飛鳥坐神社( 明日香村)参拝。「元伊勢」とされる飛鳥坐神社。「長屋の神」は誰か。乙巳の変の不思議、他

[第500回] あすかシリーズ 3
   飛鳥寺の少し東に 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)があります。 飛鳥寺が平地にあるのに対し、飛鳥坐神社は鳥居から階段で山を登ります。↓
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↑ 鳥居の中央の額には「飛鳥社」と書かれています。
   鳥居をくぐった後、東に向かって石段で山を登ります。 登って行った左側(北側)に社殿↓があり、その向かい(南側)に神楽殿があります。
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↑ 飛鳥坐神社 社殿
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↑ 神楽殿

   社殿の前と右(東)に進むと、「結びの神石」があります。(おばさんが大好きな・・・)↓
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↑ ≪ 境内のいくつもの陰陽石は子授けの神と信仰され、2月第1日ようには天狗とお多福が愛の営みを演じる「おんだ祭」を開催。≫(『楽楽 奈良・大和路』2016.4.1.JTBパブリッシング)
≪ 陰と陽とは別のことばに置き換えると、オスとメスといってもよいわけで、飛鳥坐(あすかにいます)神社や、その他古くからある日本の神社・遺跡に、必ず男と女の生殖器をかたどった石があるのは、ある種の陰陽思想が、古代日本に存在したことのひとつの傍証といえる。
   陽は凸、陰は凹を意味し、陽は与えるもの、陰は受けるもの、陽はあるもの、陰はあってないものであり、相対的な存在である。・・・・・≫(関裕二『聖徳太子は蘇我入鹿である』1999.11.5.)

   社殿の前を右に行き、そこからさらに石段を登っていくと、奥の院 というのか奥の宮 というのか、別の社があります。↓
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   神社に行くと、「摂社」とか「末社」として、別の神社の出張所みたいな社がある神社がけっこうあります。 独立した社である場合もあれば、長屋形式、もしくは、テラスハウスの社にいくつもの神さんが並んで入居されている場合があります。 そして、それぞれに、「金毘羅」「諏訪」「天神」「八幡」「稲荷」「鹿島」・・・と名称が書かれていることが多いのですが、飛鳥坐神社ではどうかというと、飛鳥坐神社にもそのような「長屋」がいくつもあるのですが、神さんの名称は書かれていません。 上の方の社殿の左手前の「長屋」では、人名が書かれていたのですが、それは神さんの名前ではなく奉納者の名前と思われます。
   その「長屋」の写真を撮ってこなかったのはうかつでしたが、あの「長屋」の入居者はどういう神さんなのだろうか・・・・と考えたのです。 

   そもそも、この飛鳥坐神社というのは、どういう神さんを祀っている神社なのか。 現地での説明書きには、
御祭神  八重事代主神(やえ ことしろぬし のかみ)
       飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなび みひめ のかみ)
       大物主神(おおものぬし のかみ)
       高皇産霊神(たかみむすび のかみ)

と出ています。 事代主、大物主 は出雲の神さんですよね。 それに対し、 高皇産霊神(たかみむすび のかみ)
て、高天原系の神さんじゃなかったでしたっけ。 飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなび みひめ のかみ)は、この地域の神さまなのでしょうか。
   現地の説明書きには「由緒」として、
≪  当神社の創建は定かではありませんが、古典によりますと、当社御祭神の事代主神は「大国主神の第一子で 国譲りの際信頼を受け 父神のご相談にのられました  その後 首渠神(ひとごのかみ)として八十万の神々を統率し高市に集まり この天高市(飛鳥)に鎮まりました」とあります  また 先代公事本紀には 「大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主神)は高津姫神を娶って一男一女を生み その御子神である事代主が 高市社である甘南備の斎場(いつにわ)」と呼ばれ 「小高い所にあるまつりの庭」を意味するといわれています ≫
と書かれている。
≪ また 万葉集の中でも「飛鳥の神奈備」は 人々の信仰も篤く「手向けの山」として数多く謳われています ≫と書かれている。 「神奈備」「甘南備」(かんなび)とは何かというと、 《ウィキペディア-神奈備》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%82%99 には≪ 神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とは、神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと。≫と出ています。
   「飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなび みひめ のかみ)」の「日女(ひめ)」は「姫」「媛」のことで、飛鳥の神が宿る山の3人の女神、この飛鳥坐神社のある山の3人の女神ということでしょうか。

