「どの点をどのように」と述べず単に「変える」と連呼の政治家に警戒せよ!

〔第58回〕 2001年に小泉純一郎が総理大臣になり、「自民党をぶっこわす」「自民党は改革政党になった」「構造改革」といった文句を言った時、少しだけは期待したのです。 いくらか、眉につばをつけては見ましたが、それでも、少しだけは期待したのです。 
  
  どのように期待したのかというと、それまでの自民党政権というのは、党名は「自由民主党」であっても、はたして、「どこが自由でどこが民主主義か?」という問いに、きっちりと答えることができなかったと思うのです。そして、「保守」か「革新」かというと、「保守」の政党であったということなのでしょうけれども、それなら、「保守」とはどういうものか?というと、それにも、明確に答えることができなかったと思うのです。単に、政権担当政党、与党であることから、それに寄り集ってきた人たちの党でしかないのではないのか? あるいは、今までの状態を守って行くというくらいの認識しかないのではないのか?という印象を受けたのです。 それに対して、そういった「自民党をぶっこわす」と言い、そして、「改革政党」にするというのであれば、少なくとも、なんらかの考えを持って問題提起しようというものがあるのかもしれない・・・と、片方で眉につばをつけるところはあっても、片方で、少しは期待したのです。 しかし、日月が経つにつれ、ちょっと違うんじゃないのか?と思うようになってしまったのです。

  まず、「保守」と「革新」と「反動」はどう違うのか、ということを簡単に整理してみたいと思います。 人間の社会は、経済史的に見た時、奴隷制経済・封建制経済・資本制経済と移り変わり、そして、「社会主義経済」の国が出現したのですが、「社会主義経済」を「進歩」ととらえるべきかどうかについての認識は人によって異なっていました。
  日本という国は、封建制の要素を部分的に残した資本制経済の国であったと思います。 世界の多くの資本制経済を取る国において、矛盾・問題点が認められました。 それを解決するにはどうすれば良いのかという問題において、カール=マルクスさんという方は、資本制という経済体制を打倒して、社会主義の経済とするべきであると主張されたわけです。 一方で、マルクスさんの後、マックス=ウェーバーさんという方は、資本制経済というのは大変な重病人であり問題点は多いけれども、プロレタリア革命によって社会主義の経済体制にするというのは解決にならない、処方箋にならないと言われたのです。マルクスさんの主張に沿って、社会主義の国にするという選択をした国があったのですが、その選択をしなかった国もありました。 1991年にソビエト連邦が解体され、その後、社会主義の経済体制を選択をしていたソ連以外の国も、資本制経済へ移行する国が続出し、中国のように、今も共産党と名乗る政党が政権を取っているといっても、社会主義なのか資本主義なのかわからないような国もでてきました。 「資本主義」という呼び方を取ることがありますが、経済史の流れとして見るならば、奴隷制→封建制→資本制という流れは、主義主張からのものではなく、「社会主義」が資本制の経済を打倒して社会主義経済とするべきであるという主義主張によるものであるのに対して、資本制経済は主義主張から生まれたものではないので、「資本主義」と呼ぶよりも、「資本制社会」とか「資本制生産社会」といった呼び方の方が適切でしょう。 もっとも、社会主義の経済を選択するのではなく、資本制の経済を維持した方が民主主義社会の実現に良いという主義主張であるならば「資本制経済」「資本制生産社会」ではなく「資本主義」という用語を使ってもおかしくないでしょう。
  1991年12月にソビエト連邦が崩壊した時、社会主義は全体主義で資本主義こそ理想的な社会体制であるかのような論調のものがでましたが、その時、電車内で、たしか、「朝日ジャーナル」の中吊り広告であったと思うのですが、近代経済学の側の経済学者であるジョン=ケネス=ガルブレイズが、「資本主義が勝利したわけではない」という論文を発表したのを見、ガルブレイズはさすがだと思ったものです。 資本制経済を打倒しさえすれば問題は解決するのではないとしても、だからといって、資本制経済であれば問題点がないわけではないのです。 依然として、資本制経済をとる国において、問題点はあるのです。 
  1990年10月、ソ連崩壊に先立ち、社会主義の東ドイツ(ドイツ民主共和国)と資本制の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が資本制の西ドイツに社会主義の東ドイツが併合されるような形・吸収されるような形でドイツ統一(再統一)がされましたが、その際、アメリカ合衆国のニューヨークフィルハーモニック管弦楽団の指揮者・レナード=バーンスタインが、ベートーベンの交響曲第9番「合唱付き」を演奏したレーザーディスクが販売され、「ドイツ統一の喜びの歌」というコピーがつけられていたのを見ました。 ドイツという国が2つに分かれた状態にあるのは不自然であり、ドイツの方は統一を望んでこられたでしょうけれども、西ドイツへ東ドイツが併合・吸収されるような形での統一というものを無条件に喜んでよいのか、「統一」後、特に東ドイツの地域はどうなるのか、ドイツ民族の国としてはオーストリアもドイツ民族の国であるわけですが、オーストリアもドイツと同じ国になるべきなのか、現在、ロシア連邦領になっているカリーニングラード(ケーニヒスベルク)とその周辺の地域についてはどうなるのか、あるいは、ドイツが戦後2つに分けられたのは米ソの都合だけではなくヨーロッパの周辺諸国の都合でもあり、ドイツはヨーロッパの中央にあって、東西に2つに分かれていた状態でそれで周囲の国とバランスが取れるのであって、東西ドイツが一緒になると周辺諸国に比べてドイツは強大すぎてヨーロッパの周辺国にとって脅威になるのではないかといった、そういったことをまったく考えもせず、「喜びの歌」などといってベートーベンの第9交響曲を演奏しているあたり、バーンスタインという男は、しょせん、ロマン=ロランが『ジャン=クリストフ』(岩波文庫他)で、主人公ジャン=クリストフの部分的にモデルとし、英雄と評価したベートーベンの曲を演奏するよりも、『ウエストサイド物語』くらいを作曲して演奏しているのが似合いの軽い男だということか・・・・・といったことを思ったのでした。 そして、ソ連崩壊の時、バーンスタインと同じユダヤ系アメリカ合衆国人であっても、ガルブレイズはさすがだとも思ったのでした。 ソ連型社会主義が理想的な状態になっていなかったとしても、だからといって、資本制の経済を取る国において、問題点がないことになるわけではないのです。
 〔なお、資本制経済についてのマルクスとウェーバーの認識については、カール=レビット『ウェーバーとマルクス』(未来社)参照〕

