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zoom RSS 「念仏」と「称名」の違いがわからない営業、自動ドアに挨拶する男・女〜営業と会社の話(4)

<<   作成日時 : 2011/08/07 14:26   >>

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〔第53回〕  「念仏(ねんぶつ)」と「称名(しょうみょう)」はどう違うかわかりますか? 実は、私も、昔は、「称名(しょうみょう)」のことを「念仏(ねんぶつ)」だと思っていたのですが、「称名」と「念仏」は違うのです。
浄土真宗の祖・親鸞(しんらん)は、特に、お経というものをあげる必要はなく、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで良いと言ったといいます。「阿弥陀如来に帰する」という意味で「南無阿弥陀仏」と唱え、弥陀の本願によりすがることによってのみ救いを得ることができるという話です。
 ここで、誤解されやすいのは、「悪人正機説」というものがあって、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」という、悪人こそ救われるという教えですが、親鸞は「薬があるからといって毒を好んではならない」とも言っており、悪いことをすると救われるから悪いことをするべきだなどとは言っていないのです。それ以上に誤解されやすいところがあります。
  親鸞は、「称名(しょうみょう)」と「念仏(ねんぶつ)」を混同していて、「称名」のことを「念仏」と言って勧めていたのではないのか、ということが古くから言われてきたようです。「称名(しょうみょう)」とは、「ホトケの名を唱えること」で、ここでは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と口に唱えることを言います。それに対して、「念仏(ねんぶつ)」とは、「心にホトケを念じること」を言います。親鸞が勧めていたのは、口に「南無阿弥陀仏」と唱えることで、それは「称名」であって「念仏」ではないと指摘されることがあって、戦前、津田左右吉もその指摘をおこなっていたというのですが、親鸞の著作『教行信証』を見ていくと、そうではなく、親鸞は「大事なことは、心にホトケを念じることである」と述べていて、そして、「心にホトケを念じるのが大事であるけれども、その上で、口に『南無阿弥陀仏』とホトケの名を称えるのが良い」といったことを述べていたということで、決して、口に「南無阿弥陀仏」と称えさえすれば心の中はどうでもよい、「南無阿弥陀仏」と口に唱えれば心の中はどうであっても良いなどとは言っていないというのです。親鸞は、「念仏」こそ大事であるが、その上で「称名」をおこなうのがなお良い、と言っているのであって、「称名」がすべてだというようなことは言っていないということのようです。 これは、私の大発見とかではなく、野間宏『親鸞』(1973.3.29. 岩波新書)に書かれていたことなので、このあたりについてよく知りたい方は、同書を御覧ください。
  野間宏『親鸞』(岩波新書)を、私は18の時に読んだものの、もうひとつよくわからなかったのですが、最近、再度、読んでみて、なるほどと思ったものでした。 なるほど、心にホトケを念じる「念仏」が大事で、その上で、ホトケの名を称える「称名」をおこなうのがなお良い、ということだそうです。
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 ↑(左)野間宏『親鸞』(岩波新書)
   (右)小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編『角川 新字源』(角川書店)

  「『あいさつ』って書けるか?!?」と自分より若い者に言って得意がるじいさんが世の中にはおります。かつて在籍した在来木造の某社の いわき市の営業所にいた時にも、向かいの席にいたじいさんが私にそういうことを言ってきたことがあり、「“受験国語のベテラン”に向かって何を言うか」と思ったものです。まったく、しようがないオッサンです。 「あいさつ」とは「挨拶」と書きます。 ちなみに、「しんらん」は「親鸞」です。さらに、「しょうゆ」は「醤油」です。千葉県の野田市の営業所にいた人間が言うには、野田市民のすごいところは“「醤油」書ける率全国1位”だというのですが、だからなんなんだ、という気もします。

  小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編『角川 新字源』(1968.1.5. 角川書店)によると、「挨拶」の「挨」(アイ)には、<背をたたく。おす。ひらく。おしひらく。つきすすむ。ちかづく。こすりつける。・・>、「拶」(サツ)には<せめる。せまる。・・>などの意味があり、「挨拶」(あいさつ)には、本来、<おおぜいが押し合って進む。>という意味で、日本でのみ、<安否・寒暖のことばを取りかわす。転じて、おじぎ、返礼。>という意味に使われるようです。 

