スカートの中を盗撮て、弁護士がケーサツ漢みたいなことやったらいかんがな―法的気概のない弁護士・裁判官

〔第144回〕
   けーさつ漢が、痴漢だの盗撮だのやったというニュースは、もはや、ほぼ、日常のことであり、まあ、もともと、その程度の人間がなってるのだから、どうしようもないし、もともと、ケーサツなどというものは、そのテの人間の人足寄場みたいなものだし、「まともな人間」とか、「優秀な人間」ならもっと他の仕事やってるだろうから・・・。
   「検察官」の場合は、「権力」を背景とした立場になると人間変わってしまうのかなあなどと「同情」してみたりもするし、司法試験に合格していないくせに「検察官」やってる もともと知能程度はケーサツなみ の「副検事」とかいう裏口入学みたいなテアイもいるしするのだけれども。
  ありゃありゃ、弁護士でも、スカートの中を“盗撮”などというしょーもないことするヤツが出現したらしい。↓↓
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(産経ニュース)
27歳弁護士を盗撮容疑で逮捕 山手線内でスカートに携帯入れる 
2012.6.20 14:05   http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120620/crm12062014080012-n1.htm
  電車内で女性のスカート内を盗撮したとして、警視庁戸塚署が、東京都迷惑防止条例違反の現行犯で、第2東京弁護士会所属の弁護士の男(27)を逮捕していたことが20日、同署への取材で分かった。同署によると、弁護士は容疑を認め、19日に釈放された。
  逮捕容疑は、17日午後6時すぎ、JR山手線内回り目白-高田馬場駅間を走行中の電車内で、20代の専門学校生の女性のスカート内にカメラ機能付き携帯電話を差し入れ、盗撮したとしている。
  同署によると、乗客の男性が弁護士の行動を不審に思って取り押さえ、高田馬場駅で同署員に引き渡した。
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↑↑ なんで、釈放されるの???  ↑↑
↑↑ なんで、匿名なの??? ↑↑

《参考》
BLOGOS「盗撮弁護士」匿名報道が呼び起こした疑念 http://blogos.com/article/41929/
YAHOO!知恵袋‐27歳弁護士を盗撮容疑で逮捕 山手線内でスカートに携帯入れる 一般人だと名前が報道されるのに弁護士だと報道されないのは何故ですか?」http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1289455572

   たとえ、弁護士の中では収入の少ない方の弁護士であっても、私なんかより多いみいりがあると思うのだけれども、なんとも、しょーもないことするやっちゃなあ。

   ただ、ケーサツ漢と違って、この種のニュースは集めようと思っても、ケーサツ漢ほどは集まらない・・・・が、ケーサツ漢に比べれば(比べる相手のレベルが低いのではあるが)、まともな人間が多い・・・のか、それとも、ケーサツ漢よりも、法的にずるいヤツが多いので、ごまかし・もみけし・言いくるめ・恫喝・その他、法的にずるいこと大好き大好き・・・・で、表に出てこないのか、相手が弁護士だと思うと、警察・検察が手ごわいと思って敬遠して、やっつけやすそうな人間を攻撃するのか・・・・・。 どっちだろ?
   まあ、ケーサツ漢の方が、もともと絶対的に人数が多いということもあるだろうけれども・・。

