慎腹風呂愚

アクセスカウンタ

zoom RSS 淀屋橋から中之島東部、その周辺の建築。及、思考の堅さを「思考の柔軟さ」と主張する慶應ボーイ!

<<   作成日時 : 2017/04/04 20:06   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

[第536回]
    東京圏の人間には、関西嫌い、大阪嫌いの人間がけっこうおり、そういう人間には、「大阪なんて何もない」などと自分が知らないだけなのに言う勝手な者がけっこういます。 東京もん がそういうことを言うのなら、アホはほっとけ! と考えるしかないのかもしれませんが、大阪府北部の市立中学校で1年の時に、「地理」の先生が、「京都とか神戸とかなら、観光地とか見るような所があるけれども、大阪は大阪城くらいのもので、何もないやろ」と授業中に発言したことがあり、その時、私は「愛国心から」、「ええ? 通天閣があるのと違いますか」と言ったのだが、そうすると、「こら、こら、こら。阪田三吉か」と言われて、なんで、通天閣ではいけないのか? と思うとともに、そりぁ、誰だ? と思ったことがありました。阪田三吉とは棋士で通天閣の下のあたりに「王将」の碑があるそうです。阪田三吉はここでは重要ではなく、問題は、大阪の人間で、かつ、「地理」を教えているような人が「大阪は何もないやろ」などと発言する、しかも、「地理」の授業中に発言するというのは、他の部分で真面目に授業をして尽力する先生であったとしても、この部分についてはいかがなものか、と思います。 大阪の人間で、「地理」を教えているような人がそういうことは言わないでもらいたいように思います。
    もっとも、大阪の人間にしても、京都や奈良はお寺があって神社があってする所であるのに対して、基本的には大阪は「働きに行く所」であり、その点では、大阪は「観光に行く所」ではないような面はあります。大阪市で生まれた私にしても、子供の頃、休日にどこかへ遊びに行くとすると、生駒山とか玉手山とか、箕面の滝とか、そういう郊外、大阪市内であれば、弁天町の交通科学館(今はない)、四ツ橋の電気科学館(現・市立科学館)、天王寺動物園とか、そういう人為的に作った場所でした。しかし、「子供の頃」はそれでもしかたがないとしても、成人してまでそれでは情けない。
   (株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_content=itijoukoumuten_EM&utm_campaign=simei にいました時、東京もんのおっさんが「大阪なんて、な〜んにもない」とか言うおっさんがいましたが、そのおっさんは、もともと、「右派」であり、あんまり賢くないネトウヨの手前みたいな人が何を言おうがいちいち気にする必要はないのですが、東京もんにはそんなこと思っている人間がけっこういます。なぜ、そう思うかというと、東京もんで知的水準がそれほど高くない人というのは、関西、特に大阪が嫌いだからです。なぜ、嫌いなのか、と「大阪愛」に燃える人には誤解を解こうと空しい努力をする人がいますが、無駄です。彼らの大阪嫌いに理屈なんかないのですから。 彼らは大阪だけが嫌いであるわけではなく、関西全体が嫌いなのですが、桂離宮とか清水寺とか金閣とか銀閣とかを否定できないし、東大寺や法隆寺も否定できないので、それで、「京都なんて、な〜んにもない」とか「奈良なんて、な〜んにもない」とは言えないのです。
    私は、いつしか、東京もんのおっさんと大阪についての話をするのが嫌になりました。なにしろ、東京もんのおっさんが、仕事でではなく、個人的に1泊2日で大阪に行ってきたとかいう時、「大阪のどこに行ってきましたか?」と尋ねた時、返ってくる地名は、ダントツ1位で「飛田新地」。 そして、彼らは言うのです。「大阪ってすごい所だねえ」と、そして、「大阪の人間てすごいねえ」と、そう言うのです。大阪出身の私に向かって、大阪で生まれ育っても、いまだかつて飛田新地なんて行ったこともないし、どこにあるのかもよく知らない人間に向かって。自分が東京からわざわざピンポイントで飛田新地だけ行ってきたくせに、飛田新地が大阪だと決めつけて「大阪ってすごい所だねえ」などと言い、飛田新地に行ってきたのは自分であって「大阪の人間」ではないのに「大阪の人間」のせいにして「大阪の人間てすごいねえ」とか言うのです。彼ら、東京もんのおっさんにとっては、「大阪」とは「飛田新地」のことなんです。「すごい」のは「大阪の人間」ではなく、頭の中身が飛田新地でできている東京もんのおっさんの方ではないかと思います。
   雁屋哲 作・花咲アキラ 画『美味しんぼ』は、なかなか面白いと思っていますが、しかし、「日本全県味めぐり」の大阪の回のものについては、もともと、雁屋哲自身が関西でも京都などは嫌いではないものの、大阪は好きになろうと努力はしているようですが好きではないらしいこともあり、必ずしもきっちりと理解しているとは思えません。鶴橋の在日韓国人の人たちが住んでいる地域に行って、在日韓国人の人たちの料理を「大阪の料理」にしていますが、在日韓国人の人たちの人口が最も多い都道府県は大阪府ですが、しかし、大阪府だけに在日韓国人の人たちが住んでいるわけではなく、東京圏にも住んでいますし、大阪の人間は誰もが在日韓国人ではありません。ヤフーニュースのコメント欄なんか見ますと、ネトウヨは大阪嫌いみたいで、中国・韓国が嫌いで、かつ、大阪嫌いのネトウヨは、大阪の人間は誰もが在日韓国人みたいな書き方をする時がしばしばありますが、そのコメントを入れている人が住んでいる地域にも在日韓国人の人は住んでいると思いますよ。 在日韓国人の人たちの料理をとりあげて悪いということはないのですが、しかし、大阪市に住んでいる人でも在日韓国人の料理というのはそうでない一般の日本人である大阪の人間、特に比較的古くから大阪に住んでいる人間の食事とは別のはずです。 ですから、東大卒で、「食」についても相当の理解がある雁屋哲も、「東京もん」であるがゆえに、そのあたりについての理解が適切とは言えないように感じる部分がありました。
