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zoom RSS 親鸞の墓はどこにあるか。大谷本廟(西大谷)と御荼毘所【上】、 夏の大谷本廟。

<<   作成日時 : 2016/08/15 12:30   >>

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[第440回]
   昨年、秋に紅葉が美しい季節の大谷本廟の写真を掲載させていただきました。 父方が浄土真宗本願寺派で祖父母の遺骨をお世話になっているもので、大谷本廟(西大谷)には時々お参りいたしますが、今回も立ち寄りました。 季節により、これだけ風景が変わるものなのだな、と感じました。
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↑ 今回の参拝は8月前半です。 昨年11月に訪ねた時の写真を、[第372回]《紅葉の大谷本廟(西大谷)参拝。大谷本廟の庭がこんなにきれいとは。及、ノバホールと無量寿堂はそっくり 》 http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html で公開していますので、見比べていただくければと思いますが、夏と秋とでずいぶんと印象が違います。

(場所は、京都市の東山。 京阪「清水五条」駅から東に行った突き当り。清水寺の南、建仁寺の東、三十三間堂の北・・・と言えばわかると思うが、それでもわからんという人は・・・インターネットで検索してくれ。「清水寺てどこにあんのん?」などと言うヤツのめんどうまでみてられるか。)
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(↑ 大谷本廟 参道左側(北側) 親鸞像)
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(↑ 総門
   浄土真宗本願寺派 と 真宗大谷派 はどう違うのか、というのは[第372回]http://shinkahousinght.at.webry.info/201512/article_1.html  で述べましたが、なにしろ、本願寺派にも「大谷」があるし、大谷派にも本願寺があるものだから、なんとも、ややこしい。 父方の祖父母がここに納骨させてもらってお世話になっていたので、子供の頃から何度も足を運んできたのですが、どこにあるかというと京都の東山です。 今回も前回も京阪の「清水五条」から歩きましたが、かつて、阪急の「四条河原町」から東に歩いて、八坂神社・円山公園を経て歩いてくと清水寺があって、さらにその南にあった・・・という行き方をしたことがあるのを覚えています。阪急の京都線は京都市内に入ると地下を東西に走っていて、一番東が「四条河原町」で、かつては「四条大宮」に特急が停まりましたから、広隆寺とか仁和寺とか洛西に行こうと思えば、「四条大宮」で京福電鉄に乗り換えるのが便利でした。 「西大谷」というからには洛西、広隆寺とか仁和寺とかのあたりにありそうな感じがしません? もしくは、嵐山の天龍寺とか大覚寺とかのあたりとかにありそうな感じがしませんか?  ところが、なぜか、東山の清水寺の隣にあるんです。 なんで・・・? とずいぶん疑問に思ったことがあります。東山にあるからには東大谷か? と思うと西大谷なんです。 「大谷本廟」が「西大谷」なら、「東大谷」はあるのかというとあるようですが、「西大谷」が東山にあるなら、「東大谷」は山科のあたりとかにあるのかな? とか思うと、東大谷も東山にあるのです。 なんで?
   [第372回]にも述べましたが、要するに、西本願寺と一般に言われるお寺は正式には「浄土真宗本願寺派本山本願寺」で、それに対応する「大谷」が「西大谷」で正式には「大谷本廟」。 東本願寺と一般に言われるお寺は正式には「真宗大谷派本山 真宗本廟」で、それに対応する「大谷」が「東大谷」で正式には「大谷祖廟」だそうです。
※ 「西本願寺」http://www.hongwanji.or.jp/
  「大谷本廟」http://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/index.html
「東本願寺」http://www.higashihonganji.or.jp/
「大谷祖廟」http://www.higashihonganji.or.jp/worship/otani/
   
   「大谷」と「本願寺」の関係はどういうものなのか。私は、子供の頃、お寺が「本願寺」で、それぞれの本願寺の納骨堂のことを「大谷」と言うものだ・・・・と思っていたのです。 本願寺は東西とも京都でも街中にありますから、なにしろ、京都タワーの展望台から見ると、「すぐそこ」みたいに見えます。