   「事代主神」ですが、『古事記』(岩波文庫)を読むと、高天原からタケミカヅチとフツヌシという武闘派が出雲にやってきて、アマテラスさんに従うんかい、どうなんじゃい!と恫喝を加えたところ、大国主は「息子にきいてくれ」と逃げよる。 1人の息子の事代主は「ぼくは別にかめへんけど~お」とか言ったものの、もう1人のタケミナカタはやはり武闘派で、武闘派対決となったものの、あっさりと破れて、長野県諏訪市まで逃げて行った・・・ということになっていた・・と思ったのだが、 関裕二『蘇我氏の正体』(2009.5.1.新潮文庫)には、≪ ・・大己貴神が国譲りを承諾する直前、事代主神は天つ神たちの要求に対し恭順の意を示しつつも、海の中に八重蒼紫(やえあおふし)の垣根を作り、船を傾けて水中に歿していったという。 これが呪いの呪術であったことは、『古事記』の記述からはっきりしている。それによれば、事代主神(言代主神)は、水中に没するとき船を傾け、「天(あま)の逆手(さかて)」を打って船を青紫垣(あおふしがき)に変えて沈んでいった、というのである。 ここにある「青紫垣」は、魚を捕る籠のようなもので、また「天の逆手」とは、逆の手で柏手を打つ呪術にほかならない。 これこそ、国を乗っ取られた恨みとともに海中に没したという暗示にほかなるまい。 歴史時代に入り、「塩」や「水」の祟りが天皇家を悩ませていくが、これも、出雲の神が海中に沈んでいったことと無縁ではなかったはずである。・・・≫と出ている。 事代主は何ら抵抗しなかったわけではなかったようだ。
   ≪ ・・・大国主神は、「わたしはお答えすることができません。 わたしの息子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)がきっとお答えするでしょうが、彼は鳥をとり、魚をとって、美保の岬まで行っていて、まだ帰ってきておりません」とお答えになった。 そこで、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を遣わして、八重事代主神を呼び出して問われたときに、事代主神は、その父の大国主神に、「畏れ多いことです。この国はお言葉通り、天照大御神の御子孫にさしあげましょう」といわれて、すぐに、その船を踏んでひっくり返し、逆手を打って呪術を使い、船の上に青紫垣(あおふしがき)をおつくりになって、お隠れになった。・・・・≫(梅原 猛 現代語訳『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫) という部分です。
   大物主(おおものぬし)という神さんは大神神社の祭神で大国主の別名とも言われるようですが、まったく同じなのか微妙に違うのかどうもよくわからん神さんみたいなのです。 大国主(オオクニヌシ)と同じであるならば、事代主のおとうちゃんということになります。 「飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなび みひめ のかみ)」はこの飛鳥坐神社がある山の神さま、土地の神さまだとして、大物主と事代主は出雲系の神さん。で、高皇産霊神(たかみむすび のかみ)という神さんは『古事記』では冒頭から出てきます。≪ 天と地が初めて別れたときに、高天の原に現われなさった神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、つぎに高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、つぎに神産巣日神(かむむすひのかみ)。  この三柱(みはしら)の神は、独身(ひとりみ)の神としてお現われになり、そのままお姿をお隠しになった。・・・・≫ お姿をお隠しになって、その後、どこで登場するかというと、≪ そこで、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と天照大御神の御命令で、天(あめ)の安(やす)の河原に多くの神々が集まって、思金神(おもいかねのかみ)に策を考えさせて、つぎのようにおっしゃった。 「この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、わが子の統治する国として、その支配権を委ねた国である。 ところが、わたしの息子は、この国には乱暴な神たちがたくさんいると思っている。 こういうわけだから、いったいどういう神を派遣して、荒振る神たちを征服させようか」 その仰せを承って、思金神及び多くの神々は相談して、・・・・≫(梅原 猛 現代語訳『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫 )と天孫降臨の時にアマテラスの参謀として登場します。 略称が高木神(たかぎのかみ)、高木さんですね。
   「土地の神さん+(大物主、事代主)+高木さん」というと、どうも、出雲系の神さんと高天原系の神さんが同居しているように思え、不自然な感じがしないでもありませんが、掲載されている順番から考えると、出雲系の事代主が一番の中心ということでしょうか。