   10年ほど前でしたでしょうか。千葉県市川市と船橋市の境目付近のリフォーム屋に応募した際、予定をきかれて、大阪に行く用事があったのでそれを話すと、社長が「あ、串カツ食って来るんですね」と言うので、「はあ?」と思ったことがありました。 私は小学校の途中まで大阪市の東住吉区に住み、小学校の途中から大阪府の北摂地区に移りましたが、いずれの住居の近くにも串カツ屋なんかないし、電車で通学した阪急「十三」駅から西に歩いていったあたりの北野高校の周囲にも串カツ屋なんか1軒もないし、逆に東京にも横浜にも串カツの店くらいあるし、慶應義塾大の教養課程がある日吉キャンパスの最寄駅の「日吉」駅の大学と逆側にあったカツ料理の店の串カツ定食はなかなかおいしかったのを覚えています。 なんで、大阪に行くと、串カツ食わなきゃならんのだ? どうも、「新世界」と言われる地域の串カツ屋が観光に力を入れて売り出したおかげで、最近は、梅田駅界隈にも串カツ屋ができたりしていますが、大阪の人間は毎日串カツ食ってるわけではないし、ましてや、毎日、たこ焼き食ってるわけでもないのです。東京もんの「大阪⇒串カツ」というその単細胞思考、なんとかならんもんか、と思うのですが、なんともならんようなので、我慢してやるしかないようです。
   ついでに、慶應義塾大学に行った時、東京生まれの慶應の学生は、「・・・・じゃねえかよお」とかそういう言葉を「東京弁」と言うと怒るのです。「標準語じゃないか。大阪の人間は標準語を標準語と認めたがらないから。そのあたりが大阪はイナカなんだ」とか言うのです。 何を言ってんだ! 「・・・じゃねえかよお」とか「かったるい」というのは「東京弁」だろうが。 そんな「標準語」があるか! 「標準語」というのは、テレビのニュースでアナウンサーが話しているような全国共通の言葉を「標準語」と言うのであって、東京の人間しか話さないようなスラングは「東京弁」だろうが・・・・と言うと東京もんは怒るのです。 何を怒るのかようわからんのですが、いちいち相手にすると疲れるので、逆らわないようにしますが、「・・・・じゃねえかよお」なんて「標準語」であるわけないのに、それを「標準語」だと言い張ってきかない「慶應ボーイ」は間違いなくイナカモンだと思いますね。福沢諭吉は、「イナカモノという言葉には2通りの意味がある。田舎出身という意味でのイナカモノは、これは別に悪いことはない。 しかし、精神面がイナカモノというのは、これは良くない」と語ったというのですが、このテの「慶應ボーイ」というのは、「精神面がイナカモノ」だと私は思います・・・・が、言うと彼らは怒るので、心の中で思っていても、口に出さずにおいた方がいいかもしれません。
   もう、90を過ぎてしまった母が、今になって、「息子が『勉強する子』だったおかげで、一緒に、ずいぶんといろいろな所に行けた」と言って喜んでいます。私が小学校の4年の時、「京都でどこに行きたい?」ときいたら、「広隆寺」と言うので、この子は小学生なのに広隆寺に行きたいのかと思い、そのおかげで、弥勒菩薩像が有名な広隆寺に行くことができたというのです。 なぜ、その時、広隆寺に行きたいと言ったかというと、小学校の先生が、広隆寺の弥勒菩薩像のことを授業中に話されたからだったのですけれども。 まだ、母が元気だったころ、東京圏で育ったはたちを過ぎた頃の姪が大阪に来るというので、「大阪のどこに行きたい?」と尋ねたら、「食い倒れ」と言いやがったというので、アホかと思ったと言っていたことがありましたが、東京もんで「勉強する子」でない人間はそんなものなのでしょう。東京もんには、京都なら東本願寺・西本願寺もあれば、平等院もあり、三十三間堂もあるが大阪にはそういう史跡はないとか勝手に決めつける人がいますが、そういう人というのは、四天王寺とか住吉大社とか、「仁徳天皇陵」(実際は、仁徳天皇の陵ではないという説が出てきたようで、さらに、仁徳天皇は実在しなかったという説も出てきているようですが、日本最大の前方後円墳の「仁徳天皇陵」は存在します。)とか、孝徳天皇が作ろうとした難波長柄豊碕宮跡とか、知らんのか? 飛田新地はよくよく知っていても四天王寺も住吉大社も知らんのか? というと、知らんみたいです。
   で、東京もんのおっさんの悪口は、ここでは、この程度にいたしまして、大阪市内で、明治以降で、かつ、50年以上前から存在している、洋風の建築、というと、何を思い浮かべるか・・・・というと、私は、中央公会堂ではないかと思いました。 他にも、ウィリアム=メレル=ヴォーリズが設計した大丸心斎橋店とか村野健吾設計の南大阪教会尖塔とかもありますが、中央公会堂というのが、大阪の人間が、とりあえず、最初に思い浮かぶものではないか。 その近辺に行ってきました。 行ってきたといっても、用事で行ったのであって、建築を見学に行ったわけではないので、写真を何枚か撮ってきましたが、じっくりと見て撮ってきたのではなく、通りがかりに撮影してきたというものですが、それをここで公開します。

