山田寺跡(奈良県桜井市)、飛鳥資料館 訪問。 蘇我倉山田石川麻呂が造営着手、東回廊は飛鳥資料館に

[第499回]
   蘇我倉山田石川麻呂という人を知っていますか。 私が小学生から中学生や高校生の頃(1960年代~1970年代)までは、乙巳の変(いっしのへん)と大化の改新はセットで「蒸し米(645年)ふかして大化の改新」と覚えたものですが、最近は、645年の中大兄(天智)と中臣鎌足(→藤原鎌足)らによる蘇我入鹿暗殺事件が乙巳の変で、その後の改革を大化の改新と分けて考えるようになったようです。 その乙巳の変において、蘇我氏の一族、蘇我入鹿の従弟であったにもかかわらず、中大兄と鎌足の側につき、乙巳の変の後の孝徳天皇の時に右大臣になりながらも、中大兄から謀反の濡れ衣を着せられ、飛鳥の山田寺で自殺し、そこに中大兄の軍隊が来て、すでに他界している蘇我倉石川麻呂の体を切り刻んだ・・・という。
   蘇我倉山田石川麻呂が、なぜ、蘇我氏の一族なのに中大兄と鎌足の側に加担したのかというと、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄の嫁になっていたということがあったようですが、関裕二氏の本を読むと、関裕二氏は、実は、中大兄と鎌足らによって娘を拉致され、娘を人質に取られた蘇我倉山田石川麻呂は中大兄の側に加担せざるをえなくなったという可能性を指摘しています。 そして、すでに自害して果てている蘇我倉山田石川麻呂の五体を切り刻んだ者の名前が「塩」と言ったことから、遠智娘(おちのいらつめ)は塩を見るのも嫌がるようになり、狂死したとされているのですが、関裕二氏は、そうではなく、切り刻まれた蘇我倉山田石川麻呂の首を塩漬けにして持ち帰ったのではないか、その塩漬けにされた父親の首を見て娘は精神的にショックを受け、塩を見るのも嫌だという状態になったのではないのかと推測していますが、たしかに、切り刻んだ人間の名前が「塩」であったからという理由で塩を見るのも拒絶するようになるというのは考えにくいのに対し、切り刻まれた父親の首が塩漬けにされたものを見せられた娘が精神的にショックを受けて塩を見るのも抵抗を感じるようになったということならありうるように思えます。

   「山田寺跡(やまだでらあと)」は、奈良県桜井市山田 にあり、≪ 舒明天皇13年(641)、蘇我入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわまろ)が造営着手した古代寺院である。 皇極天皇2年(643)には金堂が完成し、やや遅れて回廊が造られた。 しかし大化5年(649)、石川麻呂が反逆の罪を着せられ自害したことから、造営は一時頓挫した。 しばらく後に工事は再開され、天武天皇5年(676)には塔が完成、次いで講堂などが建設される。 そして天武天皇14年(685)には丈六仏像の開眼供養が行われ、40年におよぶ造営工事が完了した。≫(『奈良まほろばソムリエ検定 [改訂版]』(2007.9.20. 山と渓谷社)というものらしい。
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( ↑ 山田寺跡。 手前の土の盛り上がった場所がの跡、その向こうの土が盛り上がった場所が金堂の跡らしい。 )

