大谷本廟(京都市東山区)参拝。円通橋は江戸時代の石造アーチ橋。二天門、石窟 他。思い出す過去の経験。

[第570回]
   京都市東山区の大谷本廟(西大谷)〔浄土真宗本願寺派〕に参拝してきました。 なぜ、ここに行くのかというと、単に、「それは、そこにあるからだ」ではなく、我が家は、もともと、浄土真宗で、祖父母がここでお世話になっているからです。
   何度か行くと、それまで、知らなかったものを発見することがあります。 森谷尅久 監修・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』(2005.4.6.淡交社)に、
≪ 入口の円通橋石造のアーチ橋で、江戸時代の遺構。≫と出ているのですが、それが↓
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   そもそも、「アーチ」とは何なのか?  山口廣 監修・江口敏彦 著『日本の近代建築―建築構造入門』(1990.11.25.理工学社 )を見ますと、
≪ 当り前のことですが、干乾し煉瓦のような小さなブロック状の材料を水平にかけ渡しても、それらは重力で下に落ちてしまいます。 しかし、直方体のブロックを下から積み上げていき、ある程度立ち上げたところで台形のブロックにかえ、両側から半円形にかけ渡し、最後に、その頂上で、かなめ石すなわちキーストーンをはめ込んだ形をつくると、垂直荷重は各ブロック間の摩擦力となって下方向に流れていくことになります。これがいわゆる「アーチ」構造です。 アーチを横につないでいくと「ヴォールト」、アーチを中心軸のまわりに回転させると「ドーム」になります。
   古代メソポタミア人は、このような方法を用いることによって、空間を覆うことに成功したのです。この構造は、その後、イタリア北部のエトルリア地方に伝わり、さらにローマへと継承され、高度に発達していったのでした。・・・・・≫
と出ています。
   日本にもそういう橋があった・・・のだろうとは思っていたのですが、子供の頃から何度か行ったここにあったとは、その上を何度も通りながら気づきませんでした。
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( ↑ 円通橋の付近の池。 )