  自民党単独政権が続いた時、「保守」と「反動」を同じだと思っている人がありました。 しかし、違うのです。 「保守」というのは、資本制経済を維持した上で自由で民主主義の社会を実現し、社会の問題点を資本制経済を維持した上で解決していこうという立場、社会の問題点を解決していくのに、資本制経済を打倒して社会主義経済の国にするよりも、資本制を維持した上での方が解決できる、資本制を維持した上で十分解決していけるという立場が「保守」であるはずなのです。 問題点があっても、それを解決しようとしない、あるいは、過去に良くないことだとして否定されたものを、またもや復活させようというのは、それは「保守」ではなく「反動」であり、「保守」と「反動」は同じではないのです。 「革新」というのは、その経緯をどうするかはさておき、資本制社会の問題点の解決には、究極的には資本制経済を打倒して社会主義の社会を実現するべきであるとするのが「革新」の立場です。自由で民主で豊かな社会の実現のために、究極的には社会主義の経済を取るべきであるとするのが「革新」の立場で、資本制経済を維持した上で、十分、自由で民主主義で豊かな社会を実現できるとするのが「保守」の立場であるはずなのです。 
  もっとも、ソ連崩壊の時、ソ連において、それまでのソ連の共産党によるソ連型社会主義を維持しようとする人たちのことを「保守派」と呼んだ時があり、そうなると、どちらが「保守」でどちらが「革新」なのかわからなくなってしまうのですが、ソ連はともかく、日本においては、資本制の経済を維持した上で問題点を解決していこうとする立場を「保守」、究極的には社会主義の社会として方が自由で民主主義で豊かな社会を築くことができるとする立場を「革新」として考えて良いでしょう。
  そうした時に、戦後の自民党の人たちというのは、「保守」というに値したか? という疑問があるわけです。 自民党の少なくない人たちというのは、「保守」ではなく「反動」であったのではないのか?ということです。