   ところで、1989年に阪急ブレーブスが身売りしてオリックスブルーウェーブが誕生した後、漫画家の やく みつる が、「オリックスブルーウェーブとかけて、真弓明信ととく」⇒「そのこころは・・・・、どっちが名字でどっちが名前かはっきりせえ!」と4コマ漫画に書いていたのですが・・・・・、「蘇我倉山田石川麻呂」て、どこまでが名字でどこからが名前だと思いますか?
   「蘇我」は名字で「麻呂」は名前だとして、「倉」「山田」「石川」は名字の方なのか名前の方なのか。 「山田」は山田寺がある場所の地名なので名字ではないか。名前が「麻呂」だけとは味気ない、人名としては綾小路公磨とか「麻呂」の前に何かつく場合が多いのではないか・・と考えると、「石川麻呂」が名前か。しかし、藤原不比等の息子4人の長男は武智麻呂だが四男は単に「麻呂」だし。小学生の時に読んだ和歌森太郎著・カゴ直利ともうひとり誰だっけが画の『漫画 日本の歴史 全18巻』では、百済・新羅・高句麗からの使いが持参した文を蘇我倉山田石川麻呂が読む役で、読み終わる直前に刺客が蘇我入鹿に襲いかかることになっており、その終わりに近づくと蘇我倉山田石川麻呂がぶるぶるとふるえだしたので、蘇我入鹿が「石川麻呂、何をふるえている」と尋ねる場面があったので、それで、「蘇我倉山田」までが名字で「石川麻呂」が名前かと思ったのですが、関裕二『蘇我氏の正体』(新潮文庫)を見ると、関裕二氏は「麻呂」を「蘇我倉山田石川麻呂」の略称として使っている。
  言われてみると、「山田」も地名なら「石川」も地名なのです。 山田寺の北側の道を西に進んで、樫原神宮前駅に至る手前に、「孝元天皇陵」があってその前に池がありますが、その池の名称が「剣池」もしくは「石川池」で、その付近の地名は「樫原市石川町」です。↓
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(↑ 「石川町」の表示と石川池(剣池) )

( 樫原神宮前駅から少し東に行ったあたりにある石川池(剣池)の南側の小山は「孝元天皇陵」と言われているけれども、孝元天皇て誰? というと、《ウィキペディア-孝元天皇》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87 を見ると、「神武天皇」より後、応神天皇よりも前。 結論を言うと、「実在しなかった可能性が高い」と言われている天皇である。 だから、「孝元天皇陵」というのは、戦前戦中に「孝元天皇陵」ですよということにされたけれども、結論を言うと、戦前戦中は「孝元天皇」の古墳だとされてきたけれども実際は誰の古墳かははっきりわかってません、という古墳だということだ。)
   さらに、大阪府河内長野市の中央部を北上して応神天皇陵の東のあたり、藤井寺市と大阪府柏原市の境目で奈良県から流れてきた大和川に合流する川の名前が「石川」と言います。私は子供の頃、近鉄「道明寺」駅から東に歩いた先にあった玉手山遊園地に連れてもらった時、途中で石川にかかる吊り橋を渡るのが楽しみで、又、石川の河原に降りて、「くっつき虫」を持ち帰って遊んだ記憶があります。 関裕二『蘇我氏の正体』では、蘇我氏は大阪府南部の石川の流域付近の出身だったのではないかという説があることが紹介されています。 さらに、さすがに北陸の石川県は関係ないだろうと思うと、蘇我氏は出雲から丹波、さらに「コシ」(越前・越中・越後)に至る山陰・北陸方面の勢力とつながりがあったのではないかとも述べられているので、関係がないとも言い切れません。 さらに、蘇我氏の子孫では、後に、「蘇我」を名のるのではなく「石川」を名字として使うようになった人たちがいたというので、そうなると、「石川」も名字なのか。となると、「蘇我倉山田石川」までが名字で「麻呂」が名前なのか。
   しかし、蘇我氏の祖先には「石川宿禰」という人名が見られますが、こちらは「石川」が名字で「宿禰」が名前なのか? そうなると、さらにその前の祖先だということになっている「武内宿禰」は「武内」が名字で「宿禰」が名前なのか? 《ウィキペディア―蘇我倉山田石川麻呂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%80%89%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%BA%BB%E5%91%82 には、≪「蘇我倉山田石川麻呂」の姓・名の区分には文献により異同がある。 ≫とあるが、この「文献」は最近の「文献」のことですが、どこまで名字でどこから名前なのかは、よくわかっていないみたいで、≪ 蘇我氏の祖とされる蘇我石川宿禰は名前から見て、石川麻呂もしくはその子孫が創作した架空の人物であるとする説もある。≫らしい。
   「山田」と「石川」が地名だとして、「倉」はどういう意味なのか。 山田という場所に倉庫があったのか? 社団法人土木学会関西支部編『地盤の科学』(1995.9.20.講談社 ブルーバックス)には、≪ ・・・長野県北西部、北アルプス連峰への登山基地、大町市の西方11キロメートルの地点に千曲川流域の高瀬川をせき止めて、1980年(昭和55年)に完成した東京電力の発電用の七倉ダムがあります。七倉の「くら」は地形語で、山中の切り立った岩盤、岸壁、断崖などを示すことが多く、この地もそのような地勢であることを表しています。≫と出ています。 山田寺跡のあたりは平坦な土地ですが、周囲に山はあります。もしかすると、山田のあたりでも比較的急な山の脇のあたりに住んでいたとかそういたことがあったのでしょうか。

