法興寺〔飛鳥寺〕〔安居院〕(奈良県 明日香村)参拝、蘇我入鹿首塚 訪問。≪上≫本堂、塔跡。

[第497回]
   飛鳥寺(あすかでら)安居院(あごいん)〕へ行ってきました。↓
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   何枚か写真を撮らせてもらったのですが、観光案内書であれ、建築史の本であれ、飛鳥時代についての歴史の本であれ、現在の飛鳥寺(安居院)の写真を1枚掲載するとなると、やっぱり、↑のように本堂を南から見たものを選ぶことになりそうです。
   さて、この寺の名称は何と呼ぶのが適切なのか。 もともとのお寺としては、この寺ほど由緒がある寺はないのです。 蘇我馬子が造営したと言われ、飛鳥4大寺の1つとされたお寺です。
   網干義教 他執筆・奈良商工会議所編『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック[改訂版]』(2007.9.20.山と渓谷社)には、
≪ 飛鳥寺(あすかでら)
 山号=鳥形山  院号=安居院 ≫
と出ており、現在は東門と西門がありますが、バス停に近いのは東門で、西門を出てすぐの所に蘇我入鹿首塚がありますが、多くの人間は東門から入ると思うのですが、その東の門↓
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↑ には、↓ のように、
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↑ 「飛鳥寺」と書かれています。

   この寺は何で有名かというと、私にとっては、中学校の「歴史」だったか高校の「日本史」だったかの副読本の『日本史資料集』だったか『日本史地図帳』だったかの後ろの方に、「伽藍配置の変遷」として、
「飛鳥寺式」⇒「四天王寺式」⇒「法隆寺式」⇒「薬師寺式」
と、塔が中心にあってその左右と後ろの3カ所に金堂が配置される飛鳥寺式では、金堂よりも塔が中心であるのに対し、四天王寺式では門‐塔-金堂-講堂が一直線に並び、法隆寺式では門と講堂の間で塔と金堂が左右に並び、薬師寺式になると、金堂の手前左右に塔が東塔と西塔の2つが立ち、完全に金堂の方が主たる存在になり塔は装飾的なものになってきていると、寺の中心が塔から金堂へ移行していく移り変わりにおいて、塔が中心として建てられた最初の形式の寺として出ていたのであり、その時から飛鳥寺は私の脳裏に残って離れずに今日に至ったのです。もっとも、梅原猛『隠された十字架―法隆寺論―』(1980.4.25.発行、2003.4.25.改版 新潮文庫)によると、法隆寺というのは「怨霊封じ込めの寺」で、金堂の入口が中門の正面からずれるように塔と金堂が横に並んでいるのは、怨霊が廻廊から外に出ないようにということでのもので法隆寺式は特殊らしい。 法隆寺の配置は「怨霊封じ込め」のための特殊な配置であるとすると、伽藍の中心が塔から金堂に移っていく過程としては、
 「飛鳥寺式」⇒「四天王寺式」⇒「薬師寺式」
ということになるでしょうか。
   私が高校生の時に使用した『日本史年表』の後ろに書かれていたのは、「飛鳥寺式」⇒「四天王寺式」⇒「法隆寺式」⇒「薬師寺式」だったはずですが、藤岡通夫・渡辺保忠・桐敷真二郎・平井聖『建築史』(1967.3.18.市ヶ谷出版社)には、
飛鳥寺(6世紀末)・四天王寺(7世紀前半)・川原寺(7世紀後半)・法隆寺(8世紀はじめ)
と、四天王寺と法隆寺の間に「川原寺式」が書かれています。 川原寺の配置は、金堂が2つ、塔が1つで、中金堂の西手前に西金堂があり、中金堂の東手前に塔、中金堂の背後に講堂があって、中門―中金堂―講堂が一直線にならぶというものですが、法隆寺では中門と講堂の間に並んでいる塔と金堂の金堂は中門の側に入口があるのに対し、川原寺の西金堂は中門の側ではなく塔の側に入口があったようです。

   法隆寺は再建説・非再建説があるとはいえ、再建説をとってもかなり古い時代からのものが残っており、四天王寺の場合、塔は室戸台風で倒壊し、五重塔というのは「いったりきたり」の地震の揺れには強くても一方向から継続的に力が加わる台風には強くないのではないかという例として語られるに至ったとともに、その後、檜造りで再建されたものの第2次世界大戦中、大阪大空襲において米軍の爆撃で塔も金堂も焼失したものの、戦後、かつての様式により鉄骨造にて再建されたものが今も見ることができ、薬師寺は昔からの建物で残っているのは東塔のみで、それも今は解体修理中らしいものの、西岡常一棟梁らにより西塔や金堂が再建されて、かつての伽藍がこうなっていたらしいというものを見ることができるのに対し、飛鳥寺の場合は、寺は今も存続しているものの、伽藍については、現在の本堂は≪幕末再建≫(平原聖子編集『楽楽 奈良・大和路』2016.4.1.改訂二版 JTBパブリッシング)だそうで、又、幕末に再建された建物は、かつての塔が中心にあってその左右と背後に金堂があるという伽藍とは異なるもののようです。