  小泉信三『共産主義批判の常識』(1976.6.30. 講談社学術文庫)の昭和24年(1949年)2月中旬に著されたという「序」において、近代経済学者であり、上記の用語で言えば「保守」の立場にあった慶應義塾大塾長の小泉信三は、≪ 本書の本文脱稿とこの序文執筆の今日との間に総選挙が行われ、日本共産党の著しい進出が現れた。 この成功は諸般の外面的事情のほか、彼らが理論と組織とそうしてある気概とを持つことによることは、何人も認めなければならぬ。 私は本書で彼らの奉ずる根本理論の容認し難き所以を説いたものであるが、しかも彼らに反対する諸政党が、あるものは理論を欠き、あるものは気概なく、而してその国民の前に示す実践行動が総じて卑俗低調の譏りを免れないことは、いかにも弁護のしようがない。 彼らが今翻然として勉強に志し、確固たる理論とそれに基づく自信ある政策とをもつにいたるのでなければ、知識教養あるわが青年は、現状否定者以外には何処にも心を寄せるべき処を持たぬこととなるであろう。・・・≫と述べていますが、戦後の歴代の自民党政権は、自民党の議員さんたちは、この指摘に対して、そうでないと胸を張って言えるか? というと、言えないのではありませんか。 

  私が、小泉純一郎の内閣が誕生して、「自民党をぶっこわす」「自民党は改革政党になった」「構造改革」と言った時、 ≪あるものは理論を欠き、あるものは気概なく、而してその国民の前に示す実践行動が総じて卑俗低調の譏りを免れない≫ような、自民党のそういう状態を「ぶっこわす」、「理論」と「気概」をもって「国民の前に示す実践行動」が十分に価値を認められるようなものとなることを、もしも、期待できるのであれば、まったく問題がないかどうかはさておき、それまでの自民党政権よりも良い政権が生まれる希望が持てるかもしれないと思ったのです。そういう期待を少しは持ったのです。
  しかし、小泉内閣のその後は、自分たちの主張については「構造改革」と言い、そして、それに反対する者は、右も左もおかまいなしに「抵抗勢力」とののしるという手法であり、これでは、ナチズム・ファシズムと変わらない、ヒトラーと同等の手法ではないのか、と思い、がっかりさせられてしまったのです。 そして、「自民党をぶっこわす」という文句自体は今のところ現実にはなっていないものの、小泉内閣の後、短命の安倍・福田・麻生内閣をはさんで、自民党は政権を失うことになりました。
  「郵政民営化」の問題にしても、なぜ、民営化するべきだと考えるのか、国営・公営では、なぜだめなのか、といったことについて、その主張を国民の前にわかりやすく説明したか、それとも、自分の側を「構造改革」と言い、反対する者に対しては右も左もおかまいなしに「抵抗勢力」とののしったか、どちらの態度を取ったかというと、後者であったはずです。 いや、民営化のメリットについて説明したと言うかもしれませんが、たとえ、説明した時があったとしても、普通に生活して、普通に新聞を見て、普通にテレビを見てきた国民にとって、「構造改革」「抵抗勢力」「構造改革」「抵抗勢力」という文句の連呼と、具体的な説明と、どちらを多く見ることになったか、どちらを多く聞くことになったかということを考えてみるべきです。 「構造改革」「抵抗勢力」「構造改革」「抵抗勢力」という文句ばかりが矢鱈と耳に残ったのではありませんか?
  小泉内閣の後、安倍晋三をはさんで、福田康夫が総理大臣になった時、たしか「朝日新聞」であったと思うのですが、「国民は小泉内閣の絶叫型の政治に疲れた」という文句を見ました。 そうかもしれません。