   山田寺跡へは、「雷丘(いかづちのおか)」の前から東に進み、飛鳥資料館 の南をさらに東に進むと、南東に進む道に「山田寺跡」はこっちですよという標識がでており、それに従って進むと、お堂があり、のお堂の場所も含めて、その向こう(南側)が山田寺跡らしい。



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↑  山田寺 中門 の跡 の南側から北を見る。 少し土が盛り上がった場所がの跡らしく、その後ろに金堂があり、その向こうの樹木が茂っているあたりに講堂があったらしい。

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↑ 山田寺 金堂跡。 手前に埋め込まれている長方形の石は「礼拝石」と言って、そこで拝むための石だったらしく、それを復元したものらしい。

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↑  山田寺は、南大門の北に中門があり、中門の北に塔があり、その北に金堂があって、中門につながる回廊が塔と金堂を囲んでいて、その後ろ(北)に講堂があったようで、いわゆる「四天王寺式」の伽藍配置であったらしく、東回廊の東側に宝蔵があったらしい。 今現在は、普通、北側の道から行くことになりますが、北側から進んで目に入るお堂のあたりを含めて講堂が建っていたらしい。

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↑ 山田寺 西回廊跡。 南から見たもの。

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↑ 山田寺 東回廊跡。 南から見たもの。
≪ 発掘調査により、金堂や塔、回廊、講堂、宝蔵、南門の跡を検出した。 金堂の南に塔が位置しており、それらを巡るように回廊が配され、回廊の北側に講堂が、東側に宝蔵が位置している。
特筆すべきは東面回廊であり、建物が倒壊した状況がそのまま残され、連子窓(れんじまど)などの建築部材が当時の状態を保ったままで大量に出土した。 七世紀の建築の資料に関しては、これまで法隆寺西院伽藍が知られるのみであったが、山田寺からこれらの部材が出土したことで、古代の建築に関する理解が大きく前進することになった。≫(『奈良まほろばソムリエ検定 [改訂版]』2007.山と渓谷社)
   出土した東回廊の連子窓などの部材は、飛鳥資料館https://www.nabunken.go.jp/asuka/ において展示されている。 地面に埋まっていた東回廊の木材は水分を含んでいて、そのまま乾燥させたのでは崩壊してしまうので、PEGを水分と入れ替えるようにして形態を損なわないように保存した、ということで、「PEG」とは何ぞやというと、ポリエチレングリコール(polyethylene glycol )の略らしい。
※ 《ウィキペディア―ポリエチレングリコール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%81%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB
   建築用に使用される木材のうち銘木と言われるもので、「神代杉」と言われるものがある。今里隆『これだけは知っておきたい建築用木材の知識』(1985.5.6. 鹿島出版会)には、≪ 大昔、火山の噴火や洪水などにより、地中深く埋もれて長年経過した杉材を出土したもので、黒神代杉茶神代杉の2種がある。 ・・・・ 黒神代杉は黒光りする色調は大変珍重され、最高級材の一つとして客間、茶室の床の間、天井板、欄間板および和家具材などに用いられる。茶神代杉も同様である。≫と書かれており、地中から掘り出された杉材が建築用材として利用されるのですが、ともかく、地中に埋まっていたならばいいというものでもないようで、山田寺の東回廊跡からは連子窓などの遺構が掘りだされたものの、そのまま外に出して乾燥させてしまうと崩壊してしまう状態で、それを工夫して崩壊しないようにして、また、掘り出された柱などは自分を支えることはできても当時と同じ様な建物を支える強度はないので、飛鳥資料館では鉄骨の枠組みからつりさげるようにして展示してあるようです。

