。

   祐天寺は茨城県常総市の鬼怒川河畔で、助・累という女性の怨霊を「成仏得脱」させた祐天(ゆうてん)上人の寺として知られています。 もっとも、「知られています」といっても、地元の人が誰もが知っているかどうかはわかりません。
(1) 1993年、(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ に在籍した時、福島県いわき市平(たいら)尼子町(あまこまち) の営業所(展示場)に転勤して行った時、JR「いわき」駅(その頃は「平(たいら)」駅)の南西に松が丘公園というのがあって、そこにお殿様の大きな銅像が建っていたのです。 それで、いわき市の同じ営業所にいたS藤K二さん(男。当時、40代)に、「松ヶ丘公園に大きな銅像が建っていますが、あれは誰なのでしょうか」と尋ねたところ、S藤さんは何と言ったかというと、「知らねえ。 どうせ、たいした殿さんじゃねえ。いわきの殿様みたいなもん、たいした殿さんじゃねえ。いわきにろくな人間いねえ」と、そう答えたのです。 佐藤さんというのは、日本全国に多い名字ですが、いわき市では、佐藤さん・鈴木さん・渡辺さん・小野さんという名字は全国的に多いだけでなく、いわき市では特に多い名字です。草野さん・国井さん・藁谷さん・蛭田さんは全国的には特別珍しいということはないとしても特に多いわけではない名字ですが、いわき市では多い名字です。佐藤さんは全国的に多い名字であるだけでなく、いわき市では特に多い名字であったように、いわき市の生まれの人で先祖から福島県の人でしたから、知っていていいかと思ったのですが、「どうせ、ろくな殿様じゃねえ」ということでした・・・・が、再度、行って見て、そして、書物などで調べてみると、いわき市のJR「いわき」駅の南西の松が丘公園に立っていた殿さまは、なんと、安藤信正! 江戸時代末期、筆頭老中として公武合体政策を推し進め、坂下門外の変で襲われて失脚した、又、桜田門の変で大老 井伊直弼が水戸藩士に襲われて首を奪われたという時には、譜代大名筆頭の彦根・井伊家と御三家・水戸 徳川家とでガチンコ対決か!?!〔《 Inoki Bom-Ba-Ye (Theme of Antonio Inoki) アントニオ猪木》https://www.youtube.com/watch?v=BvmqYM1xpZA 〕 という時に、待て待て、ちょっと待たんかいと、「井伊大老は病気で亡くなられた」ということにして水戸徳川家から井伊家に見舞いの使者を出させることで双方に鉾を納めさせて、譜代大名筆頭と御三家とのガチンコ対決を回避させたという人であり、畏れ多くも受験日本史頻出人名様であった。その安藤信正が磐城の国 平(たいら)藩の藩主だったのだ。明治維新後において廃藩置県の後、多くの県では城下町が県庁所在地になったが、福島県で最も大きな城下町 会津若松は佐幕側の会津藩の城下町なので県庁所在地には選ばれないとして、浜通りの城下町 平(たいら)もまた、佐幕側についたことから県庁所在地の対象外になり、福島市が県庁所在地になったらしい。そういう日本史における有名人を、「知らねえ。どうせ、ろくな殿様じゃねえ。だ~れも知らないような殿様だ。いわきの殿様だもん。」と言うておったのだ。「地元の人」のくせに。

( ↑福島県いわき市平(たいら) 松が丘公園 「 i 」マークが 安藤信正の像。 )
(2) 「佐藤のじいさん」(当時、40代前半だったが雰囲気が「じいさん」だったのでそう呼ばれていた)は、JR「平(たいら)」駅(現「いわき」駅)の北側のいわき市平城跡(たいら しろあと)という住居表示の地域が、元は平藩の城だった場所なのだが、そこは今は住宅が建っていて元 平(たいら)城があったという史跡という表示すらないのを「情けねえ。お城に家たてて住んでるなんて、そんな街が他にどこにあるよ」とか言っていたのだが、討幕と佐幕の争いで敗れた佐幕側の藩というと会津藩が有名だが、実は磐城 平(たいら)藩もそうで、平城が城として残っていないのは、もしかすると、佐幕側についた藩だとして城が破壊されたとかいったことがあったということはないか? 松が丘公園に建つ安藤忠正の像は、元藩士が建てたらしいが、平(たいら)城であった所に建てずに別の場所に建てたというのは、佐幕側についた藩、負けた側であったことから、城跡に建てさせてもらえなかった・・ということはないか? ・・・いわき市の生まれでもない私がこういったことを考えてみたりするのだが、いわき生まれのS藤さんはそんなこと考えたこともない。松が丘公園のばかでかい安藤忠正の像は、負けた側の藩士がその思いをこめて建てたものらしいが、「知らねえ、あんな殿さん。誰だか知らねえ」とか言っていたのだ。

