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zoom RSS 藤田結子「働く母親はなぜ謝るか」3 周囲に世話かける者がなぜ謝るのが嫌か。慶應タイプと非慶應タイプ

<<   作成日時 : 2016/12/24 20:59   >>

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[第485回] 会社と営業の話(102)−3
   「毎日新聞 経済プレミア 育児ザバイバル 藤田結子 働く母親は上司や同僚にいつまで謝り続けるのか 2016年11月25日」http://mainichi.jp/premier/business/articles/20161124/biz/00m/010/011000c   という慶應義塾大学文学部卒で明治大学商学部教授だという藤田結子さんという人の反社会的な記事についての批判の3回目。
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育休や有休、早退でいつも周囲に平謝りする女性たち
  東京都内で働く長谷川陽子さん(40代、仮名)が、仲の良い同僚の鈴木さん(40代女性)、佐藤さん(30代女性)と昼食をとっていた時のこと。長谷川さんは結婚していて5歳と3歳の娘がいます。鈴木さん、佐藤さんは独身です。ライフスタイルは違いますが、気が合うので普段から仲良くしています。

  話題は同僚男性Aさんのうわさ話になりました。Aさんは英国籍の社員で、3人の子供がいます。「Aさんは子供のことがあるから、たいてい残業をせずに帰る」と、佐藤さんが言いました。

  長谷川さんが「日本の職場もそういう働き方に変わっていけばいいのに……」と口にしかけたその瞬間、佐藤さんと鈴木さんは全く反対の意見を言いました。

  「Aさんはみんなより早く帰るのに、すいませんと謝りもしない。謝るんだったらまだわかるけど……」。何だか怒っているようです。

  2人の顔色を見て、長谷川さんはハッとしました。普段、彼女たちは、長谷川さんの仕事と育児の両立に理解を示してくれていました。しかし、彼女たちも長谷川さんに対して、そのように感じることがあったのかもしれないと、思い当たったのです。
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   私はこの記事を見て、びっくりしたのです。 最初の部分については、実際にそういう話があったのか、実際にあった話をいくらかアレンジしたものかまったく創作かわかりませんが、そういうことがあったとしての話だということです。 問題は最後の段落です。 《2人の顔色を見て、長谷川さんはハッとしました。》て、この女、あまりにも無神経すぎます・・・・・が、世の中いろいろな人がいるわけですから、おかしな人がいたとしても、中にはそんな人もいると考えるしかないかもしれません。しかし、ここでこういう記述を載せるということは、《2人の顔色を見て、長谷川さんはハッとしました。》などといかにももっともなことであるかのように書く藤田結子というバカ女に私はハッとした、というよりギョッとしたのです。
   こんなのが「大学教授」なのです。こんなのが「社会学」が専門などと称しているのです。こんなのが。 やっぱり、慶應大卒だけあって知能程度が低いなて感じがしました。慶應大卒でもこの女、内部進学か帰国子女枠か何かじゃないのかて感じもしました。インターネット上で探しても、慶應大卒の後の経歴はぐじゃぐじゃ書かれていてるのに対し、慶應大入学前の経歴は「東京都生まれ」以外が書かれていないというところを見ると、あまり言いたくない経歴なのかもしれませんが、慶應大卒業後、イギリスとかアメリカ合衆国に留学したという記述があるあたりから考えても、「帰国子女枠」の人かもしれませんね。日本の一般の職場、特に私が勤めてきたような三流以下企業の職場を知らない人かもしれません、というより、「大学」という職場は経験していても、一般の会社勤めの経験はない人のようですが、それだけではなく、人的つながりとしても、一般の会社での勤務を経験している人との人的つながりがそれほどない人ではないのかという感じがします。
  これに対して、私は以下の批判をおこない、毎日新聞HPhttp://www.mainichi.co.jp/ の「お問い合わせ」https://form.mainichi.co.jp/toiawase/index.html より送信させていただきました。

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3. 《 「Aさんはみんなより早く帰るのに、すいませんと謝りもしない。謝るんだったらまだわかるけど・・・・」・・・・ 2人の顔色を見て、長谷川さんはハッとしました。 普段、彼女たちは、長谷川さんの仕事と育児の両立に理解を示してくれていました。 しかし、彼女たちも長谷川さんに対して、そのように感じることがあったのかもしれないと、思い当たったのです。》などと書かれていますが、

(ア)  《ハッとしました》 だの 《そのように感じることがあったのかもしれないと、思い当たったのです》 などと言っていることがおかしい。なぜ、それまで気づかない? よっぽど無神経な女ということか。

(イ)  まず、「子供」を大義名分にする場合であれ、他の理由の場合であれ、《みんなより早く帰る》者は、「すいません」と言って帰るものであり、男性でも、あるいは、「子供」以外が理由である場合でもそうしている。 なぜ、「子供」を大義名分にする女は、「すいません。お先に失礼します」という社会人なら誰でも言う挨拶をしないで帰りたいのか? 