   階段を上がる途中の左手の植え込みの中に「親鸞聖人像」↓がいらっしゃいます。
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こういった「エライ人」の像というのは、普通の人が通る場所から少し離れた植え込みの中とかに台座に載って配置されることが多いのですが、本来は、親鸞という人は普通の人間と同じ場所に普通の人間と同じ高さにいる人のはずですね。 今まで、普通の人と同じ大きさで・普通の人と同じ高さで・普通の人と同じ場所に、配置された像としては、1980年代に東京都港区三田の慶應義塾大学の構内にあった福沢諭吉像・栃木県佐野市の郷土博物館の前に立っていた田中正造翁の像、それに、ロシア連邦イルクーツク州イルクーツク市の公園の中で見たカール=マルクス像。 この3つで、逆に、高い台座の上にのっかってひとを見下ろすようにしている像というのは、実際のところ、たいしたことない人が多い。 三田の福澤諭吉像は、1980年代においては、新図書館の北側に、普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さに・普通の人間が通る場所に配置されていて、それは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と言った福沢諭吉の像であるからであるということだったのですが、最近では、普通の人間が通る通路よりも高い・通路との間に生垣で遮られた植え込みの中の普通の人間が通る通路よりも高い場所に、移設されてしまいました。 かつ、横浜市港北区日吉の日吉キャンパスには、普通の人間よりもひと回り大きい福沢諭吉像が台座の上に鎮座して、新図書館に入ろうとするとその前に二礼二拍手一礼でもしなければならないかのように位置して、さらに、「塾」という大学が無料で発行している冊子には「この像に肘をついたり足をかけたりすると留年すると言われています」などと書く愚か者まで出てきてしまいました。おそらく、そういう文章を書いた人というのは、福沢諭吉の墓参りはしても福沢諭吉の著作や伝記を一冊も読んだことがないという「慶應タイプ」の人、いわゆる「塾風を身につけた」と称する人、『旧約聖書 イザヤ書』には「この民は口では私をうやまうが、私の教えを守ろうとはしない」という文章があったと記憶していますが慶應に多いその類の人間なのでしょう。 福沢諭吉という人が、像に肘をついたとか足をかけたとかいうようなそんなことで、留年させてやろうなどと考えるようなみみっちい人であったかどうか、よく考えてみるべきだと思いますが、考える頭のない人間が、その普通の人間よりひと回り大きい・台座の上に鎮座する・新図書館に入ろうとするとその前を通らないと入れないという場所に配置されたという悪趣味な像を造ったのだと思います。家相の上で、でっかい仏壇が吉相というわけではないとされています。 仏壇を設置する部屋はどういう部屋がいいかというと、2つの説があって、家族みんなが団欒する居間に御先祖様も一緒にいるというのがいいという説と、静かに落ち着いてご先祖様と対話できる部屋がいいという説があるようですが、特に前者の考えとしては、家族みんなと一緒に団欒するという考え方ですから、普通の人間よりひと回りでっかい大きさで・台座の上に載って・二礼二拍手一礼して通らないといけないかのような場所に鎮座する慶應義塾大学の日吉キャンパスの福澤諭吉像というのは考え方が間違っているのです。慶應という学校に行って見ると、そういう間違った認識を持っている人ほど「塾風を身につけている」だの「福沢精神を身につけている」だのと言いたがる人間が多い傾向があるということが見えます。「みだりに神の名を唱えてはならない」と『聖書』には書かれていますが、慶應という学校はみだりに福沢の名前を唱えるのが好きな人間が多い学校です。
   台座の上に載る像というのは、たいしたことない人だから台座の上に載っていると決まっているわけでもなく、台座の上に載せた方が安定がいいということもあるのかもしれませんし、巨大な像というのは、遠くからも見えるようにという意味で巨大な像を造ったというケースもあるようです。 田中正造翁の像は佐野市の郷土博物館の前のものともうひとつあり、栃木県の藤岡町の渡良瀬川のそばに立つ田中正造翁の像は、高い台座の上に載った巨大なもので、南の方向、渡良瀬川遊水地・旧谷中村の方を常に睨みつけて立っています。 2000年にイルクーツクに行った時、公園の中で、普通の人間と同じ大きさで・普通の人間と同じ高さに・普通の人間が誰もがすぐ横まで行ける場所に、設置されたカール=マルクス像を見ましたが、一方、高い台座の上に載った巨大なレーニン像もありました。こちらは、遠くからでも見えるようにという方を選択したものだったのでしょう。
   ↑の親鸞聖人像は、柔和な表情で、参拝者を脇から見守るように立っており、横浜市港北区日吉の慶應義塾大学日吉キャンパスの福澤諭吉像のような不快感を覚える像とは違いますが、そうはいっても、親鸞という民衆の中に入って教えを時、誰もが救われるように望み、特に「僧にもあらず、俗にもあらず」と語ったという人ですから、植え込みの中に台座の上に載るよりも、誰もがすぐ横に行ける場所に・普通の人間と同じ高さでいてもらった方がよりいいのではないか、という気がします。
※ 佐野市郷土博物館HP http://www.city.sano.lg.jp/city-museum/
   藤岡町の渡良瀬川河畔の田中正造翁の像については、
   栃木市藤岡町観光協会HP http://fujioka-kankou.sakura.ne.jp/miru.html
藤岡町は、佐野市と合併するとかいう話があったと思ったのですが、「栃木市藤岡町観光協会」と出ている所を見ると、佐野市とではなく栃木市と合併したみたいですね。

