ジッド・ツルゲーネフ・ニーチェ・三島再読―文学・哲学・社会学は営業力につながるか害になるか【上】

[第228回] 営業と会社の話(57)‐1
(一) 大学受験失敗談。
    今となっては、高校を卒業したのはもう35年以上前になる。 昨日か一昨日のことのような気がするのだが、35年以上前である。中学校を卒業したのは40年近く前になってしまう。 その当時、高校受験の「国語」において最頻出作家が亀井勝一郎だった。 それで、中学校の3年生の時に亀井勝一郎の『青春論』(角川文庫)を読んだ。
    大学受験において、大学入試の「現代国語」全般として頻出作家とされていたのが、文学小説部門で森鴎外、評論部門で小林秀雄だった。 それで、森鴎外の『舞姫』『雁』他を読んだ。 小林秀雄は、中原中也と恋仲であった女性が、詩人ではあっても生活が安定しない中也を見捨ててはぶりのいい小林秀雄のもとに走ったという話から、なんか印象のよくない男という感じがしたが、小林秀雄の『モオツァルト・無常ということ』(新潮文庫)・『考えるヒント3』(文春文庫)を読んだ。 東大の入試の国語の対策として、教学社から発行されていた赤本と言われる大学別入試問題シリーズに、田中美知太郎とか埴谷雄高の本を読んで・・と書いてあったので、それで、田中美知太郎『ソクラテス』『古典への案内』(岩波新書)・『ソフィスト』(講談社学術文庫)などを読んだ。埴谷雄高の本としては『墓銘と影絵』(未来社)を読んだ。  これだけ読んで、受験対策として良かったか悪かったかというと、高校はすんなり合格したので、亀井勝一郎は悪くなかったのだろうけれども、大学は思うように合格できなかったので、森鴎外と小林秀雄と田中美知太郎と埴谷雄高が悪い・・・かというと、そういうわけでもないとは思うが、それだけ読む必要があったかというと、今から考えると疑問ではある。 大学を卒業後、仕事をしながら資格試験を受けて合格する経験を経て考えてみると、資格試験にしても入学試験にしても、ともかく、合格最低点を上回れば合格であり、それを考えれば、現代国語対策としてこれだけ読むよりも、英語の単語の1つでも2つでも余計に覚えて英語の点数アップをはかった方がよかったのではないのかとも思える。 又、頻出作家とはいえ、その作品をせっせと読むよりも、頻出作家の作品を使った実際の入試の問題をじっくりと検討した方が現代国語の対策としても効率的だったのではないかとも思える。 もっとも、「現代国語なんか、日本語だから勉強してもしなくてもあんまり点数は変わらない」などと言う人がいるが、それは嘘で、私は結果として2浪してしまったが、2浪目の時には「国語」、特に「現代国語」の成績は相当伸びて、他の科目はともかく「国語」については、共通1次試験でも満点近かったし、河合塾の東大オープンなど東大の入試を対象とした模擬試験でも国語に関しては東大受験生の中でも良い方の成績であったから、「コストと利益を比較較量して」どうかはともかく、現代国語の勉強はやっても意味がないなどということはなく、コストがかかりすぎた可能性もあるがある程度の成果はあったのだろうと思う。
    しかし、もっと大きな問題がある。 高校2年の秋、「文系」に進むか「理系」に進むかということを、2年のクラス担任と親と一緒に懇談で話をした際、担任の女性教諭が「あなたは文系よ」と決めてしまったのだ。 私は「文系」だけは嫌だと思っていたのだ。 この場合、クラス分けの「文系」というのは、京大であれば文学部・法学部・経済学部・教育学部が「文系」、工学部・理学部・農学部・医学部・薬学部が「理系」、東大であれば文科1~3類が「文系」、理科1~3類が「理系」という意味だが、私が絶対にそこだけは行きたくないと思っていた「文系」とは、経済学部・商学部・経営学部のことであった。 なぜ、行きたくなかったかというと、