    大阪市地下鉄・京阪本線「淀屋橋」駅で降りると、その北側を土佐堀川が東から西に流れ、その土佐堀川にかかる橋が「淀屋橋」
画像

↑ 淀屋橋を北に渡ると、中之島。 中之島の北側に東から西に流れる川が堂島川で、そこにかかる橋が「大江橋」。 ちなみに、地下鉄御堂筋線の「中津」と「新大阪」の間に「西中島南方」という駅があり、東京もんのおっさんが大阪に来ると、「にし なかのしま なんぽう へはどう言ったらよろしいか」とか梅田の付近で尋ねたりするようですが、「西中島南方」は「にしなかじま みなみかた」と読み、中之島(なかのしま)とは別です。
   ついでに、東京もんのおっさんは、「『吹田』は、どう考えても『ふいた』でしょ。 『すいた』と読んでほしかったら『吸田』と書くべきでしょ。 大阪の人間て頭おかしいですよね」とか言うのですが、そういう東京もんのおっさんの方こそ頭おかしいのじゃないか。 「吹田」を「すいた」と読むのが嫌なら、「吹奏楽」も「すいそうがく」と読まずに「ふいそうがく」と読めばいいじゃないですか。 そうでしょ。

   地下鉄御堂筋線「淀屋橋」駅から地上に出て北を見ると、↑の「淀屋橋」があり、その向こうに、なにやら由緒ありげな建物が見えます。 ↓
画像

↑ これは、なんじゃらほい♪ と思うと、 日本銀行 大阪支店 の建物のようです。
≪ 土佐堀川に架かる淀屋橋の西側を、北に渡って中之島に入ると、緑青の色鮮やかなルネサンス式の屋根をもつ、日本銀行大阪支店の前に出る。 江戸時代には、この辺りに島原藩(現、長崎県島原市)の大阪蔵屋敷が設けられており、明治時代には、関西財界の大御所 五代友厚(ごだいともあつ)の別邸があった所である。
  1903年(明治36)年 大阪で、第5回 内国勧業博覧会が開催されたとき、わが国の近代建築設計の第一人者 辰野金吾によって完成した。
  建物は、地下1階、地上2階・建築面積6600u・延べ床面積1万8150uを有している。1982年(昭和57)年に、外観はそのままの状態で内部の改築が行われ、現在に至っている。 ≫
(大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 (上)大阪市 豊能 三島』2007.9.28.山川出版社)


   中之島から大江橋を渡って堂島川の北側に行き、東に進みますと、
画像

↑ 大阪地方裁判所・高等裁判所。

   さらに東に、
画像

↑  大阪弁護士会館。↑↓


画像

↑  大阪地裁・高裁と大阪弁護士会館との間から中之島の中央公会堂の東にかけて堂島川にかかる橋(「鉾流橋」と言うらしい)より、大阪地裁・高裁の建物の西から中之島の大阪市役所と中之島図書館との間に、堂島川にかかる橋(「水晶橋」と言うらしい)を見る。

   中之島から(北側から)土佐堀川を隔てて見た 中央公会堂
画像

   北東側から見た 中央公会堂↓
画像

   南側から見た 中央公会堂↓
画像


   ≪ 府立中之島図書館から東に約100m歩くと、大正浪漫を彷彿させる赤レンガ造りの美しい建物、大阪市中央公会堂がある。 開館は1918(大正7)年、明治時代の株式仲買人 岩本栄之助が大阪市に寄付した100万円を基金にして、気鋭の建築家 岡田信一郎の案をもとに、日本銀行や東京駅の設計を手掛けた辰野金吾らの指導により、5年5カ月の歳月をかけて完成した。
   この建物は、地上3階、地下1階の構造をもち、正面大アーチの屋根に、商業神「メルキュール」と、科学・工芸・平和の象徴「ミネルヴァ」の神像を設置し、ステンドグラスで飾るという「復興式中準パラデアン式」で、ネオ・ルネサンス式とよばれる建築様式になっている。 壮大さのなかに、優雅さ、華やかさ、やわらぎを醸し出し、3階の特別室(貴賓室)の天井と壁面を飾る松岡壽(まつおか ひさし)の作品「天地開闢」や、同じ階にある木調の丹青なたたずまいの小集会室、シャンデリアの輝く中集会室に連なる華麗な美の創造の世界となっている。
    1階は大集会室で、2000人以上の収容数を誇り、開館記念講演会が、1918(大正7)年11月22・23に打ち、「憲政の神様」と称された尾崎幸雄や林毅陸(はやし きろく)ら、政治家・学者を迎えて開かれた。 当日は、5000人におよぶ聴衆が集まったため、立見の人びとを含めて、あふれんばかりの盛況を呈した、と『大阪毎日新聞』は伝えている。 その後も、エルマンらのバイオリン演奏会、三浦環(たまき)の独唱会、ロシアやイタリアの歌劇団公演、満州国皇帝溥儀(ふぎ)の奉迎会などが開催された。
   今日の中央公会堂は、2002(平成14)年11月1日に、3年半におよぶ保存・再生工事を終えてリニューアル・オープンしたもので、創建時の優美な景観や様式をそのまま復元し、地階には、開業当初からの食堂が存続し、展示室・会議室・岩本記念室などが設けられている。 その規模は、敷地面積5641u・延べ床面積9970u(旧建物面積8425u)・建物高さは26平方メートルにおよぶ。
   1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の教訓をいかした、直下型地震にも耐えられる免震構造を施し、またスロープや段差昇降機を設置してバリアフリー化を進め、利便性・機能性の向上を図るなど、広く市民に開かれた、大規模な近代建築の保存・再生事業として注目されている。 ≫
(大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 (上)大阪市 豊能 三島』2007.9.28.山川出版社)

   中央公会堂の南側で土佐堀川(中之島の北側の川が「堂島川」で、南側の川が「土佐堀川」です)を渡り、そこから川沿いに西に言ってもいいのですが、ここは、一筋南の通りを進むことにします。 西に行くと、南側に、いかにも、「昔からの建物」て感じのが見えてきます。↓
画像

