白山神社(文京区)-孫文と宮崎滔天が語った石。神社の趣旨と異なる新宗教・政治団体の機関紙を置くのは

[第518回] 白山神社(文京区)《下》
   正月に、東京都文京区白山 の 白山神社 に参拝し、それを[第490回]《あけおめ。 白山神社(東京都文京区)参拝-恋の神様(3) 「とりもつ」神さま。神社を見おろす東洋大学》http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_1.html で公開した。 しかし、その後、インターネットで検索すると、この神社の境内で、かつて、この近くに住んでいた宮崎滔天と宮崎滔天に世話になっていた亡命中の孫文とが石に腰をかけて辛亥革命について話したということがあり、その碑が建っているとでていたのだ。 そんなこと知らずに、かつ、その碑がどこにあるか気づかずに帰ってきてしまった。 
※ 《孫文が中国革命の成功を確信した場所——東京・白山神社境内 》http://www.nippon.com/ja/column/g00242/
《白山神社境内「孫文先生座石の碑 」 》https://www.facebook.com/shigeo.sugiyama.129/posts/393517587490926
※ 《ウィキペディア-宮崎滔天》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%BB%94%E5%A4%A9

   そこで、もう一度、白山神社まで行って確認した。 たしかにあった。特別、難しく探さなくても、都営三田線「白山」駅から西に進む方の参道で鳥居をくぐってすぐ左側(南側)にあった。↓
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  「 孫文先生座石 」と書かれている。

 ≪   由緒
   昭和43年(1968年)度総代会に於ける宮総代秋本平十郎及浦部武夫両氏の談話の中に白山神社境内には中国の政治家孫文先生と宮崎滔天寅蔵氏の腰掛けられた石があるとの御話がありました依而昭和44年年(1869年)度の総代会に故滔天氏の御子息宮崎龍介氏を御招きし其の当時の事をお偵ひ致した○ 明治43年(1920年)5月中旬の一夜、孫文先生は滔天氏と共に境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました
宮崎滔天全集の中に孫文先生は当神社に程近い小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記されております
此の歴史上の事実と当社との因縁を後世に伝うべく豫ねてより総代会にて屡々議題に上がりましたが此の度宮総代酒井滝蔵氏の御発言を契機として神社総代各町会総代有志の心からの賛同の結果、此の腰掛石の記念碑建立の運びと成り之を永代史跡として残す事に成った次第であります。
   昭和58年(1983年)6月1日
    白山神社 
     宮司 清水 司 ≫
と書かれている。〔 但し、元号との対象の( )内の西暦は、今回、ブログ作成者が入れた。又、元号は漢数字で書かれていたが、縦書のものを横書に変える際に、ブログ作成者がアラビア数字に変えた。〕
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   前回の訪問から1ヶ月半経っただけだが、境内に花が咲きつつある。
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   しかし、今、見ても、この社殿の背後の東洋大学の建物は気になる。↓
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   さて、今回、気になったものが1つある。 拝殿の前に、異なものが置かれていたのだ。↓
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↑ は、倫理研究所(=倫理法人会)が出している「職場の教養」というあほくさい冊子である。 2017年2月号 であるから最新号のようだ。 
   千葉県で5店舗もっていたリフォーム屋のウッディホーム(株)〔本社:千葉市稲毛区 〕http://www.woodyhome.com/ で、社長のH木が、この宗教団体かつ右翼団体に熱心で、社長が個人として熱心であるのは社長の勝手であるが、ところが、「公私混同」というのか、個人としてと会社の経営者としての行動とを区別できない人というのが、自営業の経営者には少なくないのだ。 倫理研究所(=倫理法人会)という団体の大きな問題点は、個人に働きかけることによってその団体を拡張しようというのではなく、宗教問題や政治問題について必ずしも賢明とは言えない自営業の社長にとりいって、社長の命令、もしくは命令に近い勧誘ということにより、その会社の従業員を入信させようというやり口である。
   戦前、「ひとのみち」という神道系の新興宗教団体があったのだが、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)は、「ひとのみち」が、戦後、PL教団(パーフェクトリバティー)・実践倫理宏正会と倫理研究所(=倫理法人会)の3つに分かれたうちの1つである。 この3つの中で「倫理研究所」(=「倫理法人会」)がずるいのは、あえて、「宗教団体」の資格を取得しないことにより、「宗教ではないんです。宗教を会社が従業員に強制したならば『信教の自由の侵害』となりますが、倫理研究所は倫理道徳の団体なんです。宗教ではありませんから『信教の自由の侵害』ではないのです。」と勝手なことを言う点です。 それで、会社の勤務時間中に「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の機関紙である「職場の教養」という冊子を毎朝、声を出して読ませ、又、休日に「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の「研修」に参加しろと強制するのです。 「宗教ではありませんから、『信教の自由の侵害』ではないのです」と言って。