   『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック[改訂版]』(2007.山と渓谷社)には、
≪ 法興寺・元興寺とも号し、蘇我馬子が崇峻天皇元年(588)に発願、百済から招聘した造寺職人に建立させ、推古天皇4年(596)に完成したわが国初の本格的寺院。≫
とある。 関裕二『聖徳太子は蘇我入鹿である』(1999.11.5.KKベストセラーズ ワニ文庫)には、
≪ 法興寺とは、日本で最初の本格的仏教寺院であり、その当時最大の権力を握っていた蘇我氏により建立された、いわば蘇我氏にとっての氏寺的存在である。現在は飛鳥寺としてよく知られている。寺のそばに、入鹿の首塚と伝えられる石塔も旧西門の近くに祀られている。 ≫と書かれている。
   関裕二氏の本などを読むと、蘇我馬子が造立した法興寺は、地名から飛鳥寺とも呼ばれたいたらしく、その後、天武天皇(大海人 おおあま)の時代以降に大官大寺・川原寺・薬師寺とともに「飛鳥四大寺」の1つに指定されたらしい。 しかし、藤原不比等らにより平城京へ都が移転されるとともに、薬師寺は薬師寺、大官大寺は大安寺として平城京に移転し、川原寺は四大寺からはずされて、かわりに藤原氏の氏寺の興福寺が奈良四大寺に入り、法興寺も移転を求められたものの、蘇我氏とつながりが深い法興寺は藤原による移転に抵抗したが、平城京には藤原氏の氏寺の興福寺の南の位置に元興寺として作られたものの、大官大寺や薬師寺のように完全に移転するのではなく、法興寺はこの地にも寺は残ったが、藤原氏が権力を握るに至った時代においては蘇我氏が建てた寺である法興寺(飛鳥寺)は往時のような状態を保つことはできなかったが、それでも、大官大寺や薬師寺が今では大官大寺跡・薬師寺跡として場所はわかるものの寺は存在しないのに対して、法興寺は今日まで飛鳥の地において寺として存続することができたのは、飛鳥の地とともに、蘇我氏とともに存在した寺として飛鳥を離れなかったことによるのではないか・・・・と言われるらしい。

   歴史のお勉強をした際、欽明天皇の時代に百済より仏像が贈られ、欽明天皇はどうしたものかとお尋ねになったところ、蘇我稲目は、大陸の国々が拝んでいる仏像をわが国でも祀るというのは大変けっこうなことですと主張したのに対して、物部御輿(もののべのおこし)と中臣鎌子は大反対し、それなら、この仏像は蘇我稲目が祀るがよかろうと天皇は言われて、蘇我稲目が祀ったところ、疫病が発生したので、これは異国の神を拝んだことから我が国の八百万の神がお怒りになったに違いないと仏像を大阪市西区堀江の阿弥陀池に捨てて、その捨てた仏像を拾ってきて祀っているのが長野市の善光寺の本尊て、いくらなんでもそんなあほな・・・というお話の蘇我稲目が欽明天皇からいただいた百済から贈られた仏像を祀った寺というのが飛鳥寺なのか? と最初思ったのですが、そうではないらしい。