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↑ 山田寺 宝蔵跡。 東回廊の東側に位置します。


   北側の道から山田寺跡へ向かって進んだ右側にあるお堂は、飛鳥資料館の説明書きによると観音堂で、「大化山 山田寺」という名称らしい。 ↓
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↑ かつては、この観音堂が建っている所も含めて講堂が建っていたらしい。
   さて、この観音堂は、現地には書かれていないのですが、飛鳥資料館の説明書きによると、「大化山 山田寺」と言われているらしい。 「大化山」の「大化」とは、「大化の改新」の「大化」でしょうか。 それとも、「化けて出る」の「おおばけ」でしょうか。
   山田寺は、造営に着手した蘇我倉山田石川麻呂が、金堂・回廊ができた後に、中大兄から謀反の濡れ衣を着せられて自害、自害した蘇我倉山田石川麻呂の遺体を中大兄が派遣した兵隊が切り刻んだとされ、その後、天武(大海人 オオアマ)の時代に塔と講堂が建てられたものの、さらにその後、平城京が造られた後に、藤原氏の氏寺である興福寺の衆徒が山田寺に行き、山田寺の本尊の仏像を奪い取って興福寺に持ち帰ったということがあり、その山田寺の仏像は興福寺が火災にあった際に頭部だけを残して焼失したというのですが、どうも、恨みが残っているのではないのか、と思えてくるところがあります。 「大化山 山田寺」は、「おおばけやま」か? と思ったのですが、「大化の改新」の「たいか」かもしれません。 しかし、そうであったとしても、そこで、蘇我倉山田石川麻呂が自害し、自害したにもかかわらず、その遺体は切り刻まれたといい、さらに、その後、天武(オオアマ)の時代に塔と講堂が建てられたものの、興福寺の衆徒によって本尊が持ち去られたという経緯など考えても、「お(お)ばけ」であったとしてもおかしくないような印象を受けます。
≪  ・・・天武2年に開眼された仏像は、文治3年(1187)に興福寺衆徒によって持ち去られ、現在は頭部のみが興福寺に残されている。 ≫(『奈良まほろばソムリエ検定 [改訂版]』2007.)
   関裕二『蘇我氏の正体』(2009.5.1.新潮文庫)には、
≪  この東回廊は、奈良国立文化財研究所の手で十四年の歳月をかけて保存処置され、現在飛鳥資料館第二展示室に一部が再現されている。
    現存する世界最古の木造寺院建築の実例であって、腐らずに残っていたこと、そして、たんなる「部材」ではなく、回廊そのものが完璧な姿で残されていたことが、まさに奇跡的だったのである。
    そして、この東回廊には、ひとつの謎がある。
    燃え落ちたわけでも、何者かによって破壊されたわけでもなく、まるで老衰で眠るかのように静かに朽ち果てていった、ということなのである。
   なぜこれが謎なのかと言えば、亡骸(なきがら)となった山田寺がだれからも掠奪されることなく、そのまま放置され、土にもどっていったというのは、常識では考えられないからである。
   瓦も木柱も、はぎ取っていけば、何かしらの役に立とうものを、なぜ誰もが「知らぬふり」を何十年も、何百年も貫き通したというのだろう。 「さわらぬ神に祟りなし」というように、山田寺は、「祟る場所」と考えられていたからこそ、東回廊は、そのままの姿で、地中深く、永い眠りに入った、ということではなかったか。
   筆者には、回廊が夜な夜な、鈍い音をたてて、傾いていく光景が目に浮かぶのだ。そしてこの音を聞いた者たちは、耳をふさいで走り去っていったのではなかったか。 「あっこは出よる」(あの場所には霊が出る)
 眉をひそめて、そう語り合う村人の様子が、目に見えるようだ。 ・・・・≫
と書かれている。