   「宗教ではないのです」などと言うのですが、「太陽を拝みなさい」とかいうのが宗教でないか? ないわけないだろうが。 まったく、よく言うよなあ。 
   「ひとのみち」とはどういう団体であったか。 ≪ ひとのみち は、1924年(大正13)年、大阪で黄檗僧出身の御木徳一(みき とくはる)(1871-1938)と子の御木徳近(みき とくちか)が開いた神道系の新宗教です。 ひとのみち は、大正初期に関西でさかんだった金田徳光(かねだ とくみつ)(1863-1919)の徳光教を受けついで、太陽神・天照大神信仰をかかげ「教育勅語」を教典としました。 ひとのみち では、商売繁盛・家内和合などをもたらす実利的な生活訓を説き、病気なおしの「お振替え」などをつうじて、都市の中間層と中小企業者の間に広がり、昭和初期には、信者100万と称するほどの発展をとげました。 1936年(昭和11)年、政府は、大本教につづいて、ひとのみち に弾圧をくわえ、禁止しました。 ひとのみち は、天皇崇拝を強調し、国家神道に忠実でしたが、皇祖神天照大神を太陽であるとし、「教育勅語」に卑俗な解釈をくわえたとして、徹底的な弾圧をうけました。 ≫ (村上重良『日本の宗教』1981.3.20.岩波ジュニア新書)
   「倫理研究所」(=「倫理法人会」)が、「太陽を拝みなさいと人間であれば誰でもやって当然のことをやりなさいと教えてあげてやろうと言ってるんだあ。 いったい、どこが宗教なんですか。宗教じゃないでしょう」と主張しているのは、この「ひとのみち」の太陽を皇祖神アマテラスであるとして拝みなさいというものそのまんまなのです。それでいて、「宗教ではないんです。宗教を強制しては『信仰の自由の侵害』になりますが、倫理研究所は宗教ではありませんから、『信教の自由の侵害』ではないのです」などと勝手なことばっかり言っているのです。
   「丸山先生に親孝行を教えてもらいなさいと社長が言ってやってあげているんだあ」などと言うのですが、「親孝行」などというものは、どうあるべきか国民ひとりひとりが自ら考えて行動するべきもので、「丸山先生」とやらに教えられる筋合いはありません。 会社の休日にそれに対する手当を払うわけでもないのに、「倫理研究所の研修に出て、丸山先生から親孝行を教えてもらいなさい」などと言われる筋合いはないし、そんなことで、休日や勤務時間外に時間を奪われることにより、「親孝行」できなくなってしまうのです。丸山なんとかは、そのあたり、ちょっとは考えてみるべきです。
   「親孝行を教えてもらいなさい」という発想。 これは、ある面で「教育勅語」と似ており、ある面で「教育勅語」に反する教えです。 似ているというのは、「教育勅語」の冒頭部分を思い出して見るとわかりますが、「朕おもうに、わが皇祖皇宗は・・・・」と始まり、「父母二孝二」「兄弟二友二」「夫婦あい和し」と、なんで、天皇へーかに夫婦の関係まで口出されなきゃならんのだあ? という文句が続くわけです。 「夫婦は仲良くしましょう」というのが、いったいどこがいけないのですか? などと言い出すおっさんがいるのですが、仲良くしようがしまいが、そんなことはその夫婦が自ら考えてどうこうするものであり、天皇へーかに言われる筋合いはない、「国家」から、夫婦は仲ようせえよおなどと言われる筋合いはないのです。 国民の家族の問題にまで国家が口出そうというのが「教育勅語」です。 夫婦は仲良くしようというのが悪いのではなく、そんなことを国家が口出すのが間違っているのです。 そして、「戸締り用心、火の用心」に続いて「親に孝行しよう」と元A級戦犯 笹川先生がテレビで何度も言われていたのも、「教育勅語」の「父母に孝二」を日常語にしたものです。 そんなことは家族の間で考えられるべきものであり、国家が口出すものではない。 それを口出そうというのが「教育勅語」であったのです。 かつて、慶應義塾の塾長であった石川忠雄が、臨教審の委員になって「教育勅語のようなものを現代にも設けるべきだ」とか言い出したあたり、やっぱり、内部進学だなあという感じがしました。
   「教育勅語」の思想の最大の特徴は、親子や夫婦などの個人的な関係にまで国家が口出そうという点です。 「倫理研究所」(=「倫理法人会」)は、もともと、「教育勅語」を教典としていた「ひとのみち」の後継団体であるだけに、「教育勅語」の内容の「親に孝行しよう」を「教えてあげてやってやろう」と主張するのですが、戦中、国家により「教育勅語」について不適切な解釈をおこなったとして弾圧されただけあって、解釈は「教育勅語」を作って国民に押しつけようとした人たちとは少し違うようなのです。 どこが違うかというと、「教育勅語」の思想というのは、あくまでも「天皇が」述べたという形式であり、あくまでも「国家」が国民に教えるというものであるのですが、ところが、「ひとのみち」にしても「倫理研究所」(=「倫理法人会」)にしても、そのあたりが違うのです。倫理研究所(=倫理法人会)では、「丸山先生に教えてもらいなさい」と、教えるのは「天皇」や「国家」ではなく「丸山先生」に変わってしまっているのです。丸山さん、あんた、いったい、何さまあ~あ???