(ウ)  職場の人間関係は「お互いさま」で成り立っている。 もしも、自分には子供があって子供に手がかかるということを、職場の周囲の男性や他の女性に理解してもらいたい協力してもらいたいと思うのであれば、男性や他の女性にも個人的な都合はあるわけであり、まったくフィフティーフィフティーでなくても、「お互いさま」になるように、自分の方が協力できる時には他の従業員に対しても協力するべきであり、それを自分ばかりが協力してもらっているというのであれば、「すいません」と言うのは当然であろう。 あつかましすぎる。それも言うのが嫌なバカ女、及び、バカ女のオットは子供を作るな! もしくは職場から出ていけ! 相撲の八百長でも、「中盆」という仲介役があって、誰が誰に星をいくつ貸しているというのをつけていて、それを返さないといけない。負けてもらうばかりでは八百長は成り立たない。負けてもらうばかりの力士はそのうち、相手にしてもらえなくなる。 一般の職場においても、他の従業員に負担をかぶってもらったなら、逆の立場の時に、自分が相手のために配慮しなければいけない。ひとに負担をかぶってもらうばかりでそれに対して「すいません」も言うのが嫌だと言うような女は職場から出ていけ! なにゆえ、「子供」を大義名分にする女は、自分だけが人に世話してもらう権利があるのか? おかしいだろうが。

(エ)   子供がなくても、老いた親がいるという場合もある。なにゆえ、「子供」を大義名分にする女は職場の周囲の男性社員の親を犠牲にする権利があるのか? 我儘もいいところである。

(オ)  新華ハウジング(有)〔建設業。千葉市中央区。2013年に倒産〕に2011年4月に縁故入社した滝口恵(女。当時、30代前半)は、「すいません」などとはひとことも口にしたことはない。 「当たり前でしょお」と言い、「私は子供があるんでうからねえ」などと言って自分の担当の仕事を担当外の従業員に労基法違反の時間外労働に無賃労働でさせて、おのれだけ定時に退社していたが、「当たり前」だろうか? 他の従業員に労基法違反の時間外労働をさせるのが「当たり前」か? 他の従業員に無賃労働をさせるのが「当たり前」か? 藤田さん、教えてくださいよ。なにゆえ、労基法違反の無賃労働・時間外労働をさせられるのが「当たり前」なのか?  慶應大学卒の藤田さん、明治大学の先生様の藤田さん、教えていただけませんでしょうか。おえらい先生様ならご説明いただいてもよろしいのではないでしょうか。

(カ)   なにゆえ、「子供」を大義名分にする女は、オットの職場の周囲の従業員ではなく妻の職場の周囲の従業員とその家族を犠牲にしようとするのか? なぜ、オットの職場の周囲の従業員とその家族を犠牲にしようとしないのか?  おかしいと思いませんか?  その女のオットは、なにゆえ、妻の職場の周囲の従業員とその家族を犠牲にする権利があるのですか?

(キ)  「Aさんはみんなより早く帰るのに、すいませんと謝りもしない。」という、まず、妻の方が《みんなより早く帰る》のが当然というオットの認識がおかしい。 子供を作ったなら、オットと妻とが両方が協力して育てるものだ。 私の父は「子供というものは女が育てるもんです」と言っていたが、それは違うと私は思うが、しかし、父親が何もしないというのは不適切であるが、母は専業主婦で父の給料で食べていたのだから、そういう場合においては、母親の方が子供を世話する時間・労力の負担が大きくてもおかしなことではない。
   それに対して、男性と変わらないような勤め方をしたいという女性、妻に男性と変わらないような勤め方をさせたいという男性は、夫婦で協力して子育てをしなければいけない。 子供ができた男は妻の職場の周囲の男性に負担させる権利があるわけではないはずだが、新華ハウジング(有)〔建設業。千葉市中央区。2013年に倒産〕に2011年4月に縁故入社した滝口恵のオットは、妻の職場の周囲の男性社員に協力させるものだと認識していた。 これはおかしくないか? なにゆえ、自分のオットに協力させずに、ひとのオットやまだふさわしい相手とめぐり合うことができずにいる男性に協力させようとするのか? その子供は誰の子供なのか。 オットの子供ならオットに協力させるべきではないのか! なぜ、「子供」を大義名分にして、その子供の父親に協力させずに、子供の父親でもない男性に協力させようとするのか? これがおかしいということもわからないくらいアホなのか!
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   ≪ 2人の顔色を見て、長谷川さんはハッとしました。普段、彼女たちは、長谷川さんの仕事と育児の両立に理解を示してくれていました。しかし、彼女たちも長谷川さんに対して、そのように感じることがあったのかもしれないと、思い当たったのです。 ≫て、この文章、どう考えてもおかしいと思いませんか? 今まで気づかんかったんかい?  もしかすると、今回は≪ハッとしました≫けれども、≪ハッと≫しない可能性もあったんかい? ええ、心臓しとんのお。 相当長生きするやろなあ。 まだまだ、5、6人、子供産みそうやなあ。 結婚できずにいる男性・女性、結婚はできたが子供に恵まれずにいる女性・男性の生活と心を土足で踏みにじった上で、ま〜だまだ何人も子供産みそうやなあ。 相当、ええ心臓しとるのお。