   さて、飛鳥寺の東の道を北に進んだ突き当りのT字路、飛鳥寺の方から来て右折すると飛鳥坐神社に行くのですが、そこに↓の石標があります。
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↑ この三叉路を向こうに行くと飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)、右に行くと飛鳥寺(法興寺、安居院)があります。 飛鳥寺の方から来てT字路のどんづまりの位置に立つ↑の石標には「右スグ 元伊勢」と書かれています。 飛鳥坐神社は伊勢神宮の元の存在であるという意味のようです。

   さて、飛鳥坐神社が伊勢神宮の元になる神社だとすると、伊勢神宮とはどういう神社なのか・・・。 皇祖アマテラスを祀る神社だと言っているのは内宮の方で、外宮はどういう神さんかというと、トヨウケノオオカミという食事係の神さん。 ここで、天皇家の祖先神と食事係の神さんが同格というのがよくわからない。そう思いませんか? たとえば、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)には奈良神社という境内摂社があるのですが、これは、奈良刀自神(ならとじのかみ)という神々の食事をつかさどる神を祀っているらしいのです。〔⇒[第258回]《賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝6.「みあれ桜」「渉渓園」。「奈良神社」「庁屋(北神饌所)」の珍風景 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201405/article_6.html 〕 賀茂別雷神社(上賀茂神社)では食事係の神さんは摂社の扱いであって主祭神と同格にはなっていません。なぜ、伊勢神宮では食事係の神さんだという外宮の神さんが天皇家の祖先神アマテラスだという内宮の神と同格なのか? 村上重良『国家神道』(1970.11.27. 岩波新書)を読むと、外宮の神さんというのは、もともとの伊勢地方の地元の神さんで、内宮は大和朝廷が伊勢地方に「進出」した際にそこで祀った大和朝廷の神さんだ、と。 伊勢地方に「進出」した大和朝廷は、その地域を統治するために、自分たちの神と伊勢地方の神とを「同格」にして祀ることで、その地域を統治しようとしたのだ、と。 これなら、わからないことはありません。
   しかし。  そもそも、伊勢内宮の神さんというのは、皇祖神なのか。 伊勢内宮の神さんは女の神さんなのか。 関裕二氏の本を読むと、どうも、そうではない可能性が高そうだ。 皇族の娘が「斎王」として伊勢内宮に独身を貫いて神に仕えるということがなされてきた・・・ということは、娘が結婚せずに神に仕えるということは、その神さんは男ではないのか。 ひとりでは寂しいのでトヨウケノオオカミという女の神さんを呼んでほしいと内宮の神が言うので外宮の神としてトヨウケノオオカミという女の神さんを呼んだ・・・ということは、内宮の神は男ではないのか・・・。 陰陽思想から考えて、太陽神は男のはずではないのか・・・・といった指摘はいかにももっともと思われる。
   さらに、もともとは、伊勢の内宮の神は宮中で祀っていたが、負担が重いので宮中から外に出して、最終的に伊勢の地で祀ることになった・・・というのだが、祖先神なら何も負担が重いだかいうことはないはず。 祖先神が祟るというのはおかしい。 むしろ、伊勢の内宮の神は、皇室の祖先神ではなく、ヤマト政権確立に尽力しながら、その後、持統(ウノノササラ)と藤原不比等ら以降において斥けられていったヤマト諸豪族の神ではないのか・・・というのも、もっともと思われる。