( ↑ 「旗」マークはJR常磐線「いわき」駅。 左隅の緑色が松が丘公園。 )
(3) 何より、祐天寺にゆかりの祐天(ゆうてん)上人というのは福島県いわき市四倉 の生まれだったのだが、祐天上人なんかまったく知らず、「いわきの出身で有名人なんて、だ~れもいねえ。有名人なんて誰もいねえ街だ。いわきは」「どうしようもねえ」とか言っていたのだ。(もしかすると、いわき地区出身の有名人としては、唯一、いわき市内郷 出身のAV監督の某 なら知ってたかもしれんが・・・) 「どうしようもねえ」とか「いわきは有名人なんて誰もいねえ所だ」とか、「地元の人」の「佐藤のじいさん」は大きな顔して大きな声で言っていたのだった。

( ↑ 「旗」マークは、JR常磐線「四倉」駅。 )
   いわき市から福島県双葉郡・相馬郡にかけての浜通り地域は、原発事故さえなければ、自然環境もいい所で、風景もきれいで、住んでいる人も親切で気持ちの優しい人が多い所だと思ってきたのですが・・・・、しかし、実際問題として、畏れ多くも受験日本史頻出人名様を「知らねえ。どうせ、誰も知らねえ殿様だ、いわきの殿様なんて誰も知らねえ」とかヌケヌケと言うとは・・・・とそんな人が現実に少なくない所・・・という面もありました。そんなことだから、原発みたいなもの作られてしまうんだよ!!! 「いわきはな~んもねえ所だ」とか言う人が多かった。「そんなことないと思いますけれどもねえ。気候だっていいし、きれいないい所だと思いますけれども」と言うと、「そりぁ、名所旧跡とかそんな場所でもあればいいけれども、いくらきれいな所だって単にきれいな所だというだけではどうしようもねえ」とか言う人が少なくなかったが、そんなこと言ってないで、それならそれで、自分たちでアピールして売り出すとか考えられないものか・・・と思ったが、どうも、そのあたりの能力がない人が多い所なのか、「どうしようもねえ。何にもねえ」と言いまくってしまう人が多い所だった。それでも、いい所だと思ったのだが、原発事故による放射能汚染を受けてしまったのは残念だが、実際には有名人も出ているのに、「どうせ、誰も知らねえ殿様だ」とかそんなこと言ってるから、だから、原発みたいなもん、作られてしまうんだよ!・・・ それと一緒で、祐天寺も、茨城県常総市での祐天上人による怨霊の成仏得脱のお話を知らない「地元の人」というのもけっこういるかもしれない・・・・。
〔 《ウィキペディア―じゃんがら念仏おどり》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%8C%E3%82%89%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E8%B8%8A%E3%82%8A によると、福島県いわき市とその近辺で盆の季節におこなわれる「じゃんがら踊り」を始めたのは、祐天上人だったという説もあるらしい。 〕

