幻想的な「孝元天皇陵」と石川池(剣池)〔奈良県樫原市〕 「実在していない天皇」の古墳とは・・・。

[第501回] あすかシリーズ4
   近鉄 南大阪線・吉野線・樫原線の「樫原神宮前」駅から東の方に進むと、「孝元天皇陵」があります。↓
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↑ 「孝元天皇陵」と書かれているあたりが「孝元天皇陵」で、「旗」マークは↑の写真の撮影地点です。
   地図には「孝元天皇陵」と書かれているのですが、現地にはその表示はなかったように思います。 そもそも、孝元天皇て誰? ・・・・なんて言うと、右翼のおっさんに怒られそうですが・・・、それなら、どういう人かすぐに答えられますか?  日本史上の天皇で有名人というと、「まず、実在したであろう」とされる応神、その後、聖徳太子の時の推古、乙巳の変の時の皇極・斉明、その後の天智、天武、東大寺を創建した聖武、平安京遷都した桓武・・・・ときて、これより後は有名人でも古墳とは関係なさそう、というのか、埋葬の儀礼を神社ではなく寺が担当するようになり、古墳は作られなくなりましたから、古墳があるということは、「奈良時代」まででしょう。
   「手っ取り早くウィキペディア」で調べてみますと、≪ 孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、日本の第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日)。 ≫なんて書いてあるのです。 いつの時代の人かというと、≪孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)≫で、在位はどの時期かというと≪孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日≫て、こんなもん、ちっとも答えになっとらんがな・・・。 で、どういう人なのかというと、≪ 『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。 ≫ということです。
   井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』( 中公文庫)によると、『古事記』『日本書紀』に登場する天皇のうち、最初の方の何人かは実在していない可能性が高い。 「『古事記』『日本書紀』の記述の内容の真偽は別として、実在したと思われる天皇」は応神から以降で、応神より前の天皇については、景行は「実在した可能性がないとは言えない」天皇であるが、景行より後の「ヤマトタケル」や「神功皇后」については記紀の記述の中でもいかにも胡散臭いもので、「神功皇后の三韓征伐」などというものは史実にないし、もとより、ヤマトタケルなどという者は実在していない。但し、ヤマトタケルがこういうことをやったというお話のモデルとなるようなことをいつの時代かにやった人間がいた可能性はある、というものであるわけです。 要するに、孝元天皇というのは、「実在した可能性が高いと思われる最初の天皇」である応神よりも前、「もしかすると、実在した可能性もある天皇」である景行よりもまだまだ前の「天皇」。 「実在していないと思われる天皇」であるわけです。・・・・それなら、なんで、古墳があるの? て思いませんか?
   しかし、神社によっては、ここでヤマトタケルがなんたらをやったとかいうお話がある神社もあるわけですが、お話はあくまでもお話であって、後の誰かが作ったのかもしれませんが、古墳というのは、これは作るのはお話ほど簡単ではありません。 孝元天皇が実在しなかったのなら、これは誰の古墳なのか? なぜ、実在しなかった天皇の古墳だと言われているのか?