  『激盛!本当にあった まる生(なま)ここだけの話 超(スーパー)(7) 許せない! マナー違反!!』(2012.11.23. 芳文社) には、小倉きな子『私の冬 大反省会GP(グランプリ)・・汗と涙の婚活事件簿・・』という漫画に、↓のような話も出ている。
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   どちらかというと、上の方の、電車の中で“盗撮”やったヤツというのは、「できごころ」という言い訳は通じないだろうけれども、まあ、「しょーもないことしい」というタイプだと思うのだ。
   それに対して、下の方の、「有名私大法学部卒 エリート弁護士」というのは、おそらく、もともと、そういう人間なのだろう。 そういう人格の人間が司法試験に合格して弁護士の国家資格を取得した・・というものだろう。小倉きな子氏も「泣き寝入りしているヒガイ者多いのかも~~」「そこはさすがプロ!」「成功例あったのかニャ・・・」と書いているが、もともとそういう人間で、今後もそういう人間だろう。 「リーガルマインド」の人格を持つ人間が弁護士の資格を取得したというタイプではなく、「もともと先祖代々↑のような人格の人間」が弁護士の資格を取得したというタイプであろう。
  「有名私大法学部卒」というのは、ピッタシカンカンで言ってしまうと、慶應大の内部進学ではないのかなあ~あ・・・という感じがする。 慶應の内部進学の人にも中にはまともな人もいるとは思うが、しかし、↑のような人は実際問題として多い。 なぜ、そうなるかというと、「慶應の内部進学」が世の中で一番えらくて、その下が私立の小学校から大学まで行った人間で、公立の学校の人間というのは、“ ドジン ” であるという教育を子供の頃からずうっと受けてきているからである。 だから、↑のようになる・・・と思う。 こういうと、たぶん、彼らはかんかんに怒ると思うし、たとえ、↑でも、私なんかよりもよっぽど出世してよっぽど「エライ」のではあるけれども。 しかし、私が慶應義塾大学に在学した時にも、↑みたいな内部進学の学生が何人もいたが、「三つ子の魂百まで」なんだろうなあ~あ・・・という気がする。 内部進学の人の名誉のために言うと、こういう人間でない人も間違いなくいるけれども、しかし、こういう人はいる。 億ションとか高級外車とかは、弁護士での収入なのか、親からの譲渡かはわからないと思う。(私の感想としては、慶應の内部進学の人間から、自宅に来ませんかなどと言われて、自分が内部進学でも内部進学の人間の娘でもないのに 行く女というのは、最初から犯されにいくようなものだと思うのだが。 “ドジン”の女を自宅に呼んだ・・という意識で呼ばれているのだから。 “ドジン”扱いされて、ヒョコヒョコ行くやつがどうかしている。)
    

   弁護士になった人にも、「なぜ、弁護士になるのか」という点に、確固たるもののない人が少なからずいるのではないかと思う。
   法学書院からでていた資格試験シリーズの『司法試験必携』という本に、かつて、「人の命を守る医者とともに、人の財産を守る法律家 は大事な職業なのである」などと書かれていたことがあった。 この理解では、法律家というのは、医者と比べて、なんか、ゼニが何より大事という人間に尽くす職業みたいで、医者より格下の仕事という印象を受けてしまう。
そうではないと思うのだ。
   ルードルフ=フォン=イェーリング『RECHT(権利=法)のための闘争』(村上淳一訳 岩波クラシックス)には次の文章がある。  
≪ 自分の権利があからさまに軽視され蹂躙されるならばその権利の目的物が侵されるにとどまらず自己の人格までもが脅かされるということがわからない者は、助けてやろうとしてもどうにもならない。 そんな連中は精神の入れ替えが必要なのだが、そこまで面倒を見てやることもあるまい。 ≫
≪ 人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視して侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。 それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、――それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。 それは、また、国家共同体に対する義務である、――それは法が実現されるために必要なのだから。 ≫
≪ 攻撃された権利を守ることは権利者の自分自身に対する義務であるばかりでなく、国家共同体に対する義務でもある、と。・・ ≫
  「財産を守る仕事」というのは100%間違いというわけでもないとしても、イェーリングが述べている内容と、「財産を守る職業が法律家であり、財産を守るのは命を守るのに匹敵する大事な仕事」という表現とでは、ずいぶんと意味が異なる。 法学書院の『司法試験必携』はイェーリングの『RECHT(権利=法)のための闘争』を十分に読んで理解していない者が書いていたのであろう。