  よくない挨拶の例として、私が大学を卒業してすぐに入社した木質系住宅建築請負業の某社では、「マクドナルドになるな」と言っていたのですが、マクドナルドのどこが良くないというのかというと、「気持ち悪い」というのです。どこが気持ち悪いかというと、マニュアルに沿った挨拶、マニュアルに沿った顔で、人工的に作られたものであることがわかりすぎて、そして、心がこもっていない。あんな挨拶だけはするな、と言われたものでしたが、但し、それは、高級住宅を扱う会社であったからということもあって、マクドナルドとすれば、マクドナルドの店員は大部分がアルバイトかパートであり、最高でなくて良いから最低限以上の応対を出来るようにということからマニュアル化されたものを作ったのかとも思います。『味いちもんめ』という料亭と板前を扱った漫画が「ビッグコミックスペリオール」(小学館)に掲載されてきましたが、その中で、新宿の「割烹 藤村」という料亭の「ボンさん」という油場をやっているおやじが、「ファミリーレストランの挨拶が嫌だ」という場面がありました。どこが嫌かというと、一見、丁寧な挨拶をしているようで、まったく心がこもっていないよそよそしい挨拶で、あんな挨拶されたくないというのです。たしかに、そういうところはあるようにも思います。
  さらに、私が思うに、コンビニエンスストアの少なくとも過半数の店員は、「いらっしゃいませ、こんにちわあ」と誰に向かって言っているかというと、間違いなく自動ドアに向かって行っていると思います。 ひとつには、言う文句を先に決めるからそうなるという面もあると思います。一度、見てみてください。人間に向かって言っているか自動ドアに向かって言っているか。 過半数の人は自動ドアに向かって言っていると思いますよ。

  逆に、今は昔、今、東京圏の放射能のホットスポットになってしまっている千葉県の柏市と流山市の境目付近の流山市に住んでいたことがあり、柏市と流山市の境目付近の柏市にあるJR常磐線「南柏」駅の近くの食堂で食事をした時、最初に言った時には、勘定の時に「どうもありがとうございます」と言われたのを、3回目に言った時に、その店のおねえさんが「いつも毎度ありがとうございます」と言ってくれて、それで、「まだ、3回、来ただけなのに、顔を覚えてくれていたんだ」と思ってうれしかったということがありました。そのおねえさんは、上に述べたマクドナルド・ファミレス・コンビニと違って、相手を見て、相手に対して「どうもありがとうございます」と挨拶していたのだと思います。だから、再来だということもわかって「いつも毎度ありがとうございます」と挨拶してくれたのだと思います。 
  初めて行った店で「毎度どうも」と言われる店もありますが、相手が再来かどうか考えずに「毎度どうも」と言うのはどうかと思います。たとえ、同じ言葉を口にしていても、南柏駅近くの食堂のおねえさんは、相手を見て、相手に合わせてその言葉を口にしているのに対して、誰にでも「毎度どうも」というオッサンは、相手なんか見ないで口にしており、口から出る言葉は同じ文句でも、意味合いはまったく違うと思います。