   さらに。 天皇さんの名字て何て言うの? ・・・・て、子供の頃、思わなかったですか?  子供の頃、天皇さんに名前はあるの? とも思ったことがあるのですが、名前はあるのです。 有名なのは、前の昭和天皇は裕仁(ひろひと)という名前でした・・・・が、名字は聞いたことがありませんよね。 
   それで。 天皇家は、いったい、いつから名字をなくしたのか? もしくは、無くしたのではなくても、天皇家はいつから名字を名のらなくなったのか?
   ・・・・・もしかして、天皇家の名字は、乙巳の変(645年)とか大化の改新とかの頃までは、その頃は、「天皇」という称号はなく「大王(おおきみ)」と言っていたようですが、もしかして、大王(おおきみ)になっていた人の名字って「蘇我(そが)」だった・・・なんてことないですか?
   関裕二『神社が語る古代12氏族の正体』(2014.7.10.祥伝社新書)に書かれている「古代12氏族」とは、天皇家と出雲国造家以外には、物部・蘇我・三輪・尾張・倭(やまと)・中臣・藤原・大伴・阿部・秦氏の10氏族があげられている。 出雲国造家は名字としては千家(せんげ)さんというらしい。 「歴史読本 2013.2月号   神社に秘められた古代史」(2013.2.1.発行 新人物往来社)に掲載の瀧音能之・松尾光「特集クローズアップ 古代豪族を祀る20の神社」には、『神社が語る古代12氏族の正体』で登場する物部・蘇我・尾張・中臣・大伴・秦氏の6氏族以外に、紀・賀茂・安曇(あづみ)・阿蘇・佐伯・多(おお)・東漢(やまとのあや)・毛野・宗像・香取・土師(はじ)・息長(おきなが)・越智(おち)・和気(わけ)氏の 14氏族があげられています。 三輪・倭(やまと)・藤原・阿部の4氏族については、瀧音能之・松尾光「古代豪族を祀る20の神社」と別の「特集ワイド 古代史を動かした12の神社」の方で、前田晴人「大神(おおみわ)神社」で三輪氏の大神神社があげられ、関和彦「出雲大社」で出雲国造家の出雲大社があげられ、藤原氏は、関裕二『神社が語る古代12氏族の正体』では藤原氏と中臣氏を分けて掲載していますが、藤原氏は「歴史読本 2013.2月号 神社に秘められた古代史」(新人物往来社)の方では枚岡神社の中臣氏に含めているようです。 「天皇家」は別として、これらの氏族はすべて同じだけの由緒と勢力を持っていたわけでもなく、関裕二氏は、中臣氏というのは、中臣鎌足が登場するまで、目だった活躍がない氏族としており、梅原猛『隠された十字架―法隆寺論』(新潮文庫)では、壱岐・対馬といった方面に存在した氏族ではないかとし、ヤマト政権の中枢の氏族ではなかったと思われることが指摘されていますが、しかし、欽明天皇の時に百済から仏像が贈られ、はたして仏教を受け入れて仏像を祀るべきかどうかと臣下にお尋ねになったところ、蘇我稲目は、それは大いにけっこうなものでぜひともわが国でも拝むべきですと主張したのに対して、物部御輿と中臣鎌子は異国の神を拝んだのではわが国の八百万の神の怒りにふれますと大反対した・・・という話の登場人物の中臣鎌子はどうなのか、その次の世代の「蘇我馬子+聖徳太子」対物部守屋の対決の際には、中臣勝海という人物が最初は物部守屋の側についていたものの、途中から蘇我馬子の側につこうとして物部守屋に殺された・・・という話があるのはどうなのか・・・・というと、梅原猛『隠された十字架-法隆寺論』によると、仏教導入に物部御輿とともに大反対した中臣鎌子、物部守屋対蘇我馬子の戦いの際に最初は物部守屋についていたが鞍替えしようとして失敗した中臣勝海という人物は『日本書紀』には登場するものの、中臣氏の系図には存在しない名前であり、『日本書紀』が作成された時に創作された人物ではないかという。 となると、ヤマト政権の諸豪族の中ではたいしたことない中臣家の鎌足が、なにゆえ、乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺する中大兄の相棒になることができたのか?  中国の『水滸伝』では、蹴鞠がうまい高俅(こうきゅう)(環境依存文字。「にんべん」 に つくりは「求める」)という男が、蹴鞠で皇帝にとりいって出世するという話があるが、鎌足もまた、中大兄(なかのおおえ)が蹴っ飛ばしたサッカーボールを拾ってあげたというところから仲良しになった・・・・なんて、その程度のことで、政治の中枢に入り込めるか??? 関裕二氏は、鎌足は百済の皇子で日本に来ていた豊璋(ほうしょう)で、あまり優勢でない氏族の中臣氏の系図に入り込んだ上で、「藤原」という姓を中大兄(天智)からもらったのではないかと推測するが、ありそうな話ではある。
    それで。 乙巳の変(645年)の頃までは、ヤマト政権は諸豪族の連合体であり、諸豪族の中で物部とか蘇我とかの有力氏族から「王」の中の代表格としての「大王」が選ばれて即位していた・・・のではないか。 そして、乙巳の変の時の「大王」は女帝の皇極ではなく、蘇我入鹿だったのではないかという関裕二氏の推理はありそうな話である。