(1) 他に行きたいところ、学びたいものがあった、ということもあるが、
(2) その少々前に、連合赤軍浅間山荘事件とロッキード疑獄事件があり、経済学部に行ってマルクス経済学を学んで人民の楯となって浅間山荘にたてこもるか、それとも、近代経済学を学び、トルストイの『イワンの馬鹿』に出てくる商人で布袋腹のタラースのように、ピーナツ・ピーシズとかいったことをやって腹を肥やすか、どちらか選べと言われると、どうも、どちらも気が進まないように思ったということがあり、
(3) 医学部・歯学部に行けば医師・歯科医師の仕事につける、法学部に行って司法試験に合格すれば裁判官や弁護士になれる、文学部や理学部に行って教員の資格を取れば高校なり中学校なりの先生になれる、工学部を卒業して会社でも「研究室」勤務の条件で採用してもらえれば、研究する仕事につける、といずれもそれまでに学んできたものを生かせる仕事につけるのに対して、経済学部・商学部・経営学部卒では中卒・高卒の人と変わらなくなってしまう。 特に、「営業」みたいなもの、中卒か高卒の人間のやる仕事じゃないかと思ったのだ。自分は小学校から高校まで、至らない時もあったかもしれないけれども、全体としては一生懸命努力精進してきたつもりなので、それを無駄にしてしまう、どぶに捨ててしまうのは嫌だと思ったのだ。 
(4) 又、父は大学は経済学部のものと思っていたようで、そして、「会社のために犠牲にな~る」「会社のために、会社のために」「打ちてしやまん」「一億火の玉」「なんじゃらのなんとかは死んでもラッパを離しませんでしたあ~あ」「寝ずに働く」「死んでも働く」「とってちってたあ~あ」「ロスケどもをやっつけてや~る」とか毎日、言い続けている人間で、そういう学部、即ち、経済学部・商学部、経営学部にだけは、たとえ、首をもがれても行きたくないと私は思っていた。 又、「戦後民主主義」の教育を受けてきた世代として、そういう軍国主義の反動の学部に行かされるのは嫌だった。(「寝ずに働く」とか言ってた割には、当人は毎日、けっこう早くに就寝していたように思うのだが、父が言うには、人間には、生まれる時点で「人に命令する人間」「人を支配する人間」「人に統制を加える人間」と「人から命令される人間」「人から統制を加えられる人間」の2つが神さまから決められており、父は典型的な「支配する側の人間」「命令する側の人間」で「ドイツ人」「いわば、ヒットラー総統のような英雄」であり、私は「支配される側の人間」「命令を受ける側の人間」「チャンコロの人間」だそうで、これは神さまがお決めになったことであって、どんなにあがいても変えることは絶対にできないことである、という話だった。「民族の違いを忘れるな!」と父は私に毎日のように話していた。 だから、父は「とってちってたあ~あ」と言う側の人間、「寝ずに働く」と言う側の人間、「とってちってとってちってとってちってとってちって」と言う側の人間で、私は「とってちったたあ~あ」と言われる側の人間、ということらしかった。 「民族の違いを忘れるな」と言われると、「不忘民族恨(民族の恨みを忘れるな)」とでも言いたくなるのだが、血筋としては父も私も正統の日本人であってドイツ人ではないし、ましてや「チャンコロ人」とかいうものでもない。) かつ、
(5) 夏目漱石の『三四郎』『こころ』や、武者小路実篤『友情』、井上靖『夏草冬濤』などを読んで大学とはそこに出てくるような文学部のものという感覚があり、京都の京大の東のあたりにある「哲学の道」は哲学者・西田幾多郎が思索にふけりながら歩いたとかいった話を読み、