   階段を登り切ると、「総門」
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↑ 私は、この大谷本廟(西大谷)というのは、お墓と思っていたのです。 西本願寺というのは、一般の参拝者も行けば観光客も行くお寺であるのに対して、ここは、西本願寺の飛び地という扱いらしいのですが、本願寺派の門徒が亡くなった家族の遺骨を永代供養していただくために持ち込む場所で、そういう場所として西本願寺が京都の街中の西本願寺から少し離れた東山に作った場所・・・・かなと子供の頃、思っていたのです・・・が、実はそういうことでもなく、≪ 浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)の廟所。正しくは大谷本廟。本尊は阿弥陀如来。宗祖親鸞が弘長二年(1262)に没した際、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟御荼毘所)で火葬され、親鸞の末娘 覚信尼(かくしんに)が遺骨を現在の知恩院山門北側の大谷に納め、堂を建てて影像を安置したことに始まる。 この廟堂は大谷影堂と呼ばれ、のち大谷本願寺となり、慶長8年(1603)徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転した。 入口の円通橋は石造のアーチ橋で、江戸時代の遺構。≫(森谷尅久 監修・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』2005.4.6.淡交社)というものらしい・・・・のですが、そうは言いましても、これまで、私が参拝した時においては、西本願寺は浄土真宗本願寺派の門徒の人もおれば観光客もいるという場所であったのに対して、この大谷本廟(西大谷)はそうではなく、来場者はここに先祖のお骨を世話になっている人が多く〔大谷本廟のホームページhttp://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/ を開いて見ましても、なんか、葬式色してますでしょ。 〕、そうでなかったとしても本願寺派の門徒の人が多く、門徒でない人が入ってはいけませんとは言われないけれども、門徒でない人で行く人というのはあんまりなかった。 北隣の清水寺なんてのは、『改訂版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』を見ると≪北法相宗の本山≫らしいけれども、行ってみると、なんだか、京都で一番、パッパラパーが多い場所ではないかという感じ。ましてや、清水寺の本堂の裏手にある地主神社なんてのは、本来はその場所の神さんを祀っていたはずなのですが、いつの時からか「恋愛成就の神さん」として売り出したために、いつ行っても、おねーちゃんがいっぱい! で、神社というよりお守り売場みたい! で、男が行ってはいけないみたいな雰囲気。 ありぁ、ちょっといくらなんでも・・・・と思うのですが、「清水の舞台」というのは、金閣とともに「キワモノ系」として観光客に人気スポットで、昔から観光客は多く、外国人の観光客も多い場所だったのに対して、大谷本廟はあくまでも浄土真宗の門徒が行く場所であって、観光客で来る人というのはほとんど見なかったし、外国人の来場者なんてのも見ることはなかったのですが・・・・・、ところが、最近では、↑のように、外国人の来訪者も珍しくなくなってきたようです。 隣が観光熱心な清水寺、というのが影響しているかもしれませんが・・・・。 「徳川幕府の政策によって」というのは、なんかややこしい表現ですが、徳川家が浄土宗だったもので、それで浄土宗の本山の知恩院の敷地を拡大するために、その脇にあった浄土真宗の大谷影堂・大谷本願寺は、ちょっと場所を移ってんか、ということになったみたい。 

   総門をくぐって正面に見えて来るのが「仏殿」(本堂)↓。
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大谷本廟HPの「大谷本廟について 境内地図」http://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/html/n1c1p3.htmlによると、≪ 1661(寛文元)年に創建され、1867(慶応3)年に隣接する二天門からの出火で焼失しました。現在の建物は、1870(明治3)年に再建されたもの≫らしい。