   そういえば。 今は昔、慶應義塾大学に「学生相談室」というのがあって、一度、「クライアント」として行ったことがあったのだが、かえって、混乱させられただけで得るものはなかった・・というより、マイナスになった。 問題として、
(1) フロイト・ユングなどの精神分析学派、あるいは、「来談者中心療法」による「カウンセリング」のカール=ロジャーズは、セラピストになろうとする者は、ひとを精神分析しようとするばかりではなく自分自身も精神分析を受けてみるべき、自分自身もカウンセリングを受けてみるべきだということを書物に書いているし、それらの人の手法をもとにした「学者」とされる人も本に書いているのだが、実際には、「精神医学」「心理学」「カウンセリング」といった職業についている人たちはそうは認識していない。 むしろ、正反対。 「精神医学」「心理学」という職業についている者、「精神科医」「心理学者」といった人たちが「正常」「健常」「自己一致」「成熟」であり、「患者」「クライアント」は「異常」「病気」「自己不一致」「未成熟」「・・・人間」「・・・シンドローム」「・・・症候群」であると認定するという手法によって自分たち「精神科医」「心理学者」といった人間、「精神医学」ムラ・「心理学」ムラを守っているのである。1984年に新聞報道で大きくとりあげられた栃木県の宇都宮報徳会病院では、院長の石川文之進という人は「院長回診」としてゴルフの5番アイアンという金属製のクラブを持って「病院」を「回診」し、気に食わない「患者」がいると、5番アイアンで力まかせに「患者」を殴っていたそうで、「患者」からはこの「院長」は「分裂野郎」(あいつこそ、「精神分裂病」だ!)と言われていたというのですが、それでも、「院長」「医者」「精神科医」「心理学者」「カウンセラー」は「正常」「健常」で、5番アイアンで殴られる側は「患者」で「病気」で「異常」だとされるのです。それが「精神医学」「精神分析学」「心理学」の現状・実態なのです。
  だから、「学生相談室」という所に行くと、そこで話をして解決の方向への一歩が進むと期待して行っても、「学生相談室」を運営している人たちの認識はそうではない。 まず、「学生相談室」に足を踏み込んだ者というのは、「患者」「クライアント」「病気」「未成熟」「・・・人間」「・・・シンドローム」「・・・症候群」と認定してそういう概念の人間だと固定化し、そいつが悪いんだということにする「お客さん」。 いわば、罠にかかったヤツなのである。 フロイト・ユングら、あるいは、カール=ロジャーズなどの本を読むと、彼らは自分自身の精神を見つめ直し、自分の心を見つめ直すことにより、他人様のありかたにも協力しようとしう姿勢が書かれているが、そういった書物は、実際はそれと逆である現実の「精神医学」「心理学」を実際よりもいいものであるように宣伝する役割を果たしている。 現実の「心理学」「精神医学」の手法は、「医者」「心理学者」「セラピスト」と称するイカモノを守る役割はあっても、そこを訪問する人間に役立つようなものはない。

(2)  なにより、慶應義塾大学に限らず、「学生相談室」というものが、今、多くの大学にあるが、私はよく知らなかったのだが、「学生相談室」という所にいる人間は「心理学者」と称する人間なのだ。そして、「協力者」として背後に「精神科医」と称する者がいるのです。 ということは、何かの問題に困って「相談」に行く者がいたとして、そこにいる人間が「弁護士」とかであれば、その問題は、法律上、こうなるでしょう、もしも、裁判で訴えたとすると・・・・となるのではないでしょうかとか、法律論理としては私はこうなると思うのですが最近の判決を見ると裁判所はこのような判断をするのではないかと思いますとか、そういった返答をすることになるのではないかと思います。 又、「心理学者」でない大学のそれぞれの科目の教員が相談者であれば、学習上、この点がうまくいかないのですがと言えば、こうすればどうでしょうかという提案ができる時もあるのではないでしょうか。 あるいは、相談者が大学の事務職員であれば、学費の支払いについて困っているのですがと言えば、このような制度がありますといった説明などできる場合もあるのではないかと思います。 それに対して、「学生相談室」の相談者は「カウンセラー」と称し、「心理学」が専門だと称する人間であり、その背後に「精神科医」というのがいるわけであり、うかつに「学生相談室」という所に足を踏み込むと、足を踏み入れたその時から、「悪いのはそいつ」ということになって、「治療」されてしまうことになるのです。 
   「『精神適応』か『民主主義』か」、「『自己飼育』か『自主権』か」ということを考えてみる必要があります。 「心理学」はどちらの側の学問か?  こいつが悪いんだと「患者」「病人」に「認定」「診断」されてしまった人間を「治療」と称して加工する、「人間による人間の加工」をするのが「心理学」「精神医学」ですね。 何がうれしゅうて、わざわざ、自分からそんな機関に足を踏み入れなければならないのですか? アメリカ合衆国 ニューヨーク州立シラキュース大学精神科教授のトマス=サズが、「精神医学」「精神分析学」「心理学」について書かれた一般向け書物が、「精神医学」「心理学」を実状よりも良いものであるかのように一般の人間に誤認させる働きをしており、その結果、「精神医学」「心理学」の罠にかかってしまう人が出ていることを指摘しています(トマス=サズ『(「精神医学」という)狂気の思想』新泉社 )、私もそう思います。