我が家の本棚(私の本棚ではない)には『ニーチェ全集』とかがあったので、大学とは文学か哲学を学ぶところのような気がしていた、感覚的に大学とは文学部であるような気がしていた。中央公論社から出ていた『世界の名著 ニーチェ』の最初にイタリアのポルトフィーノの岬の写真がでていて、ニーチェはポルトフィーノの岬に行って思索にふけったと出ていたが、大学とはそういうことをするところだという印象があった。


(6) 井上靖『天平の甍』(私は旺文社文庫のもので読んだ)では、普照という若い僧侶が遣唐使の船に乗って命の危険を冒して唐に渡る際、唐で学べる年数がある程度以上のものであるからこそ命をかけて渡ろうという気持ちになれるのだ、1年やそこらのもので命をかけて渡れるものかといったことを語る場面があったが、私もそれまで学んできた文学・哲学を生かしてさらにその後も大学に行って一生かけて学べると思うからこそ努力し精進し我慢もして勉強してきたのであり、「会社のために犠牲にな~る」「とってちってたあ~あ」の大学学部である経済学部・商学部・経営学部みたいなものに行かされるために努力し精進し我慢して勉強してきたのではない、と思っていた。
    ところが、2年の担任の神戸大文学部卒だという20代女性教諭は「あなたは、絶対、文系よ」と言うのだ。 その論拠として、「社会科(地理・倫理社会・世界史)の成績と理科(生物1・地学1・物理1・化学1)を比べると社会科の成績の方がいい」からと言うのだ。 たしかに、社会科と理科の成績は全般として見ると社会科の方がよかった。しかし、数学と英語の成績を比べると数学の成績の方が良かった。 全般としては理科は社会科より良くなかったといっても、物理は2年2学期の中間考査では学年で1番の成績をとっていた。それでも、プロの高校教諭が、女性とはいえ北野高校卒で神戸大卒の教諭が「あなたは絶対文系よ」と言うので、そう断言するからには、何かそう考えるだけの相当の理由があるのではないかと考えた。 しかし、それから10年・20年経ってみると、理由なんか何もなかったと思う。 そうではなく、あの女性教諭は、単に、本人と親のどちらに加担するか、どちらに加担した方が自分の処世術として有利かという視点で考えて、親の方に加担しただけだった。それだけだ。私がどんなに「文系」(=経済学部・商学部・経営学部)を嫌がっていたかなんてことは、彼女にとってはどうでもいいことだったのだ。 
    だから、今から思えば、経済学部・商学部・経営学部といったところだけは絶対に行きたくない、行かされたくないという最低線を守るためには、社会科の試験では良い成績を取らないようにするべきだった。 ところが、良い成績を取ろうと思ってもなかなか取れなかったりするのだが、逆に、地理とか歴史・倫社はけっこう好きだったので、そんなに無茶苦茶努力しなくても中間考査・期末考査ではそれなりに取れてしまったのだ。良い成績を取りたいと思って取れない科目の点数を上げるのも大変だが、取れてしまう科目で取らないようにするのもけっこう難しかったのだ。 で。 今から考えると、だ。 たとえば、大問が4つあって、それぞれに(1)~(8)とか(9)とかの小問があったとする。下半分白紙で出すと、なぜ、こんなことをしたのだ!?!と問われるおそれがある。 となると、だ。 たとえば、大問の[1]と[3]はまじめに答えて、[2]は
 (1)島野
 (2)桜井
 (3)門田
 (4)野村
 (5)ジョーンズ
 (6)相羽
 (7)佐野
 (8)藤原
 (9)山内
と書く。 大問の[4]は
 (1)中塚
 (2)江尻
 (3)シピン
 (4)松原
 (5)江藤
 (6)ボイヤー
 (7)米田
 (8)伊藤
 (9)平松
と書く・・・と。 はたして、採点する教諭は怒るか笑うか喜ぶか・・・・・・?