    ここで、もうひとつ、子供の頃、不思議に思ったことがある。 「乙巳(いっし)の変」と最近は言うが、私などが小学生の頃は「大化の改新」として、中大兄(なかのおおえ)(天智)と鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件とその後の改革とを合わせて「大化の改新」と言っていたのだが、その蘇我入鹿暗殺事件の方だが、その時点での大王(おおきみ)は女帝の皇極だったわけだ。 蘇我入鹿はなんだかんだいっても、斉明大王の重要な家臣であったわけだ。 ところが、息子とはいえ、大王でもない者が大王が重要な家臣として認めている蘇我入鹿を大王の許可も得ずに大王の目の前で切り殺すとは、はたしてそういうことをやっていいのか?  そう思いませんか?
    「忠臣蔵」の話で、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた、喧嘩両成敗のはずなのに一方だけが切腹させられるとはおかしい・・・と赤穂浪士だか義士だかは憤慨したというが、人に、いきなり、刃物で切りつけておいて、何が「喧嘩両成敗」なんだよ? とも言えるわけだ。 それまでに、さまざまな屈辱を受けさせられた・・・とか言っても、切りつけられた側だって言い分あるかもしれないわけだ。 それと同じ話というわけでもないかもしれないけれども、中大兄(なかのおおえ)は蘇我入鹿が政治をわが物にして皇位を奪おうとしていたとかなんとか言うかもしれないけれども、蘇我入鹿の側にも言い分はあっておかしくないわけだ。 いずれにしても、その時点の大王(おおきみ)としては、自分に無断で自分が家臣に任命した者を切り殺すというのは、たとえ、おのれの息子であっても、それは許されていいことではないはずなのだ。 なにより、大王の意志を無視して、大王が任命した家臣を大王の目の前で切り殺されても、それをどうもできない大王って、たいした大王ではないよね・・・・。 そう思いませんか?
    私、関裕二氏と同じ年の生まれなんですが、私が小学生の頃、読んだ、和歌森太郎著・カゴ直利ともうひとり誰だっけ 画の『漫画 日本の歴史 全18巻』では、中大兄が蘇我入鹿に切りつけたところ、大王の皇極は「何事ですか」と言い、中大兄が「入鹿は皇位を支配しようとしました」だか言ったところ、皇極は「御簾(みす)を下げなさい」と命じた・・・ということになっていて、この「御簾(みす)を下げなさい」というのがどういう意味なのか、小学校の低学年の時に最初に読んだ時はよくわからなかった。 女性であろうが何であろうがまがりなりにも大王が、おのれの目の前で殺人事件をおこされている、それも自分の家臣を自分に無断で殺そうとする者がいるというのを見て、そこで、どうするかというと、「御簾(みす)」という すだれみたいなのを降ろして、大王は「御簾(みす)」を隔てて殺人事件の現場とは別世界にいることにする・・・・て、そりぁ、あんた、ずるいのとちゃうか? (株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ では、中卒高卒の営業所長が多くて、そういう人というのは、「学歴で差別しちゃいかん」とか言って所長とかになりたがるのですが、いったん、なって責任を問われる立場になると、「ぼくは高卒なんだから、そんなことわかるわ~けがない!」などと言ってふんぞり返るわけです。 そりぁ、あんた、ずるいだろうが。高卒であろうが中卒であろうが、いったん、その役職についたなら、その役職の人間としての職責を果たさなきゃいかんのじゃないかい? 高卒の人間が絶対に所長になってはいかんとは言わんが、「ぼくは高卒なんだから、そんなことわかるわ~けがない」と言って所長の職責を放棄というより拒絶するような人間ならば最初からその役職につくべきではないのじゃないかい?  それと同じ。 まがりなりにも、だ。 女であろうが大王の役職についたならば、だ。 おのれの目の前でおのれが任命した家臣を勝手に暗殺されてたまりますかいな。 そうでっしゃろ。 ちゃいまっか? 中大兄の言っていることは矛盾しているのだ。 中大兄(なかのおおえ)こそ、大王(おおきみ)の立場を無視して、大王の家臣である蘇我入鹿を勝手に暗殺しているのであり、中大兄こそ、皇位を自由にしようとしていた、大王をないがしろにしたのと違うのですか?  そうでっしゃろ。 違うんなら違うと言いなはれ。
    中大兄が蘇我入鹿に切りかる時、皇極は御簾(みす)の向こうで、「私は知りませ~ん」て感じで退出する姿が描かれた、屏風絵だか絵巻だかがありますよね。 なんとも、勝手な大王ですよね。 今も、時々、職場にいるでしょ。「女性だからといって差別されるのはおもしろくない」とか言いながら、責任ある対応が求められると「女」に逃げ込むヤツ。せめて、どちらか片方にしろ!と言いたくなりますよね。ダブルスタンダードというのか、そういう卑怯者が今も職場にいますでしょお。 もう、なんかこうむかつくぅ~うて感じい~い!!! て。 そんな感じ。 結局、おのれの家臣をおのれの許可を得ずに暗殺するヤツがいても、なあ~んにもできない、なあ~んにも言えない、逃げ出すだけしかできないというそんな大王って、それが大王なのか? 結局、皇極という「女帝」は実質的に大王ではなかったのか?