(3) 慶應義塾大学の「学生相談室」の場合は、他の大学にない問題点もあります。 東大はいつのまにか、「私立六年制受験校の人の行く学校」みたいになってしまって、たぶん、今でも入試の難易度は大学の中で高い方ではないかと思いますが、「難易度が高い入試に合格してきた割に内容がない人が多い大学」になってしまったような気がしているのですが、その点で京大や阪大の方が東大よりもいいと言う先生も私が高校生くらいの頃、私の周囲にはおられたし、最近では東日本の公立高校の生徒で東大でも行ける可能性がある成績の人で、東大は「私立六年制受験校の人の行く大学」だとして京大に行きたがる人がいるようなことを耳にすることもありますが、そういうことがあるとしても、京大・阪大でも東大でも「内部進学」というのはないのです。それに対して、慶應の場合は、内部進学があって、内部進学の人というのは、内部進学の人が言うところの「外部の連中」とは、なんといいましょうか、「常識が違う」のです。 内部進学の人でも、「外部の連中」と変わらないような「常識」を身につける方も大学を卒業して一般の会社に勤めたという方にはおられると思いますが、大学を卒業した後、大学院に行って、さらにその後の勤め先が慶應義塾大学で助手・助教授・教授と勤められたというようなお方の場合は、いわば、「ゆりかごから墓場まで慶應」(from cradle to tomb )であり、「ほとんどビョーキ!」みたいと言うと激怒されると思いますし、激怒されると処世術として好ましくないと思って口に出さない人間が多いのですが、私なんかは、もうどうせ死ぬまで「出世」することもないだろうし、人生70年と考えても人生80年と考えても中間点は間違いなく超えてしまった人間だし、もともと、言うたらいかん言うたらいかん・・・と思いつつなんか口に出してしまうような・・・というとアホやんけ!ということかもしれませんが、この際、言うたろやないか、ということで、「ゆりかごから墓場まで慶應」の先生て、なんか、人間として変です。 かつ、そういう人というのは、自分のことを「常識人」とか思っているのです。 それを批判すると、怖い! というより、うるさいから、放っておいた方がよろしい・・・・のですが、「学生相談室」の「カウンセラー」やってる「心理学者」とかいう人にもそういう方がおられるように思うのです・・・「思うのです」というより、おられますよ。そういう人が。 なんというのか、「塾風独善主義」というのか「内部進学独善主義」というのかの人が。

   それで、今回は、藤田結子さんという慶應義塾大学文学部を卒業して、その後、イギリスとかアメリカ合衆国とかに留学なさった後、明治大学商学部の先生をなさっている、同じ慶應義塾大学卒といえども、私なんかと違って「エライ人」になっておられる方の文章についての批判なのですが、それが慶應義塾大学の「学生相談室」とどう関係あるかといいますと、藤田さんの文章を読んで、その「学生相談室」の女性の「カウンセラー」「心理学者」の人の発言を思い出したのです。 「慶應の女子学生というのは、学問もできて、同時に女性としての魅力もあるという人ですね」と、そんなことおっしゃったのです。 「学生相談室」の「カウンセラー」「心理学者」とやらは。 それを聞いて私が「え?」と言って絶句したのは、「カウンセラー」としては気に入らなかったようです。 言っちゃなんですが、ひとにもよるでしょうけれども、「慶應の女子学生」が「学問ができる」とは思えなかったし、「女性としての魅力もある」とはなおさら思えなかったのですが、どうも、そういうところで、「カウンセラー」とか「心理学者」とか「精神科医」とか「精神分析家」とかそういう類の人に逆らうと怖いみたいです・・・・・・・。その時は知りませんでしたが、うかつでした。
   私の場合、高校が公立の進学校でしたので、女性でも京大とか東大とか行こうという人が同じ教室におり、そして、男性がそうであるように行けた人もあれば行けなかった人もあったのですが、私はそういう人は嫌いではなかったのです・・・・が、そういう人と比べて、「慶應の女子学生」が「学問ができる」と見えるかというとそうは見えないし、「女性としての魅力もある」と言われても、なんか、あんまりそんな感じしないんですけどお〜おと言うと怒られそうですし、何より、「心理学者」とか「カウンセラー」とかそういう称号を名のりだした人に逆らうと怖いので、逆らわない方がいいのかもしれませんが、まあ、「女性としての魅力もある」と思いたいなら好きに思えばいいけれども、そういうのって、認めないと「・・・症候群」だの「・・・シンドローム」だのなんだのかんだのと「心理学」「精神医学」「精神分析学」の「用語」で「診断」されてしまうことになるのでつくづく逆らうと怖いのだけれども・・・・・、実際にそこにいる人間見ると・・・・、なんだか・・・・な・・・・・・・。