   「あの場所には霊が出る」ということになっていたのかいないのかわからないが、その山田寺跡を訪ねて何ともなかったかというと、かえってパワーをいただいてきたような感じ。 だって、祟るといっても、私は祟られる立場じゃないもの。
   関裕二『蘇我氏の正体』(2007.新潮文庫)には、
≪ (明日香村の法興寺〔飛鳥寺〕ではなく奈良市の)元興寺に注目するならば、この寺も「祟り」と縁があって、だからこそむしろ積極的に「鬼」に接近していったのだろう。 というのも、神仏習合によって、寺院と神社が共存していくようになると、奈良では東大寺や大安寺、薬師寺が八幡大菩薩を鎮守の神に選んでいったが、元興寺は鎮守社に「御霊社」を選んでいったからである。
   御霊信仰は平安時代に勃興するが、この信仰は、どうすれば祟り神を静かにさせることができるのかという悩みから始まっている。・・・・
   ちなみに元興寺の御霊社の祭神は、奈良時代末期の井上内親王(いのうえないしんのう)と他戸親王(おさべしんのう)である。・・・
   天武系最後の称徳天皇は、独身女帝で子がなかったため、皇位継承問題は複雑化し、結果、藤原氏が推す天智系の光仁(こうにん)天皇が即位した。
   ただし、バランスを取るために、天武系の井上が皇后に立てられ、二人の間の子・他戸が皇太子に選ばれた。 これで、天武系の天皇を推挙していた勢力に対しても、配慮を見せたことになる。
   ところが、宝亀3年(772)3月、井上内親王は「巫蠱(ふこ)(まじないをし、人を呪うこと)」をしたと密告されて皇后位を剥奪されてしまうのである。 状況から考えて、これが藤原氏の陰謀であろうことは容易に察しがつくが、『公卿補任(くぎょうぶにん)』には、藤原百川(ふじわらのももかわ)の策謀であったと記録されている。
   他戸親王も連座し、二人は幽閉され、三年後の宝亀6年4月27日、同じ日に二人は亡くなってしまう。死因は明らかにされていないが、藤原政権の邪魔になったから、殺されたのであろう。・・・・
   『紹運録(じょううんろく)』には、二人は死んでのち竜になったといい、『水鏡』や『愚管抄』は、二人の祟りが藤原百川を苦しめたと記録している。・・・・
  このように、奈良市街の御霊社の祭神・井上内親王と他戸親王は、祟る神であり、元興寺は、この恐ろしい神社を鎮守社に選んでいたことになる。
   祟る神とはようするに「鬼」であり、ここでも元興寺は鬼と関わりを持っていたことになる。・・・・
   ・・・とくに、「祟られる」と恐怖を感じている神は、できるだけ遠ざけておいて祀りたいというのが人情であろう。それにもかかわらず、なぜ元興寺はあえて強力な祟り神を選んだのだろう。
   それは、元興寺が井上内親王たちを追いつめた側ではなく、反対側の位置にいたからではなかったか。 すなわち、祟り神とはいっても、元興寺は、井上内親王に対しやましい気持ちを持っていない。 恨まれる筋合いはないばかりか、かえって「反藤原」という共通点を持っているのである。 ・・・ ≫