   関裕二氏の本を読むと、中臣鎌足(→藤原鎌足)というのはどうもデショウがはっきりしないし、中臣氏というのは、歴史上、それまでに目立った活躍がない士族だというのですが、それでは、蘇我稲目vs「物部御輿+中臣鎌子」で登場した中臣鎌子はどうなのか・・・というと、梅原猛『隠された十字架―法隆寺論―』(1980.4.25.発行、2003.4.25.改版 新潮文庫)によると、この話に登場する中臣鎌子という人物は、実は、『日本書紀』にはこの話に登場するものの、中臣氏の家系図には出ていないらしく、『日本書紀』が創作した人物ではないかというのだ。 私は子供のころ、和歌森太郎編『漫画日本の歴史 全18巻』というのを一生懸命読んだものですが、なんか、今から考えてみると、あの本というのは、戦後、1960年代に発行された本でありながら、古代史の部分についてはほとんど『日本書紀』そのまんま、南北朝の争乱になると、『太平記』『神皇正統記』そのまんま・・みたいな本だった。
   さらに考えてみると、「聖徳太子」て、名前からして他の人間と違うし、厩戸皇子といって馬屋の戸の所で産まれたて、なんか、馬屋で産まれて飼葉桶の中に寝かされたというイエス=キリストみたいだし、10人の言葉を同時に聞き分けたとか超能力者みたいな話が、なぜ、聖徳太子という人間ひとりだけにあるのかと思ったものだが、「聖徳太子は蘇我入鹿である」ということで、そして、乙巳の変で中大兄(天智)と鎌足が暗殺した入鹿の怨霊におびえた藤原系の人間が怨霊封じ込めの寺として法隆寺を作り、怨霊に「聖徳太子」というものすごいすばらしい名前を贈った・・・と言われると、辻褄があってくるように思う・・・・が、そうなると、小学校の高学年の時から学んできた「歴史」「日本史」というのは、あれはいったい何だったんだ? てことになってくる。 『聖徳太子はいなかった』なんて、今さら言われてもなあ~あ・・・・て感じがしてくるのだが、落ち着いて考えてみると、聖徳太子は皇族であり、推古天皇の甥だったのだが、聖徳太子自身が皇族で大変優秀な人間だったというのに、なんで、聖徳太子自身が天皇になれへんの? て私も最初は思ったものだが、もともと、聖徳太子なんていてまへ~ん・・・ということだったのか・・・。

   飛鳥四大寺とは、大官大寺・法興寺(飛鳥寺)・川原寺・薬師寺で、このうち、大官大寺は平城京に移って大安寺となり、薬師寺も平城京に移って薬師寺として西ノ京にあり、法興寺は移転に抵抗した結果、法興寺は飛鳥に存続しながら、どっちが本家かわからんが元興寺という名称で法興寺の系統の寺が平城京に作られたが、奈良四大寺としては川原寺は入らず、変わりに藤原氏の氏寺の興福寺が奈良四大寺に入った。 川原寺はどうなったかというと、『楽楽 奈良・大和路』(2016. JTBパブリッシング)には「川原寺跡」として記載され、≪中金堂跡には川原寺の法灯を継ぐ弘福寺(ぐふくじ)が立ち、その境内に瑪瑙(めのう)(大理石)の礎石が残る。≫と書かれている。 弘福寺(ぐふくじ)という名称の寺が川原寺のあった場所にあって存続しているようだ・・・・が、弘福寺は「川原寺跡」で、飛鳥寺は「法興寺跡」ではなく「飛鳥寺」と記載されるのが一般的なのはなんでか・・・とも思うが、一般にそうなっているようです。

   飛鳥寺でいただいた由緒書には、≪ 寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。≫と書かれていますので、この寺の名前は≪現在は安居院≫なのでしょうか。 でも、一般には、飛鳥寺の方が「通りがいい」ですよね。
   さらに、この寺の東前にバス停があるのですが、「飛鳥寺前」かと思いがちですが、バス停の名前は「飛鳥大仏」なんですね。

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↑ 本堂。 東門を入ってすぐの場所から見たもの。
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↑ 本堂。

   ≪日本で最初の本格的仏教寺院≫として、塔の左右と背後の3つの金堂を持つ飛鳥寺(法興寺)の伽藍はどうなったのかというと、≪ この伽藍は鎌倉初期の建久7年(1196)に落雷を受けて全焼し、塔心礎から取り出された金堂製舎利塔は木箱に入れて再び奉納された。≫そうで、現在の本堂↑は、かつての中金堂の位置に立つものの、中金堂だけが焼失を免れたというわけではなく、現在の本堂は≪幕末再建≫(『楽楽 奈良・大和路』(2016.JTBパブリッシング)のもので、≪前には中金堂の礎石が残る≫というものらしい。