   その仏殿(本堂)の右手前に、「今月のご和讃」の掲示板があります。↓
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↑ 「金剛心(こんごうしん)は菩提心(ぼだいしん)、この心(しん)すなわち他力(たりき)なり」 と書かれています。 右に植木が見えているのは、穴が開いているのではなく、そこに鏡が貼られているのですが、どういうことででしょうか。 「今月の和讃」を読みながら、おのれの姿を見つめ直せという意味なのか、それとも他の意味なのか・・・・・。 「和讃」の文句を読んで考えている時に背後から忍び寄る者がいてもわかるように? 「俺の背後に立つんじゃない」と言えるように? というのならば、「今月の言葉」が書かれている所に貼られないと、この位置では植木が映っているだけなのですが・・・・・。
   ご自由にお持ちくださいと置かれていた説明書きによると、この「和讃」は、全体では
「信心すなはち一心(いっしん)なり 一心すなはち金剛心(こんごうしん)
   金剛心は菩提心(ぼだいしん) この心(しん)すなはち他力なり」
というものだそうで、
≪ 「われにまかせよ、必ず救う」という勅命を受け入れてしたがう心を「信心」といい、さらには「信楽(しんぎょう)」ともいいます。 ですから、信心といっても、何か別にこころをつくり上げるというのではなく、ただ阿弥陀さまのおおせを、疑いなく聞いているという状態(信楽)があるだけですから、信心とは、信楽の「一心」だと言われているのです。 そして、その信心とは、ダイヤモンドのように決して壊れないこころであるというので、「金剛心」とも表現され、またそれは「菩提心」であるとも言われています。 菩提心とは、自分のみならず、他者をも一人のこらず、安楽なる涅槃の領域へ導かんとする、仏道を歩む者に必須の志です。
  と、こう説明されましても、自分のこころを思うと、なんとも心許ないですね。すぐフラフラする私のこころを指して「金剛心」とか言われましてもね。また「自分さえよければいい」、「少なくとも自分の状態がよくないと、どんな人にも優しくはできない」というこのこころを指して「菩提心」とか言われましてもね。どこをどう探しても、ひっくり返して振ってみても、そんなこころがどこかにあるようには思えません。
   そうです。自慢じゃありませんが、私たちには、そんなこころはひとかけらもありません。だから親鸞聖人は、私たちのこころを当てにせず、阿弥陀さまを当てにしなさいと言われるのです。・・・・・だから、このご和讃は、この最後の一句がとても大切です。 ・・・・≫
と書かれています。 ・・・なんか、わかったような、わからんような・・・・・。
   言ってしまえば、親鸞はお経についてある程度以上学んだ上で、心にホトケを念じ(「念仏」)、口に弥陀の称号を唱える(「称名」)だけでよく、ほかは要らない、と考えるに至ったはずなのに、なんでまた、なんかよくわからん禅問答みたいな文句を「和讃」だとして言い出しているのか・・・という気もします。


   仏殿(本堂)からその背後にある明著堂の方に行くのに通のが、「二天門」
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(↑ 「二天門」、西側から見たもの。)
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(↑ 「二天門」、東側から見たもの。)
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(↑ 「二天門」と松。 南側から見たもの。)
大谷本廟HPの「大谷本廟について 沿革」http://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/html/n1c1.html には、
1867(慶応3)年 二天門より出火、仏殿等延焼焼失
1870(明治3)年 仏殿落成(現在の仏殿)
1872(明治5)年 第21代明如上人、二天門を再建
と出ていますので、↑の「二天門」は、1872年(明治5年)、「岩波(1873)ほど大きくない明六社」の明六社結成の1873年(明治6年)の1年前、「イワナごっそり(1875)」千島樺太交換条約の1875年の3年前に再建された建物のようです。
   さすがに、お寺さんだけあって、松がきれいに手入れされています。こんな松なら、庭にあるといいだろうなあと思ったりもしますが、こういうのは植木屋さんに剪定してもらわないと自分で剪定はできないでしょうから、そうなると、毎年、剪定の費用をかけないといけないことになり、私らは、なにしろ、「わしぁ、び~んぼうやからな」という日陰の月見草なものですから、そんな費用をかけてられない、ということで、だから、お寺に行ってきれいな松を見せていただくことにいたしましょう。

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↑ 「明著堂」 
大谷本廟HP の「大谷本廟について 沿革」http://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/html/n1c1.html には、
1709(宝永6)年 第14代寂如上人、廟塔前に拝堂を建立
1716(享保元)年 第14代寂如上人、「明著堂」の額を書し拝堂正面に掲げ、以後「明著堂」と称する。
と出ているので、江戸時代前半に建てられた建物ということになります。
   1990年代、(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所にいた時、福島県浜通り地区から茨城県北部にかけての住人で、和風の家を建てたいという人で、玄関を前に突き出したように作りたいと言う人が時々あった。福島県浜通りから茨城県北部にかけての地域に昔から建っている家を見てみると、特に個人大工が建てた家には、玄関部分が前に出た家というのがけっこうあった。家相の上では、玄関は出ているのは吉相で、玄関が引っ込んでいる家は凶相であると言われる。そういうこともあって、玄関を前に出したいという希望をする人がけっこうあったのだが、同社の「第一設計部」のH田(男。当時、20代。「東洋大建築学科卒」だそうな)が「玄関だけ前に出すのは変です」と言ってきかなかったのだが、そうかな・・・・と思ったが、(株)一条工務店は全社的に玄関だけ前に出すという間取りは嫌がって造らなかったようなのだが、それは、変かどうかという問題ではなく、玄関だけ前に出すと、その部分について耐力壁を取りにくいから、だから、(株)一条工務店はやりたくなかったのだと思う。 デザインについては、「好みの問題」というのが現実にあり、ある人間が変だと思っても別の人間は変じゃないと思うこともあり、ある人間がいいと思っても別の人間は変だと思う時もあるだろうけれども、一律に「玄関だけ間に出すのは変ですよ」と言い続けた(株)一条工務店の設計担当Hの認識は、あまり適切ではないと思う。 ↑の写真を見ても、大谷本廟の明著堂は玄関だけ前に突き出ているけれども、別に変じゃない・・・でしょ。