画像

↑ 緒方洪庵の「適塾」です。

≪ ・・・この江戸時代の町屋風の建物は、幕末のすぐれた医者であり、洋学研究の第一人者 緒方洪庵が、1838(天保9)年から、幕府の奥医師として江戸に迎えられる1862(文久2)年まで、24年間にわたって開いた学塾である。
   洪庵は、備中国(現、岡山県)足守藩士の子として生まれ、15歳のとき大坂に出て中天游(なかてんゆう)に学んだ後、江戸に向かい坪井信造の教えを受けた。 長崎への遊学を経て、28歳のとき、大坂で開塾する。・・・・(緒方洪庵の)誠実で温厚な性格、周囲への温かい気配り、そして学問への情熱・熱心な研究と豊かな実践力は、多くの若者を魅了し、塾生は3000人におよんだ。 越前福井が生んだ幕末の思想家 橋本佐内、『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』などの著作で知られる明治の思想家 福沢諭吉、長州藩(現、山口県)出身で、近代的な軍隊制度の創設に尽力した大村益次郎、日本赤十字社の初代社長 佐野常民(つねたみ)らが、門下生として名を連ねている。
   適塾は、木造2階建てで、敷地面積470u(間口12m・奥行39m)の地所に、建築面積285u・延べ床面積420uの構造となっている。 ・・・・
   現在の建物は、両替商 天王寺屋五兵衛の分家筋にあたる忠兵衛の持家を、洪庵が1845(弘化2)年に購入したもので、築200年を経て現在に至っている。 1940年(昭和15)年に大阪府の史跡に指定され、翌年国の史跡となり、1942年には大阪大学に寄贈された。 国の重要文化財に指定されたのは1964年のことで、1976年から5年間の解体・修復工事が行われた後、1980年5月に一般公開された。適塾の東側と西側に隣接した公園が完成したのは1986年で、今日では、適塾記念会が組織され、大阪大学適塾管理委員会に発展して、史跡保存に努めている。
   ・・・・南側には、除痘館跡・銅座後・懐徳堂跡の碑がある。 ≫
(大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 (上)大阪市 豊能 三島』2007.9.28.山川出版社)