    もうひとつ、子供の頃、不思議に思ったことがあります。 乙巳の変で、中大兄が蘇我入鹿を殺して実験を握ったのなら、なにゆえ、中大兄は大王にならなかったのか?  その時点で大王だった皇極が退位せずにそのまま在位し続けるというのならわかるが、皇極が退位しながら、なぜ、中大兄は即位しないのか?  な~んでだ??? と子供の頃、不思議に思ったのです。 思いませんか?

    乙巳の変の時、皇極が大王であったのではなく、関裕二氏が言うように、蘇我入鹿こそ聖徳太子であり、蘇我入鹿こそ大王だったのではないか。 舒明の嫁はんだった皇極は、舒明が他界後、蘇我入鹿の嫁になっていたのではないのか。 そもそも、女性が大王になっていかんとまでは言わないが、一般的に、この頃は男性が大王になっていたわけです。 皇極の他にも皇族はいたわけで、男性の皇族もいたはずなのに、なぜ、皇極が大王になっていたのか?  実際は、蘇我入鹿が大王であったが、蘇我入鹿が大王であったと認めたくないので、その間の大王は誰だったことにするか・・ということで、女性の皇極が大王だったということにした・・・?  乙巳の変の後、孝徳が大王になったのは、大王だった蘇我入鹿が他界したので、かわりに孝徳が大王になった・・・ということ? 孝徳が他界後、中継ぎみたいに斉明(←皇極)が大王になったが、実は重祚ではなく「斉明」として大王になったのが初めての即位なのか?

   今現在、天皇に名字はないというのはわかるが、ヤマト政権が誕生する頃は、その頃は「天皇(てんのう)」とは言わず、「天皇(すめらみこと)」とも言わず、「大王(おおきみ)」と言っていたらしいが、乙巳の変の前後くらいまでは、大王は名字を持っていたのではないのか?

   子供の頃、もう1つ、不思議に思ったことがあります。 壬申の乱で、天智(中大兄)の息子の大友皇子(弘文)と天智(中大兄)の弟の大海人皇子(天武)との間での跡目争いが壬申の乱だとすると・・・・。 普通に考えて、先代の息子と先代の弟なら、一般に先代の息子の方が有利ということはないのか?
   さらに、先代の弟である大海人(天武)が、自分から退いて、兄の弟である大友(弘文)に、おまえが後を継げばいいじゃないかと自ら退いたのなら、もう、それでおしまいじゃないのか。 甥っ子としては、おじさん、譲ってくれてありがとう・・・でおしまいと違うのか。 三代目若乃花が相撲界から離れて、二子山部屋は二代目貴乃花が部屋を継げばいいだろと兄貴が言って弟が後を継げば、仲がいいのか悪いのかはともかく、二子山部屋を誰が継ぐかはもうそこで決まりであった、なおさら、争いが起こるということはなかったわけだ。 なにゆえ、すでに、退いたはずの大海人(天武)を、追いかけて行って大友(弘文)は殺しにかかるのか?
   さらに。 普通、跡目を継いだ先代の息子と退いた先代の弟なら、一般に先代の息子の方が有利と違うのか? なぜ、先代の弟の方が強かったのか?  単に、甥より叔父の方が人間的に人気があったとかいうような単純なことではないだろう。 では何だったのか?