似た経験が東京でもありまして、三田の慶應義塾大学の東側(「田町」「三田」の駅側)の南北の道に出まして北側を見ると、東京タワーというのが「すぐそこ」に見えるのです。 ある時、一度、行って見ようと思って歩きかけたのです。 なにしろ、「すぐそこ」にあるものですから。 で、途中で気づいたのです。「俺は前から、もしかして、アホと違うかいなあ、アホと違うかいなあ〜あ・・と思ってたけど、やっぱり、アホやったんやないか」と。

(↑ 旗のマークの所が慶應義塾大三田キャンパスの東側の道。)
「すぐそこ」にあるように見えても、歩くとけっこうあったのです。 同様に、東本願寺・西本願寺も京都タワーの展望室から見ると「すぐそこ」ですが、実際歩くと、それほど「すぐそこ」ではないはずです・・・・が、それでも街中ですから、信徒というのか宗派によって呼び名は違うのかもしれませんが、そういう難しいことを言わないのが浄土真宗のいいところで、難しいことわからん人間でも、ともかく、心にホトケを念じて口に「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる・・・のかどうかはさておき、ともかく、本願寺には納骨堂を作る場所はないし、観光客も来る所なので、そことは別に納骨堂をつくりましょうということで作られたのが、「大谷」だ、と・・・・・、子供の頃、私はそんなことを思っていたのです・・・・が、どうも違ったみたいです。納骨堂はありますけれども。
    「大谷本廟」HPの「沿革」http://otani-hombyo.hongwanji.or.jp/html/n1c1.html を見ると、親鸞は1263年に90歳で往生され、京都の鳥辺山南辺で火葬され、遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」に埋葬されたそうです。その10年後の1272年、親鸞の娘の覚信尼が吉水の北辺に改葬し廟堂を建て影像を安置した。 それは現在の知恩院の山門の北のあたりだった。 大谷影堂として守られてきたが、1603年に現在の大谷本廟(西大谷)の地に移し、今日に至るようです。 ≪ 江戸幕府は、西本願寺第十二世の准如時代の1603年(慶長8年)に、知恩院の拡張造営に際して、大谷本願寺跡地の代替地として、宗祖親鸞が荼毘に付された「鳥辺野(とりべの)の南の辺、延仁寺」と伝わる「御荼毘所」に隣接する現在地を与えた。≫と《ウィキペディア―大谷本廟》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E5%BB%9F には出ています。「吉水の北辺」(現在の知恩院の山門の北のあたり)から現在の大谷本廟の場所に移ったのは、徳川家が浄土宗であったものですから、それで、浄土宗の本山の知恩院の方が力が強かったために移動させられることになったとどこかで聞いた記憶があります。 現在では、≪大谷本廟は、「日野誕生院」・「角坊」(すみのぼう)とともに「宗教法人 本願寺」が所有する飛地境内建物≫(《ウィキペディア―大谷本廟》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E5%BB%9F )だということらしい。
   ところが、ややこしいのは、真宗大谷派(東本願寺)の方でも「大谷祖廟」(東大谷)というものがあるのです。 位置としては大谷本廟(西大谷)から北の方向、円山公園の南側、円山公園の音楽堂の東のあたりにあります。 大谷祖廟のHP「大谷祖廟とは」http://www.higashihonganji.or.jp/worship/otani/ を見ると、≪ 宗祖として仰ぐ親鸞聖人の墓所、それが大谷祖廟です。 親鸞聖人が亡くなられて10年後、末娘の覚信尼公が廟堂を建立して、聖人の御影像を安置したのが本願寺のはじまりです。 ・・・大谷祖廟には、聖人をはじめ、本願寺の歴代、全国各地の寺院・ご門徒の方々のご遺骨が納められています。≫と書かれており、知恩院にも近いので、こちらが、覚信尼が最初に改葬して影堂を作ったのは大谷祖廟の場所だったのか・・・?  しかし、知恩院に近いことは近いのですが、知恩院の山門の場所とは別の場所です。 となると、本願寺派と大谷派で別のことを言っているのか・・・?