    「淀屋橋」駅からぐるっとひと回りしただけでも、「史跡」はこれだけある。 大阪の・明治以降で・今より50年前以前に建てられた建物で・洋風の建物としては、府立中之島図書館もこの界隈にあり、今回は建築巡礼・建築探訪で行ったわけではないので、府立中之島図書館はとりあげることができませんでしたが、京都や奈良と違って戦災にあっていますから、戦争中に焼失したものが少なくありませんが、東京もんのおっさんが言うような「大阪なんて、な〜んにもない」なんてことはありません。
    今は昔、1980年代、慶應義塾大学にいやいや行った時のこと、慶應大の学生で都立日野高校卒の西だったか都立日野高校卒の西だったか都立西高校卒の日野だったかいう男(当時、20歳くらい)が、「関西は、『ぶぶづけでもどないだす』と言うから、それならと思うと、あつかましいと思われるとかそういう所が嫌いだ」とか大きな顔をして言うので、こいつ、何、言ってやがる! と思い、やっぱり、慶應の学生は頭悪いなとも思えば、西だか日野だかいう男を、なんとも、超人的に思考が固いやつだなとも思いました。又、大学というのは、何か本で読むなり人から話を聞くなりしても、実際にそうであるのかどうか、自分自身で考えるという姿勢を高校卒業までに身に着けている人間が行く所のはずであり、その基準から考えて、こんな男、大学に行く必要はないはずで、高校は義務教育ではないのだから、こんな男、高校行ったのは余計であるはずなのに、何でこんな男が大学に行っているのかとも思いましたが、そういう男が行っていました。大きな顔をして。
    「京のぶぶづけ」という話が東京もんの間では有名らしいし、全国的にもけっこう広まっていますが、まず、第一に、それは京都の話であって関西全般の話ではない。 大阪の人間でも、「『京のぶぶづけ』と言って、親切そうに見えて、実はそうでもないというところが京都の人間にはある」というのが嫌だと言う人間はあります。 しかし、その時、20代前半であったH野は、そういう経験をしたのでしょうか。 私は大阪の生まれでH野より年上ですが、大阪と京都は一続きの地域であり、父方は浄土真宗本願寺派で祖父母の遺骨は大谷本廟でお世話になっていますし、京都には何度も行っていますし、日本で一番大学が多い都道府県は東京ですが、二番目に多い都道府県は大阪府ではなく京都府であり、昔から大阪と京都は関西において役割分担して成り立ってきた都市で、京都府に住んでいる親戚や知人もありますが、私は生まれてからこのかた、「ぶぶづけでもどないだす」・・・なんて言ってもらったことなんて、一度もありません。 東京生まれで東京から神奈川県の大学である慶應大学に行った都立日野高校出身の西だったか都立西高校出身の日野だったかは、「ぶぶづけでもどないだす」なんて、京都の人間から言ってもらった経験があるのでしょうか。 それから、京都の人間だってバカじゃないですから、他の地域の人間で、そういうのを嫌だと思っている人がいるということは知っているわけで、相手が他の地域の人間だと思えば、「ぶぶづけでもどないだす」なんて、余計に言わないのじゃないかと思うのです。 大阪で生まれ育ち、京都には子供の頃から何度も行ってきた私が「ぶぶづけでもどないだす」なんて、誰からも一度も言ってもらったことがなく、あくまで、本で読んだ話としてそういうことがあるらしいと知っているだけでしかないのに、都立日野高校出身の西だったか西高校出身の日野だったかは、勝手に大阪も奈良も神戸も和歌山も京都と一緒にして、「関西はそういうところが嫌いなんだ」とか決めつけていたのです。 なんとも、思考が堅い男だなあとも思い、又、科学的思考・論理的思考能力が身についていない、大学生として優秀とは言い難い人間だとも思いました。 慶應大学にはそういう人間が男も女も多いのですが、そういう人間に限って、おのれのそういう態度・姿勢・思考を「思考が柔軟な慶大生」とか「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか勝手な主張をするのです。