  3〜4カ月ほど前、私が勤める会社の社員総会に、四国のF社のMくんが来場していました。その時のMくんを見て、なんか変なヤツだなあ、という印象を受けたのです。どこが変か。 その時は、絶対に悪いとまでは思わなかったのですが、しかし、なんか変だと思ったのです。
  Mくんは、どこが間違っていたか。 一番に、そこはMくんの勤務先ではないにもかかわらず、Mくんは、自分がそこの社員であるかのように、入口に立って入場する人に向かって“挨拶”〔クオテーションマーク付きであることに注意〕を始めたのですが、Mくんは、その“挨拶”に自信があるらしいのですが、マクドナルドの「挨拶」を習得した人、ファミレスの「挨拶」を習得した人、コンビニの自動ドアに向かってする「いらっしゃいませ、こんにちわあ」を習得した人に来られたとしても、その人はそれを得意と思っていたとしても、そこは自分の会社ではないのですから、従業員でもない人間が、出しゃばって出る場所ではないのです。それがひとつ。 これは、今回の課題ではないので、軽く過ごして、次。
  Mくんは、F社でやっている、F社型マクドナルド、もしくは、F社型ファミレス、もしくは、F社型コンビニのF社が決めた“挨拶”をやっていたつもりらしいのです。 自動ドアに向かって挨拶はしていたのではありませんでした。そこには自動ドアはなかったので。 しかし、自動ドアに向かって挨拶しているのと、まったく変わらなかった。F社型マクドナルド、F社型ファミレス、F社型コンビニの、F社で決めた“挨拶”みたいなものをやっていただけであったのです。人が通れば感知して動いて頭を下げて「いらっしゃいませ」と声がする入り口のセットと同じ。 銀行のATMとか駅の自動券売機で、人が前に立つと、あるいは、画面に触れると、おねえさんかおにいさんの絵がでてきて、「いらっしゃいませ」と音声がでるヤツ、あるでしょ。あれと一緒。人が前を通ると、それに反応して、頭を下げて、「いらっしゃいませ」と音声が口から出る。
  なんか変だ、と、ずっと思ってきたのですが、ありゃ、挨拶じゃないぞ・・・と思うようになりました。 「挨拶」とは何でしょう。日本では、≪<安否・寒暖のことばを取りかわす。転じて、おじぎ、返礼。>という意味≫ですよね。Mくんは、人の動きに反応して、自動的に頭を下げて口から「いらっしゃいませ」と音声を出しているだけであり、「安否・寒暖のことばを取り交わ」そうとはしていない。 あれは、挨拶ではないぞ、と思ったのです。 気持ち悪いだけ。
   F社は、変な社員教育しているのじゃないかい? 「南無阿弥陀仏」と称えるのは、別に心はこもっていなくていいから、はっきりとした発音で、聞き取りやすい話し方で、大きな声で、皆に聞こえるように「ナムアミダブツ」・・・え???  そうじゃないでしょ。
   「念仏」「称名」と客商売の挨拶とは、まったく同じではありません。 「称名」は、他人に聞かせることを目的にするものではないので、特に大きな声でする必要はないと思いますし、隣りにいる人に聞こえても聞こえなくても良いと思いますが、客商売の挨拶は、基本的には相手に聞こえるようにするものです。 但し、相手に聞こえることが何より大事かというとそういうものではないのです。 私がかつて勤めた会社で人事にいたある方ですが、いつも、口元で、ボショボショ話すような話し方の方でしたが、多くの人間は、耳を近づけて聞こうとしました。それは、その方が話すと、耳を近づけてきこうという気になるような、そういうキャラクターをその方が確立されていたからでした。 最近でも、ときどき、故・田中角栄氏の録画がテレビに出ることがあって、見たことがありますが、その時、政策内容については賛否あるでしょうけれども、この人は、もし、営業マンならば、すばらしい話し方だなあ、と感心しました。 田中角栄氏は、もともと、子どもの頃、どもりであったといい、大人になってからも、ぺらぺら話す方ではなかったはずですし、大きな声ではっきりとききとりやすく話すというのが得意な人でなかったようですが、もともと口の動きの良い方の人ではないにもかかわらず、人の気持ちに近づくすばらしい話し方だと感心しました。 
   F社は、教えることを間違えているのじゃないかと思います。心にホトケを念じる必要はないから、はっきりと聞こえやすく「南無阿弥陀仏」と称えなさい、とでもいうような、そういう教えをしていたのではないでしょうか。 「挨拶」というのは、まず、心に、相手に対する気持ちを念じる(こめる)ことが大事であり、その上で、挨拶の言葉を口にだし、態度に表わすというものであり、Mくんのやっていることは、心に何も念じずに、前を人が動くのに反応しているだけですから、Mくんを入り口に置いておくのであれば、銀行のATMか駅の券売機の画面のおねえさんかおにいさんをおいておけばよいこと、もしくは、人が通ると「いらっしゃいませ」と音声がでる機械を置いておけばよいことで、Mくんがいる必要はないのです。

