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zoom RSS 「学校」で学ぶものは、「会社」において役に立つのか。

<<   作成日時 : 2017/02/26 20:33   >>

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[第520回] 会社と営業の話(105)−1
   私は、学校という所に行っている間、学校でやっていることが「会社」という所で役に立つのかどうかわからなかった。 慶應大学で「ステューデントカウンセラーズ」という団体に入っていた時があり、そこで、来談者として来た経済学部の学生で、「自分は小学校から高校まで真面目に努力してきたのだが、医学部に行って医者になるとか文学部や理学部に行き教員の資格を取得して高校か中学校の教諭になるとか、法学部で司法試験に合格して弁護士になるとかすれば、それまで学んできたものが役に立つが、経済学部とか商学部とかいった学部に行ってしまうと、せっかく真面目に努力してきたのに、それが無駄になってしまう」と言った人があった。 私も同じように思っていた。だから、経済学部や商学部は嫌だった。(「ステューデントカウンセラーズ」とはいえ、来談者が話した内容は他で話すべきではありませんが、「小学校から高校まで真面目に努力して勉強してきたのに経済学部や商学部などの学部に行ったのではそれが無駄になってしまうから、経済学部や商学部は嫌だ」と考える人は少なくないので、これは特定の誰かの発言ということではなく、そう考える人がしばしばあるということで、ここでは出させてもらいました。)
   ひとつには、京都大学とか大阪大学とかであれば、入学試験を受けて合格した人が入学する大学であり、合格者数が多い高校の出身者といえども、あくまで多いというだけのことであるのに対し、慶應の場合、内部進学があり、そして、慶應の内部進学というのは「多い」というだけではなく、慶應は自分たちの学校であり、大学から入ってきた人間というのは、自分たちの家の軒の先っちょの下に入れてあげてやってあげてやっている・・みたいな意識でいる大学だったということもある。 1980年代前半、慶應義塾新聞だったかに、内部進学の女性、たしか、紺野美沙子だったと思うのだが、「やっぱり、内部進学の人はスマートな人が多いですね。 途中から入ってきた人(慶應義塾大学に入学試験を受けて入った者のことを、紺野美沙子は「途中から入ってきた人」と言う)でも、内部進学の人たちに教育してもらって、少しずつ、スマートになっていくみたい」などと書いていた。 「途中から入ってきた人」だの、「内部進学の人たちに教育してもらって」だの、よくそういう言い方をすると思う。感じの悪い女だなあ、と思った、あのテレビドラマに太もも丸出しで出ていた慶應タイプのモロダシ女。 もっとも、その時は、「まったくつくづく感じの悪い女やなあ」と思い、「慶應というのは、まったく、感じの悪い大学だなあ」「慶應の内部進学の人間というのは感じ悪いなあ」と思ったものだが、今、考えると、「途中から入ってきた人でも」だの「内部進学の人たちに感化してもらってスマートになるみたい」だの、そういう言い方というのは、どう考えても、あまり、スマートな言い方ではない。そういう発言はどう考えても、スマートな発言ではないと思う。 そして、そういう内部進学のおえらい人たちというのは、当然、中学校や高校でやっていることは身についていないし、それを自慢にしている。 1980年代、慶應の商学部で「会計学総論」という講義で、黒川という助教授(男。当時、30歳と聞いた)が「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ。 それに対して、この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。わかってんのかあ。我々内部進学の人間はおまえら外部の者とは違うんだ。中等部から慶應に行っているこの僕がおまえら外部の者に話をしてやってるんだぞお。わかってんのかあ。もうちょっとかしこまって聞きなさい。わかってんのかあ」と教壇で絶叫されたことがあったが、慶應の教授というのはそういう人が多い。但し、慶應の教授・助教授でも他大学出身の人もいるわけで、そういう人に「こんなこと言われたんですよお」と言うと、「そうでしょ。ここの学校の先生はねえ〜え」という言葉が返ってくることもあったが、そういう「この僕は中等部から慶應に行ってんだぞお。わかってんのかあ」とかいう教授・助教授のお話を聞くと、それこそ、自分は小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、他の人間が遊んでいる時だって勉強して努力してきたのに、何の因果でこんな大学に行かされなければならないのだろうか・・・という気持ちになる。私はなった。行きたい所へ行ければ一番いいが、行けなかったとしても、せめて、内部進学がない大学に行きたかった。