   私自身が、「大阪の人間」として京都に行って、「大阪と京都の違い」として感じたのは、電車の乗り降りの際に、京都の人は「待ってくれる」、逆の見方をすると、京都の人間は急いで降りようとすると怒るのです。 小学校の低学年の頃だったと思いますが、母に連れられて京都に行き、まだ、走っていた市電に乗ったところ、な〜かなか出ない。 「まだ、出ないの?」と母にきくと、母が言ったことが、「昔から、『大阪の人間が京都の市電に乗ると、いらいらする』と言ってな。 大阪の市電は、走って行って乗らないと乗せてくれないのに対して、京都の市電は待ってくれるんや」と。 但し、「待ってくれる」とは京都の人って親切やなあ〜あ・・・・と喜んでいいかというとそうでもなく、「待ってくれる」のは自分だけではないので、「待ってくれる」京都の市電はな〜かなか目的地に着かないというお話です。 今は、京都も大阪も市電はなくなってしまい、大阪では阪堺電鉄の阪堺線とかが路面を走り、京都では京福電鉄嵐山線が一部分路面を走っていますが、大阪の市電と京都の市電の違いの話は過去の話になってしまいましたが、今でも、JRの京都駅とか山科駅、あるいは、阪急の西院・四条大宮とかで降りようとする際、大阪から行った人間は、駅に着く前からドアの前まで言っておかないと「降ろしてもらえない」と思ってドアの前まで行こうとすることが多いのですが、そうすると、京都人から「怒られる」のです。「なんやねん、おまえはあ。 みんな、降りるんやないか。なにしとんねん」とか言って。 なんやねん、おっさん、ドアからずいぶん離れた場所におるから、降りないんか思うたわ・・・と思っても、それは「大阪の人間」の思考であって、京都人の感覚では違うのです。 問題は、JRの新快速とかで山科あたりで降りようとしますと、ドアの前に京都人がいると、あせってドアの前まで行こうとすると怒られるのですが、一方、運転士とか車掌とかは京都人でない場合がありますから、ここは京都だからゆっくりしていても降ろしてもらえる・・・・なんて、安心してゆっくりしていたなら、降ろしてもらえなかった・・・なんてことになる可能性もないとは言えない。 そのあたりはさておき、電車の乗り降りについては、大阪の人間と京都の人間の感覚はけっこう違います。 このあたりについては、東京は大阪と近いと私は思っています。
    この「大阪の電車はさっさと降りないと降ろしてもらえない」のに対し「京都の電車は、駅に着くより前にドアの前まで進もうとすると怒られる」という特徴は、子供の頃から大阪に住んでいて京都にしばしば行ってきた人間は経験します・・・・が、「ぶぶづけでもどないだすぅ〜う」なんて、京都で、一度、言われてみたい気もするのですが、残念ながら、私は一度として言ってもらった経験はありません。 慶應大にいたH野は、東京生まれで東京の高校に行って東京都から神奈川県にかけてある慶應大に行って、「ぶぶづけでもどないだすぅ〜う」なんて言ってもらった経験なんかまずないはずなのに、それを、いったい、どこで仕入れてきたのかそんな話を持ち出し、なおかつ、大阪も奈良も神戸も和歌山も姫路もみんないっしょくたにして「関西は」どこでも「ぶぶづけでもどないだすぅ〜う」と言うものと決めつけていたのですが、なんとも思考が堅い、この「思考の堅さ」というのは「慶應ボーイ」の特徴なのか!?! て感じでしたが、そういう人間に限って、「思考が柔軟な慶應ボーイ」とか主張し、それを認めてあげないとうるさいのです。 あんまり、「思考が柔軟」な人間のやることではないように思えます。 H野はステューデントカウンセラーズというサークルにいたのですが、カウンセラーというのは総合的な学識とともに柔軟な思考が求められるもので、こんな思考の堅いやつに「カウンセラー」なんてできるわけないだろうが、と最初は私は思ったのですが、案外、実は「カウンセラー」なんて「そんなもん」かもしれません。
   私が、「慶應の人間て、頭が固いな」とか、「慶應の人間て、イナカモンが多いな」と思った経験はそれだけではありません。 慶應義塾大学の教養課程がある横浜市港北区日吉の東急東横線「日吉」駅の慶應義塾大学とは逆側、横浜銀行日吉支店があることから「浜銀通り」と言われた通りに山村書店という書店があった(「本屋ガイド 山村書店」http://bookstore-guide.net/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82/6859/ というのが出ているので今もあるのではないかと思いますが。)のですが↓、