  浄土真宗では「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」と言いますが、それは、心の中がどうであっても良いから、とにかく、口で「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えればよいということではなく、心の中にホトケを念じることが大事で、その上で、口にホトケの名を称えるのが良いというものであり、「挨拶」というのは、心の中に相手に対する思いをきっちりと持つことこそが大事であり、その上で、口に挨拶の言葉を出し、挨拶の姿勢をとるのが良いのです。 「挨拶」における「称名」の練習をして絶対に悪いということはありませんが、より大事なのは「挨拶」においても「念仏」の方であって「称名」の方ではありません。

  私が中学生の頃、シューベルトの歌曲集『冬の旅』などドイツ・リートの歌い手として、ディートリッヒ=フィッシャウディスカウとハンス=ホッターの2人が知られていました。 高校の音楽の先生から、その先生は、ある年、1年のうちに、ハンス=ホッターとディートリッヒ=フィッシャウディスカウと、その先生が芸大でお世話になった日本人のバリトンの声楽の先生の3人の『冬の旅』のコンサートを聴いたことがあったけれども、声の質はディートリッヒ=フィッシャウディスカウが良いけれども、どれだけ心のこもった歌い方ができているかという点では、なんといっても、ハンス=ホッターがすばらしいと思ったという話を聴きました。私は、ハンス=ホッターの『冬の旅』を、ホッターが歌い手としては晩年になってから、大阪のフェスティバルホールに聴きに行ったことがありますが、ディートリッヒ=フィッシャウディスカウは、レコード・CDやテレビ・ラジオで聴いたことがあるだけで、『冬の旅』は、他に岡村喬生の演奏会を聴きに行ったことがありますが、私も、その先生と同じように思いました。 ホッターの『冬の旅』のレコードを持っていたのですが、世の中はレコードではなくCDの時代になり、レコードプレーヤーが手元になくなってしまって聴けなくなっていたのですが、5年ほど前、CDでハンス=ホッターの『冬の旅』を買って聴いてみたところ、「やっぱり、ハンス=ホッターはいいなあ〜あ」と思いました。そのCDの表紙には、「深い内省的な響き」「知性あふれる歌唱」と書かれていました。
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↑(左)ハンス=ホッター(バリトン)・ジェラルド=ムーア(ピアノ)
      シューベルト 歌曲集『冬の旅』(CD)(東芝EMI)
  (右)ディートリッヒ=フィッシャウディスカウ(バリトン)・
    ダニエル=バレンボイム(ピアノ)
      シューベルト 歌曲集『冬の旅』(CD)(発売:ポリドール)
※ハンス=ホッター と ディートリッヒ=フィッシャウディスカウ を知らない方は、
「ウィキペディア―ハンス・ホッター」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC
「ウィキペディア―ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A6 他参照ください。

  「挨拶」とは何か。 接客や営業の仕事のある人は考えてみるべきだと思います。

  Mくんの挨拶は変です。 もし、このブログをMくんが見ることがあったなら、一度、考えてみてください。私よりずっと若く、私より経験も浅いのだから、私より青いところがあってもしかたがないと思いますが、これから生きる年数の方が長いでしょうから、今、理解できなくても、いつか、理解できる時があるかもしれません。(F社は、他の部分で良いところがあるのだと思いますが、Mくんの挨拶は変です。他の人は真似しない方がよろしい。)
  「わかるもんか」と、もし、思ったならば、ハンス=ホッターの歌を聴いて見るのもいいかもしれません。 ホッターはすばらしいですから。 確かに、「深い内省的な響き」と評されるだけのことはあります。
                            (2011.8.7.)

   Mくんについては、未熟で経験の浅い人ですから、もし、ご本人がこのブログを見ることがあれば、一度、考えてみられた方がよいとは思いますが、インターネット上で氏名を公表する必要まであるとは思わないので実名は掲載しませんが、F社については、あくまで、ひとつのお話として掲載したもので、特別に攻撃している内容でもありませんが、逆に、あえて匿名にする理由があるとも思いません。 四国の 徳島市にある、株式会社フィット(http://www.fit-group.jp/ )という会社です。 未成熟な会社で、あまり誠意のある会社ではないとは思いますが、未成熟な会社は、日本にはいくつもあります。 (2012.9.14.)


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