   一番の問題として、戦中と「戦中に近い戦前」においては、「国威宣揚」のため、「国民精神総動員」のため、『日本書紀』『古事記』の話を史実にするために、そのへんにある古墳を、「これは◇◇天皇の古墳であると判明した」ということにしたような古墳がけっこうあるらしい・・・のです。 神奈川県横須賀市の走水神社は、私はあれはおそらく、海にすぐ近い港にすぐ近い場所でありながら真水が採れる井戸があるという貴重な場所であるということでその地域の人たちが尊重して神社扱いしていた場所を、昔々、ヤマトタケルが浦賀水道を房総に渡ろうとして船出したが、海神の怒りにふれたのか船が進まなかったところ、オトタチバナヒメが海に身を沈めて海神の怒りをといたことから船が進んで浦賀水道を渡ることができた、というお話の場所を「ここや!」と決めた・・・らしく、走水神社の付近には、ここがヤマトタケルの船が進まなかった場所であると指定された所とかあるのですが・・・、なんで、そんなもんわかんねん? わかるわけないだろうが・・・と今は普通の人間は思いますが、戦中および「戦中に近い戦前」においては、逆らうと怖いですから、そうだと言われると、「はあ、そうでっかあ」と国民は認めた・・・・のが戦後も残っているみたい・・・・。 そういう所が日本国中にけっこうあるみたいです。
   余計かもしれませんが、ヤマトタケルというのは、相模の国で裏切りにあって火責めにされた時には、草薙の剣という、いわば、“ 伝家の宝刀 ” を持ち出して、エイとばかりに風邪をあおぐと風向きが変わって火責めにした方がやられた・・・ということがあったわけで、そういう草薙の剣という魔法の剣を持っていたわけですから、海が荒れて船が動かないとなると、女を海に投げ込むという、「ステンカラージン」みたいというのか、男の身勝手というのか、「女をいったい何やと思うとるのよ」てことをしなくても、そこでこそ、そういう時こそ、草薙の剣でエイ! となんでやらんねん? と思ったりしたこともあるのですが、・・・・思いません?
※ 《YouTube-ステンカラージン (ИЗ-ЗА ОСТРОВА НА СТРЕЖЕНЬ)》(赤軍合唱団)https://www.youtube.com/watch?v=kmAQc2nyY2k
《YouTube―Don Kosaken Chor(ドン=コサック合唱団) - Stenka Rasin(ステンカ=ラージン)》https://www.youtube.com/watch?v=AEnSMa-lTzM
   それに、オトタチバナヒメて『古事記』を見ると、ヤマトタケルの子を産んでるのですよ。ということは、「女は弱し、されど、母は強し」と言うでしょ(ましてや、オバサンなんて天下無敵! 男なんてとうてい勝てるわけない・・・・)。『古事記』ではオトタチバナヒメは自ら海に身を投じたということになっているけれども、子供のいる女がそんなことするか?・・・て考えたことないですか?
   さらに言いますと、ヤマトタケルて、浦賀水道で妻のオトタチバナヒメを海に投げ込んだのか妻が自ら海に飛び込んだのか、いずれにせよ、そこで妻を亡くしているのですが、帰り道、名古屋まで行くと、一周忌もすんでないのに、そこで早くも別の女となんちゃらしようとやりだすわけです。それで罰が当たって伊吹山で死ぬはめになったのかどうかはわかりませんが、このチャラ男、なによ・・・て思いません? 

   もっとすごいのが、青森県の新郷村はかつて戸来村(へらいむら)と言ったらしく、「戸来(へらい)」は「ヘブライ」から来ているという「説」があったらしい。 そして、そこには、なんと「キリストの墓」なるものがある。なんじゃ、そりぁからあ・・・・。 この話を最初に何で知ったかというと、『金田一少年の事件簿』なのですが、安土桃山時代か江戸時代初期に日本にやってきたキリスト教の宣教師の中に迫害を逃れて青森県まで逃げてきた人がいて、その人を青森県の人がイエス=キリストだと勘違いし、その宣教師の墓をイエス=キリストの墓だとして守ってきた・・・というようなことでもあったのかなと思ったのです・・・・が違ったみたい。 岡本亮舗(りょうすけ)『聖地巡礼-世界遺産からアニメの舞台まで』(2015.2.25.中公新書)によると、≪ 『竹内文書』は、天津教(あまつきょう)を興した宗教家・竹内巨麿(きよまろ)(1875ー1965)の家に代々伝えられてきたとされる古文書で、天津教の聖典とされる。 巨麿によれば、『竹内文書』には正史が語らない真の歴史が書かれている。1910年に公表されたが、実際には、『竹内文書』のほとんどは、巨麿自身の手による創作物だと考えられている。・・・・ 1934年10月、当時の戸来村 村長・佐々木 傅次郎の依頼に応えて、鳥谷 幡山(とやばんざん)(1876~1966)が十和田湖周辺の調査紀行に訪れる、青森県七戸町出身の鳥谷は、東京美術学校で寺崎広業や橋本雅邦に学んだ日本画家であった。・・・佐々木は村おこしの広告塔として文化人の鳥谷を引き込むために呼んだのであった。しかし、・・・・・ 『竹内文書』に親しんでいた鳥谷が戸来村で行ったのは、太古に村の付近に「神都」があったことを実証しようとする調査であった。そして、鳥谷は大石神ピラミッドを発見する。・・・・鳥谷の要請を受け、1935年8月にピラミッドについてさらに詳しくしらべるため、巨麿が戸来村を訪れる。実地検分の結果、大石神が間違いなく古代のピラミッドであると確定される。そして、インスピレーションに導かれた巨麿は、近くの小山にあった土饅頭がキリストの墓だと主張したのである。・・・・・≫というものだったらしい・・・・・。
   別の意味で「もっとすごい」のが、「仁徳天皇陵」というの。 私ら、子供の頃から、「日本で一番大きな古墳は? ・・・→仁徳天皇陵」、「日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵」と教えられてきたわけですよ。大阪府堺市にある日本最大の前方後円墳のことを。 ところが、いつの頃からか、「仁徳天皇陵」とあまり言わなくなってきたみたい、「大仙陵古墳」と言うそうです。 な~んでか?  どうも、仁徳天皇の古墳なのか他の人の古墳なのかよくわからないということになってきてしまったみたいで・・・・て、それならそれで、なんか、仁徳天皇陵と確定したみたいな教え方しないでほしいなと思ったのですが、たしか、学校の教科書にも書いてあったように思いますが、今さらそんなこと言われてもなあ~あ・・・・とも思うのですが、そうみたいです。 そもそも、『聖徳太子はいなかった』て説が出てきているわけですが、今さらそんなこと言われてもなあ~あ・・・・て感じ。 確定していないものなら、「こうではないかと言われている」とか「こうであったのかもしれないという説がある」とかそういう表現をするべきだと思うのです。それを、もはや、疑いないみたいな表現で教科書に掲載されていたものが、「聖徳太子はいなかった」なんて今さら言われても、なんだかなあ~あ・・・・・て、思いませんか?
※ 《ウィキペディア-大仙陵古墳》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3