   国立大学の場合、入学試験に合格した人間が入学するのに対し、慶應は、大学の入学試験に合格して入学する者のことを「外部の者」とか「外部の連中」とか言う。 それなら、「外部の者」でない者はいるのかというと、「内部進学のお方」というのがいらっしゃるのだ。 「外部の者」と比較するならば、いわば、特権階級みたいなものだ。軒の下にお情けで入れていただいている「外部の者」に対して、座敷でくつろいでいらっしゃるご本家の方々みたいなものだ。 「外部の者」の中でも、小学校から高校まで私学という人は、まだしも、「内部」にいくらか近い。 又、親が慶應出身で親戚にも慶應出身の人間が何人かいるという人は、これも、いくらか、「内部」に近い。それに対して、私のように、小学校も中学校も高校も公立、親戚中探しても、東大・京大・阪大出身者はいても慶応出身の人間なんかどこにもいない、そういう人間で、大学も国立に行く予定だったのが、何の因果か慶應に来てしまったという人間というのは、これは、いわば、筋金入りの「外様」であり、座敷でくつろいでいらっしゃる内部進学者さまからすれば、軒の先っちょの下のあたりにでも入れてもらえばありがたいと思え、みたいなそんな感覚。 な〜んで、こんな所に来さされてしまったんだろうなあと、何度も何度も思ったものだ。 で、大学の入学試験を受けて入学した「(慶應義塾の)外部の者」と、いわば、慶應の正規の入学者であるところの「内部進学者さま」と、その2種類かというと、まだあるわけで、「帰国子女枠」というのがあり、そして、「スポーツ推薦入学」というのがある。 あと、私学だから「裏口入学」というのもいくらかあるのではないか。 慶應においては、「内部進学」「帰国子女枠」「スポーツ入学」「裏口入学」というのが、いわば、親藩・譜代で、内部進学でも幼稚舎から慶應、もしくは、「中等部から慶應」で親が保守系政治家とか大企業の重役とかオーナー社長とか、あるいは教授の息子とかは御三家。 私みたいな、小学校も公立・中学校も公立、高校も公立、大学は国立大学に行く予定だったのが何の因果か慶應に来てしまったという人間で普通のサラリーマンの息子で親戚中探しても慶応卒の人間なんかどこにもいないというような者は、外様は外様でも、筋金入りの外様、関ケ原で東軍についた加賀の前田とか関ケ原の戦いでは西軍についたが大坂の陣では東軍についた上杉・佐竹のような外様ではなく、近江佐和山の石田三成か信州上田の真田信繁(幸村)かというくらいの外様。 「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。わかってんのかあ」と叫ぶ助教授などからすれば、私なんか、そこにいること自体が許しがたいという意識だったのではないかと思う。 実際のところ、慶應は大学については、入学試験なんかしないで、私立高校出身で親戚に慶應卒の人間がいっぱいいるという人間は合格とするか、もしくは、内部進学だけにすればいいのじゃないかという気もするのだが、そうすると、「そんな学校」という評価になって、それはそれで内部進学の人も困るだろうから、だから、本当は大学からは採りたくないのだけれども、いやいや採っている・・・みたいなそんな感じじゃないか・・・・。
    そういう状況なので、国立大学の場合と、慶應の場合は、状況が異なるところがある。 国立大学の場合、社会科学系学部を卒業して「会社」という所に勤めた場合、学校で学んだものが役にたつかどうかという問題においては、《 小学校から中学校にかけて習得した技術的なもの+中学校から高校にかけて学んだ「すべてについて一通り」+大学の一般教養過程において「すべてにおいて何か」+大学の専門課程において「何かについてすべて」 》 が、役に立つものかどうか、どう役に立つのか、という問題になる。  それに対して、慶應の場合は、「小学校から高校まででやっているものは害があるんだあ。わかってんのかあ」という大学なので、慶應の教授の認識としては、「“ 塾風 ” +経済学部・商学部の専門科目 」が役に立つという主張である。 で、「塾風」て、いったい何なんだ? というと、それは、「内部進学のお方が持っていらっしゃる何か」らしい。 戦中、「やまとだましい」などという文句が言われたのだが、竹槍でB29を打ち落としてやるとかいう、そういう類。 そういう「やまとだましい」みたいな、いわば、子供だまし― が、「塾風」・・・・と言うと怒られるから怖い。殴りかかってくるから怖い。 私が慶應大学に在籍した時、「幼稚舎から慶應」という、いわば、“親藩”の男が「きのう、テレビ、見てたら、小学生の受験塾の話が出ていたんだけど、俺、小学校から『東大行くんだ』とか言ってるやつって、気持ち悪くってしかたがないよお」などと言うので・・・・・、はあ〜あ!?!? とあきれた。 