   そして、↓
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   ↑が、 「世界の磯崎」と言われる建築家 磯崎新の代表作にして「ポストモダンの集大成」と言われる「つくばセンタービル ノバホール」・・・・ではなく、大谷本廟 第一無量寿堂(納骨堂)〔左の端に見えるのは明著堂の玄関部分〕。 「つくばセンタービル ノバホール」と大谷本廟の無量寿堂(納骨堂)がそっくり♪ という話は、すでに、[第372回]《紅葉の大谷本廟(西大谷)参拝。大谷本廟の庭がこんなにきれいとは。及、ノバホールと無量寿堂はそっくり》http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html で写真入りで述べましたので、そちらを見ていただきたいと思います・・・が、何度見ても、そっくり♪ 磯崎新という人は、つくばセンタービル ノバホールを設計する時、納骨堂のイメージでデザインしたのだろうか・・・・? て感じがする。

  大谷本廟HPの「大谷本廟について 沿革」http://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/html/n1c1.html には、
1968(昭和43)年 第一無量寿堂造営
1990(平成2)年 第二無量寿堂造営
と出ているので、1968年(昭和43年)、1970年の大阪万博の2年前、1964年の東京オリンピックの4年後にできた建物、東京オリンピックと大阪万博の間にできた建物、ということになる。

   第一無量寿堂の右手前にある↓は何かというと、
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↑ 「戦没者記念堂」と書かれています。

   仏殿の後ろ、明著堂の前の位置に「大谷本廟内石窟」がある。↓
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↑ ≪ この石窟は江戸時代に京都名所記として書かれた『京童跡追(きょうわらべあとおい)』(1667年/寛文7年)などに紹介され、親鸞聖人が学問をされた所として伝記されています。 その中には、老女が扉の前で合掌している様子が描かれています。さらに、この描写を裏付けるかのように、現在石窟入口付近には、漆喰の痕跡があり、扉があったことがわかります。 ≫と現地の説明書きには書かれているのですが、しかし、学問をするのに、何もこんな暗い場所で引きこもりみたいにやらなくたって・・・という感じがしないでもありませんが・・・。
≪ そして、『大谷本願寺通記』(1785年/天明5年)には、この石窟が親鸞聖人の初期の廟堂(大谷廟堂)があったと伝えられる場所(現在の崇泰院(そうたいいん)付近)から移されたと記されています。 ≫と書かれているのですが、はたして、こんな暗い石の下で学問したのでしょうか。
≪ 石窟に利用された石材の多くは、江戸時代の石造品(石仏、五輪塔、小型板碑(こがたいたび)など)が利用されています。 なお、この石窟は、平成16年(2004年)に実施された京都市の調査により、数少ない貴重な石窟であることが確認されています。 平成18年(2006年)3月 ≫と書かれています。