( ↑ 「 i 」マークが 法蔵寺 。 )
    鬼怒川(きぬがわ)というと、日光の北東にある鬼怒川温泉が鬼怒川かというと、鬼怒川温泉を北から南へ流れている川も鬼怒川だが、さらに茨城県を南に流れて利根川に合流するのである。 「鬼が怒る」とは、なんだかすごい名前だが、もともとは、絹川だったのか、衣川だったのか・・・。
(1)  「キヌ」という音が元ではないかという説もあるみたいなのだ。 塙 静夫(はなわ しずお)『とちぎの地名を探る』(1996.11.2. 随想舎)には、
≪鬼怒川の古い呼び名は「毛野(けぬ)河」であった。・・・・ 「毛野」の国名について、通説では江戸時代に本居宣長が『古事記伝』の中で「毛は草木を言か、木を毛と言ることもあり。(略)坂東は足柄の関より東、いと山などを侍らず、みなはるかなる野となりと言り」と記した説を踏襲し、草木の生い繁った地と解釈している。これは一笑に付さなければならない。古代には毛野国に限らず、至るところに草木は生い繁っていたのである。
 「毛野」は先にしるした「毛野河」に由来するものであろう。ケヌ(毛野)=ケノは「クエ(崩)・ノ(野)」の転で、クエは動詞クユ・クエル(崩・潰)の連用形の名詞化、ノは大地をいうナの転(『大言海』)で、場所を示す接尾語(土地をいう古語ナ)である。従って、毛野河は洪水などによって決壊する氾濫河川に由来するものであり、毛野国は毛野河の名に由来するものと思われる。
 なお、『倭名類聚抄』には毛野河を「衣(きぬ)川」と記し、中世から近世の文献には「衣川」とか「絹川」と記している。これは衣は絹を原材とするので、衣川・絹川を混用したのであろう。今日の「鬼怒川」の字は明治初期になってから使われるようになった。・・・・≫ と出ている。
(2)  もっとも、栃木県を下野の国(下毛野国)(しもつけのくに)、群馬県を上野の国(上毛野国)(かみつけのくに)と言う「毛野」の由来については他の説もあるらしく、丹羽基二『[地名]でわかるおもしろ起源(ルーツ)』(1996.9.1.青春出版社 青春BEST文庫)には、
≪ 下野(しもつけ)国と上野(かみつけ)国とは合わせて昔は毛野国(けのくに)と言った。 この毛とは禾(け)の当て字で、米、麦などの禾本(かほん)科の植物の総称である。 いわば五穀のよくみのる国という意味だ。 これは、阿波(粟)国、吉備(黍)国の例もあって、昔は国名を産物で示した。 大化改新以後、「毛」の字がはぶかれて下毛野、上毛野が下野、上野に二字に略化された。・・・≫ と出ている。粟の国→阿波、黍の国→吉備(備前・備中・備後)、榀の国→信濃、木の国→紀伊 の類で、禾の国→禾野→毛野→上毛野・下毛野→上野・下野 だというのだ。
(3)  さらに。 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中公文庫)によると、エミシのことを「毛人」と書いたことがあるらしいのだ。 『古事記』(岩浪文庫)を見ると、崇神天皇の息子として「豊木入日子(とよきいりひこの)命」の名が出ている。≪ 御真木入日子印恵命、師木の水垣宮に座しまして、天の下治らしめしき。 この天皇、木国造、名は荒河刀弁(あらかはとべ)の女、遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまくはしひめ)を娶して、生みませる御子、豊木入日子(とよきいりひこの)命。 次に豊鉏入日売(とよすきいりひめの)命。二柱。・・・・次に豊木入日子命は、上つ毛野、下つ毛野君等の祖なり。・・・≫と出ている。 日本人の祖先を見た時、ヤマトとアヅマとエミシに分かれるのではないかと言う人がいるようなのだ。関東地方には「東村」「東町」がずいぶんと多いが、これは、関西に対抗して「東」を主張しているということもあるかもしれないが、東西南北の字の読み方を見た時、
ひがし―にし―みなみ―きた
トウーサイーナン―ホク
という読み方は東西南北に対応するけれども、「東」だけは「アヅマ」という読み方があって、「アヅマ」に対応する西・南・北の読み方がない。 群馬県にJRに吾妻(あづま)線があり、「吾妻」という字が充てられている。 『古事記』を見ても、上野国・下野国の「豊木入日子(とよきいりひこの)命」だけがその地域の神さまとして名前が出ていて、他の「国」でその国の神さまの名前が出ているものはないのだ。もしかして、北関東地域にヤマトとは別の政権があって、ヤマトと異なる「民族」とまでの違いではないのかもしれないが、「民族」に近い違いのある「族」が存在したという可能性はないか。 「エミシ」と「アイヌ」は同じなのか別なのかというと、井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中公文庫)などは別だと見ており、関裕二氏の本など見ると、関裕二氏は、中国では自分の所を中心として、東夷・西戎・南蛮・北狄と東西南北四方の異民族を野蛮人として呼んだのに対して、日本ではヤマト政権は東側の勢力を「東夷」ではなく「蝦夷(えみし)」と呼んだのだが、この「蝦夷」の最初の字は「蝦(えび)」であり、動物のエビの特徴として、手足が長いという所があり、農耕をおこなうようになったヤマト政権の人間に対して、東日本の人間は狩猟生活をして肉食が多かったことから、ヤマト政権の人間に対して、東日本の人間は腸が短くて、その為、胴体が短く、手足が長いように見えて、それをヤマト政権の人間は「エビ」にたとえて、「東夷」の「東」を「蝦(えび)」の字に変えて「蝦夷(エミシ)」と呼んだのではないのか、という意見を述べている。 その東日本の人間というのは、東日本のどのあたりの人間のことなのかというと、必ずしもきっちりとした区域が決められていたわけでもなく、ヤマト政権の比較的安定した支配地域より東、鈴鹿の関・不破の関・愛発の関より東の方の人間を、必ずしも正確にこのあたりと決めずに「エミシ(蝦夷)」と言っていたのではないのか、と。 で、「エミシ」と「アイヌ」はどう関係するのか。 もともと、「エミシ」と「アイヌ」は別だったのだが、「エミシ」がヤマト政権と同化していった後、それよりさらに東・北の方向に住む人間の「アイヌ」が住む北海道を「蝦夷(エゾ)」「蝦夷(エゾ)が島」と呼んで、なんだか、「エミシ」と「エゾ」と「アイヌ」がごちゃまぜになってしまったようなところがある。 で、ともかくも、ヤマト政権が「毛人」と呼んだ人たちがいたらしいのだ。 「毛人」とはどういう意味なのか。毛深いのか? 実際に毛深かったかどうかに関係なく、毛深いようにヤマト政権の人間が思ったか、もしくは、ヤマト政権の人間に比べて、狩猟を多くおこなって動物の毛皮を利用することが多かったとか、北関東から東北にかけてはヤマト政権の支配地域よりも寒かったことから毛皮を着ていたからなのか。 ともかく、ヤマト政権の人間が「毛人」と呼んだ人たちが北関東から東北にかけて存在したことがあったようなのだ。 で、栃木県を「上毛野国」、群馬県を「下毛野国」と呼んだ「毛」は「毛人」の「毛」という可能性はないのか・・・。 これが、「上毛野国」「下毛野国」の由来として考えられる三番目である。
   「禾」(穀類)の野という意味で「禾野」→「毛野」が「けの国」の由来なら、「キヌ川」も「ケノ川」で「禾野」という穀類が生育する野を流れる川の意味だという可能性もありそうだで、「毛人」が北関東から東北にかけて住んでいたのなら、「毛人の野」の川として「毛の川」から「ケノ川」→「ケヌ川」→「キヌ川」という可能性もありそうだが、地名の場合、産物から名づけられるよりも、地形、天変地異、災害から名づけられることの方が多いと思われるので、塙静夫『とちぎの地名を探る』を読むと、どうも、どこでも何でも崩壊地名から来ているみたいな印象を受けてしまうようなところもあるのだけれども、可能性としては、≪クエは動詞クユ・クエル(崩・潰)の連用形の名詞化≫として、「キヌ川」は、崩れる川・潰れる川の「クエる川」「クユ川」から名づけられた名前という可能性が高いか・・・・。北関東の山地から関東平野に川が流れて来る所までは勾配が急で、それが関東平野に入ると川の勾配が緩やかになるので、急な勾配から緩やかな勾配になったあたりというのは、大雨が降った時に水害が発生したという可能性は考えられないことはないか・・・・。
   塙静夫『とちぎの地名を考える』(1996.11.2. 随想舎)は、(株)一条工務店の栃木県佐野市の営業所に在籍した1990年代終わりから2000年代初めにかけて、地盤調査と地盤補強についてお客様に説明する際に、地盤判定はスウェーデン式サウンディング試験の数値だけで判断するものではなく、それ以外の情報と合わせて判断するもので、そのひとつとしてその地域の地名が判断材料のひとつになるという話をするための学習として読んだ。 栃木県から離れてしまうと、今度は他の県のものを新たに読まないといけないのか、せっかく読んでも栃木県を離れると、その本を読んで学んだものは役に立たないのかというと、そうでもないようで、地名の由来はけっこう全国で共通しているものがある。 特に河川や地盤の「崩壊地名」というのは、全国で共通した由来のものが多いように思える・・・・が、もう一度、立ちどまって考える必要もあるかと思うのは、地盤・河川などの「崩壊地名」は地名につけられることが多いのだけれども、すべてがそうだと決まっているわけでもないので、それ以外の由来もまた可能性として認識しておいた方がいいかと思う。 ↑の「鬼怒川」「ケヌの国」の「キヌ」「ケヌ」「ケノ」についても、「禾の国」から来た可能性、「毛人」の国の可能性というのも可能性のひとつとして認識はしておいた方がいいかもしれないと思うし、又、地名の由来が2つ以上ある可能性だってありうるのではないかとも思う。