   私が中学生の頃、1970年代前半、新人物往来社が発行していた「歴史読本」という本がけっこう好きで、何冊か買って読みましたし、そこに「拓本の取り方」などというものが掲載されていて、「拓本」というものを知り、そういう方面の研究者というものに魅力を覚えたりもしました。その頃から「歴史読本」と新人物往来社が発行する本には「人物中心の日本史」という傾向はありましたし、歴史と歴史小説の境目くらいの本であって、片方で「拓本の取り方」とか歴史学というのか考古学というのかのかなり本格的なところが述べられている一方で、司馬遼太郎程度のレベルの「人物中心の歴史小説」、「歴史小説」としてはおもしろくても「歴史学」としては適切とは言えないと思えるものもあったと思いますが、しかし、特に右翼雑誌とは思わなかったのです。 しかし、「歴史読本」2013.2月号「神社に秘められた古代史」を見ると、「好評連載中!」のもので北 康利「叛骨の政治家 岸信介」などというものが掲載されており、そこには「国民に媚びることなく、真の指導者たらんとした政治家がかつていた」なんて書いてあるのです。もはや、「諸君!」「正論」「サンケイ」なみの右翼雑誌です。かつて、けっこう好きだった「歴史読本」はいつのまに右翼雑誌になってしまったのか。
   それはそれといたしまして、「神社に秘められた古代史」という特集の「古代史を動かした12の神社」の中の稲田智宏「熱田神宮」に、
≪ 熱田神宮から北西へ約三百メートル、熱田神宮公園には宮簀媛命(みやすひめのみこと)の墓と伝えられる断夫山(だんぶざん)古墳がある。全長約百五十メートルで東海地方最大規模の前方後円墳なのだが、六世紀初頭の築造らしきその古墳は継体天皇の妃となった目子媛(めのこひめ)の父、尾張連草香(むらじくさか)のものではないかと考えられている。 ・・・≫
≪ また断夫山古墳の南、熱田神宮の西には、全長約七十五メートルで日本武尊の墓と伝えられる白鳥古墳があり、これも実際は六世紀初頭の築造で尾張氏の人物の墓と見られている。 ・・≫
と出ている。 ここであげられている断夫山(だんぶざん)古墳と白鳥古墳は一例であって、「誰々の古墳と言われているが実際は・・・・」というのは日本国中に相当あるのではないか。

   奈良県樫原市石川町の「孝元天皇陵」は西から北にかけて「剣池」もしくは「石川池」という池があり、西から北にかけては池の周囲に遊歩道が整備されており、なかなかここちよい道です。 ↑の写真は、早朝、池の西のあたりから撮影しましたが、池の北西あたりから撮影すると、↓ のよう・・・・
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↑  これは、撮影後に操作したものではありません。 自然とこのように写ったものです。 朝の光が池の面に反射してこのような幻想的な写真になりました。