    ここに来ると、過去のいろいろなことを思いだします。 小学生の時、この大谷本廟に父母とともに来た後、参拝の後、どこか寄ってみようというので、「国家安康・君臣豊楽」の鐘で有名な方広寺に行きました。その後、大阪に帰ろうとするのに、父が「あんた、何に乗って帰りたいか」と言うので、「何でもいい」と言ったところ、「『何でもいい』ではいかん。何に乗って帰りたいか言いなさい」と言うので、しかたなしに「阪急」と言うと、父が「はあ~んきゅう~う? 阪急みたいなもん、ここからは遠い。」と言うので、「それなら、京阪」と言うと、またもや、父が「京阪も遠い」と言う。「それなら、何がいいの?」と言うと、父が「ここなら、国鉄(現・JR)や」と言うので、「そんなら、国鉄」と言うと、父が「よっしゃ。そしたら、国鉄に乗したろ」と言って、国鉄の快速に京都駅から大阪駅まで乗って帰ったということがありました。あれは、いったい、何だったのか。最初から、その場所なら、阪急京都線の「四条河原町」・「四条烏丸」・「四条大宮」、京阪の「三条」・「四条」(現「祇園四条」)・「五条」(現「清水五条」)・「七条」よりも、国鉄の「京都」駅の方が近いというのなら、最初から、「ここなら、国鉄の駅の方が近いから国鉄で帰ろう」と言えばいいのに、なぜ、「あんた、何に乗りたいか?」などと私にきくのか。それも、「何でもいい」と言っているのに、「何か言わんといかん」とまで言ってきくのか・・・・というと、なんとか、「国鉄」と答えさせて、それで、「あんたが国鉄に乗りたいというから、乗せてやあってやあってやあってやってやってやってやったってんで」と言いたかった、ところが、私が父の期待に反して「阪急」と答えて、「阪急ではいかん」と言って「国鉄」と答えさせようとしても「京阪」と答えたために、計画が狂った、ということだったようだった。 なんか、自分の父母の墓参りにお寺に行くのに、いちいち、「電車に乗せてやあってやあってやあってやってやってやってやったった」と小学生に恩を着せてやろうと画策する、なんとも、みみっちい男だったなあ、と思い出します。
   その時、大谷本廟に参拝した後、昼の時間になり、食事をしようとすると、食事をする店がない。父は「そうやねん。京都ちゅうところは食事する店のない街やねん。そこが大阪とは違うんや。昔から、『大阪の食い倒れ。京都の着倒れ』言うて、京都は大阪とは違って、食事しようと思うても、食べる店がなっかなかない街なんや。わしは大学は同志社に行っとったから、よう知っとるんや。京都は同志社に行ってたからよう知っとるわしでも、食べる店を探してもなかなか見つからんいうそういう街なんや」と言って、食事をすることができず、私が目を皿のようにして捜して、「あそこに食堂あるよ」と言っても、父が「あかん。あんな所」と言って否定し、最後、京都駅から国鉄の快速で大阪駅まで行き、大阪駅から大阪市地下鉄御堂筋線に「梅田」駅から「心斎橋」まで行って、心斎橋筋の不二家でやっと食事できたのは、午後3時半を過ぎていました。 京都は食べ物屋が大阪に比べて少ない街だとしても、国鉄に乗って大阪駅まで行ったら、大阪駅周辺というのは京都ではなく大阪ですから、食べ物屋はあっていいはずですし、心斎橋まで行って心斎橋筋を歩くと食べ物屋はあったわけで、「そこにあるよ」と小学生の私が言っても言っても、その度に「あかん。あんな店」と父が言って拒否したのですが、小学生、たしか、低学年の時だったと思うのですが、その年齢の子供にとっては、空腹をかかえて歩き回るのは苦痛でした・・・・が、父親ならそういうことを配慮するものではないのかと思うのですが、そんなことはいっこうに考えないのがうちの父親でした。そういうおっさんだったなあ、と思い出します。今、京都に行くと、食べ物屋なんて、別に特別探し回らなくても見つかります。特別な料理として、「京料理」というような店で食べたいということなら、どこがいい悪いということはあるかもしれませんが、ともかく、食事をしたいというのなら、むしろ、大阪よりも京都の方が観光地なので、外来者向けの食べ物屋は多いくらいです。それを「京都は昔から食べ物屋のない街やねん。わしは同志社に行っとったから、よう知っとるんや」と言って、いったん、京都に行ったからには国鉄で大阪駅まで戻っても大阪駅周辺・梅田にも食べ物屋はない・・というより、あっても「あんな店、あかん」と言って入店を拒否する。地下鉄で心斎橋まで行っても、心斎橋にも食べ物屋はない・・というのではなく、あっても「あかん。あんな店」と言って拒否する。たぶん、自分がお腹がすいてなかったのだと思うのですが、子供と一緒に移動する時は、たとえ、自分がお腹がすいていなかったとしても、子供はどうかということくらい考えるべきではないのか、と私は思うのですが、そういうおっさん、絶対に考えないおっさんでした。方広寺の鐘の話を私が知っていたとすると小学生でも高学年だと思うし、空腹をかかえて京都から大阪梅田・心斎橋と食べ物屋を探し回ったのは小学校の低学年だったように思うので、方広寺に寄った時と空腹に苦しみながら京都から大阪梅田・心斎橋と歩き回ったのが同じ時だったか別の時だったかよくわからなくなってしまったが、ともかく、なんかそういうおっさんだった。