   一番の問題として、「公立小学校 → 公立中学校 → 公立高校 → 現役京都大学」というタイプの人間・・・・といっても、これは慶應の日吉の教室の机に「公立小学校 → 公立中学校 → 公立高校 → 現役京都大学 これこそ最高のエリート」と書かれていた落書きの表現なのですが、慶應の教室の机に書かれていたということは、最後の「→現役京都大学」に行けずに慶應に来た人間が書いたということだと思うのですが、実際に「→現役京都大学」に行かなかったとしても、人間の人格形成においては、「公立小学校 → 公立中学校 → 公立高校 → 現役京都大学」という最後の「大学」の部分よりもそれより前の小学校から高校までの部分の方が影響は大きいと思えますので、最終的に「→現役京都大学」に行かずに「六年制私立受験校の人間の巣窟」になってしまった東大に行ったとしても、「内部進学独善主義が支配する慶應義塾」に行ったとしても、やっぱり、人間としては「公立小学校 → 公立中学校 → 公立高校 → 現役京都大学」という方向の人生を生きてきた人間はそのタイプの人間なのです。 それに対して、「慶應の女子学生」というのはそういう人間と違うのです。 慶應の商学部の「会計学総論」という講義で黒川なんとかいう助教授が、講義の最中に教壇で「このぼくは中等部から慶應に行ってんだぞお。 我々内部進学の者はおまえら外部の者とは違うんだ。中等部から慶應に行ってるこのぼくがおまえら外部の者を教育してやろうと言ってるんだあ。慶應でも経済学部なら内部進学の人間が多いから、おまえら外部の者は内部進学の人間に教育してもらうことができるが、商学部の場合は内部進学の人間が少ないからなかなか内部進学の人間に教育してもらえないだろうから、だから、中等部から慶應に行っているこのぼくが、おまえら外部の者を教育してやろうと言ってるんだあ。わかってんのかあ!」と絶叫されたことがありました。 そういう人の大学です、慶應は。 実際、野球のベースでもそのへんにあったら投げてやりたいところでした。 この内部進学独善主義・内部進学強姦主義のカスどもが「おまえら外部の者を教育してやろうと言ってるんだあ」と叫ぶ大学です、慶應は。 私はこんな大学に行かされるのだけは嫌だと思ったので、それで小学校の1年から高校まで努力して精進して勉強してきたのです。私はこの黒川みたいなヤツが教授だの助教授だのになっているようなそんな大学に行かされるのが嫌だから小学校の1年から他の人間が遊んでいる時も勉強してきたのです。こういうカスに「教育」されてたまるか! こういうヤツが助教授だの教授だのになってるから強姦男が「塾風」などと言って幅をきかせるのです。 もしかして、そういう内部進学独善主義の助教授にヘコヘコアザラクヘコヘコアザラクとへつらえばなんか給料の高い仕事を紹介してもらえるとかあるのんかいなあ〜あ・・・とか思う人もあるのかもしれませんが、私なんか、そんなもん紹介してもらってないもん! アホにへつらわされるだけでは「やらずぶったくり」やんけ! ふざけんな!
   慶應義塾大学商学部助教授(その後、教授になったのではないか)の暴言(本人は暴言とは思わず「常識」と思っていたと思うが)に対して、「ベース投げ」をここでお見舞いする⇒《 広島東洋カープ・ブラウン監督 ベース投げ 20060507》https://www.youtube.com/watch?v=RmwWMXsqjUU   内部進学の強姦魔ども、地獄へ落ちろ!!!  同時に、内部進学強姦主義の男、公立高校出身者は「ドジン」だと認識しており内部進学の特権階級はドジンは強姦してもいいという「常識」を持っている黒川タイプの内部進学者の女性版みたいな女子学生が、なにゆえ、「学問もできて女性としての魅力もある」のか?・・・というと、内部進学強姦主義・内部進学独善主義の男どもにとってはその女性版の女は「同類」「似た者同士」であり、そういうアホが「学問がある」ということになり、「女性としの魅力もある」ということになるのであり、そして、その「常識」を理解できない認めることはできないという者は、「モラトリアム人間(病)」とか「診断」するわけだ。 なにゆえ、これが「モラトリアム人間(病)」かというと、慶應義塾大学という大学においては、内部進学者様のそういう「常識」に合わせる、そういう「常識」を身に着けるのが慶應義塾大学の学生の義務であり、そういう「常識」を身に着けないといけないのに、その「常識」を身に着けるのを「ためらっている」「嫌がっている」人間というのは、いずれ、その「常識」を身に着けてその「常識」を認めなければならないのに頑固に拒否している人間であって、いずれは認めなければならないものを認めずにいる「モラトリアム」の状態の人間であり、その点で「ビョーキ」なのだと「診断」するわけだ。 慶應義塾という学校における支配階級である内部進学者様は。
   ちなみに、もう、「時効」だと思うので、ここで告白するが、慶應大商学部助教授の黒川が「会計学総論」の抗議の最中に暴言を吐いた時(当人は暴言とは認識しておらず、今も「常識」だと確信していると思うが)、いくらなんでもこのまま認めるわけにはいかない、内部進学の強姦魔どものこういう独善的認識をそのまま認めるのは日本国民として許されることではないと思ったので、それで、私は、それまで、ざわざわざわざわと私語をしていた学生もいたけれども、私はそうではなく黒川の話を真面目に聞いていたのだが、そこで「不快感の表明」として、意図的に音を大きく立てて座っていた座席を蹴り飛ばし、ドアを思いっきり叩きつけて閉めてその教室を退場した。 どちらが非常識かというと、内部進学独善主義・内部進学強姦主義者どもは黒川が「常識」で「学問」で私が非常識で「モラトリアム人間(病)」だと「診断」したいだろうけれども、私としては旧帝大系国立大学に合格できるかどうかという所まで公立小学校・公立中学校・公立高校で学んで「学識」を身に着けてきた者として内部進学独善主義・内部進学強姦主義者でもの非行をどうしても認めるわけにはいかなかった。 どちらが「学識」でどちらが「常識」かというと、内部進学独善主義・内部進学強姦主義の人間、黒川タイプの人間は、「内部進学の特権階級は公立高校出身のドジンには強姦してよいのは当然」が「常識」で「学問」であり、それがいかん、それは間違いだと主張する者は「受験勉強の悪影響だ」と主張するであろうけれども、結論として黒川タイプの内部進学者とに「公立小学校 → 公立中学校 → 公立高校 → 現役京都大学」タイプの人間とは「常識」が正反対であり、何が「学問」か、何が「学問」的かという認識も正反対であるのだから、接点を見つけようとしても難しいだろう。 黒川は彼の暴言(繰り返すが、彼はそれを暴言ではなく「常識」だと思ったであろうし今も確信しているであろうけれども)に対し、「不快感の表明」くらいはしないと日本国民としての義務に反する、真面目に学問をするために大学に入学しようと志した者として良識に反すると思い、椅子を蹴り飛ばし、ドアを叩きつけて閉めて退場した私に対して、黒川の暴言と私の「不快感の表明」とどちらが非常識かというと、慶應の学生は私の方を非常識と言うであろう。慶應という大学はそういうヤカラの大学であり、藤田結子さんとやらが行ったらしい文学部は「男女半々」の学部であるのに対し商学部は「ほとんど男」の学部であるが、何学部の女であれ「慶應の女子学生」というのは塾風強姦主義を認めない人間が非常識であり、塾風強姦主義、内部進学特権階級は公立高校出身のドジンは強姦してよいというのは常識であると認識している者の方が正しいと考えるのが「常識」と思っている連中である。 要するに、慶應の「学生相談室」の内部進学と思われる女性「カウンセラー」「心理学者」は内部進学強姦主義を認める女性のことを「学問がある」「女性としての魅力がある」と主張し、それは認めるわけにはいかないと考える者は「モラトリアム人間(病)」だとかなんとかかんとか症候群とか主張するのである。私はこの「学生相談室症候群」「カウンセラーシンドローム」こそ「治療」してやる必要があるのではないかと思う。
    私は、この藤田結子さんという人の文章を読んで、この人にも、慶應大の女らしい、「ほとんどビョーキ」みたいな「常識」、慶應大の「学生相談室」の「カウンセラー」だか「心理学者」だか称する内部進学女の言う「学問もあって女性としての魅力もある」と自分で発言してそれを認めない者は「・・・シンドローム」だの「・・・症候群」だのと「診断」して「治療」してやろうという独善的姿勢の女に共通するニオイを感じたのだ。