〔念の為。 若い人で意味分からない人もいるかもしれないので、説明すると、上の方の(1)~(9)は、1973年に南海ホークスがプレーオフで阪急ブレーブスを破って優勝した時の前期のオーダーで、下の方は1970年前後、セリーグで順位としては3位くらいが多かったが巨人に無茶苦茶強かった時代の大洋ホエールズのオーダーです。
⇒《南海ホークスさあ行こう!(復刻ユニフォーム記念) 》http://www.youtube.com/watch?v=jwFtLsqd_ys 〕
こうすれば、「社会科の成績がいい」→「あなたは文系よ」にされずにすんだのだ。
    で、亀井勝一郎の『青春論』なんか読んでるから「あんたは文系よ」などと言われてしまうので、文学関係の本は一切読まず、「国語、特に現代国語なんて日本語だから、やらなくてもそれなりにできる」という説を採用してやらないようにすればよかったのではないかとも思うのだ。 「国語、特に現代国語なんて日本語だから、やらなくてもそれなりにできる」という説は正しいかというと、厳密には正しくない。 私は2浪時、国語、特に現代国語の成績が飛躍的に伸びて、東大の入試でも「国語」は「ドル箱科目」(他の受験生よりも高得点をとって点数を稼げる科目)となった。 しかし、だ。 もし、京大の工学部、あるいは、東大の理科1類・2類あたりを受けるとして、すべての科目で高得点をとるのは大変であるとして、何に力を入れて何は「致命傷とならなければよい」とするかと考えた時、国語、特に「現代国語」は「日本語だから0点はない」と割り切って「致命傷でさえなければいい」科目として、その分を数学・英語や物理などに力を注げば、その方が合格につながりやすいのではないか、という考え方はあるのだ。 「国語、特に現代国語はやってもやらなくても変わらない」などということはないが、工学部や理学部・農学部に入ろうとする場合は「現代国語はやらなくても致命傷にはならない」可能性があるとは言えるのだ。
   社会科の試験は世界史であれ倫理社会であれ、
 (1)島野
 (2)桜井
 (3)門田
 (4)野村
 ・・・・
で、国語、特に、現代国語は最初から完全に勉強しない、という作戦でいけば、首をもがれても絶対に嫌だった「文系」(=経済学部・商学部・経営学部)に行かされずにすんだのに・・・・と思うのだが、「後悔先に立たず」である・・・・・・?
    しかも、何の因果か慶應義塾大学という大学に行くと、この大学は「小学校から高校までの勉強などというものは害があるんだ。わかってるのかあ!」と教授が教壇で絶叫する大学だった。(慶應の内部進学の教授・助教授というのは入学試験にない科目でも入学試験と関係のない内容でも、ともかく、小学校から高校までで扱っていて内部進学の人間ができない知らないものは、なんでも「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ。」にしてしまいますから。) そこに行きたいと思う大学に行けなかったとしても、せめて、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ」という“思想”の大学ではなく「小学校から高校までの勉強は貴重だ」という“思想”の大学に行きたかったが、逆の方の大学に行くことになってしまった。 
    なお、上の教学社の大学別入試問題シリーズで東大の現代国語対策としてでていた、田中美知太郎と埴谷雄高の本を読めという説だが、今、考えると、なぜ、田中美知太郎と埴谷雄高なのか、疑問にも思う。単に、そんなこと思った人がいただけか、合格した人でその2人の本をたまたま読んだ人がいただけ・・という可能性もありそうな気もするが・・。


(ニ) 三島由紀夫『潮騒』は名作だろうか?
    小学生・中学生対象で、「若い年代にぜひ読んでおきたい、読ませたい」という“全国校長先生推薦”みたいな感じの「世界文学全集」「日本文学全集」といった感じの本があって、小学校の図書室あたりにはそういうものが備え付けられていたように思う。 小学校では「課題図書」というものもあった。もっとも、慶應の教授にかかれば、「そんなものは害があるんだ」ということになってしまうだろうけれども、自分が知らないものできないものはなんでもかんでも「害があるんだ」「受験勉強だ、そんなものは」と悪口雑言を浴びせるという態度というのは、おえらい先生なのでしょうけれども、あんまりいいとは思わないですね。