  ところが、その、何をやるのかはよくわからないけれども、何かやりそうという期待感を持たせた小泉純一郎の内閣の態度を、その後、民主党がやりだしたように思うのです。 何年か前に、京都に行った時、どう考えても、民主党の中では改革派に思えない京都府を選挙区とする前原誠司のポスターに「私は変える」と書かれていたのを見ました。 「変える」て、いったい、何をどう変えるのですか? 良い方向に変えるのか、悪い方向に変えるのか、どちらですか? それを教えてもらわないと、単に「変える」と言われても、それをプラスに評価して良いのかマイナスに評価するべきなのか判断つかないじゃないですか。 ところが、少なくとも、そのポスターには、単に「私は変える」とのみ書かれていたのです。
  前原誠司だけではありません。 千葉県船橋市での野田佳彦のポスターにも、やはり、「変える」だか「私は変える」だかいうようにのみ書かれていたと思います。 何をどう変えるというのですか? 単に「変える」だけでは、どう評価して良いかわからないじゃないですか。
  そして、民主党・社民党・国民新党の連立政権が生まれ、そこから社民党が離脱しましたが、民主・社民・国民新党の連立政権が生まれてしばらくして、たしか、「週刊現代」(講談社)であったと思うのですが、中曽根康弘が「きみたちは、日本をどうしたいの?」という文章を述べていたのを見ました。 私は中曽根康弘なんぞ、支持していませんが、しかし、この文句については、私も、中曽根氏と同じく、あんたたち、いったい、どうしたいの? いったい、どうしたいわけ? と思いました。
  結局、自民党は与党として利権に集まっただけの人たちの政党であったのに対して、民主党も反自民で集まっただけの寄せ集めの政党で、党としての理論や気概をきっちりと持つに至ることはできなかったということなのでしょうか。

  何をどうするのかよくわからないけれども、何かしてくれそう、何か今より良くしてくれそう、という期待感を国民に持たせて、支持を得ようという態度は、小泉純一郎の時の自民党から、その後の民主党に引き継がれたように思います。 そして、今でも、「変える」「私は変える」と言えば、支持してもらえるのではないかと思っている政治家がいるようです。 
  でも、もうやめましょうよ。 どの点をどう変えようというのか、なぜ、そう変えようと考えるのか、そう変えるとどのようなメリットがあるのか、といったことを具体的に述べることなく、「変える」「私は変える」と連呼するのは、自民党であれ民主党であれ何党であれ、もうやめましょうよ。

  福島第一原発の事故の対応において、菅直人内閣の対応に最適でないものがあったというのは、間違いないと思うのですが、しかし、菅直人氏を総理大臣から降ろそうとしている人たちというのが、菅直人氏よりまともな人を総理大臣につけようとしているのか、菅直人氏よりもより問題のある人間を総理大臣につけようとしているのか、どのような人に「変える」つもりで、菅直人氏を総理大臣から降ろそうとしているのか、はっきりしない、国民の前に明らかにしないのです。 菅直人氏の対応が最適だとは思わないのですが、菅直人氏から総理をどのような人に「変える」つもりなのか、国民の前にはっきりと示さずに、単に、総理大臣を「変える」ことを主張する人たちの方が、国民に対して無責任のように思えるのです。
  ルポライターの鎌田慧氏の「僕は原発を止められなかった」という文章が「週刊現代」2011.7.9.号に掲載されていますが、その中で、鎌田慧氏は、≪ 今回の事故で、さすがに新たに原発を作るのは不可能になったと思います。ただ、原発を生き残らせたい勢力は、そう簡単にはなくならないでしょう。 先日、否決こそされましたが、菅内閣に不信任案が突きつけられました。 僕はあの背後にも電力会社や原発政策を進めたい政治家、役人の力の存在を感じてしまうのです。 というのも、あの政変自体、菅首相が電力会社の9社独占体制を改める、発・送電分離を口にした途端に始まったからです。  ・・・・≫と述べています。おそらく、そんなところでしょう。
  