   それで、「親鸞の墓所」はどこかというと、本願寺派(西本願寺)では大谷本廟(西大谷)、大谷派(東本願寺)では大谷祖廟(東大谷)だと言っているようですが、私が他界しても私の骨なんて誰も欲しがらないでしょうけれども、「エライ人」の骨なら分骨されることもあるでしょうし、カール=マルクスは自分が死んだら遺骨は海に捨ててくれと言った言葉が実行されてドーバー海峡にまかれたらしいけれども、親鸞の場合は、自分が死んだら遺骨は加茂川にまいて魚に食べさせよと言ったけれども、実際はそうはされなかったようですが、それでどうなったのかというのは、よくわからんわけです。 大谷本廟HPによると、鳥辺野の北辺の「大谷」に埋葬されたが、10年後に覚信尼が吉水に改葬し、後に現在の大谷本廟の場所に移した、ということになっており、大谷祖廟のHPによると、大谷祖廟に親鸞他の遺骨が納められていることになっているわけですが、分骨されたのかどうなのか。 何回も移転させて、廟堂の建物を移転させることはできたとしても、お骨はどうなったのか。 今となっては確かめようもない。

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(↑ 仏殿〔本堂〕。 1870年再建。)
   大谷本廟(西大谷)には、お堂が2つあります。 普通、お寺で、手前と奥とに2つあると、奥の方が主たるお堂であるか、もしくは、手前が金堂で奥が講堂、金堂と講堂はどう違うのかというと、基本的には「仏さまがいるところが金堂、人間がいるところが講堂」であったと思うのですが、大谷本廟の場合は、手前が「本堂」「仏殿」で、≪ 内陣には寂如上人御作の阿弥陀如来像を中心に、歴代宗主、左余間には七高僧・聖徳太子、右余間には覚信尼さまのご絵像が奉懸されてい≫るようですが、奥は講堂ではない。
   では、奥は何なのか。 子供のころは、そんなこと考えずに適当に手を合わせていたのですが、奥は「明著堂」と言いまして、≪ 親鸞聖人の墓所である祖壇の前に位置する拝堂 ≫のようです。
   仏殿から明著堂に行く途中の門が↓
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↑ をくぐって行くと、明著堂↓ が見えます。
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(↑ 明著堂。 1709年造営。)
≪ 祖壇の周囲には、歴代宗主やお裏方の廟墓、祖壇納骨所が≫るそうです。

    真宗大谷派では親鸞の墓所は大谷祖廟(東大谷)だと言っていて、浄土真宗本願寺派では大谷本廟(西大谷)の祖壇だと言っているらしいのですが、お墓くらい共同で扱えばと思わないこともないのですが、なんかそうなっているようです。 お墓なのか、あくまで、宗祖を祀る場所なのか。

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↑  親鸞は鳥辺野の北辺に埋葬されたが、その10年後に親鸞の娘の覚信尼が東山の吉水に改葬して影堂を建てたのが、後に移転して今の大谷本廟になった、というものだけに、覚信尼の碑が明著堂の向かいのあたり〔仏殿(本堂)の後ろのあたり〕にあります。

    この大谷本廟(西大谷)の北側の細い道を東に登って行くと、清水寺に行ったはずだったのですが、少し前の台風で崩落して今は清水寺まで行けないらしい。 大谷本廟からその道に出て少しだけ登ったあたりの北側に墓地があるのですが、このあたりはお寺が多いので、大谷本廟の後ろに大谷本廟の墓地もあるのですが、北側の墓地は日蓮宗のお寺の墓地らしいのですが、そこを通って行くと、親鸞の墓所があったような気がしたのです。 過去に、一度、行ったことがあったのですが、明著堂の後ろにある祖壇が親鸞の墓所だとすると、あれは何だったのか・・・・。 そのあたりを、次稿http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_6.html で述べることにします。
    今回と次回の[第441回]【下】http://shinkahousinght.at.webry.info/201608/article_6.htmlはセット として公開します。 よろしく。
    (2016.8.15.) 


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