   大阪府堺市の「大仙陵古墳」(俗に「仁徳天皇陵」と言われてきた)なんかは、前方後円墳の周囲を掘で囲まれています。あれって、本当にお墓なのだろうか?・・・・て、考えたことありません? お墓にしてはなんとも重装備な・・・。 白井新平『奴隷制としての天皇制』(1977.三一書房)でも、その点について指摘されています。あれは、墓だったのか? ・・・・・
   堀で周囲を囲まれた前方後円墳というのは、もしかして、城塞だった・・・ということはないか? 大和川は今は大阪市と松原市八尾市の境目から西に、大阪市と松原市の間を通り、さらに大阪市と堺市の間を通って大阪湾に出ていますが、これは江戸時代に掘削して作った人工の川で、それまでは、大和川は八尾市のあたりから北上し、東大阪市の中央部を北に進んで、大坂城の北のあたりで、淀川・寝屋川に合流して西に進んで大阪湾に注いでいたのです。 今の東大阪市のあたりが大雨の時に水害にあうということで八尾市・松原市・大阪市の境目付近から西に進んで大阪湾にそそぐようにして、淀川と大和川を分けたのです。 それによって、水害が少なくなった地域もあったでしょうけれども、一方で堺の方に大和川が流れていったために、堺の港が埋まり、良港であった堺の港が浅くなってしまったとも言われます。 かつて、良港であった堺の港のすぐ東に位置するのが「大仙陵古墳」(俗に「仁徳天皇陵」と言われてきた)という日本で最大の前方後円墳です。 そして、大和盆地のいくつもの川を合流して河内にでてきた大和川に、南河内地方、河内長野市の中央部を北に流れてきた石川が大阪府柏原市と藤井寺市の境目付近で合流するのですが、日本で2番目に大きい前方後円墳である「応神天皇陵」は、大和川に合流する直前の石川のすぐ西に位置している。 堺港のすぐ東の「大仙陵古墳」(「仁徳天皇陵」)、大和川に石川が合流する脇にある「応神天皇陵」。 いずれも、堀に水をたたえて、その内側にもりあがった小山でできているのですが、交通の要衝に設けられた城塞、砦だった・・という可能性は考えられないでしょうか? もしくは、先祖の遺骨を「後方」の中央部に埋葬していたとしても、それを「象徴」として祀りながら、砦、城塞として使われていたという可能性はないか?  十分、城塞として使えるものではないのかと思えるのですが・・・。

    「孝元天皇陵」の方ですが、「大仙陵古墳」(「仁徳天皇陵」)や「応神天皇陵」とは違って、池に面しているのは西から北にかけての部分で、南側は「陸続き」になっています。↓
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↑ 「孝元天皇陵」 南側。
   中学生の時、バスでの遠足の時、堺市の「大仙陵古墳」(「仁徳天皇陵」)の脇の道を通ったことがあったのですが、「お城みたいだなあ」と思ったものでした。 大阪城みたいに堀で囲まれて、その内側に小山が盛り上がった姿は「お城みたい」に見えたのです。
   「孝元天皇陵」は西と北が池に面していて南・南東は「陸続き」ですが、片方が「陸続き」であったなら、主たる防禦は「陸」の側だけとすることもできて、かつ、「陸」の側から出入りできることにもなり、これも、「お城」として使おうと思えば使えたのではないのか・・・・。