   法学書院の『司法試験必携』は、まったく役に立たないなどということはないが、他にも変な記述はあった。かつて、今はなくなった旧型司法試験でも、憲法・民法・刑法・商法と訴訟科目を1科目選択、法律科目を1科目選択、一般教養科目を1科目選択、の計7科目という時代があった。 その時、一般教養科目の「経済学」について、≪ 経済学には近代経済学とマルクス経済学があるが、経済学を選択する場合、近代経済学を学ぶべきだ。 なぜなら、現在の日本は、社会主義の経済ではなく資本主義の経済であるから、資本主義の経済についての経済学である近代経済学を学ぶ方がよい。 ≫などと書いてあったのを読んだ。 これはおかしい。 なぜかというと、マルクス経済学と近代経済学は、どちらも、資本制経済について分析する経済学であり、マルクス経済学は資本制経済について分析した結果、その矛盾の解決には、究極的には社会主義経済への移行をおこなうしかないという結論に至るのに対して、近代経済学は、社会主義経済へ移行しなくとも問題は解決できる、もしくは、社会主義経済への移行は問題解決にはならないと考えるという違いがあるが、いずれも、資本制経済について分析する経済学であり、『司法試験必携』の著者が述べていたような、近代経済学は資本主義経済についての経済学でマルクス経済学は社会主義経済についての経済学 などというものではないのです。 しかし、そうであっても、司法試験の一般教養科目で「経済学」を選択した場合は、近代経済学を主として学習した方が良かったでしょう。 それは、なぜかというと、司法試験の一般教養科目の「経済学」においては、近代経済学から出題されてきていたからです。 「経済学」を選択した場合、近代経済学の方を主として学習した方が良いという点では間違いではなかったのですが、その理由が根本的に間違っていました。 この程度のことがわからないというのは、『司法試験必携』という本はいったいどんな人が書いてたのだろうなあ? と思います。 

  もうひとつ。 フィデル=カストロ『わがキューバ革命』(池上幹徳訳 1961.2. 理論社 新しい人間双書 )の「一章 歴史が私に無罪を宣告するであろう」に、フィデル=カストロが法廷で述べた言葉 が載っている。
≪ 共和国大統領が犯罪人であり、盗人であるときは、誠実な人びとが死ぬか、あるいは、獄中にいるのは当然だともいえよう!  ・・・・
   もし、臆病のゆえに、あるいは法廷がそれについて何もできないために、法全体の重みが有罪の犯人に加えられないならば、またその結果として判事全員が辞職して人間らしい人間にならないならば、私は、諸君の名のために悲しみ、また司法権を汚す前代未聞の汚点のために泣く。
   私自身は、私にとって牢獄が、他の人々たちのときと同じように厳しく、脅喝、卑劣、臆病者の残忍さでみちみちていることを知ってる。 しかし私は、七〇人のわが兄弟の生命を絶った憐れむべき暴君の怒りを恐れぬように、牢獄を恐れない。
  私を断罪せよ、 それは問題ではない。
  歴史が私に無罪を宣告するであろう! 
 ≫

  私は、裁判官、もしくは、弁護士になろうかと思った時があった。 我が家は、家庭内ファシズムとでもいうような家庭であり、父親は「会社のために、とってちってたあ~あ!」の人間であり、それと異なる方向に進むことはできず、裁判官にはなることはなかったし、弁護士にもならなかった。 自分の年齢を考えるならば、これからなるのも簡単ではないであろう。 しかし、20歳前後の頃に法律家になることを考えたことのある者として、法律家が持つべき法的意識としては、上のイェーリングが『RECHT(権利=法)のための闘争』で述べたものと、フィデル=カストロが「歴史が私に正義を宣告するであろう」と法廷で述べたものの2つが、私の中の「法律家」的人格を構成する2大支柱である。
  私は、今までの人生において、この2書と出会い、この2書が述べているものを心にとどめて生きてきたことを誇りに思っている。
  それに対して。 この2書を読むか読まないかは別として、もしも、読まなかったとしても、そこで述べられている内容を理解できているのであれば、それでも悪くないとは思う。 弁護士など法律家の職業についた人間でも、この2書において述べられているものを理解していない、理解しようなどとはさらさら思っていない、考えたこともない、という人が少なくないのではないかと思う。 私は、弁護士などの職業につかなかったので、その職業についている人と同じだけの能力などは当然ない。 しかし、その職業についていながら、私よりも、この2書で述べられている内容について、間違いなく理解できていない弁護士は少なくないと思う。 弁護士になっている人の少なくとも過半数は理解できてないと思う。