  いつであったか忘れてしまいましたが、何の雑誌であったか、ある新興宗教の女性教祖について書かれていた記事があり、その女性教祖は、自営業の社長などに、「白紙の小切手をお供えすると、白蛇さまは喜ばれます。」などと言ったといい、それを目撃した人が、知り合いの自営業の社長に、「あかんで、あかんで。絶対にそんなもの、お供えなんかしたらあかんで。 えらい目にあうで。」と言ったと書かれていました。 その新興宗教がどういう団体であったかは、残念ながら覚えていません。
  どの点をどのように変えようと考えているのか、そのように変えると、国民にとってどういうメリットがあるというのか、ということを、国民の前にきっちりと示すのでなく、単に、「変える」「私は変える」「変えよう」と連呼するだけの政治家というのは、その政治家が変えようとする方向に日本の社会を変える白紙の委任状をよこせと国民に要求しているようなものだと思いませんか? いわば、「白紙の小切手をお供えすると、白蛇さまが喜ばれます」などと言って、白紙の小切手をよこせと要求する新興宗教の教祖みたいなものと違いますか? 
  どの政党の人であれ、もしも、違うのであれば、単に「変える」「私は変える」とのみ述べるのではなく、どの点をどのように変えようと考えるのか、そのように変えると国民にとってどういうメリットがあると言うのかということを、きっちりと述べるようにしてもらいたいと思います。

  アドルフ=ヒトラーとナチスは、最初からユダヤ人虐殺をもっぱらおこなっていたわけではなく、最初は、国民の福祉といったことを言い、第1次世界大戦の敗戦とそれによる賠償金の支払いの負担にあえぐドイツにおいて、何をどうするかはわからないけれども、何かしてくれそうという期待を国民に持たせて登場して政権を取ったと言います。 何をどうしようというのか、何をどう変えようというのか、そう変えると国民にとってどういうメリットがあるのかないのか、といったことを、きっちりと述べずに、何をどうしてくれるかはわからないけれども、何かしてくれるかもしれない、という期待感だけで政権を取ろうとする者というのは、政権奪取後に、現代のヒトラーになる恐れがあります。 
  単に「変える」「私は変える」と連呼する政治家は、白蛇さまに白紙の小切手をお供えしなさいと要求する新興宗教の教祖のように、白紙の委任状を渡せと国民に要求しているような者です。 何党の人間であれ、問題が多い。 「あかんで、あかんで。そんな者に白紙の委任状なんか渡したらあかんで。えらい目にあうで。」 そのような者に、選挙においては投票するべきではないと思うし、そのような主張をした政治家は、何党の人間であれ、もしも、自分はファシズムの側の人間ではないというのであれば、内容をきっちりと示さずに「変える」「私は変える」と連呼する姿勢は改めてほしい。 私はそう思う。
               (2011.8.21.)
 どの点をどのように変えたい、そう変えると、誰にどのような効果があると考える、といったことを述べずに、単に「変える」「変えよう」と連呼する例 →http://ee-hawaii.at.webry.info/201108/article_1.html
               (2012.1.10.)

(追記)
画像

 ↑先日、京都の洛北の方に行きましたところ、民主党の前原誠司のポスターが道路脇に貼られていました。そこには、
「挑み続けます  この国の将来のために」 とのみ書かれていました。
どちらの側から、とういう相手に挑み続けるのですか? どういう立場で誰に挑み続けるのですか?
もしかして、権力の側から、国民に対して、挑み続けるのですか? 
この文句だけを見て、魅力を感じる人も、中にはあるのかもしれませんが、私は、むしろ、不安を感じます。
前原さんは、京都大学というアカデミックな日本で有数の大学を卒業した人で、民主党でも代表選挙に出るような人なのですから、あいまいにぼかした文句で人をひきつけようとするのではなく、自分は何をどうしたいと考えているのか。そうすると、誰にとってどういう結果となると考えられるのか、といったことを具体的に述べていただきたいと思います。
前原さんは何に挑むのでしょうか? 誰に挑むのでしょうか? 前原さんは、政治家としては、まだ若い方の人ですから、今後、国民のためになる政治家としての人生を歩むのか、国民に敵対する側の政治家として歩むのか、これから、それが問われることになると思います。 国民のために歩む政治家となられる方を希望したいと思います。
「すべての国民の将来のために」 ではなく 「(この)国の将来のために」 となっている点も気にかかります。            (2011.12.8.)