   ヤマト政権の諸豪族の連合体で、大王は、その時その時の優勢な豪族から、「王」の代表者としての「大王」が選ばれたのであり、蘇我入鹿は大王で、蘇我入鹿が中大兄に暗殺された後、かわりに大王に即位したのが孝徳だで、皇極のかわりに孝徳が継いだのではなく蘇我入鹿のかわりに孝徳が即位した・・・ということか。
   鎌足と天智(中大兄)が他界後、天智(中大兄)の息子の大友皇子(弘文)と大海人皇子(天武)とが争い、壬申の乱で大海人(天武)が勝利して、飛鳥浄御原宮に近江京から都を移し、その北の畝傍山・天の香久山・耳成山に囲まれた藤原京を築こうというあたりまでは「蘇我系」の天武(大海人、おおあま)の政治だった。 ところが、持統(ウノノササラ)と藤原不比等の時代以降になると、持統の子孫、かつ、藤原腹の者が大王になるようになった。 この頃から、「天皇家」というものができそうになった。 しかし、持統の子孫というのは、天智(中大兄)の子孫ではあるものの、一方で天武(大海人、オオアマ)の子孫でもあり、又、ウノノササラの母は蘇我倉山田石川麻呂の娘であり、蘇我倉山田石川麻呂の子孫でもあったわけだ。
   そして、藤原腹の大王でありながら、聖武は、ある時から、必ずしも、親藤原ではない態度を取りだした。 平城京では、その北東部の少し高い場所である外京の部分に藤原氏の氏寺の興福寺、その東の若草山に藤原氏の氏神の春日大社が作られていたが、藤原腹でありながら反藤原?の態度を取りだした聖武は、興福寺や春日大社よりまだ上の位置に、興福寺よりも大規模な寺として東大寺を造営し、「大きければ大きいほどいい」として東大寺の大仏を作った。 東大寺の大仏である盧舎那仏は「大きければ大きいほどいい」という仏像だというが仏像の性質だけが理由ではなく、平城京の4大寺として、藤原氏の氏寺の興福寺が、飛鳥4大寺の官寺であった大官大寺の後継の寺の大安寺、飛鳥の薬師寺が引っ越した薬師寺、飛鳥の法興寺(飛鳥寺)を転居させようとしたが抵抗されて、分身を作った元興寺の4つでは規模において最大のものが藤原氏の興福寺であったが、それより大規模な寺、それより大きい仏像を、それよりも高い位置に東大寺として作った。
   そして、さらに、聖武の娘の孝謙(→称徳)に至っては、ついに、藤原氏と関係のない弓削道鏡を大王にならようとまで主張しだしたわけだ。子供の頃、やっぱり、疑問に思ったことがあります。孝謙天皇(称徳)てダンナはいなかったの? て。 下世話な話として、弓削道鏡は孝謙(→称徳)と男女の間柄ではなかったのかといったことが言われたりもしたようだが、道教が「でか○ん」だったかどうかはさておき、孝謙(→称徳)は生涯独身だったのわけですから、独身の女性がある男性と男女の中になっても特に悪いこともないでしょう。 弓削氏は皇女と婚姻するには格が下だというのなら、藤原氏ももともとは皇后には皇族からなることになっていたのに藤原氏の娘を皇后にならせたわけですし、中臣氏もそれほど優勢な氏族であったわけではなかったようですし。
   弓削道鏡の弓削氏というのは、ヤマト政権を構成した古代士族の1つだったとすると、もともと、大王というのは、蘇我とか物部とか大伴といった古代士族の中で優勢な氏族の者が「王」の中の王として「大王」になっていたのだから、持統(ウノノササラ)と藤原不比等が持統の子孫を「天皇家」として固定しようとしたのに対して、孝謙(→称徳)は、自ら譲位して、持統の子孫でない弓削氏の出身の道鏡を大王にならせようとした、ということか。 もともと、この時代においては「天皇家」という名字を持たない氏族が固定されていたのではなく、大王はヤマト政権諸豪族の中から優勢な氏族の者がなっていたものであるから、弓削氏の者がなって悪いこともなかった・・ということ?  それを、「持統の子孫」を「天皇家」として固定しようとしていた親藤原の和気清麻呂が阻止した?
   「皇位にはその血筋の者をあてよ。もし、皇族でないのに皇位につこうとする者がいたなら必ず斥けよ」と宇佐八幡宮の託宣を受けたと和気清麻呂が訴えたというのですが、称徳(←孝謙)の頃、そこまで大王というものは固定されていたのか? そうではなく、その前の時代において、大王は入れかわってりしていた可能性があるはずなのだ。 今から考えると、和歌森太郎著『漫画 日本の歴史 全18巻』のこのあたりは『日本書紀』そのまんま、戦前の「国史」とたいして変わらないものだったように思います。
   《ウィキペディア-孝謙天皇》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87 によると、≪(称徳は)行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張がある≫と出ている。 反藤原の態度をとり、ヤマト政権を構成した諸豪族の1つだった?弓削氏の道鏡を大王にならせて、「持統の子孫」を「天皇家」として固定しようとする藤原家の野望を阻止しようとした称徳(←孝謙)は、病気になった際に医療行為を受けさせてもらえず死亡した、なかば、殺された?
   そして、生涯独身であった孝謙・称徳が他界した後、「持統の子孫」では、天智(中大兄)の子孫であっても、結局、天武(大海人、オオアマ)の子孫であって、蘇我倉山田石川麻呂の子孫でもあり、藤原のロボットとしては扱いにくいということから、「持統の子孫」が大王になるのは孝謙・称徳で終わりとされ、天智(中大兄)の子孫である光仁(←白壁王)、及び、光仁と百済から渡来した氏族の出身の高野新笠との間の子である桓武の子孫が大王(天皇)を継ぐこととして、このあたりから「天皇家」というものが固定された。 もともとは、大王はヤマト政権の諸豪族のうちの優勢な氏族から「王」の中の王としての「大王」が決められたものであって、どの名字の氏族が大王ということでもなかったが、「持統の子孫」を大王に指定しようとしたものの、聖武は「反藤原の態度をとりだした」のか「藤原が方便として取り入れた仏教を本気で信じだした」のか、いずれにしても、藤原のコントロールが効かなくなり、その娘の孝謙・称徳に至っては、藤原に支配される大王の立場を拒否して、弓削氏の道鏡を大王にならそうとまでしたことから、天智(中大兄)の子孫であっても天武(大海人、オオアマ)の子孫でもあり蘇我倉山田石川麻呂の子孫でもある「持統の子孫」を大王に固定する計画は改められ、天智(中大兄)の子孫である光仁(白壁王)と百済からの渡来人の出である高野新笠との間の子孫を「天皇家」として「平安時代」の初めに固定したのが「天皇家」の始まりだった。 この時から、「天皇家」は名字を失った、名字のない氏族となった・・・・・という可能性は、ありうるようにも思えてくる。