   そもそも、「親孝行」であれ、そういうものを、教える側と教えられる側に国民を分けるという考え方自体、おかしいのです。 従業員に対して、「丸山先生に親孝行を教えてもらいなさい」などと言いながら、その社長は「丸山先生」に教えていただこうということで「研修」に参加したりするわけですから、そうやって、国民を序列化して、「教える側の人間」と「教えられる側の人間」に分けて、「教えられる側」の人間は「教える側」の人間に何でもそのまま従うようにさせようという動きというのは、これ自体、ファシズムの動きなのです。 違いますか。 どこも違わないでしょ。 そういう団体にひっかかる人間というのは、その点において、「あんまり賢くない」人間だと言われても否定できないはずです・・・・・が、自営業の社長というのは、それを言うと怒り出す人が少なくないわけです。 もともと、その程度の知能程度の人が多いということもありますが。
   そういう「あんまり賢くない」自営業の社長にとりいることで、そういう社長から「社長の命令だあ」と言って従業員に「倫理研究所」(=「倫理法人会」)への加入を強制させることで、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)は拡張してきたのです。 もともと、拡張の方法が反社会的ですし、何より、「親孝行を教えてあげてやってあげてやろう」とかそういうもの程度しか「教義」はありませんから、むしろ、自営業の社長にとりいり、そういう強制に抵抗する従業員を弾圧することにこそ、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の存在基盤があると言えます。
    「倫理研究所」の「研修」資料を見せてもらったのですが、「本の読みかた」として、「これが基本形」などとして書かれていたのは、起立して顔の正面に両手で本を出して声を出して読めというのですが、これは、どうも、戦前の小学校で教えていたような読み方を復活させようとするもののようです。 こういう読み方をしますと、本が声を遮って声が通りません。 声楽家はこういう楽譜の持ち方は否定します。 口から声が出ていく方向に楽譜を位置させて声を遮るのではなく、楽譜を持つにしても譜面台に置くにしても顔の下の位置に楽譜は持ってくるようにするものです。 歌ではなく、声に出して本を読むという場合でもひとに聞いてもらおうというのであれば、口から声がでる正面に本を配置するというのは、それは間違いです。 「倫理研究所」(=「倫理法人会」)は間違いを「教えてあげてやってあげてやろうと言ってるんだあ~あ」と言うのです。 丸山なんちゃらさんて変わっとるねえ・・・。
    ウッディホーム(株)では、毎朝、倫理研究所(=倫理法人会)の指導だとして「『はい』の発声」というのをさせられていたのです。 前に1人がでて、「はい」と叫ぶとともに、従業員の誰かを指し、指さされた者が「はい」と大声で言い、また、前の1人が「はい」と言った後に別の誰かを指さし、指さされた人間が「は~い」と叫ぶという。それが「はいの発声」だというのです。 声楽家でも発声練習というのをやります。 接客のある仕事の場合、来客があって、「いらっしゃいませ」とか「こんにちわ」とか言おうと思っても、いざとなった時に適切に言葉が口に出ないということがあります。 その為、朝一番に発声練習として、「おはようございます」とか「いらっしゃいませ」とかその店の従業員がそろって発声しているという会社があります。 最初、ウッディホーム(株)がやっているのはそれかと思ったのです。 しかし、それなら、「は~い」ではなく、「いらっしゃいませ」とか「おはようございます」とか「ありがとうございました」とか、接客の上で口にすることがあるような言葉を口にした方がいいはずで、「は~い」ばかり言っているというのは変だと気づいたのです。 最後、社長のH木が白状しました。 案外、正直な部分もあるのです。 「社長の言うことには、なんでも、即座に『は~い』と従うように、『はいの発声』を毎朝、従業員にさせているんだ」と。 なるほど、そういうことだったのです。 「はいの発声」とは指さされると同時に、何も考えずに即座に「は~い」と大声で返事する、と、そういう習慣を従業員につけさせようというのが、それが「はいの発声」の目的だったのです。社長から何か言われるとその意味を考えずに即座に「は~い」と答えるそういう人間に従業員をならせようとしていたのです。 倫理研究所(=倫理法人会)はそういうことを「指導」していたのです。