    それで、「若いうちにぜひ読んでおかなければならない」とか「文学者」という肩書の先生に言われてしまうと、なんとしても読まなければならないのだろうか・・・と思ってしまうのだが、そういう本の中に、三島由紀夫の『潮騒』(新潮文庫 他)があった。 なんで、『潮騒』なのか。 三島由紀夫は1970年の大阪万博が終わったすぐ後で、東京・市ヶ谷の自衛隊の駐屯地に楯の会会員とともにのりこんで、割腹自殺をはかるということをおこなった。 三島由紀夫は太宰治が入水自殺をはかった時、「冷水摩擦でもさせてやりたい」と語ったそうだが、作家で「精神科医」の なだ いなだ が「朝日ジャーナル」において、三島由紀夫の太宰治に対するその文句をそっくりそのまま三島由紀夫にさしあげたいと書いていたが、私もそう思う。  三島が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をおこなったという件で三島由紀夫という作家が1970年から71年頃、話題になり、それで、私は三島由紀夫の小説を何か読もうと思い、書店に行って、新潮文庫で最も薄かった『盗賊』と新潮文庫で最初に出版されたらしい『仮面の告白』を読んだが、小学生が読んでもなんだかよくわからなかった。 それに対して、『潮騒』は若い男女の恋愛物語だということで、小学校高学年くらいの者が読んでもそれなりに「わかる」小説だった。 だから、三島由紀夫の小説で小学校高学年から中学生向きとして「全国の先生推薦」として「日本文学全集」に入れるなら『潮騒』になったということではないかと思う。
    しかし、だ。 30を過ぎ、40を過ぎて考えると、だ。 『潮騒』て、そんなに名作だろうか?とも思うのだ。 三島由紀夫の小説では『潮騒』とともに『金閣寺』が有名であるが、『金閣寺』は、実際に京都の鹿苑寺金閣に放火した若い僧侶を主人公として書かれたものであるが、そこに書かれている内容は、どこからどこまでが実際にあった話でどこからどこまでが三島の想像・創作なのか、それを知りたいと思うのだが、よくわからない・・・が、『金閣寺』の方が「大人が読める小説」であると思うのだ。 「大人が読める小説」というのは、『潮騒』は小学校の高学年か中学生くらいの者が読むと「感動する」かもしれないが、ある程度、人生を歩み、嫌な思いもそれなりに経験してみると、「ちょっと違うのではないか」と思うところが出てくる小説のような気がするのだ。 一番の問題は、男と女の関係というのは、結論としては「本人がいいと思えばいい」というところがあり、「あんな男、どこがいいんだ」と思っても、それがいいと思う女はいるわけで、他人がそれをどうこう言ってもしかたがないことであり、「あんな女、どこがいいんだ」と思っても、本人がいいと言うならこれも他人がどうこう言ってもしかたがないことなのだ。 不動産の取引では、世間相場より高い価格でも買い手が買うと言えば話は決まるし、世間相場より安くても売り手が売ると言えば決まるのだが、男女の関係はそれ以上だと思うのだ。 それで、『潮騒』では、なんだか、二枚目役の男と嫌われ役の男が終始一貫して決められてしまっているのだが、実際の人間というのはそういうものとは違うと思うのだ。 遠藤周作は、最初から強い人間がどうしたという話はいい。そうではなく「弱い者」がいかにして生きたか、「弱い」者でありながらもいかにして信仰を捨てずに生きたかが知りたい・・として小説を書き続けたが、三島の『潮騒』は最初から最後まで二枚目役と嫌われ役が決まってしまっているのだ。 それに対して、三島の小説でも『金閣寺』では、最後に金閣に放火するに至る若い僧侶の心も行動も揺れ動いており、実際に放火をおこなった人物がそうであったのかないのかはわからないけれども、小説の中では生身の人間であるのだ。 だから、その点で、『金閣寺』の方が生身の人間、それも、「二枚目」とかではない、むしろ、問題をかかえた人間を描いているという点で、問題をかかえながら生きている生身の人間にとっては「読みごたえ」のある小説であると思う。


(三) アンドレ=ジッド『狭き門』は≪『女の学校』『ロベール』『(ジュヌビエーヴ あるいは) 未完の告白』≫と合わせて読んでこそ正しく理解できるのではないか。
     「誰もが若いうちに読んでおかなければならない」と「文学の一人者」とかに言われてしまうと入試の科目の勉強を「ほったらかし」にしてでも読まなければならないかという気になってしまって、受験という点ではマイナスになってしまいかねない、かつ、「あなたは文系よ」とされてしまいかねない「若者たちのための世界文学全集」に、アンドレ=ジッドの『狭き門』(新潮文庫 他)があったと思う。 私は、漢字の当て字で「アリサ」と名前をつけられた女性を個人的に2人知っている。 おそらく、お父さんがアンドレ=ジッドの『狭き門』が好きで、登場人物のアリサという女性にあこがれ、そして、娘にその名前をつけたのだろう、と思う。