   ≪ 井上内親王(いがみないしんのう)の没後、2年間にわたり地震・水害・落雷などの天災や異常気象、鼠など害獣の大量発生が断続的に起こり、巷では井上母子の祟りと噂され始めた。
   そして井上内親王母子を亡き者にしたと思われる藤原良継が死去した。そして光仁天皇と新しい皇太子も病を発することになった。後ろ暗いものを持つ人々が次々に祟られていったのだった。
   恐怖におののいた光仁天皇は、宝亀(ほうき)8年(西暦777年)、慰霊のため井上内親王の墓を改装させ、さらに延暦19年(西暦800年)桓武天皇は彼女に皇后を追号し、墓を山稜と定めた。
   藤原良継の弟・百川(ももかわ)は、兄と同様に新皇太子・山部親王の即位を見ることなく、宝亀10年(西暦779年)に48歳で亡くなってしまった。 彼の死の場においては、井上内親王が生前の姿のまま龍になって陰謀の中心人物であった藤原百川を蹴殺した、という記載が『愚管抄』になされている。 ・・・・・ ≫
( 知的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012.5.10. イースト・プレス)
   「井上内親王」は、関裕二『蘇我氏の正体』(新潮文庫)では「いのうえ ないしんのおう」とフリガナが打たれているが、『本当は怖い 日本の怨霊』(イースト・プレス)では「いがみ ないしんのう」とフリガナが打たれている。
   関裕二『蘇我氏の正体』では、≪ 藤原氏が推す天智系の光仁(こうにん)天皇が即位した。 ただし、バランスを取るために、天武系の井上が皇后に立てられ・・・≫となっているが、この書き方では、すでに光仁の嫁になっていた井上が何人もいる嫁はんの中から皇后にされたのか、光仁が天皇に即位してから皇后として嫁入りしたのかわからない。知的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』では、≪・・・井上内親王は帰京後しばらくして、白壁王という皇族に嫁いでいった。彼は天智天皇の孫だったが、当寺は天武系主流であったため、出世とは程遠い存在。しかし結婚後は、他戸親王(おさべしんのう)と酒人内親王(さかひとないしんのう)という二子をもうけ、平穏で幸せな暮らしだった。≫とでているので、知的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』の記述によれば、皇位を継承する可能性は高くなかった白壁王に嫁いでいたところ、その白壁王が光仁天皇として即位して、井上内親王が皇后にされた、ということのようです。 ≪ 神護景雲4年(西暦770年)、称徳天皇が崩御。後継者として藤原氏一門が推挙したのは、なんと他ならぬ白壁王だった。彼は光仁天皇として即位し、井上内親王は皇后になった。 そして息子の他戸親王も皇太子とされたのだった。・・・・しかし、井上内親王の栄華の日々は一瞬のことだった。2年後、彼女は、「「巫蠱(ふこ)の罪」(夫を呪詛したという罪)で皇后位を剥奪され、同時に他戸親王も皇太子を廃され、皇族の身分も失い「庶人」に突き落とされてしまう。さらに翌年、難波内親王(なにわないしんのう)(光仁天皇の姉妹)を呪い殺した罪にも問われ、母子ともに幽閉されてしまうのだった。 そして宝亀(ほうき)6年4月27日、2人は幽閉先で死亡する。同日死亡というのはいかにも怪しく、おそらく自然死ではないだろう。井上内親王母子はなんらかの謀略によって陥れられた可能性が濃厚なのである。・・・・≫

   それで。 私の場合は、別に蘇我倉山田石川麻呂とその一族を迫害した立場の人間でもないし、又、人生においても、人を罠にかけて苛めてきた側ではなく、むしろ、苛められてきた側の人間であるから、山田寺が「祟る」場所であったとしても、祟られることはなく、むしろ、パワーをもらったようなものだったのだ。