   かつて、岩波文庫だったか岩波新書だったかに、アナトール=フランス「人生は短い。 くだらない本なんか読んで時間をつぶしたくない」という言葉が書かれたしおりが入っていたように思います。書店で岩波書店銘のカバーをつけてくれた時にも「人生は短い。 くだらない本なんか読んで時間をつぶしたくない。――アナトール=フランス」と書かれたカバーをつけてもらったことがあります。 最初、この文章を読んで、岩波書店は何を言いたいのだろうか、と意味がよくわからなかった。 人生は短いのだから、「本を読む」などという「くだらない」ことをして時間を費やすのではなく、もっと実生活を生きるべきではないのかという主張なら、出版社は自己の存在を否定することになるのではないか、と。 この文章の意味はそういうものではないようです。 そうではなく、本には「くだらない本」と「価値がある本」があり、「価値がある本」は「短い人生」の貴重な時間を費やしてでも読むべきであるが、「くだらない本」なんか読むのは「人生は短い」のにその人生を無駄にしてしまうことになるので、「くだらない本」なんか読みたくない、とそういう意味のようです。 だから、岩波書店は「価値がある本」の方を出版しているという意味のようでした。 この考え方からするならば、倫理研究所(=倫理法人会)が発行している「職場の教養」なんてそんな本なんか、読まされるのは迷惑。 「人生は短い。『くだらない本』なんか読んで時間を費やしたくない」というのは、まったくその通り。 アナトール=フランスはいいこと言う、とウッディホーム(株)で「職場の教養」を無理矢理読まされた時に思いました。 その仕事をする上で必要な知識・技術を習得するための本を読めというのなら、それはおかしなことではありません。 しかし、そうではない本を強制して読ませようというのは、あんまり紳士的ではない、あんまり賢明な人間のすることではありませんね。 そもそも、自分の所が発行している本に価値があるのなら、自営業の社長にとりいってその社長に買わせた上で、従業員に「社長の命令だあ」と言って無理に読ませるなどということをしなくても、普通に書店で販売すれば売れるはずであり、読んでもらえるはずなのです。 読みたいと言っているわけでもない人間に強制して読ませようという姿勢自体が、「職場の教養」という冊子を作成した人間に人間としての教養がないことを示しています。
    そして、その「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の理事長の丸山なんちゃらが、「日本会議」に加入して、神話から始まる戦前の国史のような歴史・日本史の教科書の採択をさせようと働きかけ首相の靖国神社への公式参拝をさせようと画策しているわけです。 「倫理研究所は倫理・道徳の団体なんです。宗教団体ではありません。 政治の団体ではないんです。右翼団体ではありません」と言いますが、国史から説く戦前型の歴史・日本史の教科書の採択を求め、首相の靖国神社公式参拝を働きかけている団体のどこが政治団体ではないのですか?  そういう団体が、なにゆえ、右翼団体ではないと言えるのですか?  そういう団体であったとしても、それでも、そういう団体に入りたいと自ら判断する人が入るのであれば、強制的にやめさせるわけにもいかないかもしれません。 しかし、倫理研究所(=倫理法人会)の非常に大きな問題は、「あんまり賢いとは言えない」自営業の社長に取り入り、「社長の命令だあ」として従業員に「研修」に参加させる、「社長の命令」とまで言わなかったとしても、一般の従業員が、私はこういう団体に入っているのですが◇◇さんも行きませんかと誘っただけでは行かないような人を、「◇日の◇時から倫理研究所の集会があるから行って」と「強制とまでいかない」としても「行くのが普通であるかのような」言い方で従業員に行かせるという、そういう手法をとっているという点です。この点で、倫理研究所(=倫理法人会)は「反社会的勢力」であると考えるべきです。

    白山神社の拝殿の前の台に、その「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の機関紙である「職場の教養」が、「ご自由にお持ちください」と書かれてはいなかったが、「ご自由にお持ちください」という感じで置かれていたのです。 これまで訪問した神社において、拝殿の前に、その神社の「由緒書」や、「きょうのことば」といったもの、「参拝のしかた」とか、あるいは、「社殿修理のための御協力お願い」といったチラシが置かれていることがあります。 それはいいと思います。 しかし、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の機関紙をそういう場所に置いてはいかんでしょう。 「倫理研究所」(=「倫理法人会」)というのは、「新宗教」「新興宗教」としては、仏教系なのかキリスト教系なのか何系なのかというと、神道系ですが、神道系の新宗教であれば神社の拝殿の前にその機関紙を置いてよいというものではないはずです。