   バス停の名称の「飛鳥大仏」とは、↑の本堂の中央におられる本尊、釈迦如来像のこと。 駅名に「◇◇大仏」とついている大仏さんというと、なんといっても、「鎌ヶ谷大仏」が有名(少なくとも、千葉県では)ですが、鎌ヶ谷の大仏さんは決して悪いことはないのです・・・けれども、なにしろ、新京成電鉄の駅名になっているくらいですから、奈良の東大寺の大仏とか千葉県の鋸山の大仏ほど大きくはないとしても、鎌倉の大仏くらいかそれより少し小さいくらいの大仏さまがいらっしゃるのではないかと思い、地図を見ると「鎌ヶ谷大仏」駅のすぐ東だというので、鎌ヶ谷大仏駅で降りて、鎌倉の大仏さんの顔あたりの高さを見回しても見つからない、たしか、このへんなんだけれどもと普通の人間の顔あたりに視線を戻すと、あ・・・・・いらっしゃった・・・・て。 クルマでその前の道を走りますと、いつ、通っても、「ええ~え、これえ~え」て顔したにいちゃんねえちゃんがいる♪というのがほほえましい。 鎌ヶ谷の大仏さんは、決して悪いことはないのですが、鎌倉の大仏くらいの大きさの大仏さんがおられるのだろうと思って行くと、ちっちゃいんです♪ 鎌ヶ谷の大仏さんは何も悪いことされてないんですけれども、駅名になっているくらいだから・・・と勝手に想像して行くと、思っていたよりちっちゃいんで、ええ~え・・・と思ってしまうのです。
    それで。 飛鳥大仏はどうなのかというと、↑の本堂の中央に鎮座されてまして、けっこうでっかいんです。『奈良まほろばソムリエ検定 [改訂版]』(2007.山と渓谷社)には≪ 推古天皇17年(609)には鞍作止利(くらつくりのとり)が作った銅造丈六仏(飛鳥大仏)と刺繍の丈六仏が祀られた。≫とあり、飛鳥寺でいただいた由緒書には≪ ・・日本最古の仏像である。高さは約3メートルで当時銅15トン、黄金30キログラムを用いて作られた。 平安・鎌倉時代に大火災で全身罹災、後補を受ける。≫と書かれています。 鎌ヶ谷大仏さんは露天におられ、かつ、周囲に何階建てかの高さの建物が建っているのに対し、飛鳥大仏は本堂の中、建物の中におられるので大きく感じるということもあるかもしれませんけれども。
    火災の時にどうなったのかというと、≪ 旧伽藍の中金堂に祀られていたが、建久の火災によって破損し、顔面と右手中央の三指以外は後補によるものである。≫(『奈良まほろばソムリエ検定[改訂版]』)らしい。
    顔の右半分がいくらか厳しい顔つきで、左半分が右半分に比べてにこやかな顔つきだそうで、言われてみると確かにそうです。 ここでは、御住職の考えで、本堂の中の仏さまの写真も撮らせてもらっていいということでご本尊の釈迦如来像(銅像)とその左の「聖徳太子孝養像」(聖徳太子が16歳の時に父の用明天皇の病気回復を祈願している像(木像)(室町時代)、本尊の右の阿弥陀如来坐像(木像)も撮らせていただいたのですが、仏像というものは、そこに行って拝観するもので、行った人間が写真を撮らせていただいて帰宅後も見るのはいいとしても、行かない人が人が撮影してきたものを見てそれで足りるとするものではないと思いますので、ここでは仏像の方の写真は公開はしないことにします。 ぜひ、飛鳥寺に足を運んで見ていただきたいと思います。(それでも、写真を見たい方は、インターネット上にも公開されているものがあるので、検索して見てください。)

    関裕二氏や梅原猛氏の本を読むと、法隆寺の東院の聖徳太子の姿だと言われる救世観音像には光背が像の後頭部に釘で打ちつけられており、普通はそういうことはしないものだと書かれていたのですが、そうだろうなあと思いつつも、これまで、光背がどのように取りつけられているかといったことはそれほど気にして見なかったのですが、飛鳥寺の本堂の本尊の右側におられる阿弥陀如来坐像とその光背を見ると、たしかに、阿弥陀如来の頭であれ背中であれ、阿弥陀如来の体に光背を打ちつけるようなことはされていません。
    又、聖徳太子の像というのは、なぜか、子供の時の像や十代の時の像が多いとも書かれていたのですが、この飛鳥寺の本尊の左側の聖徳太子の像も16歳の時の像です。

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   ↑ 本堂の前、今は庭になっている部分に、かつて、塔が建っていたということで、「塔 心礎中心 地下3メートル」と書かれた札が立っています。

   (2017.1.15.)


   法興寺(飛鳥寺)(安居院)参拝 と西門跡、蘇我入鹿首塚 訪問。≪下≫http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html  へ続きます。ぜひ御覧ください。

☆ あすか シリーズ
1. 法興寺(飛鳥寺、安居院)と蘇我入鹿首塚≪上≫本堂、塔跡。 〔今回〕
    〃 ≪下≫思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡。http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
2. 山田寺跡、飛鳥資料館 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_11.html
3. 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_12.html
4. 「孝元天皇陵」、飛鳥川、雷の丘 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_13.html
5. 阿部野橋駅、アベノハルカス、大和八木駅、樫原神宮駅、天理教畝傍支部、雷の丘の西のあたりの町並み http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html


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