   私が中学生の時、祖母(父の母)が他界し、お骨をこの大谷本廟(西大谷)に預けに父と二人で来ました。普段、入らせてもらえないような場所まで入らせてもらったのを覚えているのですが、それがどこであったのか、今となってはよくわかりません。 最後、お骨を持ってこちらに来てくださいと言われて行った所では、入口で靴を脱いで畳の間に上がるようになっていたのですが、こんな所で靴を脱ぐのに際してお骨を落としたりしてはいかんわと思って気をつけて靴を脱いであがると、案の定、後ろでお骨を落としている人がいたので、アホやなあ、お骨というものは落としてはいかんものなんだから、お寺もそのあたりを考えて、靴を脱ぐ所には置き場も設置した方がよかったかもしれないけれども、そうでなかったとしても、細心の注意を払って落とさないようにするべきなのに、ええ大人が落としてからに・・・・・と思って見たら・・・・、どこの誰じゃい、そのアホは・・・と思って見たら、我が父親だった・・・・・。 他人のふりしようかと思ったが、他人ではなく我が父親だった。「わしほどエライ人間はおらんねんぞお。わしほどお。わかっとんのんか、わかっとんのんか」と常に叫びまくっているわが父親だった。たしかに、私の方が立方体の箱を持ち、父が大きさは小さいが持ちにくい形状の壺の方を持っていたのではあるが、落としそうだと思えば、問題がないと思える場所に置いて靴を脱ぐとかそういったことを考えるのが社会人ではないか、会社づとめをしてきた人間ならそのあたりを考える智慧を持つものではないかと思うのだが、それがないのが我が父親だった・・・・。 「おばあさん、びっくりしたはるわ」と照れ臭そうにおっさんは言っていたのだが、もし、立場が逆だったら、おっさんは相当怒っただろう・・・・というより、立場が逆ならかんかんになって怒られるというのを実際に体験してきた母がそう言ったのだ。そういうおっさんやった、あのおっさんは。「親孝行せえよお。わしに親孝行せえよお。世界一エライお父さんであるこのわしに、わしに、わ、し、にい~いじゃ、わしにい」「すべてを、親コッコッコのために、ささげ尽く~す。とってちってたあ~あ! 撃ちてしやまん、一億火の玉あ! 親に孝行しよう。戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元お!」とか、毎日毎日、私の鼻の頭を指さして叫ぶおっさんだった。東京の大学に行くと、毎日毎日、何度も何度も電話してきて、「親に孝行せえよお、わしに孝行せえよお。わしにじゃわしにい~い。とってちってたあ~あ!」と何度も何度も耳鳴るがするくらいに言うおっさんだった・・・・が、ひとにそういうことを言うなら、自分も、せめて、母親の遺骨が入った壺を落とすなよなあ~あ・・・・と思うのだが、落とすおっさんだった・・・・。 祖母(父の母)の葬式の後、お骨を大谷本廟に持って行く際、父には弟(私の叔父)があったのだが、叔父は体を悪くしていたことから、父は「連れて行くことない」と言って私と二人で行ったのだが、もし、叔父が体の具合が悪いからということなら、私と二人で行くのではなく、叔父の息子(私のいとこ)も連れて3人で行くようにした方がいいということはないのか・・とその時の私は思ったのだが父はそういうことを考えないようだった。叔父と何かあったのか、単に、そういうおっさんだったのか。どちらなのかわからないが、父が他界した時の葬式には、叔母(叔父の妻)は来てくれたが、上が女で下が男だったいとこはどちらも来てくれなかった・・・・が、祖母の葬式の時も、自分たちを大事にしてくれなかったという思いがあったからなのか・・・どうかわからないが、子供の頃、一緒に遊んだこともあるいとこは来てくれなかった。「わ~しほど、エライ人間はおらんねんぞお。わしはキリストか聖徳太子かヒットラー総統のようにエライ人間やねんぞお。わしは、わしは、わしは、わしはああ~ああ。わ、し、わああ~あ。そんでもって、わしほど謙虚な人間はおらんねん。わしは、キリストか聖徳太子かヒットラー総統のように謙虚なんや、わしは、わしは、わしは、わ、し、わあ~あ。わしいのようなエライえっらいエライえっらい謙虚な謙虚な人間の言うことは、誰でもみんながみんなが誰でも、何でも何でも何でも絶対服従せんといかんねんぞお。わしはそれほど謙虚な人間やねんぞお、わしはヒットラー総統のように謙虚やねんぞお、わしは、わしは、わ、し、わあ~あ」と、毎日毎日、私の鼻の頭を指さして叫ぶおっさんだったが、私には「『お父さん、そう思います』と言いなさい」と言って私には無理矢理言わせる男だったが、他の人からはそう思われていなかったのかもしれない・・・・というより、あんなおっさん、「誰よりもエライ人」だの「謙虚、謙虚な人間」だのなんて、本人以外、思う人間、あんまりないと思うのだが・・・・、誰か、そんなことを言っておだててつけこむヤカラがいたのではないか・・・・な。
   父を見てわかったことがある。「とってちってたあ~あ」とか「どんがんどんがらがった」とか人に言うのが好きな男だった、というより、私に言うのが日課の男だったのだが、「とってちってたあ~あ」だの「どんがんどんがらがった」だの「撃ちてしやまん」だの「親孝行せえよお、親孝行せんとバチあたるぞお。まんまんまんまんまんまん」だのとそういうことをひとに言うのが好きな人間というのは、あくまでも、自分がひとに言うのが好きなのであって、自分が言われるのが好きなのでは決してない、ということだ。そういうことを言うのが好きな人を見ると、この人もそのタイプかな・・・と思う。そのケースは少なくない。