↑そこに、慶應義塾大学鉄道研究会編『シティ電車』という本が置いてあったのです。 いなかも〜ん! て感じがしました。なにかと、いちいち、「シティ」とか言いたがる。慶應の特徴ですね。福沢諭吉が言うところの「精神面がイナカモノ」です。 
   今もあるかどうかわかりませんが、常磐自動車道で、茨城県北茨城市から福島県いわき市に入ってすぐの所に、「ここは首都圏 いわき」とでっかく書いた看板がかつて立っていたのです。 イナカくせえ〜え! て感じ・・・・というより、もしかして、あの看板は、笑わせようと思って立てたのか?  いわき の人間は、けっこうそういうユーモアが好きです。 もともと、いわき の人間は自分の所を「都会」だなどと言い張ろうという意識はありません。 ですから、あの看板を立てた人間は、たぶん、ユーモアのつもりで立てたのではないかと思います・・・・が、「慶應ボーイ」は違うのです。 なにかと、「シティ」とか言いたがる。 そして、それで、「都会人」だと主張したがる。 私、中学生の時、大阪大学の大学祭を見に行ったことがあり、大阪大学の鉄道研究会の展示を見せてもらったことがありますが、阪大の鉄道研究会は「シティ電車」なんて言わないですよ。 それを、 「シティ」だの「シティ電車」だのと言いたがる、言わないとおれないあたり、慶應の人間て、イナカモンが多いみたい! と思いました。それも、都会人ぶりたいイナカモンが実に多い!
   もっとも、「関西慶應義塾高校を作ろうではないか」という話が昔からあって、その度に、関西の高校出身の慶大生は、「そんなもん作って、いったい、誰が行くねん!」とバカにしていたのですが、それは作らないのに対して、「週刊現代」だったか「ポスト」だったかの記事によると、早稲田大学は、けっこう昔から北摂地区にあった摂陵高校という私立高校と提携して、早稲田摂陵高校として、「成績上位30%に入れば早稲田大学に推薦入学で入れる」という条件を「売り」にしたらしいのですが、入学説明会では父兄から「30%に入らなければどうなるのですか」という質問が出たらしい。 週刊誌の記者は、  どうも、早稲田大学の人間は自分の所を「東大の次」みたいに思っているらしく、「上位30%に入れば早稲田大学に推薦入学で行ける」と言えば相手は大喜びするだろうみたいに思っているらしいが、関西人の感覚はそうではない。 関西の人間は、早稲田大学なんて、「関関同立と同じくらい」か、「もしかすると、関関同立よりちょびっとだけ上かもしれない」くらいにしか考えていない。 また、「上位30%に入れば早稲田大学に推薦入学できる」よりも、「ほぼ全員が一般入試で関関同立くらいに行ける」という方が関西人にとってはありがたい、ということが、どうも、早稲田の人間はわかってないみたい・・・と書いていた。 そのあたりを見ると、慶應の人間は、いつもいつも、「関西慶應義塾高校を作ろうではないか」と言うだけで作らず、神奈川県の藤沢に作ったというあたり、マーケティング能力があるのかもしれない? そのあたり、慶應の人間の方が賢い? ・・・・というより、慶應大に入学時にもらった本に、昔、京都だったか大阪だったかに、一時、慶應の高校があった時があったが、京都だか大阪だかの公立高校との競争に負けて撤退したということがあったそうな・・・。 その経験を生かしてか、現実を知っているらしいあたりは、慶應の人間は早稲田の人間よりも賢い???  まあ、「どっちもどっち」ではないのかという見方もあるようですが・・・・。