それで、つい、口に出して言ってしまったのだ。 「何言うてんねん。 そんなこと言うなら、小学校から慶應行ってるやつなんて、気持ち悪くってしかたがない」と。 口に出してしまってから、危ない、しまったと思ったのだ。内部進学の人間にうかつにそういうことを言うと、殴りかかってくるので危ないのだ。 しかし、彼は内部進学の人間にしては人間ができていたようだ。 彼はそうではなく、「うん。 それが一番気持ち悪い」と言ったので、人間できてるなあ〜あと感心したものだ。普通は、内部進学の人間というのは、「小学校の時から『東大行くんだ』なんて言っているヤツって、俺、気持ち悪くってしかたがないよお」と小学校の時から慶應行ってる人間が言った時に、「何言うてんねん。そんなこと言うなら、小学校の時から慶應行ってる人間なんて気持ち悪くってしかたがない」などと言おうものなら、激怒! 殴りかかってくるものだ。 それが、「愛塾」であり「協調性」とか「思考の柔軟さ」とか「福沢精神」とかいうものなのだが、彼は、幼稚舎から慶應に行っている人間、いわば、「ゆりかごから墓場まで」(from cradle to tomb )のタイプでありながら、怒らなかった、すごい!!! ほめたろ、という人間だった。 しかし、これを言うと内部進学のお方は怒るのだけれども、公立の小学校→公立の中学校→公立の高校と行った人間が、「小学校の時から『東大行くんだ』なんて言ってるやつって気持ち悪いよ」とか言うのならわからないことはないが、小学校の時から慶應行ってるやつに言われても・・・・・、はあ〜あ?!?!?!?! て気がする・・・・のだが、言うと彼らは怒るので、黙っていた方がいい。
   私は「小学校から高校までの勉強は害がある」とは思っていないので、その点、慶應の教授とは見解が逆なのだが、私にしても、慶應の縁で、慶應大学のOBの方からいろんな話を聞かせてもらったりしたことはあるわけで、いい話を聞かせてもらったと思うものはあるわけです。 ですから、もしかして、内部進学の教授・助教授先生が、そういう機会が内部進学の人はより多く持つことができるので、大学の入学試験の問題を回答するような能力は大学から入る人間に劣っていても、慶應の内部進学の学校に行くと別の点で得るものがある、と言われるのであれば、そういうものもあるのかもしれない、と思っているのです・・・・・が、これを言うと怒られるとは思うのですが、「小学校から高校までの勉強は害がある」とは私は思っていない。 又、内部進学の人というのは、英語の agriculture を agriculture と発音するが、語尾が−ure で終わる名詞のアクセントは頭にあるもので、(そんなもの常識であり、この程度のこともわかっていない人間が大学行くなよなあ〜あ・・・て感じがするのだが、)agriculture と発音するのが正しく、agriculture  と言われると、わろたらいかん、わろたらいかん・・・・と思いつつ・・・・、と言うと、慶應の教授は怒るのだが、「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と言って激怒するが、しかし、それなら、agriculture と発音すると「受験勉強」で「悪影響」で、agriculture  と発音するのが、“が〜くもん” かというと・・・・・こういうことを言うと、怖いから黙っていた方がよい。


   それで。 前段が長くなってしまった。 「小学校から大学までの勉強」は「会社」という所で役に立つか、という問題。 大学院に行って大学の教授・准教授、助教という職について研究者として生きる場合、文学部・理学部に行って高校や中学校の教諭の資格を取得して高校や中学校の教諭の仕事についた場合、司法試験に合格して裁判官・検察官・弁護士といった仕事についた場合、公認会計士の試験に合格して公認会計士の仕事についた場合、医学部を卒業して医者になった場合、薬学部を卒業して薬剤師になった場合、そういうケースとは違って、法学部・経済学部・商学部といった学部を卒業して、「会社」という所に就職した場合に、「学校でやってきたこと」は役に立つのかどうか、という問題。 これについて、森川英正『日本経営史』( 日経文庫)と 末広厳太郎『法学入門』( 日本評論社)が、役に立つ旨を述べている。
   学術論文なら、きっちりと調べて、原文通り、引用するべきであろうけれども、学術論文ではないし、一字一句、原文の通りであるかどうかはそれほど重要ではないので、「趣旨を引用」することにする。