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( ↑ 西から見た 大谷本廟。)

   今回、JR「京都」駅からJR奈良線「東福寺」駅まで行って京阪に乗りかえて「清水五条」で降りて東に歩いたが、京阪「清水五条」駅から大谷本廟まで歩いてもそれほどないのだが、それと同じくらい西に行くと京都市地下鉄の「五条」駅に行くので、JR「京都」駅から大谷本廟に行く場合、いちいち、奈良線・京阪と2つも電車に乗るよりも、地下鉄で「五条」駅まで行って、「五条」駅から歩いても悪くないかもしれない、と思いました。今度、一度、その方法で行ってみようと思います。京都は、東京や大阪と違って「田舎ではないが歩くのにいい街」ですし。

   (2017.8.22.)

☆ 大谷本廟(西大谷)参拝。
[第372回]《紅葉の大谷本廟(西大谷)参拝。大谷本廟の庭がこんなにきれいとは。及、ノバホールと無量寿堂はそっくり 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html
[第443回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【上】、 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_5.html
[第441回]《親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【下】、 御荼毘所。 夏の大谷本廟。》http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_6.html
[第570回]《大谷本廟(京都市東山区)参拝。円通橋は江戸時代の石造アーチ橋》 〔今回〕

☆ 浄土真宗本願寺派築地別院(築地本願寺)
[第54回]《築地本願寺 訪問記~なぜ、浄土真宗の寺には「御朱印」がないか。~千葉・東京の建築(3) 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201108/article_3.html

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