   それで。 飛鳥寺から飛鳥坐神社へ至る道の途中の「右スグ、元伊勢」という石標だが、飛鳥坐神社が伊勢神宮内宮の前身だとすると・・・・。 飛鳥坐神社の主祭神は事代主で、2番目が大物主であるわけだから、出雲系の祭神であり、伊勢内宮もそうだとすると、伊勢内宮の祭神は高天原系の女神のアマテラスではないことになってくる・・・・・し、天智(中大兄)の子孫の光仁(←白壁王)と百済からの渡来人の出の高野新笠との間の子孫たる「天皇家」の祖先神というわけでもないことになってくるが、そうなのか?
   その可能性は低くなさそうにも思えてくるのだが・・・・・。

   飛鳥坐神社には、「長屋の神さん」というのか、「長屋形式」の社殿がいくつもあるものの、天神・八幡・稲荷・鹿島・金毘羅・諏訪・・・といった神さんの名前は書かれていない。 それらの「長屋の神さん」というのは、もしかして、それぞれの区画において、飛鳥板葺宮・飛鳥浄御原宮・藤原京の時代までのヤマト諸豪族の誰かをそれぞれ祀っていたということなのか?・・・・

画像

↑  飛鳥坐神社の前から見た、西に向かう道。 両側に白壁の家が並ぶ。


※ 《ウィキペディア-飛鳥坐神社》 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%9D%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE
奈良県観光プロモーション課 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ) http://www3.pref.nara.jp/miryoku/megurunara/inori/syaji/area04/asukaniimasujinjya/

   (2017.1.19.)


☆ あすか シリーズ
1. 法興寺(飛鳥寺)(安居院)と蘇我入鹿首塚≪上≫本堂、塔跡。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_9.html
     〃  ≪下≫思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
2. 山田寺跡と飛鳥資料館 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_11.html
3. 飛鳥坐神社 〔今回〕
4. 「孝元天皇陵」、飛鳥川、雷の丘 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_13.html
5. 阿部野橋駅、アベノハルカス、天理教畝傍支部、雷の丘の西のあたりの町並み http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html

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