☆ 続編として、〔第82回〕《 「どじょうかりんとう」に思う-「変えよう」と言い続けるのは何をどう変えるとどうなると見解がないから? 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201201/article_2.htmlを作成・公開いたしました。ぜひ、〔第82回〕もごらんくださいませ。 (2012.1.10.)


(追記) 「YAHOO!ニュース に、「週刊東洋経済」2012年1月14日号 掲載の、橋下徹の「大阪都構想」に関する問題と、選挙における橋下の発言が掲載されていた。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 空虚な「大阪都構想」、展望なき危ない賭け
東洋経済オンライン 1月19日(木)11時4分配信  http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120119-00000000-toyo-bus_all
   地域政党「大阪維新の会」を率いて、大阪市長・府知事ダブル選を制した橋下徹大阪市長は12月の就任早々から市政改革を本格化している。看板公約である「大阪都構想」の実現に向けた動きが、選挙の勝利という「民意」を得て一気に加速、と誰の目にも映る。ところが、そもそも大阪再生のためと唱えた「都構想」とはいったい何なのか。大阪の住民は、多くを知らされていない。
・・・・・・
 ・・・・日雇い労働者の町として知られる、あいりん地区を抱える西成区選出の柳本顕・大阪市会議員は「大阪市が複数の基礎自治体に分割されたら、それぞれの自治体が本当に自立できるのか」と問いただす。区の施設や機能が必要になるし、区長も議員も置けば、行政コストが増える可能性すらある。さらに「(大阪市をバラバラにすれば必ず発生する)財政が豊かな区とそうでない区の財政格差をどのように調整するつもりなのか」(柳本市議)。
・・・・・
  ・・・大阪維新の会は、財政調整制度によって各区の財政格差を解決するとしている。・・・・
だが、全区が納得する振り分けはできないだろう。税収の多い区ほど調整金を多く要求するのは必至。・・・・
財政調整制度には、さらに問題点がある。調整交付金に地方交付税や臨時財政対策債を組み込んでいることだ。・・・
 お手本の東京都は、大企業の本社が集中し、日本でも突出して税収が潤沢なため、地方交付税を受けていない。したがって、こうした問題は発生しない。これに対して大阪市は毎年、臨時財政対策債を含めれば500億円、大阪府は3000億円規模を地方交付税に頼る。あるメディアは、大阪都構想を「東京都と匹敵する大阪を作る」と報じたが、同じ「都」の名前になっても財源の大きな格差を埋め合わせることはできない。
・・・・・・・・・
  大阪都構想について、中身の検討も住民への周知も置き去りにしたまま、 ダブル選に突入。批判や疑念は、希代の発信力の持ち主である橋下徹氏の「大阪を変えるんですか?変えないんですか?」のキメぜりふ一言で、すべてひっくり返された。一刻も早く、都構想に関する論議を起こし「大阪都イコール大阪再生」といった幻想から目覚め、現実を直視する必要がある。
(鶴見昌憲=週刊東洋経済2012年1月14日号)
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
  誰であれ、どの政党の候補者・政治家であれ、その主張の内容をきっちりと示さず、単に「変える」とか、「変えよう」とか、あるいは、「変えるんですか?変えないんですか?」という文句のみを連呼するのは慎むべきだ。 又、国民は、誰であれ、どの政党の候補者であれ、きっちりと内容を示さずに、「変える」「変えよう」「変えるんですか?変えないんですか?」といった文句を連呼する「ファシズム型」の政治家に簡単に心を許してはならない。 単に「変える」「変えよう」「変えるんですか?変えないんですか?」といった文句を繰り返す政治家が評価されるようでは、その国の国民は文化的に十分に成熟していないと言わざるをえない。 日本国民は、自分たちが、十分に文化的に成熟しているかどうか、民主主義の立場に立っているかどうか、もう一度、よく考えてみるべきであり、よく考えずに「ファシズム型」の政治家を増やすようでは、その分だけ、将来は明るくないということになる。
          (2012.2.11.)





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