(飲み屋のホステスの名前からではないだろう。たぶん。) きっと、真面目なお父さんだったのではないかと思うのだが、20代で娘が生まれた時につけた名前なら、娘が喜ぶか嫌がるかは知らないが、『狭き門』とジェロームという主人公の男性があこがれたようにアリサにあこがれるのも悪くはないかもしれないが、しかし、30くらいから上の年齢になると、ジェロームと同じような意識でいたのではいけないのではないか、と思うようになった。 もし、私が20代前半で結婚して娘ができていたら、「アリサ」と名前をつけたい気持になったかもしれないが、その年代で子供はできなかったので、その可能性はなくなった。 そもそも、だ。『狭き門』とは、『新約聖書』の『福音書』にでてくる「力をつくして狭き門から入れ」という言葉からきている題名であり、神の国に入る為、信仰の生活に入るために、すばらしいと思う女性を通じてともに入ろう、という認識が根本的に間違っているのであるが、若きジェロームはそれが理解できないでいる。 アリサは小説の終わりころに他界するが、誰かに殺されたわけではなく、病気で死亡したのであるが、しかし、自分を神の国に入るための門のように認識し、神の国に入ろうとするにはあなたが必要なのだと求められたという負担が、その重荷が死に追いやったのではないのか・・という暗示が残る。 最後、アリサの妹・ジュリエットが言う文句が象徴的である。 「さあ、目を覚まさなければ」。 
    ジッドの小説では、『狭き門』は最初に読んだ時には、若い2人の恋物語・・・かのような感じもしないでもない。 それに対して、『田園交響楽』(岩波文庫 他)は趣がずいぶんと違う。 『狭き門』を軽く読んで、『田園交響楽』を読むと、同じ作者の小説だろうかという気さえする・・・が、同じ作者の小説であり、2つに通じているものはあるのだ。 『田園交響楽』では、身寄りを失くした盲目の娘をかわいそうに思った牧師が自宅に引き取り世話をするが、牧師はあくまで神への信仰のもとに世話をしているつもりでいる。 しかし、周囲は別の目で見る。 牧師は自分は決してやましい行いはしていないと思っているが、実は、いつしか、その娘に対して男としての想いが生まれており、そして、それを否定しようとするものの、小説の終盤になって、もはや否定できないようになる。
    ジッドの作品では、≪『女の学校』『ロベール』『(ジュヌヴィエーヴ あるいは) 未完の告白』≫(新潮文庫 他)の三部作では、信仰に生きようとしている男性 ロベールを最初は尊敬して結婚したものの、結婚後、その信仰に生きようとしている姿というのは実は演技であり、実に馬鹿げた我慢できない偽善者の態度だと妻は思うに至り、かつ、娘もまた父の「演技」を見破るに至る、という話が描かれている。 もしかして、「全国の校長先生推薦 若い人にぜひ読ませたい本、読みたい本全集」の『狭き門』よりも、この三部作こそ、ジッドの最大の課題で重要小説ではないのか、という気が私は最近してきた。
    もしかして、『狭き門』のジェロームは、アリサの妹ジュリエットが言う「さあ、目を覚まさなければ」という言葉を認識することができなければ、いつまでも目を覚まさずに、神への想いで生きているという幻覚のもとに女性に恋し、そして、『田園交響楽』の牧師や≪『女の学校』『ロベール』『(ジュヌヴィエーヴ あるいは) 未完の告白』≫三部作のロベールのように、神への信仰心というものがまったく嘘ではないとしても、妻や娘からこっけいに見えてしまう演技でしかないものをおこなっている偽善者 となってしまう危険性をもっていた。 『狭き門』はその時点で終わっているのだが、少なくとも、『狭き門』は「清い男女の恋愛物語」などというものでないのは明らかである。 娘に「アリサ」と名前をつけたお父さんもしばらく経ってから「しまった」と思ったかもしれないが、『狭き門』は、そういうことを考えながら人生を生きるならば、相当に示唆に富む小説であると思う。

   で、次にツルゲーネフ『はつ恋』について論じたいが、ブログでは次回にまわし、三部作とします。 ぜひ、
をクリックして
【中】(四)ツルゲーネフ『はつ恋』 (五)ニーチェ『ツァラトゥストラ』 (六)ルソーの教育論 http://shinkahousinght.at.webry.info/201401/article_11.html
【下】(七)「営業は頭のない人間がいい」か? http://shinkahousinght.at.webry.info/201401/article_12.html
 を読んでください。
   (2014.1.19.) 


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