(1)   森川英正教授は、岩崎弥太郎の「学者書生と俗子弟にはいずれもいいところはあるが、学者書生を俗化するは易し。俗子弟を教化して学者書生の気概を養わしむるは難し」という言葉を引用し、教養のない人というのは、一線の仕事はできても、管理する仕事は難しい、ということを述べている。 但し、教養のある人とない人では、管理する仕事には、教養のある人の方が適している人が多いけれども、もし、低学歴の人で管理する仕事をできる人がいるのであれば、低学歴の人であるから管理する仕事についてはならないという意味ではない、という趣旨を述べている。
(2)   法学者の末広厳太郎は、「法はパンのための学問」と言われるが、大学の法学部に残って法律の学者になるとか、裁判官・検察官・弁護士といった法律をそのまま役立てる職業についた場合ではない、一般の企業に勤めた場合、法は役に立つのかどうか。 実際に法学部を卒業して会社に勤めた人に尋ねてみると、「法学部で学んだことなんか忘れてしまった頃になって、役に立ってくる」と言う人が多い。 これはどういう意味かというと、裁判官・検察官や弁護士など法律そのものの仕事ではない職業についた場合、法学部で学んだことなんか忘れてしまった頃に役立つものとは何かというと、それは「法学的の考え方」のことである、と。 大学で学ぶのは、個々の法律の解釈であるが、個々の法律の解釈については、会社に勤めて何年か経つと忘れてしまうこともあり、新しい判例が出ることもあり、法律が改正されたり新しい法律ができたりすることもある。 しかし、法学部で身に着けた「法学的の考え方」については、これは基本的には変わることはなく、会社で仕事をする上で役に立つ、「法学的の考え方」が身についていない人間と身についている者との差は大きい、というのである。なるほど、そういうことはあると思う。
  今となっては10年以上前になりますが、厚生労働省委託・東京リーガルマインド実施の「求職者支援セミナー」というものに参加した時、講師の女性が「学歴は卒業して5年経つと価値がなくなる」と発言したのですが、学校の名前だけで高く評価してもらおうとか思って、それで通じるのかどうか知りませんし、私なんかはそういう経験はないのですが、学校の名前だけで評価してもらおうというのは卒業して5年も経てばだめということはあるかもしれませんが(名前だけでというのは卒業1年目でもだめだと思いますけれどもね)、この(1)(2)の意味合いから考えるならば、むしろ、逆だと私は思ったのです。学校というところで学んできたもの、ここでは「小学校から中学校にかけての『術』的なもの+中学校から高校にかけての『すべてについて一通り』+大学の一般教養での『すべてについて何か』+専門課程での『何かについてすべて』」という学識が、大学の教員や高校・中学校の教諭、裁判官・検察官・弁護士など大学で学んだものが比較的そのまま生きる仕事ではなく、一般の会社に勤めた場合に、それが生きてくるのは、(1)でいう「学者書生」が「俗化」する、こなれる期間として新卒入社で5年ほど、(2)でいう「法学部で学んだことなんか忘れてしまう」年限、それを過ぎると個々の法律の解釈ではなく「法学的の考え方」が生きてくるのが新卒入社では5年ほどではないかと思うのです。 その後、転職する場合は、新たに5年までは必要ありません。転職した会社に馴染む期間があればいいわけですから、人にもより職場にもよるでしょうけれども、基本的には春夏秋冬1年でいいと思います。むしろ、大学を卒業して職場の経験を5年ほど持った頃から、学校で学んだものが、特に社会科学系学部の場合は生きてくるように私は思います。〔「就職支援セミナー」というのも、実際問題として、あんまりなあ〜あ・・・という話もありましたし、何人かの講師の人の話をきくと、この人はなあ・・・という人もおられましたね。〕
(3)    そして、大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房)所収の「社会科学の方法」で、経済史の学者であった大塚久雄は、「自己の実感」と「自己の理性」ということを言い、「自己の理性にてらして考える」ということをしてください、「自己の実感にてらして考える」というのはだめですよ、と言う。「実感」などというものは、常に蜃気楼をともなうものであり、「自己の実感」にてらして考えるのではなく、あくまで、「自己の理性」にてらして考えるようにしないといけません、と。 私は、実際に、「会社」というところに勤めて、この「自己の実感」ではなく、「自己の理性」にてらして考えるということが、最終学歴高卒くらいの人で、一線の営業などはそれなりにやってきたという人で、できない人が実に多い、ということを見て実感した。 この3つは、大きな差があると思う。