   御朱印は、書院の右側の建物の中の社務所でいただけます(「いただけます」と言っても、お金は払います)。

   (2017.12.24.)

   次回、《 7.宝篋印塔・祐天上人墓。C57車輪。みよし商店会。「権威主義的パーソナリティー」の「デザイナー」。親に加担する教諭。》 http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_11.html 


☆ 祐天寺(東京都目黒区)参拝
1.表門・仁王門。祐天寺商店会。警察は犯罪者の味方。http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_5.html
2.地蔵堂・地蔵堂門・子守地蔵・水子地蔵。「寅さん」「鬼太郎」「マグマ大使」「パンダ」浅見光彦論。http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_6.html
3.かさね塚。仏舎利殿。海難供養碑。職場の我儘女と「少子高齢化対策」に殺された我が子。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_7.html
4.鐘楼堂・阿弥陀堂・五社稲荷。お堂の免震構造の問題。http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_8.html
5.本堂。お堂の免震構造とその周囲。免震とバリアフリーとの関係。http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_9.html
6.書院。免震とバリアフリーの関係。鬼怒川・毛野国の地名の由来。〔今回〕
7.宝篋印塔・祐天上人墓。C57車輪。みよし商店会。「権威主義的パーソナリティー」の「デザイナー」。親に加担する教諭。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201712/article_11.html 


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