   さて。 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中公文庫)を読むと、「おそらく実在したであろうと考えられる天皇」の最初の人物は応神天皇だというのです。 それ以前の「天皇」は実在していない可能性が高く、特に、「神武」から後の数人は100年以上生きたという人ばかり、200年以上生きたことになっている人もいるわけで、どう考えてもその通りとは考えられない。 但し、応神の少し前の「景行」は、「もしかすると、実在したという可能性もないとは言えない」天皇らしい。 しかし、「景行」の子供だということに『日本書紀』『古事記』ではなっているヤマトタケルとか、その後の神功皇后になると、またもや、「実在したとは考えにくい」人物になる。 そもそも、神功皇后の三韓征伐」なんてものは歴史上ありませんし。それを図にすると、↓。
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   それに対し、関裕二氏の推測は、「神武」(「カムヤマトイワレヒコ」)と「応神」は同じ時代の同一人物、「崇神」は「神武」「応神」と同時代の別の人物で『古事記』『日本書紀』の「ニギハヤヒ」に該当する。 『古事記』『日本書紀』では、「神武東征」の時、大和盆地を実効支配していたのは、ニギハヤヒとナガスネヒコで、最初はニギハヤヒとナガスネヒコが同盟して「神武」(「カムヤマトイワレヒコ」)と戦っていたが、後にニギハヤヒは「神武」と手を組んでナガスネヒコと戦うようになる。
   この「崇神」=「ニギハヤヒ」は吉備地方を根拠地としていた物部氏の祖先、「ナガスネヒコ」は尾張・伊勢・美濃など伊勢湾沿岸地方を根拠地としていた尾張氏の祖先で、「神武」=「応神」こそ蘇我氏の祖先だったのではないか・・・? と推測する。 物部氏は最初は尾張氏と組んでいたのを、蘇我氏と手を組んで尾張氏と戦うように変わったのではないか。 そして、物部と蘇我は手を組んでヤマト政権を運営していったのではないのか・・・と。 それを、『日本書紀』の作者がごまかすために、「神武」と「応神」を分けて、かつ、「崇神」を「応神」よりも前、「神武」は「崇神」よりもまだ前の時代の人間だったという物語に話を作り変えたのではないのか・・・・と。 それを図にすると、↓。
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関裕二氏は「仁徳」も実在していないのではないかと推測するが、言われてみると、「仁徳天皇」という名称は「聖徳太子」という名称と一緒で、いかにも聖人て感じの不自然なおくり名であるし、宮から眺めると、村の人家から煙がでていない、凶作で民が困っており、それでカマドから煙がでていないのだと聞いて、それなら、民が豊かになるまでの何年かは税はとらない、大王も貧乏な生活を送ろうではないかとおっしゃったとかいうエピソードも、なんか、菊池寛の『恩讐の彼方に』『父帰る』とか芥川龍之介の『杜子春』だの太宰治の『走れメロス』だのといった類のくだらない通俗小説みたいな話・・・ですよね。

   で、「孝元天皇陵」の「孝元天皇」というのは、「まず、実在していない」と考えられている「天皇」ですから、この古墳も、その他のこの地域の誰かの墓だったということか。

   但し、「孝元天皇」は「実在しなかった天皇」と考えられているようではあるのですが、関裕二『聖徳太子は蘇我入鹿である』(1999.11.5.KKベストセラーズ ワニ文庫)を見ると、『先代公事本紀』に、物部氏の祖先とされるニギハヤヒ―ウマシマチ の子孫に物部氏につながるウツシオノミコトの兄弟という位置に「孝元天皇」が掲載されており、又、ウツシオノミコトの兄弟の娘・イカガシコメノミコトを妻としてその子孫が蘇我氏の祖先だとされているらしいことが書かれている。 少なくとも、『古事記』『日本書紀』の記述通りには実在しなかったと思われる「天皇」が、他の文書にも登場するということは、その時代においては「天皇」という称号はなかったわけだから、「天皇」ではなかったとして、単に、歴史を長く見せるためだけにそこに書かれたのではなく、何らかの役割をそこでおこなった人が、いつの時代かにいたということなのだろうか。


   「孝元天皇陵」の北の「石川池」(「剣池」)の西側の堤防の上に↓の石碑が建っているのですが、文字の部分が損傷して何と書かれているのか、読めません。
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   石川池(剣池)には、水鳥が泳いでいます。↓
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↑ 遠くから見ると同じように見えても、望遠レンズで見ると、微妙に違いがあります。
(泳いでいるのをカメラでとらえた上で的確なタイミングでシャッターを押すというのは、けっこう難しい・・・)

※ 樫原市 かしわら探訪ナビ 観光政策課 孝元天皇陵 http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/kougen.html
樫原市 かしわら探訪ナビ 文化財課 孝元天皇陵 http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/spot/kougen.html
樫原市観光協会 さらら 孝元天皇陵 https://www.kashihara-kanko.or.jp/spot/018.html


   石川池(剣池)の北側を東に進んで行くと、飛鳥川にぶつかります。↓
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↑ 「旗」マークの所から上流側を見たもの。

   「雷(いかづち)の丘」
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※ 《ウィキペディア-雷丘》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E4%B8%98

   (2017.1.21.)

☆ あすか シリーズ
1. 法興寺(飛鳥寺)(安居院)と蘇我入鹿首塚≪上≫本堂、塔跡。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_9.html
     〃  ≪下≫思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
2. 山田寺跡と飛鳥資料館 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_11.html
3. 飛鳥坐神社 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_12.html
4. 「孝元天皇陵」、飛鳥川、雷の丘 〔今回〕
5. 大和八木駅、阿部野橋駅、アベノハルカス、天理教畝傍支部 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html


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