    今回は、この近辺に用事があって行ったものですが、東京もんのおっさんの「関西嫌い」「大阪嫌い」と、自分が知らないくせに「大阪なんてな〜んにもない」とか言ったり、自分がピンポイントで飛田新地だけ行ってきたくせに「大阪の人間ってすごいねえ〜え」などと言ってみたりする態度には、在東京圏関西人(「日本とは東京のことだ」と信念もってる東京もんからすれば、「在日関西人」)としては、あんまり気分がいいものではありませんね。
    「『ぶぶづけでもどないだすぅ〜う』と言われて、せっかく言ってもらったんだから食べさせてもらおうかとすると、あつかましいと言われるとか、そういうのが関西は嫌いだ」とか、おのれが、実際に経験したわけでもないのに、かつ、大阪も奈良も神戸も和歌山も勝手に京都と一緒にしてしまう非科学的態度・非論理的態度・非学問的態度、かつ、それを「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか言い張るあつかましさと思考の堅さ、及び、それを批判すると「思考の堅さが気にかかります」とか批判する人間は「思考の堅さ」のある人間だと決めつける傲慢な態度、そういう人間を尊重したがる慶應の伝統というのは、あんまりいいとは思えないですね・・・・。
    (2017.4.4.)

画像

↑ 淀屋橋の南側から北を見ると・・・
[向こうの背の高いビル] あいおい日生同和損保フェニックスタワー。 地上29階・塔屋1階・地下3階。
鉄骨造(一部、鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造)
設計:日建設計、梓設計。 
施工:鹿島建設、熊谷組、佐藤建設、長谷川工務店、その他共同企業体
1991.着工、 1995.開業。
[正面の手前] リゾートトラスト御堂筋ビル(1983.〜1984.) 地上20階・地下1階。 鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC)。

※ 《大阪 オフィスナビ リゾートトラスト御堂筋ビル》http://www.office-navi-osaka.jp/office/01003140/4
《ウィキペディア―あいおいニッセイ同和損保フェニックスタワー》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%8A%E3%81%84%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4%E5%90%8C%E5%92%8C%E6%90%8D%E4%BF%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
↑ 「旗」マークが、あいおいニッセイ同和損保フェニックスタワー。

   「あいおいニッセイ同和損保フェニックスタワー」のさらに北側に、[第225回]《露天神社(つゆのてんじんじゃ)(お初天神)参拝【上】鳥居・社殿・露の井・お初 徳兵衛の像・梅新ビル他 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201403/article_5.html で写真を掲載の上、とりあげた、「梅新第一生命ビル」があり、「梅新第一生命ビル」のさらに後ろ(北側)に、「お初天神(露の天神社)」があります

  (2017.4.7.) 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
淀屋橋から中之島東部、その周辺の建築。及、思考の堅さを「思考の柔軟さ」と主張する慶應ボーイ! 慎腹風呂愚/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる