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zoom RSS 「ブスは耐久性があるか」建築篇。建築は文系か理系か。デザインと構造、その営業―清洲橋観察【3】

<<   作成日時 : 2015/07/22 16:32   >>

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[第336回] 今回、会社と営業の話(80)を兼ねる。
【6】 「美しい建築は構造もすばらしい」か、「デザインがいいということは構造が悪い、耐久性がないということ」か――別名「ブスは耐久性があるか?」についての一考察。
   この副題は、過激といえば過激な表現であり、表現に因縁をつける人たちから攻撃されないようにするためには避けた方が良い表現かもしれないが、あえて、ここでこの表現を副題につけて述べる。
   ちなみに、今は昔、「週刊読売」に、「おもしろ英文和訳」だったかいうおふざけのページがあって、たとえば、
  Sunday is not Today. 
てのは、日本語に訳すと、 「スンダイ(駿台)はトーダイ(東大)ではない」(高校卒業時は落ちたが、浪人して駿台予備校の東大受験クラスに入ったので、翌年は東大にまず合格するだろう・・なんて思ってたら、そうとも限りまへんでえ〜え。また落ちるかもしれまへんでえ〜え。)となるそうだ。 で、
  Bus Stop. 
てのがあって、これを日本語に訳すと、「停留所」・・・ではなく、   「ブス、乗るな!」 となるそうだ。

   で、本題。 「美しい建築は構造がなってないか、美しい建築こそ構造もすばらしいか」を述べようではないか。 「医食同源」「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」「美容と健康」か、それとも「美人薄命」「憎まれっ子世にはばかる」「ブスは耐久性がある」か???
   江口俊彦著・山口廣監修『東京の近代建築―建築構造入門』(1990.11.25.理工学社)では、清洲橋などの「吊り構造」が橋ではなく建物に利用されたケースとして、東京・代々木 の 丹下健三設計の 国立屋内総合競技場主体育館国立屋内総合競技場小体育館 をあげて説明されています。 そして、この国立屋内総合競技場主体育館 と 国立屋内総合競技場小体育館 がすばらしい点として、≪構造とデザインと機能の幸福な結合がある≫と述べています。
≪ 1万5千人もの観客の出入りの際の流れが円滑に運ぶように、この建築(国立屋内総合競技場主体育館)の平面は、レモンを長手方向にまっぷたつにしてずらしたような構成をとっています。 観客が対称の位置にある2か所のでっぱりから出入りすることにより、その動線はあちこちで入り乱れることなくスムーズに流れていきます。 まさにここには、構造とデザインと機能の幸福な結合があるのです。
   建築は本来そうしたものです。 外観のデザインばかりを重視するのであれば、それは彫刻と同じです。 建築は構造によって内部空間をつくらなければなりません。 その構造が合理的であれば、空間に力強さと美しさを与えるでしょう。 また構造を用いて空間をつくっても、その空間が何の役にも立たないのであれば、それもやはり建築とはいえません。 空間がその目的に応じた機能を果たすとき、初めて建築が誕生するのです。
   このようなことは当然のことなのですが、なかなかむずかしいことなのです。 デザインばかりを追求したり、使いやすさばかりを重視したりしているアンバランスな建築は、日本の至るところで見受けられます。 これらは建築として最小限の条件を満たしているにすぎないのです。
   国立屋内総合競技場は、建築の満たさなければならない条件すべてが、非常に洗練されたかたちでうまく結びついた、すぐれた建築だということができるでしょう。
   大空間ということで、主体育館を中心に話を進めてきましたが、小体育館のほうも負けず劣らずすばらしい建築です。 むしろ、デザインはこちらのほうが魅力的にさえ感じられます。
   しかし、やはりこの施設の魅力は、2つの建築が敷地の状況ともマッチして一体感をもって建っているところでしょう。 ・・・・・≫
(江口俊彦著・山口廣監修『東京の近代建築―建築構造入門』1990.11.25.理工学社 「5章 現代建築と構造技術」)
   この文章、私が長年、思ってきたことをしかるべく表現してくれているのです。 まさしく、≪外観のデザインばかりを重視するのであれば、それは彫刻と同じ≫で、そして、≪その構造が合理的であれば、空間に力強さと美しさを与えるでしょう。≫と。
※東京・代々木の国立屋内総合競技場については、
《ウィキペディア―国立代々木競技場》 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E4%BB%A3%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4
《JAPAN SPORT COUNCIL 国立代々木競技場の歴史詳細》http://www.jpnsport.go.jp/yoyogi/sisetu/tabid/278/Default.aspx 他参照。

   やっぱり、建築は絵画や彫刻とは異なり、美しさだけでなく、構造と機能をも満たしてこそ建築でしょう。 そう、同時に、構造が良ければいいというものでもなく、美しくてこそ建築ではないか。 ブス建物は建築ではないと考えるべきではないのか。 

   日本の大学では、建築学科は東大・京大・阪大のように工学部にあったり、早稲田大のように理工学部にある場合が多い。 芸術学部にある建築学科は、国立大学では東京芸大で美術学部に建築学科があるくらいだが、私立大学では芸術学部・造形学部に属する建築学科がある。 日大の場合は、工学部と理工学部と生産工学部の3つにあるが、なにしろ、日大の場合は「犬も歩けば日大にあたる」というくらい、あっちこっちにいっぱいあるので、ちょっと例外的かもしれないが、3つとも工学部・理工学部系だ。建築とは工学部・理工学部のものなのか、芸術学部・造形学部のものなのか? 現在、日本では、通信課程の建築学科(及び、それに該当する学科)は愛知産業大学・京都造形芸術大学・大阪芸術大学の3つにあるがいずれも芸術学部系の建築学科で、それはたまたまではなく、理工学部系の建築学科は実験が多く、通信課程では難しいのに対し、芸術学部系の建築学科では理工学部系の建築学科と違って意匠面に重点がある為、通信課程でも可能だかららしい。 工学部・理工学部にある建築学科と芸術学部・造形学部にある建築学科は、たまたま、どちらかにあるというわけではなく、自然科学系の部分に比重があるか芸術・意匠面に比重があるかという違いがあるようだ。
  もうひとつ。 私は何の因果か慶應義塾大学の商学部を卒業して、住宅建築請負業の会社に就職し、その後も、住宅・建築・不動産関係の会社に勤めてきたが、商業建築の場合、建築学科は、慶應のように経済学部と商学部が分かれている大学では商学部、東大・京大のように経済学部の中に経済学科と経営学科がある大学では経済学部経営学科、神戸大のように経済学部と経営学部がある大学では経営学部にあっても悪くないのではないのかという気がするのだが、どうだろう。
   今は昔、もう何十年も前、1970年代後半、北野高校の2年の途中で文系クラスと理系クラスに分かれる時に、2年の担任の女性教諭旧姓S(当時、20代)が「あなたは文系よ」と勝手に決めつけやがった。 その理由は、理科の成績と社会の成績を比べると社会の成績の方がいいから・・と彼女は言ったのだが、しかし、数学の成績と英語の成績を比較すれば数学の成績の方が良かったし、理科に属する物理は、2年の1学期の中間テストで最悪の成績をとってしまったのだが、逆に2学期の中間テストでは学年で1番の成績をとっており、物理については良い時の成績は見ずに悪い時の成績だけを見て「あなたは文系よ」というのはおかしい。 もし、私が、今、高校の教諭なら、そんな乱暴な判断ではなく、もっと良心的にアドバイスをすることができる。 実際は、父が大学は経済学部(・商学部・経営学部)のものという頑固な観念の持ち主だったので、生徒と親の認識が異なる場合は親に加担するのが教諭としての処世術とあの女は考えていただけではないかと今は思う・・・が、この話に深入りすると話がそれるので、ここではこのあたりでとどめる。 で、「文科」と「理科」は何を基準に決めるのかというと、東大の場合、入学時に法学部が文科1類、経済学部が文科2類、文学部・教育学部が文科3類、工学部・理学部の半分ほどが理科1類、工学部・理学部の別の半分ほどと農学部・薬学部・医学部保健学科が理科2類、医学部医学科が理科3類(だったと思う)と分けて募集していて、その分け方による認識が東大以外の大学を目指す人にまで広まってしまっているのではないか。 東大がどういう分け方をしようが東大の勝手だろうが、それはあくまで仮のものだと思うのだ。
   たとえば、農学部に農業経済学科というのがあって、東大でも東京農工大でも農学部に属しているが、扱っている内容を考えると経済学部にあったってよさそうな気もする。 それで、だ。 建築学科だが、東大・京大・阪大では工学部、早稲田大では理工学部というように、工学部・理工学部にある建築学科が日本では多く、東京芸大で美術学部にあるように芸術学部・造形学部にある大学もあるが日本では芸術学部にある建築学科は少数派だ。 しかし、「ブスでもええ。 耐久性さえあれば」が建築なら工学部・理工学部にあるのが当然と考えてもいいかもしれないが、「建築はブスでもええ」ということはないと思うのだ。 となると、芸術学部・造形学部に建築学科があるべきではないかという考え方に一理あるはずだ。 商学部とか経済学部とか文学部とかに建築学科がある大学はない。 しかし、建築史なんてのは、歴史学の一分野の文化史の一部分であると考えるならば、文学部史学科にあったっておかしくないような気がする。 住宅の場合、家族のあり方・人間のあり方を本来的なものにするための衣食住の一分野と考えるならば、文学部とか教育学部とか阪大なら人間科学部とか、そういう学部にあったって良さそうな気もするのだ。 「世界の磯崎」が設計した「ポストモダンの集大成」とかいうことになっているらしい つくばセンタービルは、目の前のフツーの人が設計したフツーの商業ビルには人がいっぱいはいって繁盛しているにもかかわらず、つくばセンタービルの内部の商店街は閑古鳥が鳴いている、というのは、やはり、商学部的発想の欠如に問題があるように思うのだが、どうか。絵画・彫刻と違って建築の場合、もしも、芸術的に優れていたとしても、人が入らない商業施設として成立しない商業ビルを「名建築」と言って良いのだろうか。 商業建築でなくても、建売住宅は売物、商品であり、請負で建てる場合でも、やはり、顧客に評価され魅力を感じてもらえるものでないと資本制社会における企業は成立しないのであるから、商学部・経営学部的発想がなければならないはずであり、その点から考えれば、建築学科は商学部(慶應のような学部構成なら)、もしくは経営学部(神戸大のような学部構成なら)に所属するべきではないのか・・・といったことを思ったりもするのだ。 おかしなことを言っているだろうか。 そうではあるまい。 
高校の一時期、理科と社会の成績を比較したなら、どっちかというと社会の成績の方がいいから「あなたはブンケーよ」とは、あまりにも乱暴だ。 建築学科は工学部・理工学部のものだと考えれば、建築は「理系」かもしれないが、芸術の一分野と考えるならば、もしくは、商業学の一分野とか人文科学の一分野と考えるならば、「理系」ではあるまい。 親と本人とで意識が異なる時、親に加担した方が教諭としての処世術として良いから親に加担しようという高校教諭というのは、その姿勢は学校の教諭として自殺行為だと思う。あの女は高校の教諭と評価できるレベルの人間ではないと今は思っている。『東京大学機械的合格法』の著者・柴田孝之が、能力的にも優れていて人間的にも評価できる教員というのは多くの人間が思っているよりはるかに少ないと述べていたが、私もそう思う。)

   建築学科が何学部に属するべきかはさておき、建築は、理工学的要素と芸術的要素と商業学的要素・人文科学的要素を併せ持ったものであり、そのどれかがゼロでは成り立たないものだと思う。
   で、今は昔、1993年の前半だが、在来木造の一条工務店の千葉県松戸市の営業所(展示場)にいたのだが、入社してすぐのM田が接客したある見込客が、ある同業他社のデザインがいいと言われたというのだ。 その話を聞いて、松戸営業所長を兼任していた営業本部長のA野T夫が、こう言ったのだ。 「デザインがいいということは、構造が悪いということだ」と。 で、「それは違うでしょ」と言いかけたところ、睨まれたので言うのをやめたのだが、なんで、そんなこと言うのだろうなあ〜あ・・・と思った。
   「デザインがいいということは、構造が悪いということ」か??? ・・・「ブスは耐久性がある」ということか?

   ≪この建築(国立屋内総合競技場 主体育館 )の平面は、レモンを長手方向にまっぷたつにしてずらしたような構成をとっています。 観客が対称の位置にある二か所のでっぱりから出入りすることにより、その動線はあちこちで入り乱れることなくスムーズに流れていきます。まさにここには、構造とデザインと機能の幸福な結合があるのです。
    建築は本来そうしたものです。外観のデザインばかりを重視するのであれば、それは彫刻と同じです。 建築は構造によって内部空間をつくらなければなりません。その構造が合理的であれば、空間に力強さと美しさを与えるでしょう。 また、構造を用いて空間をつくっても、その空間が何の役にも立たないのであれば、それもやはり建築とはいえません。空間がその目的に応じた機能を果たすとき、初めて建築が誕生するのです。≫
江口俊彦著・山口廣監修『東京の近代建築―建築構造入門』(1990. 理工学社)の第5章にはこのように出ています。
    但し、この後に、
≪  このようなことは当然のことなのですが、なかなかむずかしいことなのです。 デザインばかりを追求したり、使いやすさばかりを重視したりしているアンバランスな建築は、日本の至るところで見受けられます。 これらは建築として最小限の条件を満たしているにすぎないのです。≫ とも出ています。

   本来、建築とは、構造と機能とデザインの3つを満たしてこそ建築であり、そのうちの1つ、あるいは2つしか満たしていないものは建築ではないはずなのです。 (「世界の丹下」の東京カテドラル聖マリア大聖堂というのは、あれは、鎌倉の大仏と一緒だと思います。丹下さんの好みのデザインを実現しただけであって、教会堂としての機能を実現しない竣工時から雨漏れする構造に問題ありすぎのモニュメントであって建築ではないと思いますよ。 中に入れるじゃないかとか言いたい人もいるかもしれませんが、鎌倉の大仏だって「中に入れる」て知ってますか?)
   但し、その時の技術において構造上難しいが、デザインとして実現したい魅力的なデザインというものも中にはあるでしょう。 また、使い勝手と構造が両立しがたい場合もあるでしょう。 戸建住宅の間取りを考える際には、デザインを重視するか使い勝手を優先するかという場面も出てくるでしょう。 しかし、そういうことはあるとしても、やっぱり、建築というものは構造と機能とデザインの3つがあってこそ建築であり、そして、基本的には構造のすばらしいものこそデザインは美しいのであって、構造とデザインが対立する場合がないわけではないとしても、構造とデザインが両立する場合の方が基本で、そう考えるべきであると思うし、そもそも、構造とデザインは対立するものではなく両立するものであるという思想のもとに建築はおこなうべきであると思うのです。(本質が建築屋ではなく不動産屋である建売屋とか未熟な設計事務所とかには、構造がなってない建物がデザインが良いと勘違いしている人がけっこういるようですが、それは間違いです。)

   ≪ 東京タワーには、装飾というものが一切ありません。 鉄の骨組みによって構成されるその形態は、構造体自身がつくり出す「釣合い」の美しさ、すなわち「構造美」によって特徴づけられます。
  むき出しの骨組みによる構造美は、隅田川に架けられた橋にも見ることができます。力強い「永代橋」や優美な「清洲橋」は、装飾性が排除されていますが、その美しさは私たちの心を打ちます。
  そのような一切装飾のない、また外皮(外壁)を伴わない橋や塔などの建造物のなかに、鉄骨構造の起源をみることができるのです。 ≫ と、江口俊彦著・山口廣監修『東京の近代建築―建築構造入門』(1990. 理工学社)の第3章でも述べられています。

  法隆寺宮大工の西岡常一棟梁は、『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』(1988.3.1.小学館)で、
≪  建築は構造が主体です。 何百年、何千年の風雪に耐えなならん。 それが構造をだんだん忘れて、装飾的になってきた。 一番悪いのは日光の東照宮です。 装飾のかたまりで、あんなんは建築やあらしまへん。 工芸品です。 人間でいうたら(法隆寺のような)古代建築は相撲の横綱で、日光は芸者さんです。 細い体にペラペラかんざしつけて、打ち掛けつけて、ぽっくりはいて、押したらこけるという、それが日光です。 室町時代以降、構造を忘れた装飾性の強い建築物が多くなってますな。 そやから、何回も解体せなならんのですわ。 ≫
と述べています。
   建築の美しさというのは、鉄骨造であれ木質構造であれ、基本的には構造の美しさであり、構造と関係のない装飾はあって悪いわけではないけれども、それが主で構造が貧弱なものは、それはたとえ美しいものであっても、建築の美しさではないのではないか。
   そして、「『デザインがいい』ということは『構造がなってない』ということだ」という一条工務店の営業本部長のA野さんのご発言は、やっぱり、変だと思いますね。 どういう発想でそういう言葉が出てきたものなのか。 「あれはアホですから、あんなのの言うことを本気にしちゃだめですよ。 なにしろ、アホですから。 あんなのの言うことを本気にして、そのままお客さんにしゃべったりしたら、恥かいちゃいますよ。」と同社のベテラン社員某さんが言っていたが、そうかな・・・・・・。

   ところで。 一条工務店の営業本部長のA野T夫さんのご発言は、いわば、「美人でも体の弱いお嫁さんは困りますよね。 その点、うちの娘はブスですからね。 それも並はずれたブスもブスもブス、ブス、ブス。 何と言っても、スーパー高耐久性ブス ですからね。結婚するなら、『美人薄命』の女性よりも、スーパー高耐久性ブスの方がいいに決まってますよね」と言っているようなものだ。 
   「まったく、その通りだ、結婚するなら、スーパー高耐久性ブスに限る!」て思いますか? 男性諸君・・・。 きょうも我が家に帰れば スーパー高耐久性ブスが待っていると思うと家路につくのが楽しい? 白蟻すら食わないスーパー高耐久性ブスは最高!て思う?

   その前に、だ。  美人は薄命なものだろうか?  ブスは健康的なのだろうか?  ・・・・・・・そのあたりの認識が、まず、適切ではないように思うのだが、どうだろう。

   亀井勝一郎『愛の無常について』(講談社文庫)を読むと、「第1章 精神について」で、
≪  ところが、このとき同時に人間の弱さがあらわれます。 疑問の永遠性、永続性に耐えることはつらい。 出来るだけ早く、簡単な解決をのぞむか、乃至は考えることを放棄する、いや別のことを考えるのです。 パスカルはさきの言葉のつづきとして、「舞踊すること、フリュートを吹くこと、歌うこと、輪遊びをすること、戦争をすること」等をあげていますが、こういうことに考えを向け換えて、人間の何であるかを考えようとはしなくなる。 その条件はそろっています。今日のスポーツは、精神にとっては危険な存在と化しました。 私はスポーツを否定はしませんが、そのために新聞や雑誌の特別版が必要だということになると、これは知性のために危険だと言いたいのです。一種の阿片的役割を果たしかねない。≫
≪ ある種の宗派性、党派根性、官僚制、公式主義といったものは、すべて人間のこの弱さにむすびついているもので、弱い精神、考えることの中絶、その空白に向かって他者からの限定が到来しやすい。 そして人間は、この限定において一種の強さを示すものなのです。 すべての全体主義、或は独裁主義は、必ず青春の性急さに向かって働きかけ、そして必ずスポーツを奨励します。≫
と述べられている。
   反精神医学派の「精神科医」デビッド=クーパーは『「家族」の死滅』(みすず書房)で
≪  ・・・・われわれは運動競技への熱中とか儀式化されたヨガといった偽りの戻り道を排除しなければならない。―――運動とかヨガのような儀式は、身体経験を、何か真の関係の外で一定の時間割にしたがって遂行できるようなものへと外面化しようとする家族のたくらみを、ただ強化するだけなのだ。≫ と述べている。
   実際、現在のスポーツは、人間の健全な精神と健全な肉体を実現するという本来の目的から離れてしまい、必ずしも、精神と身体の本来的あり方に役立つものとは言えない場合がある。
   また、プロスポーツの場合、プロの選手として成果を出すための練習、身体訓練が、人間としての健康増進とは別の方向に行ってしまっているケースがあるように思う。 ボクシングではアマチュアボクシングでは、より的確にパンチをヒットできたかどうかで評価されるのに対し、プロボクシングでは観客に受けてこそ人気ボクサーになれることから、KOや強打が求められ、その為の腕力は健康増進とは関係なく、ましてや、試合でパンチを受ければ、健康に良いわけはない。 他のスポーツにおいても、特に、プロスポーツは、そのスポーツで成果を出すための訓練が人間としての健康増進とは別であるだけでなく、むしろ、逆行しているケースもある。
   そういう面は実際にあるとは思うけれども。 しかし、それなら、スポーツをまったくしない人間の方が健康なのかというとそうでもないと思うのだ。 一般的には、だ。  適切な運動と適切な食事、それに適切な睡眠を確保した人間の方が健康になり、見た目もいいと思うのだ。 あくまで、一般的にはであるけれども。
   「美人薄命」という言葉はあるけれども、しかし、一般には、適切な運動と適切な食事、適切な睡眠・休養を確保できた人間は、男であれ女であれ、肉体的にも美しく、そして、健康で長生きする(耐久性がある)場合が多いのではないだろうか。  「憎まれっ子 世にはばかる」という言葉はあるけれども、「ブスは耐久性がある」というものでもないと思う。 見た目が悪い状態になってしまったとしたら、男であれ女であれ、食事が適切でない、運動不足である、睡眠・休養が不足している、精神的に苦しい状況にある、など何か好ましくない状態にあるというケースが考えられる。 だから、見た目が良いとは言えない状態になってしまったとしたら、人間は「耐久性がある」状態とは逆のケースである場合の方が多いと思うのだ。
   だから、「美人薄命 ⇔ ブスは耐久性がある」という認識はあまり正しくないと思うのだ。

   1980年代後半、木質系住宅建築請負業の小堀住研に入社した時、同社では、「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」というフレーズでアピールしていた。 これはいいと思う。 技術⇒構造、 設計⇒機能・使い勝手、 そして、デザインと建築に必要とされる3つを実現しているというアピールである。 もっとも、落ち着いて考えて見ると、どこでも言いそうな文句ではあるけれども。 1960年代後半から関西地域を中心として「高級住宅の小堀」として、特にデザインを評価され、小堀住研の「新 桂」という自由設計の住宅展示場にいると、小堀ファンとでもいうような方、全国の小堀住研の住宅展示場を行脚して見て回っているという方と出会うことがあった。そういう方に対して、アピールできるのはデザインだけではないのですよ、構造も機能・使い勝手もすばらしいのですよ、と主張する文句である。 
   それに対して、1990年代前半、在来木造の一条工務店に入社すると、同社では「間違いのない家づくり」と言っていた。 これも悪くはない。 建築・住宅は構造と機能・使い勝手とデザイン・意匠とをともに実現してこそ建築であり住宅であるが、営業上、その3つを均等にアピールしなければならないということはない。 構造に重点を置いてアピールするというのは悪くはない。 しかし、だ。 「間違いのない家づくり」に重点を置いてアピールするというのと、「デザインがいいということは構造がなってないということだ」という発言は別だと思うのだ。 「間違いのない家づくり」は機能・使い勝手も大事だしデザインだって大事だけれども、あえて何が一番大事かというと、構造ですよ、地震で倒壊してしまってはどうしようもないでしょ、白アリですぐに住めなくなってしまったのでは困りますでしょ、入居後、補修ばっかりしなければならない家では大変でしょ・・と言われれば、確かにそうだな!と思うと思うのだが、「デザインがいいということは構造に問題があるということだ。」と言われると、自分のところの建物が不細工なものだからそんなこと言ってるのと違うのか。 かっこいいデザインの家を作る能力のない工務店の人間は言うことも二流以下だな! と思われてしまうでしょう。
   普通に考えて、だ。 使い勝手が良くデザインも良い家を設計できる人間と、使い勝手が悪く田舎くさい発想でデザインもぶっさいくな家しかできない設計とでは、前者よりも後者の方が構造においてはすぐれたものを作ると思うか?  思わないだろ。 普通は、使い勝手が良くデザインも良いものを設計できる人間の会社の方が、使い勝手が悪く気が利いておらず田舎くさくてぶっさいくな家の設計しかできない会社の建物の方が構造も二流以下じゃないか・・・と考えないか?
   だから、「デザインがいいということは構造が悪いということだ」などという文句はセールストークにならない。また、同業他社の展示場やカタログに掲載されている建物のデザインに魅力を感じた人に対して、その競合会社に対してのカウンターとしての反撃にもならない。 むしろ、自分と自社の評価を下げる と思うのだ。
   それで、そういうことは言わない方がいいと思いますよ、と言ってあげようと思うと、怒るのだ。A野さんは。「そんなこと言うならエスバイエルに行け」とか言って。 なんでそんな話になるの? 私は一条工務店の建物がすべて悪いとは言っていない。 一条工務店のトークの内容がすべて悪いとも言っていない。 A野さんの発言が不適切だと指摘しているのであり、それも、A野さんの発言すべてを否定しているのでもなく、その発言は不適切だと指摘してあげているだけなのだが、気に入らないらしい。 A野さんのひとつの発言が不適切だと指摘してあげると、一条工務店全体を否定したかのように話が飛躍してしまうのだ。
   そんな態度を取るなら、もう、言わんわ、と思って、だんだんと発言しなくなった。 「見ても見ざる、聞いても聞こえざる、言うべきことでも言わざる」という態度を取るようになっていった。 従業員にそういう態度を取らせるようにしむけるのが営業本部長の仕事だろうか・・・とも思わないことはないが、そういう人が営業本部長だったのだ。 


    だが、やはり、私は、「デザインのすぐれたものは構造がなってないということだ。 その点、ブスは耐久性がある」というのは、ちょっと違うと思うな。

    小野徹郎・富岡義人編著『図解 鋼構造の造形と設計 デザインと構造をつなぐ』(2008.5.30.鹿島出版会)より引用します。
≪   鉄骨材料は骨組み構造に用いられることが多い。 力学的に合理的な骨組みは、それ自体、美しいオブジェである。 部材のエッジはシャープで、精度の高い直線的な表現に映える。繊細な釣り合いバランス、堂々たる力強いダイナミズム、あるいは逆に軽々とした浮遊性、接合部に現れる細やかなクラフトマンシップ。 なかでも注目すべきはガラスとの相性のよさで、シルエットとして眺められる構造の美しさは、手放すことのできない意匠上の魅力として、近代建築の黎明期以降の多くの設計者に愛され続けている。 ≫(富岡義人「第1章 設計プロセスのなかの建築形態」)
≪   構造的安全性と、使いやすさ、美しさは、常に対立し合うものではないし、どれかを重視すれば、残りが軽視される必然があるわけでもない。 3つの価値をともに成り立たせる。そのような形態を発想することこそが設計の仕事である。   対立したり妥協せざるをえないときには、それ以前に発想の誤りがあるのである。 このことを構造の側からいい直せば、構造的合理性のなかにこそ、建築物としての美しさと使いやすさが存在するということになる。 建築を設計する上で、建築デザインと構造デザインが一体のものであることを、もう一度しっかりと認識する必要がある。 そしてこの力学的な合理性をその形態に対して直観的に理解できるバランス感覚を磨く必要がある。 これこそ力感そのものである。 ≫(小野徹郎「3章 構造の形」)
   
    一条工務店の場合、静岡県浜松市で電気工事業をおこなっていた大澄賢二郎さんが静岡県の浜松周辺においてその地域の人たちが喜ぶような家を造り出したのがはじまりで、最初は「良い家をより安く」という程度のことを考えてうまくいったが、そのうち、胸を張って引き渡すことができないような家が出来てきたといい、そこをなんとかしないといけないということで、自社でプレカット工場を持ち、工事マニュアルを作成して各々の職人に渡してそのマニュアルに沿った工事をしてもらうように依頼し、材木から金物まで自社で用意して工事現場に送ることでどの現場でも同じものが使われるようにする、などして構造についての品質向上に努力した・・・といったことが同社が作成した新聞等の引用集の本に掲載されていた。 だから、1990年代前半においては、構造については創業の頃よりも相当に改善してきたということで、その点をアピールしたいというのは間違っていなかったと思う。
    しかし、同社の静岡県・愛知県にいた「一条工務店の土台を築いてきた人たち」と自称している人たちは、あくまで、構造をアピールして自分たちは売ってきたように、静岡県・愛知県とは市場が異なる地域の人間に言うのであったが、実はそうではない。それはウソだ。 静岡県・愛知県において、「構造こそ大事ですよ」とアピールした時に、来場客・見込客が引いてしまうのではなく、「そうだよね。」となることが多かったのは、それは、その頃までの一条工務店の建物が、内部で使用しているものも展示場の間取りも静岡県・愛知県向け、「浜松仕様の家」で、その地域の人たちにとっては、都市部中心のハウスメーカーの東京圏向け・関西圏向けの建物よりもしっくりいくものであったからで、東京圏の来場客が「うわっ、田舎の家みたい」とか「何、これえ。 うち、田舎で建てるんじゃないよお」とか、「うわっ、イナカくせえ〜え」と言うデザインが、実は浜松あたりでは「ちょうどいい」ものだったりしたからだ。 東京圏の人間が見て、「ええ〜え? これが洋風なのお〜お?」と言った「セゾン」のデザインは、 東京圏の人間から見れば「イナカのヨーフー」であるが浜松で見ると「ちょうどいい」くらいのもので、東京圏の会社・関西圏の会社(大手ハウスメーカーというのは、実は大部分が東京圏会社か関西圏会社だ。)の仕様よりも、浜松仕様、“ 遠州好み ” (小堀遠州の好みという意味ではなく、遠州人の好みという意味)の一条仕様の建物の方が、その地域の人にはしっくりいったのだ。 そういう意識の人に、「家は間取りや仕様・デザインよりも、構造が第一ですよ。 地震で倒壊しては元も子もないですからね」と言えば、国家予算を使って「東海地震が来ますよお」と国が言いまくってきた浜松の人間は、「そうだよね」と思ってくれたのだ。
   1990年代、福島県浜通りでも一条工務店の評価は高かった。しかし、同社のある営業が「一条の建物で使っているものは、このあたりとは違って西の方のものですよね」と言うことがあったので、え? と思ったことがあった。 「東の方」と「西の方」はどこで別れるか。 杉山英夫『デザイナーのための木構造』(彰国社)には、関東と関西の分け方が載っていたが、それには3説あるそうで、箱根の関で分けるもの、愛発(あらち)の関・不破(ふわ)の関・鈴鹿の関の3つで分けるもの、逢坂(おうさか)の関で分けるものの3つらしい。 関西人が「関西」と言う場合は、一般に、滋賀県大津市の京都よりにあったらしい逢坂の関より西を関西と言うので、滋賀県や三重県は関西にならない。京都・大阪・神戸・奈良あたりが関西で、姫路あたりになると関西に含まれるかどうか微妙、和歌山市も微妙というくらい、比較的狭い。かつての「畿内」、大和・山城・河内・摂津・和泉の国くらい。 それに対し、「東京もん」は浜松まで「関西」と言う。 関西人が聞くと、「なんで、浜松が関西やねん」と不思議に思うのだが、「東京もん」は箱根の関より西を「関西」と言うので浜松も関西になる。 畳のサイズが京間(関西間)と関東間(田舎間)と分かれる分かれ目は、ほぼ、愛発の関・不和の関・鈴鹿の関の3つを結ぶラインでらしいと杉山英夫『デザイナーのための木構造』には出ている。 で、伝統的木造住宅の仕様について、どこで別れるのかよくわからないが、そのあたりについて、相当気をつけて見る人からすれば、一条工務店のものは「西のもの」だと言うのだ。 これは、箱根の関あたりが境目なのか。 福島県生まれの人間から見ると、何か「西のもの」と感じる箇所があったらしいのだが、一方で、都市向けか「地方」向けかというと、「地方」向けの建物であり、その点は受けた。
   地震については、日本全国どこでも地震はあるはずなのだが、福島県浜通りの住人には、東日本大震災より前においては、「こ〜こは地震はないから。 地震、地震て言うってのは、あんた、地元の人じゃないでしょ。 ここは地震のない所だから。 特に、うちなんか、福島第一原発のすぐ近くなんだよ。だから、絶対安心なんだ。 原発は地震のあるところには建てないから。 うちは本当に原発のすぐ近くなんだよ。だから、うちは地震が来ても絶対に大丈夫なんだ」とか言ってた(本当にそう言う人があったのだ)、こんなこと言っちゃ悪いが、「おっさん、アホか?!?」とでも言いたくなるような人までいた、という所だったのが浜松周辺との違いだった。 国が国家予算を使って、今にも東海地震が来ますよお、来ますよお〜お、と言い続けてきた静岡県と、実際には東海地震より先に東日本大震災の被害にあったにもかかわらず、東北地方の太平洋側は地震に気をつけてくださいよお〜お、とは言わずに、「ここは地震はないから」と誰が言ったか知らないが信じている人がけっこういた。 そういう福島県浜通りとの違いはあったけれども。
   で、地震に対する関心は浜松とは異なったけれども、都市向けか「地方」向けかというと「地方」向けである地域において、「“大工さま”の建物よりはハイカラ」な一条工務店の住宅展示場において、外観や内部仕様を評価してくれている人に向かって、「家づくりは、まず、構造が大事ですから」と言えば、「そうだよね」と言ってもらえたのだ。
   それに対して、東京圏の展示場で、 「何、これえ〜え。イナカの家じゃ〜ん」とか言ってる人に向かって(私が言ったのじゃないからね。言われたのだからね。)、 「家づくりは構造が大事ですから」と言っても、「そりぁ、構造は大事だけれども、間取りもデザインも大事じゃないの。たとえ、いくら、構造がしっかりしてても、なんで、東京で浜松の家を建てなきゃなんないのよ」となってしまうのだ。 だから、その言い方ではだめだ。 他の言い方を考えないと、負けパターンの繰り返しである
・・・ので、「浜松流はここには合わない」と思いだす人が出てきたのだ。 それは、真面目に努力したからこそ、「浜松流はここには合わない」、この場所にはこの場所にあったやり方でやらないとだめだ、と思うに至ったのだ。 ところが、静岡県・愛知県の浜松流総本舗は、自分がそこに行かないと思うものだから、あくまでも、浜松流を押しつけよう、それで売れようが売れまいがおかまいなしに、浜松流をさせようとしたのだ。 頑固に。
   デザインや間取りを評価してくれている人に向かって「構造が大事ですよ」と言うのは効果があるが、「イナカくせえ〜え」とか言っている人に向かって、「大事なのは構造ですから」と言ってもだめです。 「デザインがいいということは構造がなってないということだ」などと言うのもだめです。 そんなことを言ったのでは、むしろ、そんな怪しい営業は相手にしない方がいいと思われてしまうでしょう。 私が見込客なら、そんな営業は避けるか会社を検討対象から除外します。
  そうしませんか。 だから、そうされないようにと思って親切で言ってあげると、一条工務店の営業本部長のA野さんは怒るのです。なんで、怒るのでしょうねえ。 だから、怒られてまで言うもんか、と思って、だんだんと口をきかなくなりました。「見ても見ざる、聞こえても聞かざる、言うべきことでも言わざる」となりました。