(4)   そして、もう1つ。 (株)一条工務店においては、その役職につくときには、「学歴でひとを差別するのはおかしい」、「今の世の中は人を肩書で評価する世の中だ」と言いながら、実際にその役職について責任ある態度・対応を求められることになると、「ぼくは高卒だから、そんなことわかるわ〜けがない!」「ぼくは高卒なんだから、そんなこと、できるわけがない!」と言ってふんぞり返る人が何人もいた。 最終学歴高卒の人が、ある程度以上の役職についてはいけないとは言わないが、その役職につくと、「ぼくは高卒なんだから、そんなことわかるわけがない」「ぼくは高卒なんだから、そんなことできるわけがない」と言ってふんぞり返る人は、できない役職につかないでもらいたい。 いったん、その役職についたなら、高卒であろうが何であろうが、その役職の人間としての役割を果たさないといけない。高卒の人がその役職につくべきではないということではなく、その役職の人間としての役割を果たせない人は、その役職につくべきではない。 なあにが何でもその役職の人間としての役割を果たさないといけないという自覚で取り組む者と、「ぼくは高卒なんだから、そんなものできるわ〜けがない」と言えば通るという意識でいる人間との差は大きい。
(5)   何の資格を取ってくれと言われた場合、ある程度以上の大学の出身者は、取得できないと自分の評価が下がってしまうと、な〜にが何でも取らないといけないと考えるのに対し、(株)一条工務店などでは、言い訳ばっかしして・・・という人が多かった。 「あんたは、何でも簡単に通るが、ぼくらはどんなにしても通らない」と(株)一条工務店では言われたのだが、私は、簡単になんか通っていない。 苦労して努力して工夫してやっと通ったのである。 もしかすると、世の中には、何の苦労もしなくても「簡単に通る」という「天才型」もしくは「長嶋みたいなやつ」というのがいるのかもしれないが、なにしろ、「わしゃ、日陰の月見草」であり、月見草型の人間は、I D野球とか、工夫して努力して苦労してやっと成果をだしているのだ。 もっとも、「天才型」「長嶋みたいなやつ」というのが、そんなにいっぱいいるのかどうか知らないけれども〔野村克也にしても、「本当の天才」というのは3人しか知らない、と書いていたと思う。 その3人とは、長嶋とイチローと広瀬(南海)らしい。〕。 たしか、2002年だったと思うが、ラジオの野球中継で、解説者の豊田泰光さんが、「きょう、試合前に、高橋由伸に手を見せてもらったんですけれどもね、手にものすごいタコを作っていましたよ。 彼のことを『天才』などと言う人がいますが、そうじゃないです。彼は努力してますよ。 昔から言いますでしょ。『天才とは努力の代名詞』と。」と話したことがあった。 高橋由伸が実際にどうなのかは私は知らないが、何であれ、「天才とは努力の代名詞」というところがあるとは思う。 「あんたは、何の努力もしてないのに簡単に通る」だのと、ひとが苦労して努力して工夫してやっと通ったものをそういう口のききかたをする人間というのは、「ぼくらはどんなにしても通らない」と言うが、いったい、何やったかというと、たいてい、何もやっていない。 何もやらずに、「ぼくらはどんなにしても通らない」だの、「あんたが通って、ぼくらが通らないのは差別だ」とか、そんなことばっかり言う。 いいかげん、そういう人とつきあうと疲れる。
(6)   何を考えるにおいても、科学的思考・論理的思考ができるかどうか、という問題。 これは、学問的訓練によって身に着くもので、職場での職業体験から身に着くものではないようだ。 小堀住研(株)の「高卒の痴漢人間」である千葉支店長 渡邊士直を見て、この人にそういうものを身に着けてもらおうと思っても、それは無理だと実感した。この人には支店長は無理だと実感した。
      この(6)について述べるつもりで今回は始めたが、前段階の部分で、けっこう字数が多くなってしまったので、本体は次回にまわすことにする。
      とりあえず、前段階だけでも、わかっていない人にとっては役立つ話だと私は思っている。 慶應の内部進学であるOBの方に、私は、卒業後、慶應の縁でお世話になったこともあるので、最初の部分で述べた慶應の内部進学の人の話については、少々、気が引けるところもあるのだが、しかし、ここで述べたものは嘘ではない。 人間、誰しも、いいところもあればよくないところも持ちながら生きている。 ここで述べたものは嘘ではないが、片方でいいところがある方はおられるので、悪いばっかりのように理解するべきではないと思っている。


   今回は、次回 《科学的思考・論理的思考ができない者にはQCサークルの採点は無理 》http://shinkahousinght.at.webry.info/201702/article_15.html  と合わせてのものです。 次回もご覧ください。

   (2017.2.26.) 


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