    慶應の内部進学特権階級の人たちの認識で間違っている点が1つある。 黒川助教授センセーとか「我々内部進学の人間はおまえら外部の者〔大学から入った者は「(慶應義塾の)外部の者」の意味〕とは違うんだあ。わかってんのかあ」とおっしゃる方は、自分たちは小学校・中学校・高校と慶應義塾にカネを払ってきた人間で、大学から入った者は大学の入学金と授業料しか払っていないわけで、自分たち内部進学の人間の内部進学の内部進学による内部進学のための慶應義塾(by the 内部進学, of the 内部進学, for the 内部進学)にお情けで軒の下の先っちょの方に入れてあげてやってあげているのだから、座敷にいる内部進学者様に下男・はしためとしてお仕えするのは当然であろうと思っているようだが、しかし、ここで1つ彼らが間違えているのは、内部進学特権階級が言うところの「(慶應義塾の)外部の者」というのはカネはらって慶應義塾大学に行っているのであって、決してカネもらって大学に行っているのではないのだ。この点を内部進学特権階級は認識を間違えている。

    慶應には、内部進学の人とともに、自分自身は内部進学ではないが「アタマが内部進学」という人がいる。前回、慶應の「親藩・御三家」「譜代」「関ケ原で東軍についた外様」「関ケ原で西軍についたが存続を許された外様」「関ケ原で西軍につくとともに徳川から存続を認められない外様」に分かれることを説明した。私のような「公立小学校→公立中学校→公立高校→現役京都大学」タイプの人間で、かつ、親戚中どこを探しても東大・京大・阪大の出身者は何人もいても慶応大卒の人間なんかどこにもいないという人間は、これは「筋金入りの外様」であり、近江佐和山の石田三成か信州上田の真田幸村かというくらいの外様である。私は入学時の成績は入学者の中では比較的良い方であったはずだが、そんなことは何の関係もない。私のようなこういうタイプの人間というのは、慶應の内部進学者様の認識からすれば、なにしろ、「筋金入りの外様」なのだから、慶應という屋敷の中の座敷に入れてやるなんてとんでもない、軒の下の先っぽの方の下にでも入れてもらえたらありがたいと思え! みたいなものだ。 というよりも、公立高校出身の人間はドジンであり内部進学特権階級はドジンは強姦してよいというのが内部進学特権階級の認識・思想であり、それを認める人間が「常識人」でありそんなものを認わけにはいかないと主張すると「モラトリアム人間(病)」ということになるのである。 慶應という学校においては。 それを認める女のことを「慶應の女子学生は学問もあって女性としての魅力もある」と慶應大学の「学生相談室」の「心理学者」は「診断」するわけだ。 藤田結子さんにもそういう慶應タイプの女のニオイが感じられる。大学の教授にならせてもらったとはいえ、明治大学の教授であって慶應の教授にならせてもらったのではないというあたりを見ると、内部進学ではない可能性もあるが「アタマが内部進学」のタイプ、「譜代」でなかったとしても「外様といえども関ケ原で東軍についた」人かもしれない。 だから、座敷の床の間の前には座らせてもらえなかったかもしれないが、縁側あたりには入れてもらえた人なのだろう。 わたしぁ、軒の下でも軒の先っぽの方の下に入れてもらえるか入れてもらえないかの人間ですからな・・・・・。 わたしぁ、日陰の月見草!
    藤田結子さんは「早慶戦喜んで見に行くタイプ」と違うか? 私なんかは、大学は学問をする所であってスポーツをしにいく所ではないけれども学問をした上でスポーツもしたい人はやって悪いことはない、野球をやりたい人はやってよい、又、その試合を見に行きたい人は見に行ってよい、しかし、見に行かない者は非国民みたいに言うのはおかしいのと違うか、見に行きたい人は見に行けばいいが見に行きたくない人は別に見に行かなくてもいいのと違うのか、又、見に行くにしても野球を静かに観戦したい野球の試合を静かに見て試合進行について分析したいという人もいていいのと違うのか、なぜ「応援」することを強制されなければならないのか、なにより、「応援指導部」などと言って自分が「応援」するのではなく一般学生に応援しろ自分たちはおまえら一般学生が応援するように「指導」するのだと称する「サークル」があるがそのサークルの「名称」は傲慢でまるで