   他の神社の案内書を置くという場合、天神・稲荷・白山・八幡といった神社で、同じ系統の神社の案内書を置くのであれば、他にこういう神社がありますという紹介として悪くないでしょう。 もっとも、「同じ系統」といっても、その神社によっていくらかずつ内容が異なる場合もありますが。 また、たとえ、異なる系統の神社のものでも、この地域にはこういう神社がありますと、その地域の神社の案内として置くのも悪くはないでしょう。 朝日新聞出版から発行されている『本当にあった怖い話』で、霊能者の寺尾あや子さんが相談者の家に訪問すると、あまりにも多くの神社の御札が置かれていて、それはかえってよくないと言う場面があった。 「神社」というのは、今は、神社として1つのグループのように扱われることがありますが、厳密には、その神社によって性格は異なり、協調する神社ばかりとは限らない、対立するような性質のものもあるわけです。だから、「神道系」のものなら、そこに置いていいとは限らないはずなのです。そのあたり、訪問する人間の方がよくわかっていない場合があったとしても、ある程度はやむをえないと思いますが、神社の運営者の方ではわかっていてほしいものです。
   又、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の前身である「ひとのみち」は、国家から弾圧を受けたのですが、それはどういう意味で弾圧を受けたか。 そこを考えてみる必要があります。 「ひとのみち」は戦争に反対したから弾圧されたのではない。 「ひとのみち」は国民の平等や民主主義を主張したから弾圧されたのではない。 「ひとのみち」は、「教育勅語」の解釈や、皇祖だというアマテラスについての解釈について、国家と異なる解釈をしたということで弾圧されたわけです。 アマテラスについて、「国家の解釈」よりも、歴史学上・考古学上、より適切な内容を発言したというのであれば、悪いことはありません。 しかし、自分たちの団体を拡大するために勝手な解釈をしたとすると、戦前戦中のように国家が弾圧するのがよいとは思いませんが、一方で、その勝手な解釈を押しつけられる筋合いはないわけですし、「神社」についても、あまり「一般的」ではない、また、「科学的」でもない解釈をしている団体の「機関紙」を拝殿の前に「ご自由にお持ちください」という感じで置くというのは、それはいかがなものかと思いますね。
   そもそも、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)は「太陽を拝みなさい」と「社長が命令してるんだあ」とか言って強制するわけですが、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)の前身の「ひとのみち」が主張し、「倫理研究所」(=「倫理法人会」)が引き継いでいる太陽は伊勢神宮の内宮に祀られている皇祖アマテラスであるというその前提ですが、そもそも、それが正しいのかどうか。 伊勢神宮内宮の神は皇祖神なのか。 伊勢神宮内宮の神は女神なのか。 どうも、そのあたりからして、かなり怪しいようです。
   白山神社が祀るのは何か。 石川県の白山比咩神社では、白山比咩大神を祀っているとされるが、「白山比咩大神」とはどういう存在なのか。 霊峰白山が御神体とされるが、「白山比咩大神」は女神らしい。 白山という霊峰、異界との間をとりもつ巫女のような存在が「白山比咩大神」らしい。 それが、「とりもつ」神ということで、『日本書紀』において、黄泉から逃げてきたイザナギと追いかけてきたイザナミを「とりもつ」行為をしたらしい「ククリヒメ」と集合したことから、イザナギ・イザナミが「白山比咩大神」が習合した「ククリヒメ」とともに祀られるようになっていることが、全国の「白山神社」では多いらしい。 そういう由緒の白山神社において、伊勢神宮内宮の神を「アマテラス」で皇祖神であると実際にそうであるかどうか疑わしい主張をし、かつ、それを太陽神であると国家の主張と一致しない主張をしている団体の機関紙を社殿の前に「ご自由にお取りください」という感じで置いてよいのかどうか。