   もう一度、清澄橋の写真を出します。 ↓
画像

↑ けっこうかっこいいでしょう。 やっぱり、「デザインがいいということは構造がなってないということだ」などというのはウソです。 ましてや、「ブスは耐久性がある」というのもウソです。
  「結婚するなら、なんといっても、スーパー高耐久性ブスに限る」というのは、どうでしょう。 全国の男性諸君、どう思いますか???


   一条工務店に入社した年、1992年。 神奈川県の藤沢の展示場の営業所長をしていたT葉さんが、
人間は眼鏡をかけた顔とかけない顔では、かけない顔の方がいい顔の人の方が多い。 2割くらい、眼鏡のある顔の方がいい顔の人もいるが、8割の人は眼鏡をかけない顔の方がいい顔だ。人間は家の契約をする時に、いい顔の人と契約したいかよくない顔の人と契約したいかというと、いい顔の人と契約したいと思うものだ。 あなたは間違いなく、眼鏡をかけない顔の方がいい顔だから、眼鏡はやめてコンタクトレンズにした方がいい。 もうひとつ、営業は説得する場合に、すべて口で説得するわけではなく、眼で説得するということがあるが、度の強い眼鏡をかけると、眼の周囲がぼやけて『眼で説得する』ということができなくなるから、その意味でも眼鏡ではなくコンタクトレンズにした方がいい」と話してくれたことがあった。 その後、いわき市の営業所に行ってからも、コンタクトレンズにした方がいいと言ってくれる人があって、眼鏡をコンタクトレンズに変えた。
   住宅は構造と機能だけでなく、デザイン・意匠がすぐれていてこそ住宅であり、夢のあるものを購入したいというものだ。私は、引っ越したり転勤で住居が変わったりした時、理髪店を選ぶ場合、店の構えと店員の格好を見るようにしている。『クレヨンしんちゃん』の漫画に、慎之介の親父が、店員は全員若い女性ですという理髪店に鼻の下を伸ばして行ったところ、新人だらけのへたくそで傷だらけにされたという話があったが、私の経験から言うと、若い女性というのは特に問題ないと思う。むしろ、怖いのはおばさん。かつて、一条工務店の千葉県内某営業所の近くの理髪店に特に考えずに入ったところ、おばさんだった。年齢がおばさんであっても気持ちが若ければかまわないが問題は近所の小学生の頭しか刈ったことがない人だったという点。終わった後、鏡を見て後悔した。俺、小学生じゃないよ、て言いたかったが後の祭りだった。 店の構えをおしゃれにしている店で、店員、特に店主が特別に顔のつくりがいいとか悪いとかではなく、格好に気を配っている店は、客にもそういう対応をしてくれる場合が多いように思うのだ。 住宅建築業の従業員も同様に、衣食住の「住」を格好よく作る仕事に従事している以上、自分自身も衣食住の「衣」の部分を格好よく配慮するべきだと思うのだ。
   だから、販売を担当する人間も魅力的な外観を実現するべく努力するべきものだと思い、私は、週末に温水プールにかよったり、食事の量を制限したりして、体型を整えようと努力したりしてきたし、服装にも常に成功はしていないとしても配慮してきた。 実際にはなかなか思うようにいかず、腹についた肉はなかなかとれなかったり、さらに、せっかくコンタクトレンズに変えても、情けないことに、最近では老眼が出てきてしまって、眼鏡なら外して見ることができるがコンタクトレンズではかけたりはずしたりできないことから、眼鏡をかけて暮らすことが多くなってしまったりしている。 しかし、そういった努力をしてきたということは誇りに思っている。
  千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズジャパン株式会社(不動産業)・ジャムズグローバルスクエア株式会社(不明業)の自称「工事責任者」U草A二(男。当時、30代なかば)が、 「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」とあつかましくも何度も何度も口にしていたが、その文句は実際に営業の仕事をしてきた人間に対して失礼であり、それが失礼であるということもわからないような人間に「営業できる」とは思えないのだが、言うにしても、とりあえずメタボ体型をなんとかしてから言ってもらいたいような気もする。
   (2015.7.22.)

☆ 清洲橋 観察 4部構成。
1.なかなかかっこいい清洲橋、吊り橋色々 http://shinkahousinght.at.webry.info/201507/article_1.html
2.リベット、色彩、 http://shinkahousinght.at.webry.info/201507/article_2.html
3.今回
[次] 4.隅田川遊覧船、新大橋、両国橋 http://shinkahousinght.at.webry.info/201507/article_4.html

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「ブスは耐久性があるか」建築篇。建築は文系か理系か。デザインと構造、その営業―清洲橋観察【3】  慎腹風呂愚/BIGLOBEウェブリブログ
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