   このあたり、近鉄南大阪線・吉野線・樫原線の樫原神宮前駅の付近は、奈良県樫原市、そこから東に歩いて行くと、奈良県高市郡明日香村になるが、さらに東に進み、山田寺の付近になると奈良県桜井市になる。 飛鳥資料館↓https://www.nabunken.go.jp/asuka/ の第二展示館に山田寺跡から発掘された東回廊の部材とともに東回廊がどういう状況であったかの復原がされているので、山田寺跡に行った跡には飛鳥資料館に立ち寄り、飛鳥資料館↓の山田寺の東回廊の復元とともに見られることをお勧めしたい。
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   近鉄「樫原神宮前」駅から孝元天皇陵のあたりまでは樫原市、山田寺跡は桜井市、飛鳥寺や甘樫丘は高市郡明日香村。 では、飛鳥資料館は明日香村なのか桜井市なのかというと、地図を見ると、飛鳥資料館の建物が建っているあたりは明日香村だけれども、道路から入る入口付近は桜井市のようです。

   子供の頃、疑問に思ったことで、ここで、思い出したことがあるのです。「飛鳥」て、なんで、「あすか」と読むのか?・・・さらに言うと、 「大和」て、なんで、「やまと」と読むのか? 
   「大和」は、『魏志倭人伝』などに「倭人(わじん)」として書かれている「倭(わ)」が、小さい人間という意味らしいので、これでは情けないと「大」をつけて「大倭(だいわ)」として、その「倭」を縁起がいい漢字の「和」に置き換えて「大和(だいわ)」になり、それが「ヤマト」と地理的に重なるということから、「大和(だいわ)」を「やまと」と読むことにした・・・のかな?
   で、「飛鳥」を、なぜ、「あすか」と読むのか。 さらに、地名としては、奈良県高市郡明日香村であって、「飛鳥」ではなく「明日香」と書いているのですが、やっぱり、子供の頃、 「飛鳥」と「明日香」はどちらが正しいのか?と疑問に思ったのですが、なぜ、2通りの表記があるのか?
   その答えが飛鳥資料館に書かれていました。 もともとは、「ア‐スカ」だったらしい。 「スカ」とは砂地で水はけが悪い所のつく名称で、昔は飛鳥川の周囲は水はけが悪くて苦労した場所だったらしいが、「飛ぶ鳥のアスカ」と言われ、その枕詞「飛ぶ鳥の」の字をあてて「飛鳥」を「あすか」と読んだらしい。 だから、漢字の意味合いからつけられた名称ではなく、音、ひらがなで作られた地名に、喜ばしい漢字をあててつけられたのが「明日香」で、「飛鳥」は「飛ぶ鳥のアスカ」からきた表記らしい。 蛇足ながら、「北勝海」は、「北海道の十勝の海」で、「十勝」の「勝つ」の方の字に「十」の読みをあてたのではないかと思うが、最近、北海道の出身でもなく十勝の出身でもないのに「北勝なんとか」いうしこ名を名のっている力士がいるが、それはどうかなと私は思う・・・・がな。

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   ↑県道124号から見た 畝傍(うねび)山

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   ↑県道124号から見た 甘樫丘(あまかしのおか) のあたり・・・・だと思うのだけれども・・・。
 
   (2017.1.17.)

※ 《ウィキペディア-山田寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%AF%BA
桜井市観光協会 山田寺跡 https://www.sakurai-kanko.com/%E5%90%8D%E6%89%80%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E7%A3%90%E4%BD%99%E3%81%AE%E9%81%93/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%AF%BA%E8%B7%A1/
奈良県庁 観光プロモーション課 山田寺跡 http://www3.pref.nara.jp/kankou/1323.htm
近畿日本鉄道 スポット情報 山田寺跡 http://www.kintetsu.co.jp/spot/spot_info/spot0003277.html

☆ あすか シリーズ
1. 法興寺(飛鳥寺)(安居院)と蘇我入鹿首塚≪上≫本堂、塔跡。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_9.html
     〃  ≪下≫思惟殿、鐘楼、蘇我入鹿首塚、西門跡。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_10.html
2. 山田寺跡と飛鳥資料館 〔今回〕
3. 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_12.html
4. 「孝元天皇陵」、飛鳥川、雷の丘 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_13.html
5. 阿部野橋駅、アベノハルカス、天理教畝傍支部、雷の丘の西のあたりの町並み http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_14.html


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