   結論を言うと、それは置くべきではない、と考えるべきです。 このあたりを理解できていないのであれば、白山神社の宮司さんは勉強不足と言わざるをえません・・・・・・が、その前に、この「職場の教養」という冊子をここに置いたのは、白山神社の宮司さん、もしくは宮司さんが許可して置いたものなのか、それとも、倫理研究所(=倫理法人会)の人間が、勝手に置いたものなのか?   もし、勝手に置いたのなら、そういうことはするべきではありませんね。 宮司さんが認めたのなら、それは認めるべきでないものを認めたということで、その判断は適切とは言えないことになります。
   明治維新以来、明治政府は、伊勢神宮内宮の神を皇祖神アマテラスであるとし、皇祖神アマテラスを祀る伊勢内宮の下に全国の神社を統制しようという動きをしましたが、戦後、その動きはある程度は変わりました。 もともと、「白山の神」というのは、伊勢内宮の神の配下ではないはずなのです。 伊勢内宮の神の配下でもない神社なのに、さらに、そこに伊勢神宮内宮の神を、どうも、適切とは言えない解釈をおこなっている団体の機関紙を拝殿の前に「ご自由にお取りください」という感じで置くというのは、それは、白山神社の信仰をないがしろにするものと判断するべきものです。
   倫理研究所(=倫理法人会)が働きかけている神話から説く戦前型歴史教科書の採択・首相の靖国神社公式参拝といったものは、白山の神の信仰とは関係のないものであり、むしろ、歴史の歪曲は真摯な信仰に逆行するもので、宗教者としては首相の立場による特定宗教への公式参拝は認めてはならないものです。 又、靖国神社というものは、一般の神社とは異なり、明治維新の際に維新政府側についた戦死者を祀ったところから始まり、その後の戦争においては戦争遂行に賛成・協力した戦死者のみを神様扱いして祀るという国際平和に逆行する性質の神社であり、それを首相に首相の立場で公式させようと働きかけるというのは宗教者としてもってのほかです。倫理研究所(=倫理法人会)はそういう国民の倫理、宗教者の倫理に反することをおこなっている団体です。白山の神の信仰の場所として、歴史の歪曲、信教の自由の侵害を画策し、国際平和に逆行する働きかけをおこなっている団体の機関紙を拝殿の前に「ご自由にお持ちください」という感じで置くというのはもってのほかです。
   「職場の教養」という倫理研究所(=倫理法人会)の機関紙を拝殿の前に置いたのが誰なのか。 その点が明確ではないのですが、もしも、白山神社として置いたのなら、それは白山の信仰や神社というものについての理解が足らなすぎる、もしも、白山神社が許可して置かせたのなら、その判断は間違っている、と言わざるをえません。  もし、白山神社の関係者の方、このブログを見られることがあれば、そのあたりをよく考えてみていただきたいと思います。

   ↑の写真の「職場の教養」の表紙に「発行部数185万部」などと書かれているが、書店で販売して購入する人がいたり、個人にアピールして定期購読している人がいたりして、それらの合計の数字ではない。その数字が正しいのかどうかわからないが、仮にその部数を印刷していたとしても、購入しているのは、倫理研究所(=倫理法人会)にはまった自営業の社長が何冊も購入している、もしくは、購入させられているのであり、その上で、それを自分の会社の支店・営業所に配布して、従業員に無理矢理読ませようということをしているのであって、従業員に無理矢理読ませるためにアホな社長が何冊も買った、もしくは、買わされたものの合計の数字である。


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↑ 「インド・ネパール料理 デウラリ」
「Aセット」(野菜カレー + サラダ + インドの漬物みたいなやつ + ナン + ラッシー) 800円。
おいしかったよ。

   (2018.2.19.)

☆ 東京都文京区の 白山神社 2部作
上  [第490回]《あけおめ。 白山神社(東京都文京区)参拝-恋の神様(3) 「とりもつ」神さま。神社を見おろす東洋大学》http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_1.html
下  [第518回] 〔今回〕  


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