   上のイェーリングやカストロの文章を心にかみしめ、それを常に意識して生きるならば、 ≪JR山手線内回り目白-高田馬場駅間を走行中の電車内で、20代の専門学校生の女性のスカート内にカメラ機能付き携帯電話を差し入れ、盗撮 ≫などという「しょーもないこと」をしようという気持ちにはならなかったのではないかとも思う。 27歳の弁護士ということは、比較的早くに司法試験に合格した人なのかもしれない。 たとえ、あと1年か2年、合格するのが遅くなっても、司法試験対策に直結する本を後回しにしてでも、ルードルフ=フォン=イェーリング『RECHT(権利=法)のための闘争』 と、フィデル=カストロ『わがキューバ革命』「歴史が私に無罪を宣告するであろう」 を読んでおくべきであった、かもしれない。
  日常の生活のあり方の問題もあるが、弁護士として職務をおこなう際の態度においても、この2書で述べられている認識を理解できているか否かで違いがでる。 過半数の弁護士は理解できていない。 理解できていない者は、依頼者が何ゆえに「争う」のか、依頼者が何のために負担を払って闘うのか、理解できない。 依頼者とは弁護士にカネをみついでくれた上で、弁護士の機嫌をとってくれるタニマチ・・くらいにしか理解できないであろう。 依頼者はそうあるべきだという認識になるのであろう。
  そういう認識の弁護士というのは、その程度の人間ということであり、存在価値の低い人間、存在価値の低い弁護士ということになる。 そういう人間を淘汰するには、弁護士の資格の取得難易度を低くすることで弁護士の数を増やして、競争原理を取り入れ、殿様商売・・というより殿さまで弁護士業が成り立つと思い込んでいるような者は食えなくしてやることが有効のような感じもするが、一方で、やさしい試験にしか通っていない者は、やっぱりだめではないか、という面もある。(早い話が、司法試験に合格しないで裏口入学みたいに「検察官」やってる「副検事」なんて、だめでしょ。 あれは、しろうとに専門職をさせているようなものであり、ひどすぎるけれども・・。) 柴田孝之が『東京大学機械的合格法』の中で、能力も優れていて人間的にも良心的な教師というのは、多くの人が思っているよりはるかに少ない、というようなことを述べていたと思うが、これは、弁護士にもあてはまるように思う。 
  その問題は、たとえ、20万、30万のために100万のカネをかけてでも闘わなければならない問題なのか、それとも、最低でもかける費用を相手方から取れる額が上回るようでなければやる価値のない問題なのか、どちらなのかという思考、能力的に優秀で人間的にも良心的であるとはいえない裁判官がまともな判決を出さない可能性が十分にあっても、自分として主張すべきことはきっちりと述べておくことが国民の義務であり、歴史が正義を宣告するかもしれないし、それすらもならないかもしれないが、たとえ、そうであっても、きっちりと述べるべきものはのべておかないといけないという考え方を、できているかできていないか、そういう思考が理解できるかできないか、という点において、裁判官や弁護士になる方向に人生を歩まなかった私よりも、ずっとできていない、理解できていない人が弁護士には多い。

   便後死 と書くと、なんか、きたなそ~う・・・・。 そういう汚らしい表現でもしてやった方が似合いではないかと思える弁護士が少なくないと思う。 
   遵法精神を弁護士に求めるのは八百屋で魚を求めるようなもの・・・・・
    遵法精神を裁判官に求めるのは八百屋で魚を求めるようなもの・・・・・
 とまではいかないか・・・・、それとも、とうに、そうなっているか・・・・・・・。

(もうすぐ、選挙があるようだが、おそらく、「弁護士」とか「女性弁護士」とかを売り物にして選挙に出る候補者が何人か出てくることだろう。 弁護士というのは、現在の社会において存在する職業ではあるけれども、裁判などの業務と関係のない場所において、その職業についているからということで売り物にするような性質のものでもないと思う。 「女性の弁護士」も「女性の建築士」とともに、今は珍しくもない。 その職業についている過程において、このような経験をした、このようなことをしてきたというなら、それを主張してもよいとは思うが、単に「弁護士」だからと言われても、だから、なんなの? と思う。 思いませんか? )
           (2012.11.22.)  
 







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