戦中の軍隊みたいじゃないか、野球は嫌いではないがそういう軍国主義的姿勢の行事にはどうも好感が持てない、そもそも、大学の構内で教室で講義がおこなわれている最中に、講義がおこなわれていようがおかまいなしに太鼓をどんどこ叩いて大声を張り上げる応援指導部の態度・姿勢はおかしくないか、大学構内で太鼓を叩いたり大声をあげて叫んだりするのは昼休み及びそれ以外の休み時間のみとして、授業時間の間は「鳴り物」は控え、声も大声を張り上げるのは控えて近くを歩く人には聞こえるという程度の声にするべきではないのか、応援指導部の学生が早慶戦を「応援」に行きましょうと呼びかけるのは呼びかけてもよいが講義の妨害をするのはやめるべきではないのか、今は昔、上野で彰義隊と「官軍」が戦っていた時に慶應義塾の学生がそれを気にしてしかたがなかったという時に、福澤諭吉は慶應義塾の学生を少しの間だけ屋根の上に登らせて見せた上で、「さあ、我々は何があっても関係なく学問をしよう」と教室に戻らせて学問を続けたという話が『福翁自伝』に出ており、これは、いついかなる時も学問を続けようという話のように言われることがあるが、それだけではなく、福澤諭吉は洋学者であって「尊王攘夷派」から命を狙われてきた人間で、下級氏族とはいえ幕臣であったが江戸幕府はあまり期待できないと思いつつも、福澤は開国して欧米の文化を取り入れないと大変なことになると考えていた人間で「攘夷」などと言っている連中を支持はできないと考えていて、討幕と佐幕の戦いはどちらが勝ってもどっちも支持できないと考えていたため、どっちが勝とうが関係ない、どっちが勝とうが我々は洋学を中心とした学問を続けていこうという意味であって、単にいついかなる時も学問を続けようというだけの意味ではなかったのだが、それはさておき、野球をやって悪いことはないし、野球の試合を見に行って悪いこともないし、野球の試合を「応援」したい人が「応援」して悪いこともないが、早慶戦の試合の前に講義に出て学問している人間はけしからんみたいに太鼓をどんどんたたいて妨害するというのは福沢諭吉の精神に反するのではないのかと思うのだが、そういう福沢諭吉の精神に反することをする人間に限って「福沢精神を身に着けている」とかなんとか言いまくるというあたりはいいとは言えない・・・・・といったことを考える人間でありそういう学生だった。 こういう私のような人間は慶應の応援指導部の学生などからすれば、いわば、非国民のような存在だということになるわけであり、「おまえはそれでも慶大生か」ということになる、「作家で精神科医」の なだ いなだ氏が『人間、この非人間的なもの』(筑摩書房)で、戦中、学生だった なだ いなだ氏が「どうも、日本は負けそうだな」と思ったことを口にしたところ、「おまえはそれでも日本人か!」と怒鳴りつけられたが、「おまえはそれでも日本人か」と言われても、日本人なんだからしかたがないじゃないかと思ったが、この「おまえはそれでも日本人か」という言葉には、自分とは異なるタイプの人間の存在を許さないという思想があると述べていたが、慶應の学生や教授にはこの「おまえはそれでも日本人か」と同類の「おまえはそれでも慶大生か」という態度を取るのが好きな人が多い。野球の早慶戦を見に行きたい人は行けばいいけれども、別に見に行きたくないという人は見に行かなくてもいいじゃないか、強制するものと違うだろうが・・・と言うと「おまえはそれでも慶大生か」と言われるか、言われなくてもそういう空気が押し寄せて来るという慶應義塾大学という大学の特徴はどうかと思った・・・・がそれを口にすると非難を浴びるので言わないことにしたが、私もいつまで生きるかわからないので、ここでちょっとだけ言っておこう。「おまえはそれでも慶大生か」という言葉を平気で口にするタイプの「主流の慶大生」、内部進学者様から「教育」されるのに快感感じるタイプの人というのがいたようだが、私は無理しても無理してもそういう人間にはなれなかった。 残念ながら、「関ケ原で西軍についた外様」であったのだ。・・・そして、「関ケ原で西軍についた外様であるだけでなく、徳川から存続を許されなかった外様」だったのだ。
    「慶應タイプ」の女性、「親藩」「譜代」「関ケ原で東軍についた外様」の慶大生・慶大卒の人の「常識」と私の常識は常識が違うようだ。 

    次回、4.として、≪ 長谷川さんは育児休業を取った時も、子供が熱を出して仕事を休む時も、上司や同僚に「ご迷惑をおかけします」「大変申し訳ございません」と謝ってきました。≫についての批判を述べる。


☆  きょうはクリスマスイブ。 クリスマスとは、ナザレのイエスが、馬小屋の中で産まれ、飼い葉おけの中に寝かされた日である。 「女とべたつく日」ではない。
   (2016.12.24.) 

☆ 藤田結子「働く母親は上司や同僚にいつまで謝り続けるのか」の間違い。
1. 「後ろめたさ」など感じていない女がいる! 慶應の内部と「外部」http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_5.html
2. 「働く母親」は未婚者より忙しいという主張は身勝手でおかしい。http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_6.html
3.周囲に世話をかける者がなぜ謝るのを嫌がるのか。 慶應タイプと非慶應タイプ。〔今回〕
4.「働く母親」と言いたいなら、とりあえず、働けよお! http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_8.html
5. 「次世代を担う子供を育てるのは社会に貢献している」という傲慢 http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_9.html
6. 世話になって「すいません」と言うのに「ストレス」感じるというのはおかしい。 職場の周囲の従業員に迷惑をかけるのなら女の方の職場だけでなくオットの職場の従業員にも均等にかけるべきであろう。http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_10.html
7. 未婚者は既婚者より忙しい。 不良企業から寄付をもらう慶應法学部卒 鈴木康友。http://shinkahousinght.at.webry.info/201612/article_11.html
8.「晩婚」「非婚」は好んでなっているのではない。「子供」の負担を自分がせずに妻の職場の同僚の男性に負担させようとする非常識男 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_2.html
9. 「女」に甘い会長、「社会貢献」したがる社長に苛められる男性社員。 変な「上司」は男性とは限らない。変な「上司」に困らされるのは女性とは限らない。 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_3.html
10.女性誰もが謝っているのではない。育児の分担はまずオットがするべきこと。http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_4.html
11.「子供」を名分に休む人間、先に帰る人間は、実際には子供が理由でない場合がある http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_5.html
12.冒頭に赤ん坊写真を大きく掲載する記事と子供写真だらけの年賀状を送る親に見られる未熟と傲慢 http://shinkahousinght.at.webry.info/201701/article_7.html 

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藤田結子「働く母親はなぜ謝るか」3 周囲に世話かける者がなぜ謝るのが嫌か。慶應タイプと非慶應タイプ 慎腹風呂愚/BIGLOBEウェブリブログ
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